大田南畝の旧居は
☆新宿区牛込北町41番地
その場所に、硯友社があり、紅葉が住んでいたとは、偶然か。
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椿|田山花袋
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読賣新聞で、露伴の『ひげ男』と紅葉の『伽羅枕』とを同時に掲載する計畫を立てたのは、あれは確か二十三年の春頃だつたと思う。兩花形が腕くらべをするといふので、それは非常な評判であつた。何方が旨いか、何方が成功するか、かうした聲は到る處で聞えた。私なども、町の角に大きく出てゐる畫看板を見て、その名聲にあこがれた貧しい文學書生の一人であつた。 紅葉は『伽羅枕』を牛込の北町の家で書いた。太田南畝の屋敷の中だとかいふ奥まつた小さな家で、裏には大きな樫の樹が笠のやうになつて繁つてゐた。八疊の前の庭には、木戸がついてゐて、そこから、硯友社の人達は『居るかい』などと言つて入つて來た。 北町の通を私は其時分よく通つた。其小さな門に、尾崎と書いた表札がかけてあつて、郵便箱には硯友社と書いてあつたのを今でもはつきりと記憶してゐる。やがて讀賣に出た二つの作は、何方も讀む人達の心を惹いた。『ひげ男』は殊に評判がよかつた。『流石は露伴だ!』といふ聾が彼方此方から聞えた。それにも拘らず、露伴は五六囘で筆を絶つて、瓢然として、赤城の山中に隠れた。『伽羅枕』は百囘近く讀いた。 |