2025年2月23日日曜日

光明皇后の出生伝説

梅山秀幸 氏の論文である[共同研究:大学教育における南大阪の地域文化資源の掘り起し・保存・活用の研究] 日本仏教の揺藍の地としての南大阪 (二) 槙尾川に沿って (Ⅰ) 国分寺 梅山秀幸」で知った伝説に、次のような「是れ妄誕不敬の説」(?)がある。

 「『大阪府全志』 は次のように述べる。 国分寺は中央字北条にあり, 護国山と号し, 真言宗高野山無量光院末にして十一面観 世音を本尊とし, 今は福徳寺と称す。 縁起に依れば, 中古一人の沙門あり, 智海上人と 号し, 本州和泉郡浦田の産なり。 同郡宮里の瀧山に住して仏乗を勧修しけるに, 或る時 一麋来りて上人の小便を嘗めて懐胎し, 竟に一少女を生みしかば, 上人之を見るに忍び ず, 隣嫗をして慈育せしむ。 嫗は貧賎にして常に農事を業とし, 少女の七歳となりし年 の夏五月, 嫗は野田に出て苗を植ゑ, 少女は嫗に伴はれて嬉戯しけるに, 槙尾寺に詣でゝ 帰途に附きし勅使大臣藤原不比等, 一瑞気の揚るを見れば是即ち少女の全身より光を放 てるなり (北池田村大字室堂女鹿坂の西辺に, 今も照田・光田といへる字地あり, 里伝 に依れば当時少女の遊び居りし所なりといへり)。 依て大臣輿より下りて之を見るに, 体貌殊麗なりければ, 光明子と名づけ, 嫗に請ふて輿を同うして伴なひ帰る。 長ずるに 従ひて艶麗益加はり, 毎に君側に侍し恩寵を得て, 天平元年八月立ちて后宮となれり。 光明皇后即ち是れなり。 性酷だ仏法を好み, 幾多の寺院を創建し, 此の地は其の家郷た るを以て伽藍を構へて安楽寺と号し, 後承和年中勅して国分寺となすと。」(同書、142頁)

今、法華寺の十一面観音 菩薩像のモデルが光明皇后であると言い伝えられているように、光明皇后は絶世の美女であったらしい。母、藤原宮子が心を病み、引きこもり状態にあった時、乳母として養育したのは県犬養橘宿祢であった。そしてその三千の右の乳房を光明子が吸い, 左の乳房を幼き聖武天皇が吸って育ったという。

これも梅山秀幸氏の同一論文(145頁)で知ったのであるが、同一の光明皇后出生談は愛知県鳳来寺(〒441-1944愛知県新城市門谷鳳来寺1)に伝わっているそうであるが、さすがに新城市のHPには記載されていない(歴史深い鳳来寺を巡る:新城市)。

私はこれらの不敬な伝説をそのまま真実だと論証する者ではないが、そのストーリーの裏面に構造的な一致を見る以上、その分析に関心を持つ。



2025年2月19日水曜日

出雲国の鮭神社

 島根県大東町川井に鮭神社がある。

全国に2社しかない鮭神社の一つ。


関連記事、


「鮭神社の歴史と神事(上) 出雲 日本海の漁民から伝播か 〈平野芳英〉」

が実に興味深い。一読を薦める。https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/284609

(2)雲南市大東町 サケ神社2010-02-03 12:01:


鮭神社

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神社コード06028
神社名(正称)鮭神社
ふりがなさけじんじゃ
神社名(別称)
ふりがな
宮司名土屋 典彦
主祭神豊玉姫命
ふりがなとよためひめのみこと
例祭日10/30
鎮座地雲南市大東町川井186番地
御神徳家内安全・縁結び
由緒・
特殊神事
福岡県にある鮭神社とともに鮭を名乗る全国に二社しかない神社。御祭神、地元に残された伝承(氏子は鮭を食べてはいけない。どうしても食べたらあれはマスだと言え。)鮭をおそなえする等が同じであり、往時九州と出雲になんらかのつながりがあったことをうかがわせる。
連絡先
(役職)氏名
土屋 典彦
連絡先
電話番号
0854-43-4631

