梅山秀幸 氏の論文である[共同研究:大学教育における南大阪の地域文化資源の掘り起し・保存・活用の研究] 日本仏教の揺藍の地としての南大阪 (二) 槙尾川に沿って (Ⅰ) 国分寺 梅山秀幸」で知った伝説に、次のような「是れ妄誕不敬の説」(?)がある。
「『大阪府全志』 は次のように述べる。 国分寺は中央字北条にあり, 護国山と号し, 真言宗高野山無量光院末にして十一面観 世音を本尊とし, 今は福徳寺と称す。 縁起に依れば, 中古一人の沙門あり, 智海上人と 号し, 本州和泉郡浦田の産なり。 同郡宮里の瀧山に住して仏乗を勧修しけるに, 或る時 一麋来りて上人の小便を嘗めて懐胎し, 竟に一少女を生みしかば, 上人之を見るに忍び ず, 隣嫗をして慈育せしむ。 嫗は貧賎にして常に農事を業とし, 少女の七歳となりし年 の夏五月, 嫗は野田に出て苗を植ゑ, 少女は嫗に伴はれて嬉戯しけるに, 槙尾寺に詣でゝ 帰途に附きし勅使大臣藤原不比等, 一瑞気の揚るを見れば是即ち少女の全身より光を放 てるなり (北池田村大字室堂女鹿坂の西辺に, 今も照田・光田といへる字地あり, 里伝 に依れば当時少女の遊び居りし所なりといへり)。 依て大臣輿より下りて之を見るに, 体貌殊麗なりければ, 光明子と名づけ, 嫗に請ふて輿を同うして伴なひ帰る。 長ずるに 従ひて艶麗益加はり, 毎に君側に侍し恩寵を得て, 天平元年八月立ちて后宮となれり。 光明皇后即ち是れなり。 性酷だ仏法を好み, 幾多の寺院を創建し, 此の地は其の家郷た るを以て伽藍を構へて安楽寺と号し, 後承和年中勅して国分寺となすと。」(同書、142頁)
今、法華寺の十一面観音 菩薩像のモデルが光明皇后であると言い伝えられているように、光明皇后は絶世の美女であったらしい。母、藤原宮子が心を病み、引きこもり状態にあった時、乳母として養育したのは県犬養橘宿祢であった。そしてその三千の右の乳房を光明子が吸い, 左の乳房を幼き聖武天皇が吸って育ったという。
これも梅山秀幸氏の同一論文(145頁)で知ったのであるが、同一の光明皇后出生談は愛知県鳳来寺(〒441-1944愛知県新城市門谷鳳来寺1)に伝わっているそうであるが、さすがに新城市のHPには記載されていない(歴史深い鳳来寺を巡る:新城市)。
私はこれらの不敬な伝説をそのまま真実だと論証する者ではないが、そのストーリーの裏面に構造的な一致を見る以上、その分析に関心を持つ。