2023年6月28日水曜日

百済宮とは

 舒明12年に百済宮が飛鳥に定められたとある。

本稿の狙いは、なぜ舒明天皇が「百済宮」を造営したかにある。

この「百済宮」に言及する前に、 敏達天皇の百済大井宮・譯語田幸玉宮に言及しておきたい。欽明天皇死亡後に、敏達天皇は即位〈572〉するとすぐに百済の大井に都を定めた。そのご、敏達4年(575)4月に譯語田幸玉宮に遷宮した。

 まず、この百済大井宮に関しては、河内国錦部郡百済郷(大阪府河内長野市大井)や奈良県北葛城郡広陵町百済などに比定されてきた。しかし和田梓らの研究で、現在では奈良県桜井市吉備であると意見が一致している。

 さて、「百済宮」。その時に思い起こすのは、舒明天皇が敏達天皇の孫であることである。

舒明8年6月に飛鳥岡本宮が焼失したの で、田中宮(橿原市田中町付近)に遷宮し、舒明11 年〈639〉7月に百済川の辺を宮と定め、百済宮と百済大寺(奈良県北葛城郡広陵町大字百済1411-2)を造営。そして、舒明12年〈640〉10月に竣工された百済宮に遷宮し、さらに13年〈641〉10月に百済宮で崩御した。


舒明十二年春二月戊辰朔甲戌、星、入月。夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫、便居廐坂宮。五月丁酉朔辛丑、大設齋、因以請惠隱僧令說無量壽經。冬十月乙丑朔乙亥、大唐學問僧淸安・學生高向漢人玄理、傳新羅而至之、仍百濟・新羅朝貢之使共從來之、則各賜爵一級。是月、徙於百濟宮。

十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之。

 今では、1997年に吉備池の堤防から7世紀半ばの巨大な寺院金堂跡と見られる基壇が出土したことで、この吉備池廃寺が百済大寺跡に当てる説が浮上した。

百済大寺歴史年表

百済大寺関連年表 (plala.or.jp)


さて、我々の関心である「百済宮」に、つまり百済からの渡来人が多数居住する地域「百済」に宮殿を造営したかである。同月に、「百濟・新羅朝貢之使」も飛鳥を来訪している。とすれば、百済宮は完成寸前か、完成後に「百済・新羅朝貢之使」が訪問していることを思い浮かべると、舒明天皇が満面の笑みを以て新宮殿を案内する姿に思い至る。ましてや百済宮に近接して、塔自体も高さ80〜90mと推定されるその九重塔に近い規模を誇る百済大寺が聳えるわけであり、「百済・新羅朝貢之使」一行もその威容に驚いたことだろう。




参考情報

参考情報

吉備池廃寺跡は,大和三山のひとつ,香具山の北東約1km,桜井市吉備に所在する古代寺院跡である。この地には,江戸時代に造成された農業用溜池である吉備池があるが,その東南隅と南辺の堤に重複して2つの大きな土壇が存在し,瓦片が散布することが知られていた。その性格については瓦窯説と寺院説があったが,池の護岸工事が計画されたことから,平成9年に桜井市教育委員会と奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)飛鳥藤原宮跡発掘調査部が池東南隅の土壇の発掘調査を行った結果,巨大な金堂基壇の存在が明らかになった。その後,奈良国立文化財研究所による中心伽藍の調査,桜井市教育委員会による周辺部の調査により,伽藍の様子が明らかにされてきた。
 中心伽藍は,東に金堂,西に塔を置き,両者を回廊が囲み,中門は金堂の正面に位置するという特殊な配置をとる。金堂基壇は東西37m,南北28m,高さ2m以上,塔基壇は1辺30mの正方形で,高さ約2.8mと推定される。この両者は,いずれも,飛鳥時代の古代寺院の中では隔絶した規模をほこるが,特に塔の基壇は,文武朝に建立された大官大寺のものに匹敵することから、塔自体も高さ80〜90mと推定されるその九重塔に近い規模であったと考えられる。伽藍の北部には大型の掘立柱建物が列をなして並び,僧坊跡と推定されている。さらに,中門の南約40mの地点からは,寺域の南面を画すると考えられる16mの間隔をおいて平行する東西溝2条および,南大門と考えられる建物跡も検出された。出土した瓦から見て,創建時期は7世紀前半頃と考えられるが,伽藍規模に比較して瓦の出土量が少なく、基…



参考情報
明日香の諸宮(国土交通省)


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