2025年2月6日木曜日

出雲国にある朝鮮鐘

 (1)天倫寺

主情報
名称銅鐘
ふりがなどうしょう
員数1口
種別工芸品
朝鮮
時代高麗
年代1011
西暦1011
作者
寸法・重量
品質・形状
ト書辛亥四月八日ノ銘アリ
画賛・奥書・銘文等
伝来・その他参考となるべき事項
指定番号(登録番号)00373
枝番00
国宝・重文区分重要文化財
重文指定年月日1909.09.21(明治42.09.21)
国宝指定年月日
追加年月日
所在都道府県島根県
所在地
保管施設の名称
所有者名天倫寺
管理団体・管理責任者名

解説文:
高麗の作品。


早稲田大学文化資源データベース[資料詳細]

天倫寺朝鮮鐘銘


補足資料
      • 資料番号
      • Kuma_019
      • コレクション名
      • 熊谷幸次郎手拓 日本古鐘銘拓本
      • 作品名
      • 天倫寺朝鮮鐘銘
      • 年代(西暦)
      • 平安時代 辛亥(一〇一一)四月八日
      • 地域・地名
      • 島根県松江市国屋町
      • 数量
      • 1枚
      • 形態
      • まくり
      • 解説
      • 原高麗国東京内迴真寺鐘 迴真寺原銘陽鋳

        国宝・重要文化財(美術工芸品)
         主情報
        名称銅鐘
        ふりがなどうしょう
        員数1口
        種別工芸品
        朝鮮
        時代高麗
        年代1011
        西暦1011
        作者
        寸法・重量
        品質・形状
        ト書辛亥四月八日ノ銘アリ
        画賛・奥書・銘文等
        伝来・その他参考となるべき事項
        指定番号(登録番号)00373
        枝番00
        国宝・重文区分重要文化財
        重文指定年月日1909.09.21(明治42.09.21)
        国宝指定年月日
        追加年月日
        所在都道府県島根県
        所在地
        保管施設の名称
        所有者名天倫寺
        管理団体・管理責任者名

        解説文:
        高麗の作品。



        (2)光明寺
        主情報
        名称銅鐘〈金ノ承安六年ノ銘アリ/〉
        ふりがなどうしょう〈きんのじょうあんろくねんのめいあり/〉
        員数1口
        種別工芸品
        朝鮮
        時代高麗
        年代1201
        西暦1201
        作者
        寸法・重量高33.5 (㎝)
        品質・形状小形の朝鮮鐘。下帯に接して区画を設け刻銘がある。銘の反対側には、半月形を、両側には蓮花座を、またそれらの間には飛天を鋳出す。
        ト書
        画賛・奥書・銘文等「承安六年辛酉二月日造天井寺金堂懸排入重四十斤半」
        伝来・その他参考となるべき事項
        指定番号(登録番号)00074
        枝番00
        国宝・重文区分重要文化財
        重文指定年月日1933.01.23(昭和8.01.23)
        国宝指定年月日
        追加年月日
        所在都道府県福岡県
        所在地福岡県太宰府市石坂4-7-2
        保管施設の名称九州国立博物館
        所有者名独立行政法人国立文化財機構
        管理団体・管理責任者名
        銅鐘〈金ノ承安六年ノ銘アリ/〉
        写真一覧
        地図表示
        解説文:
        この種の小鐘の中では、均整がとれた形態で、かつ銘文を存している点が注目される。


