2025年1月27日月曜日

杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳について

 この資料が面白い。

竹内理三編「鎌倉遺文」第14巻、東京堂出版および『新修島根県史』通史篇1などで活字版を見ることが可能。

この文に見るように、相撲は

「且相撲者、為往古国中白丁之処、近古以来雇下京都相撲之間、往反之用途・禄物之過差、人民之任■、雇在于此事云々、永停止京都相撲下向、可雇用当国之相撲」

であった。つまり元々は在地の力自慢が相撲を取っていたにもかかわらず、いつのまにか「京都相撲」という専門職業集団が杵築大社に雇用されるようになった(『出雲杵築社造営所注進状』建長元 <1249>) 。

今、この杵築大社相撲節会とか相撲専門集団などの紹介は各専論に委ねたい。

本資料で興味深いのは出雲国内の庄園・公領138か所の5310町6反300歩を各所およそ260町別にして20番編成に組み上げて、各番ごとに荘園の田数と共に地頭を記していることである。例えば、20番のうち17番に属する「忌部保 20丁9反300歩」とあり,地頭名は土屋四郎左衛門入道とある。

 このように、出雲国の138か所の地名と地頭名のリストが列挙されている。

本欄で、その全体データを記したいが、ブログにはExcelを挿入できないために、我がコンピュータリテラシーが向上して、その日が来るまでお預けとする。





2025年1月19日日曜日

長谷川伸「瞼の母」

 長谷川伸の名作「瞼の母」とか「番場忠太郎」・「一本刀土俵入」などは現代の小説愛好家の視野から遠ざかっている。一昔前の「股旅物」だとして、ナウいコンテンツではないとして取り扱われているようだ。長谷川伸が取り扱ったテーマは義侠心であり、「瞼の母」である。事実、長谷川伸自身も3歳で母と生き別れをした。それゆえに円満な家庭ではなく、母親に捨てられた子供・母親の愛情に飢えた男が主人公であった。しかもサラリーマンなどのどこにもある平凡な職業ではなく、相撲力士や任侠など社会の周辺で動き回る俗人に焦点を当てて、日常生活の中で「欠けたるもの」の補完を求め続けた。

 しかしながら時計の針が戻らない限り、終生「欠けたるもの」を埋めることなく、人間は前を向くしかない。そのポッカリとした心を埋める物は不在のままで、その代償として社会への挑発を続ける。


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木次を本拠地とする広田氏

 永禄12年(1569)閏5月4日来次市庭中黒印状によると、広田氏は木次を本拠地として斐伊川上流から運搬されてくる「鉄」の流通に大きく関与した。

木次に広田氏、三刀屋に三刀屋氏、熊谷に小川氏が狭い地域ながら覇権を争った。

広田氏の源流は湯氏である。

鎌倉期、斐伊川下流域は守護佐々木氏と在国司朝山氏で2分されていたが、中流域は広田氏・三刀屋氏・小川氏の勢力争いが続いた。

今後、我がてもとのノートに収録した各種資料を取りまとめて、命ある限り、大原郡史を作り直すつもりである。

2025年1月12日日曜日

日向久湯評人□\○漆部佐俾支」の「佐俾支」に関して

 

奈良文化財研究所の「木簡庫」には、下記の文が掲載されている。

私が取り上げたいのは、文中の「二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。」である。

 たしかに「「佐俾支」と「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)やと「佐俾岐」は、「支と岐」の2文字が「キの甲類」であるので、一致する地名である。

 それでは、木簡庫において「佐俾支」が「サヒキ」と訓読できることで、佐伯(サエキ)が「サヒキ」に近い音であるゆえに、同一地名表記だと推定する可能性はどうだろうか。「俾」が「卑」と同一音であるならば、「卑」は「ヒの甲類」である。そうであれば、「Hi(Fi)⇒E」の転化への事例を知らないだけに、木簡庫の推測に違和感を覚える。

