2026年10月20日火曜日

阿比留章子「対馬藩御文庫と朝鮮本輸入の制度史的再検討 ― 禁制・求請・政治交渉の三層構造 ―」を論評する(その1)

 

対馬藩御文庫と朝鮮本輸入の制度史的再検討 ― 禁制・求請・政治交渉の三層構造 ―

要旨(Abstract)

本稿は、江戸期における対馬藩の御文庫が、単なる蔵書庫ではなく、 ① 朝鮮本禁制下の代替供給源、 ② 幕府・林家との政治交渉資源、 ③ 日本儒学界への知識仲介者 として機能したことを、史料批判に基づき制度史的に再構成するものである。

従来研究は、朝鮮本献上を文化交流史の一断面として扱ってきたが、本稿は、朝鮮側の禁制(正徳二年)と求請制度の構造的制約を踏まえ、御文庫の朝鮮本が 外交の閉塞を補う戦略資源として再機能化した点を明らかにする。

Ⅰ 問題設定:従来研究の限界と本稿の視角

従来研究(藤本幸夫ほか)は、対馬藩が「日本朱子学の仲介者」であった点を評価するが、 献上の政治的背景、禁制との連動、御文庫の制度的位置づけは十分に論じられていない。

本稿は以下の三点を新たな分析軸とする:

  1. 求請制度の構造的制約

  2. 正徳二年禁制による朝鮮本流通の断絶

  3. 御文庫の蔵書が政治交渉の資源として再機能化した過程

Ⅱ 史料と方法:書物目録・書入れ・外交記録の三点照合

本稿は以下の史料群を照合し、「献上された書物」「献上の理由」「献上の政治的効果」を三段階で再構成する。

  • 御文庫書物目録(天和・安永・天保・嘉永)

  • 書入れ(献上・移管の記録)

  • 『分類紀事大綱』『辺例集要』『王朝実録』などの日朝外交史料

  • 林家関係史料(『林様御用談記録』『林家行出入帳』)

特に書入れは、原論文では「事実の記録」として扱われているが、本稿では 書入れの性格(誰が、何の目的で、どの段階で書いたか) を吟味し、史料批判を強化する。

Ⅲ 朝鮮本輸入の制度構造:求請と禁制の二重拘束

1. 求請制度の本質

求請は「規定外の品を懇望して贈与してもらう」制度であり、対馬藩は常に受動的立場に置かれた。

  「求請というのは…朝鮮側に懇望して、回賜の名目で贈与してもらうことをいう。」

求請は

  • 品目が限定され

  • 許可は朝鮮側の裁量

  • 書物は特に慎重に扱われた

という構造的制約を持つ。

2. 正徳二年禁制の決定的影響

正徳二年、朝鮮側は「文籍一切厳禁」を発令した。

   「王命じて、中国書冊の外、我が国の文籍は一並厳禁し…」

これにより、官版(校書館・芸文館)の書籍は完全に入手不能となり、対馬藩は他家からの依頼に応える際、御文庫の蔵書を代替供給源として使うしかなくなる。

Ⅳ 御文庫の再機能化:献上の政治的背景

1. 元禄四年 湯島聖堂への献納

藩主宗義真は、聖堂落成に際し、儒教経典類の献納を命じた。

「殿様よりも朝鮮本の内『四書大全』『五経大全』…御寄附可被成候間」

しかし御文庫には不足があり、朝鮮側への求請は間に合わず、御文庫の蔵書が緊急に献上品へと転用された。

この事例は、「御文庫 → 藩主御前 → 聖堂」という献上ルートを示す重要な証拠である。

2. 享保二年 吉宗への『東医宝鑑』献上

吉宗の朝鮮医薬調査に応じ、御文庫の『東医宝鑑』25冊が献上された。

    「とりあえず御文庫内に保管されていた『東医宝鑑』二十五冊を江戸を回すことに

    した。」

求請が不可能な状況で、御文庫が 外交上の即応資源として機能した典型例である。

Ⅴ 林家との関係:書物貸与と政治交渉の交換構造

林述斎はのべ70点の朝鮮本を対馬藩に求め、対馬藩は副本作成で対応した。

しかし、述斎との主要な「用談」は書物ではなく、老中青山忠裕への取りなし(心添)である。

  • 後見人脇坂安董の留任

  • 拝借米・拝借金の返納猶予

  • 将軍家慶の孫誕生に伴う差倭派遣の交渉

これらの重大な外交案件に対し、対馬藩は述斎の「心添」の対価として、御文庫の朝鮮本を貸与した。

ここに、御文庫の蔵書が政治交渉の資源として制度化されていた構造 が明確に読み取れる。

Ⅵ 制度史的結論:御文庫は「知識の外交装置」である

本稿の分析から、御文庫は以下の三層構造で機能していたことが明らかとなる。

① 禁制下の代替供給源(外交の閉塞を補う装置)

求請が不可能となった正徳二年以降、 御文庫は国内で唯一の朝鮮本供給源となった。

② 幕府・林家との政治交渉資源(知識の政治利用)

書物の貸与・献上は、 老中・大学頭との交渉における「対価」として制度化されていた。

③ 日本儒学界への知識仲介者(文化的影響)

昌平坂学問所の蔵書形成、 『大日本史』編纂への資料提供など、 対馬藩は学術界に構造的な影響を与えた。

Ⅶ 今後の課題:御文庫の内部制度と蔵書補填の仕組み

本稿は献上・貸与の外部機能を中心に論じたが、以下の内部制度の解明が今後の課題となる。

  • 蔵書補填の有無(禁制後は補填不能)

  • 書物掛の選書基準

  • 副本作成の制度化

  • 藩校思文館との連動

これらを解明することで、御文庫を「大名家の蔵書庫」ではなく、外交・政治・学術を横断する知識装置として位置づけることが可能となる。

◆ 結語

原論文が提示した「文化的仲介者としての対馬藩」という視点を、本稿は外交史・制度史の観点から再構成し、御文庫の朝鮮本が禁制・求請・政治交渉の三層構造の中で再機能化した戦略資源 であることを明らかにした



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