        主情報
        名称銅鐘
        ふりがなどうしょう
        員数1口
        種別工芸品
        朝鮮
        時代新羅
        年代
        西暦
        作者
        寸法・重量
        品質・形状
        ト書耆州富田下郷増輝禅院公用康暦元麦秋ノ後銘竝ニ報徳禅寺公用応永十五霜月及雲州大竹山光明禅寺洪鐘明応…
        画賛・奥書・銘文等
        伝来・その他参考となるべき事項
        指定番号(登録番号)00375
        枝番00
        国宝・重文区分重要文化財
        重文指定年月日1939.09.08(昭和14.09.08)
        国宝指定年月日
        追加年月日
        所在都道府県島根県
        所在地
        保管施設の名称
        所有者名光明寺
        管理団体・管理責任者名

        解説文:
        新羅時代の作品。


        (3)雲樹寺

        国宝・重要文化財(美術工芸品)
         主情報
        名称銅鐘
        ふりがなどうしょう
        員数1口
        種別工芸品
        朝鮮
        時代新羅
        年代
        西暦
        作者
        寸法・重量
        品質・形状
        ト書応安七年甲寅十月一日願主宗順寄附
        画賛・奥書・銘文等
        伝来・その他参考となるべき事項
        指定番号(登録番号)00374
        枝番00
        国宝・重文区分重要文化財
        重文指定年月日1904.02.18(明治37.02.18)
        国宝指定年月日
        追加年月日
        所在都道府県島根県
        所在地
        保管施設の名称
        所有者名雲樹寺
        管理団体・管理責任者名

        解説文:
        新羅時代の作品。





    2025年1月27日月曜日

    杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳について

     この資料が面白い。

    竹内理三編「鎌倉遺文」第14巻、東京堂出版および『新修島根県史』通史篇1などで活字版を見ることが可能。

    この文に見るように、相撲は

    「且相撲者、為往古国中白丁之処、近古以来雇下京都相撲之間、往反之用途・禄物之過差、人民之任■、雇在于此事云々、永停止京都相撲下向、可雇用当国之相撲」

    であった。つまり元々は在地の力自慢が相撲を取っていたにもかかわらず、いつのまにか「京都相撲」という専門職業集団が杵築大社に雇用されるようになった(『出雲杵築社造営所注進状』建長元 <1249>) 。

    今、この杵築大社相撲節会とか相撲専門集団などの紹介は各専論に委ねたい。

    本資料で興味深いのは出雲国内の庄園・公領138か所の5310町6反300歩を各所およそ260町別にして20番編成に組み上げて、各番ごとに荘園の田数と共に地頭を記していることである。例えば、20番のうち17番に属する「忌部保 20丁9反300歩」とあり,地頭名は土屋四郎左衛門入道とある。

     このように、出雲国の138か所の地名と地頭名のリストが列挙されている。

    本欄で、その全体データを記したいが、ブログにはExcelを挿入できないために、我がコンピュータリテラシーが向上して、その日が来るまでお預けとする。





    2025年1月19日日曜日

    長谷川伸「瞼の母」

     長谷川伸の名作「瞼の母」とか「番場忠太郎」・「一本刀土俵入」などは現代の小説愛好家の視野から遠ざかっている。一昔前の「股旅物」だとして、ナウいコンテンツではないとして取り扱われているようだ。長谷川伸が取り扱ったテーマは義侠心であり、「瞼の母」である。事実、長谷川伸自身も3歳で母と生き別れをした。それゆえに円満な家庭ではなく、母親に捨てられた子供・母親の愛情に飢えた男が主人公であった。しかもサラリーマンなどのどこにもある平凡な職業ではなく、相撲力士や任侠など社会の周辺で動き回る俗人に焦点を当てて、日常生活の中で「欠けたるもの」の補完を求め続けた。

     しかしながら時計の針が戻らない限り、終生「欠けたるもの」を埋めることなく、人間は前を向くしかない。そのポッカリとした心を埋める物は不在のままで、その代償として社会への挑発を続ける。