この文言は削除すべきではないだろうか。



■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AWHHG14000101
木簡番号1497
本文・○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉牛卅\○又別平群部美支□・故是以○皆者亡賜而○偲
寸法(mm)(161)
58
厚さ6
型式番号019
出典飛鳥藤原京2-1497(木研25-26頁-(46)・飛17-39上・飛16-13上(55))
文字説明表面上部の余白に不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。
形状上削り、左削り、右削り、下二次的切断(表側から刃を入れる)、表面下部一部剥離。
樹種
木取り板目
遺跡名藤原京左京七条一坊西南坪
所在地奈良県橿原市上飛騨町
調査主体奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数飛鳥藤原第115次
遺構番号SX501
地区名5AWHHG14
内容分類文書
国郡郷里日向国児湯郡日向国久湯評
人名漆部佐俾支・平群部美支□
和暦 
西暦 
木簡説明本木簡はSX五〇一南岸よりもやや南方で出土したが、土層の類似から便宜上SX五〇一出土木簡に含めた。上端・左右両辺削り。下端は表側から刃を入れて二次的に切断する。また、下端より約五〇㎜の位置には、表側に向かってへし折ろうとした痕跡が認められる。下端の切断と同様、やや左下がりとなっており、一連の措置の可能性が高い。表側は上端より約四〇㎜あけて文字を記すのに対して、裏側は上端からただちに文字を記す。表裏は同筆とみてよいが、内容的に関連するかどうかは不明。このほかにも、釈文には掲げなかったが、表側上部の余白には不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。一行目の「日向久湯評」は『和名抄』日向国児湯郡に相当する。「久(く)」と「児(こ)」の通用は珍しくない。「人」字以下は下端の二次的切断にともなって剥離する。二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。「治奉」は貢進の意で使用したものであろうか。「牛」は牛皮であろう。日向国は牛・馬の官牧が多く存在したことで著名。『日本書紀』持統三年(六八九)正月壬戌条には、筑紫大宰は隼人一七四人・布五〇常・鹿皮五〇枚とともに牛皮六枚を献上したとあり、平城宮東院の東南隅部では日向国から牛皮四枚を貢進した際の荷札木簡二点が出土している(『平城木簡概報六』六頁下)。牛皮三〇枚が宮城四隅疫神祭で幣帛として利用された可能性を含めて、検討を要する。三行目の「平群了」は、児湯郡に平群郷が存在することと関係しよう。一方、裏側は右端に一行分の記載しかなく、表側と異なって上端部から文字が記されている。「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」と訓読するか。

■研究文献情報

当該木簡を取り上げている研究文献一覧を表示します

「守部考](木簡庫に収録された卓見)

 

下記の木簡庫の記事は秀抜。素晴らしき学識の持ち主の卓見。


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■添付画像

調査主体が奈良文化財研究所(奈良国立文化財研究所含む)であれば、どなたでも複製、公衆送信、翻訳・変形等の翻案等、自由に利用できます。
商用利用も可能です。申請不要です。詳細は利用条件をご確認ください。
高解像度画像がColbaseに掲載されている場合がありますので、Colbase(https://colbase.nich.go.jp/?locale=ja)でもご確認ください。

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ABRED57000101
木簡番号11524
本文・□□〔埼ヵ〕郡三江里守部・□白米五斗
寸法(mm)(126)
24
厚さ5
型式番号039
出典但馬集成51頁-(440),平城宮7-11524(木研25-9頁-(8)・城37-8上(1))
文字説明 
形状上欠(折れ)、下端削りで切り込みの先端を欠く。左右両辺丸く面取り状に削り。
樹種サワラ△
木取り板目
遺跡名平城宮第一次大極殿院地区西楼
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数337
遺構番号SB18500柱抜取穴ハ6
地区名6ABRED57
内容分類荷札
国郡郷里(但馬国城埼郡三江郷但馬国城埼郡三江里〉)
人名守部
和暦 
西暦 
木簡説明上端折れ、下端・左右両辺削り。サワラ*・板目。城崎郡からの白米の荷札。「□埼郡三江里」は、『和名抄』の城崎郡三江郷にあたる。守氏は、景行天皇皇子大碓命の後裔氏族の一つ。守部は守公氏の部民とされる。『新撰姓氏録』左京皇別下・河内国皇別に守公、河内国神別に守部連がみえる。美濃国に多く分布する。本木簡の「守部」のほか、但馬国にはみえない。平城宮跡第一次大極殿院西楼(第337次調査)SB18500 柱抜取穴ハ六出土(以上、但馬集成より)。 上端折れ、下端は削りで切り込みの先端を欠く、左右両辺丸く面取り状に削り。「三江里」は、『和名抄』の但馬国城埼(﨑)郡三江郷にあたるか。

