2025年1月12日日曜日

「細羅国」と丹後国に漂着した新羅人

 不思議なことに、貞観5年と貞観6年の両年に朝鮮半島から漂着記事が3件認められる。

(資料1)貞観5年(863)、丹後国に漂着した細羅国人54人

「先是、丹後国言、細羅国人五十四人来着竹野郡松原村、問其来由、言語不通、文書無解、其長頭屎鳥舎漢書答云、新羅東方別嶋、細羅国人也、自外更無詞。」

(資料2)貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人

因幡国言、新羅国人五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮、放却本蕃。」

(『日本三代実録』貞観5年(863)11月17日条 )

(資料3)貞観6年(864)、石見国に漂着した新羅人30余人

3「先是、去年新羅国人卅余人漂着石見国美乃郡海岸、死者10余人、 生者 24人。詔国司給程粮放却」(『日本三代実録』貞観6年(864)2月17日条 )


<資料1>には、丹後国竹野郡松原村に細羅国54人が漂着したとある。

この竹野は『倭名類聚抄』に「多加乃」とあり、『延喜式』に「竹野郡十四座(大一座、小十三座)」として、「大宇加神社・奈具神社・溝谷神社・久尓原神社・網野神社・依遅神社・大野神社・竹野神社・生王部神社・志布比神社・深田部神社・床尾神社・発枳神社・売布神社」とあり、『丹後国風土記』逸文奈具社条にも「また竹野(たかの)の郡、船木里の奈具村に至り」(岩波書店『日本古典文学大系・風土記』)とあるように、「タカノ」と呼ばれていたらしい。

竹野郡の郡域は、竹野川下流域北部の旧丹後町、同南部の旧弥栄町、福田川流域の旧網野町の3町にまたがり、北は日本海に面しており、約17kmの海岸線を有している。竹野郡松原村は村名としては見当たらないが、(京丹後市)網野町小字松原付近を想定して大過ないだろう。

さて、次に検討すべきは「細羅国」である。これまで無批判に新羅国と同一されてきた。しかしながら同一文中に「新羅東方別嶋」にあると説明されているので、そのまま新羅国と同一視してきた従来の見解を再検討しなくてはならない。

なお、『都氏文集』にもほぼ同文が掲載されているが、そこにも「細羅国」とあることに留意しておきたい。

『都氏文集』4「為丹州清刺史請間裁状」

 「為丹州清刺史請間裁状。

請国郡司等帯剣以備不虞状。 右此国所治危嶮。 直臨北海、 新羅㺃窟、 天霽遙見。 謹撿案内、 去貞観五年、 新羅東別嶋、 細羅国人五十余口、 舟行遭風、 漂著部下竹野郡松原村。 言上先行。 又故逐老申云、 海浦小民、 或得風濤蕩来、 衣覆器皿等。 皆殊方之讒物、 非中国之所有。 以此験之。 異賊拝城、 相去不遠。 恐有兇類、 一旦来窺。已無武備、 何以承之。 望請帯剣、 以禦非常。 謹解。」(『都氏文集』は都良香 <834-879>の作品集、現存本はいず れも三巻の残闊本)

この2例から判断するに確かに限定付きとなるとしても、「細羅国」を新羅国とは別の国と考えてよいだろうが、常識的に言って現在の鬱陵島に比定するのが自然である。しかしながら卑見では、「鬱陵島」説を採用しない。なぜならば、その当時に鬱陵島が日本海交易ネットワークのハブではなかっただろうし、その狭小な島嶼に商人が在住して交易をする必要もなかったと推定するからである。


<参考資料1>


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJFKJ32000100
木簡番号546
本文旦波国竹野評鳥取里大贄布奈
寸法(mm)191
13
厚さ2
型式番号031
出典荷札集成-156(藤原宮2-546・日本古代木簡選・飛4-4下(8))
文字説明 
形状 
樹種ヒノキ科♯
木取り板目
遺跡名藤原宮跡大極殿院北方
所在地奈良県橿原市醍醐町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第20次
遺構番号SD1901A
地区名6AJFKJ32
内容分類荷札
国郡郷里丹後国竹野郡鳥取郷旦波国竹野評鳥取里
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明贄についての貢進物の荷札。旦浪国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。

■研究文献情報

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