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    木次を本拠地とする広田氏

     永禄12年(1569)閏5月4日来次市庭中黒印状によると、広田氏は木次を本拠地として斐伊川上流から運搬されてくる「鉄」の流通に大きく関与した。

    木次に広田氏、三刀屋に三刀屋氏、熊谷に小川氏が狭い地域ながら覇権を争った。

    広田氏の源流は湯氏である。

    鎌倉期、斐伊川下流域は守護佐々木氏と在国司朝山氏で2分されていたが、中流域は広田氏・三刀屋氏・小川氏の勢力争いが続いた。

    今後、我がてもとのノートに収録した各種資料を取りまとめて、命ある限り、大原郡史を作り直すつもりである。

    2025年1月12日日曜日

    日向久湯評人□\○漆部佐俾支」の「佐俾支」に関して

     

    奈良文化財研究所の「木簡庫」には、下記の文が掲載されている。

    私が取り上げたいのは、文中の「二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。」である。

     たしかに「「佐俾支」と「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)やと「佐俾岐」は、「支と岐」の2文字が「キの甲類」であるので、一致する地名である。

     それでは、木簡庫において「佐俾支」が「サヒキ」と訓読できることで、佐伯(サエキ)が「サヒキ」に近い音であるゆえに、同一地名表記だと推定する可能性はどうだろうか。「俾」が「卑」と同一音であるならば、「卑」は「ヒの甲類」である。そうであれば、「Hi(Fi)⇒E」の転化への事例を知らないだけに、木簡庫の推測に違和感を覚える。

    この文言は削除すべきではないだろうか。



    ■詳細

    URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AWHHG14000101
    木簡番号1497
    本文・○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉牛卅\○又別平群部美支□・故是以○皆者亡賜而○偲
    寸法(mm)(161)
    58
    厚さ6
    型式番号019
    出典飛鳥藤原京2-1497(木研25-26頁-(46)・飛17-39上・飛16-13上(55))
    文字説明表面上部の余白に不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。
    形状上削り、左削り、右削り、下二次的切断(表側から刃を入れる)、表面下部一部剥離。
    樹種
    木取り板目
    遺跡名藤原京左京七条一坊西南坪
    所在地奈良県橿原市上飛騨町
    調査主体奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
    発掘次数飛鳥藤原第115次
    遺構番号SX501
    地区名5AWHHG14
    内容分類文書
    国郡郷里日向国児湯郡日向国久湯評
    人名漆部佐俾支・平群部美支□
    和暦 
    西暦 
    木簡説明本木簡はSX五〇一南岸よりもやや南方で出土したが、土層の類似から便宜上SX五〇一出土木簡に含めた。上端・左右両辺削り。下端は表側から刃を入れて二次的に切断する。また、下端より約五〇㎜の位置には、表側に向かってへし折ろうとした痕跡が認められる。下端の切断と同様、やや左下がりとなっており、一連の措置の可能性が高い。表側は上端より約四〇㎜あけて文字を記すのに対して、裏側は上端からただちに文字を記す。表裏は同筆とみてよいが、内容的に関連するかどうかは不明。このほかにも、釈文には掲げなかったが、表側上部の余白には不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。一行目の「日向久湯評」は『和名抄』日向国児湯郡に相当する。「久(く)」と「児(こ)」の通用は珍しくない。「人」字以下は下端の二次的切断にともなって剥離する。二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。「治奉」は貢進の意で使用したものであろうか。「牛」は牛皮であろう。日向国は牛・馬の官牧が多く存在したことで著名。『日本書紀』持統三年(六八九)正月壬戌条には、筑紫大宰は隼人一七四人・布五〇常・鹿皮五〇枚とともに牛皮六枚を献上したとあり、平城宮東院の東南隅部では日向国から牛皮四枚を貢進した際の荷札木簡二点が出土している(『平城木簡概報六』六頁下)。牛皮三〇枚が宮城四隅疫神祭で幣帛として利用された可能性を含めて、検討を要する。三行目の「平群了」は、児湯郡に平群郷が存在することと関係しよう。一方、裏側は右端に一行分の記載しかなく、表側と異なって上端部から文字が記されている。「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」と訓読するか。

    ■研究文献情報

    当該木簡を取り上げている研究文献一覧を表示します