「細羅国」と丹後国に漂着した新羅人

 不思議なことに、貞観5年と貞観6年の両年に朝鮮半島から漂着記事が3件認められる。

(資料1)貞観5年(863)、丹後国に漂着した細羅国人54人

「先是、丹後国言、細羅国人五十四人来着竹野郡松原村、問其来由、言語不通、文書無解、其長頭屎鳥舎漢書答云、新羅東方別嶋、細羅国人也、自外更無詞。」

(資料2)貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人

因幡国言、新羅国人五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮、放却本蕃。」

(『日本三代実録』貞観5年(863)11月17日条 )

(資料3)貞観6年(864)、石見国に漂着した新羅人30余人

3「先是、去年新羅国人卅余人漂着石見国美乃郡海岸、死者10余人、 生者 24人。詔国司給程粮放却」(『日本三代実録』貞観6年(864)2月17日条 )


<資料1>には、丹後国竹野郡松原村に細羅国54人が漂着したとある。

この竹野は『倭名類聚抄』に「多加乃」とあり、『延喜式』に「竹野郡十四座(大一座、小十三座)」として、「大宇加神社・奈具神社・溝谷神社・久尓原神社・網野神社・依遅神社・大野神社・竹野神社・生王部神社・志布比神社・深田部神社・床尾神社・発枳神社・売布神社」とあり、『丹後国風土記』逸文奈具社条にも「また竹野(たかの)の郡、船木里の奈具村に至り」(岩波書店『日本古典文学大系・風土記』)とあるように、「タカノ」と呼ばれていたらしい。

竹野郡の郡域は、竹野川下流域北部の旧丹後町、同南部の旧弥栄町、福田川流域の旧網野町の3町にまたがり、北は日本海に面しており、約17kmの海岸線を有している。竹野郡松原村は村名としては見当たらないが、(京丹後市)網野町小字松原付近を想定して大過ないだろう。

さて、次に検討すべきは「細羅国」である。これまで無批判に新羅国と同一されてきた。しかしながら同一文中に「新羅東方別嶋」にあると説明されているので、そのまま新羅国と同一視してきた従来の見解を再検討しなくてはならない。

なお、『都氏文集』にもほぼ同文が掲載されているが、そこにも「細羅国」とあることに留意しておきたい。

『都氏文集』4「為丹州清刺史請間裁状」

 「為丹州清刺史請間裁状。

請国郡司等帯剣以備不虞状。 右此国所治危嶮。 直臨北海、 新羅㺃窟、 天霽遙見。 謹撿案内、 去貞観五年、 新羅東別嶋、 細羅国人五十余口、 舟行遭風、 漂著部下竹野郡松原村。 言上先行。 又故逐老申云、 海浦小民、 或得風濤蕩来、 衣覆器皿等。 皆殊方之讒物、 非中国之所有。 以此験之。 異賊拝城、 相去不遠。 恐有兇類、 一旦来窺。已無武備、 何以承之。 望請帯剣、 以禦非常。 謹解。」(『都氏文集』は都良香 <834-879>の作品集、現存本はいず れも三巻の残闊本)

この2例から判断するに確かに限定付きとなるとしても、「細羅国」を新羅国とは別の国と考えてよいだろうが、常識的に言って現在の鬱陵島に比定するのが自然である。しかしながら卑見では、「鬱陵島」説を採用しない。なぜならば、その当時に鬱陵島が日本海交易ネットワークのハブではなかっただろうし、その狭小な島嶼に商人が在住して交易をする必要もなかったと推定するからである。


<参考資料1>


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJFKJ32000100
木簡番号546
本文旦波国竹野評鳥取里大贄布奈
寸法(mm)191
13
厚さ2
型式番号031
出典荷札集成-156(藤原宮2-546・日本古代木簡選・飛4-4下(8))
文字説明 
形状 
樹種ヒノキ科♯
木取り板目
遺跡名藤原宮跡大極殿院北方
所在地奈良県橿原市醍醐町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第20次
遺構番号SD1901A
地区名6AJFKJ32
内容分類荷札
国郡郷里丹後国竹野郡鳥取郷旦波国竹野評鳥取里
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明贄についての貢進物の荷札。旦浪国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。

■研究文献情報