「朝鮮を囲む四つのボーダー〔華夷秩序と西洋型国際秩序〕」
一
泰西の名画家の一人に、フェルメールがいる。17世紀半ば、オランダで活躍した「光の画家」フェルメールは43歳で夭折しただけに、残された作品は35点にすぎない。興味深いのは、このフェルメールの名画のいくつかに壁掛地図が描かれていることである。たとえば、「兵士と微笑む娘」(1658年作か)には、キャンバスの4分の一ほどの大きさに、陸地を青色で彩色した地図が壁に掛けられている。同じく「恋文」や「青い衣の女」などにも見いだせるように、オランダの家庭では、室内装飾品として銅版原版から刷り出された大画面の壁掛地図が流行したらしい。それもそのはず、その当時、オランダのアムステルダムは世界の地図製作センターであった。ブラウ家は最大の地図メーカーであった。
そもそも室内用壁掛地図は破損しやすく、また変色しやすい消耗品である。それだけに大量生産されたものの、現在に伝わる残存品が多くない。このブラウ版「世界地図」(1648年製)が東京国立博物館に所蔵されている。それも1枚だけではなく、奇跡的に2枚も存在する。江戸時代、オランダ商館を通じて、江戸幕府に献上された品であった。そのブラウ版「世界地図」の右隅に朝鮮半島と日本が描かれている。ヨーロッパにとっては「極東」である。この地図をよく見ると、北海道に関する情報が乏しかったらしく、日本列島にしても関東以北は切れている。一方、朝鮮半島といえば、多くの概説書では「島である」と説明されているように、大陸に繋がって居らず、一見して海に浮かんでいる。17世紀にアムステルダムに届いた最新の地理情報が盛り込まれているのであったとすれば、いったい、この朝鮮半島に関する地理情報提供源は誰であっただろうか。文禄慶長の役で渡韓した兵士から入手した地理情報に接した日本在住のキリスト教の宣教師もしくは商館員であったとしても、無理のない想像ではないだろうか。その当否はともかくとしても、ちなみに「ティセラ日本図」(1597年、ポルトガル製)では海中に完全に存在し、「世界図屏風」(日本浄得寺蔵、16世紀末成立か、ヨーロッパ製地図による描画)では鴨緑江だけが記載されており、ヨーロッパに於いて次第に蓄積された朝鮮半島の地理情報の量が推定できる。換言すれば、たとえ朝鮮がいびつに、そして不正確に描かれようとも、それは一つ一つの地図に組み込まれた世界認識・世界観を投影したものであり、現在のように世界測地系を活用したGPSとGIS(地理情報システム)によって製作された地図によってのみ、朝鮮半島イメージを考えることは避けなくてはならないと言わざるを得ない。
したがって本稿では、主として朝鮮時代の「朝鮮半島地図」がいかなる要素で組み立てられているかに関する考察にも関心を払いつつも、むしろ何を排除して「非朝鮮半島」イメージとしていたかに力点を置きたい。
二
ところで、朝鮮時代にポピュラーであった「八道総図」がそうであるように、地図の下部に巨済島を南端とし、その上部の中央に位置する白頭山(中国--「長白山」)から左右に流れ出る鴨緑江・豆満江を北端として描く韓国人の朝鮮半島(八道)イメージ は、いつ、どのようにして定着していったのだろうか。逆に言えば、地図の下部に白頭山・鴨緑江・豆満江を描き、その上部に巨済島を描く半島イメージが出現しなかった理由は、どこにあるだろうか。また、「朝鮮半島」とその辺境・隣接地域をいかにマッピングするかに、はたして一定のルールが存在したのだろうか。
なるほど、韓国の馬山市(現、昌原市)議会は、対馬の領有権を求めて「対馬島の日(6月19日)」条例を制定してもいる(2005年3月18日採決)。しかしながら釜山と対馬の間は、日本で人気を博すK-Popの有名なアイドルさえも歌うヒット曲「独島は我が領土」(1982年、パクインホ作詞)のように、「ハワイは米国領、対馬は日本領」とあり、この両地域間の国境線が揺らぐことはあり得ない。観点を変えれば、周囲を海で囲まれた日本にあって、唯一国境線紛争のない地域であると言って良いだろう。
それゆえに本稿でまず解決しなくてはならない論点は、いつ、どのような理由で、対馬と釜山の間に日韓のボーダーが発生したか、に関する課題であるにちがいない。周知の通り、『海東諸国紀』(申叔舟撰、1471年)には、「日本国対馬島之図」を掲載するように、15世紀半ばを初見として、韓国で制作された地図では対馬が日本領であると明確に認識していた。管見の範囲では、それ以前に「対馬は日本領」と明記する韓国側地図の存在を知らないが、その一方で朝鮮半島と日本との間に明白なボーダーを突きつける日本側資料がある。『日本書紀』である。例えば、白雉2年(651)是歳状には、
「新羅の貢調使知萬沙飡等、唐の国の服を着て、筑紫に泊れり。朝廷、恣
に俗移せることを悪みて、せめて追い還したまふ」
とあるように、中国の衣冠を着用した新羅の使臣を追い返すという外交を展開している(斉明6年7月16日条参照)。新羅真徳王2年に「その章服を改め、中華の制に従うことを請う」とあるように、唐の服制や年号を使用することは、新羅が中国皇帝との君臣関係に基づく中華統治システム「冊封関係」・「華夷秩序原理」を締結し、新羅の中国属国化を意味している。聖徳太子が小野妹子に託した隋国への「国書」に見るとおり、日本の中国に対する対等意識が生じていたことによる新羅使臣の追放処置であった。換言すれば、朝貢原理が作り出した中国を中心とした中心ー周縁という華夷秩序原理に叛旗を翻しつつ、それを拒絶した日本中心的な世界観による象徴的な外交事件であった。それゆえに、白雉2年に、実際に実行されなかったものの、日本で「新羅征討」が声高に主張されたのであった。どうやら、我々の問いを解く鍵は、朝鮮に於ける華夷秩序原理の形成・定着にあったと予告しておきたい。つまり朝鮮を巡る領域論や境界論に、華夷秩序原理を基軸とした認識や表象の中で、朝鮮半島イメージが形成されてきたと考えている。当然ながら時代の変遷によって、受容した階層によってそれらは朝鮮半島イメージは異なる。なお、朝鮮古地図によく見る詳細な地理情報を持つ鴨緑江と杜撰な情報しかない豆満江との対照的な描写図は、やはり朝鮮時代における国家の関心の違いに求められるだろう。ソウル(当時の漢城)を起点として派遣された外交使節は、日本に12回来ただけであるのに対して、北京へは約500回も出かけ、そのたびに鴨緑江を渡河している。当然に鴨緑江をめぐる地理情報が蓄積されていったためだと理解しても無理はないだろう。その逆に、女真族に代表されるオランケが居住するとして、蔑視した豆満江外の隣接領域への無関心さは、そのまま地図の中に「異境ゾーン」として曖昧なままに描写されることとなった。
三
福岡と釜山の間は、約200㎞。対馬の北端に立てば、毎年10月に開催される釜山の花火大会でさえ、鮮明に観覧できるほどである。不思議なのは、釜山から対馬の間は約50㎞であり、相互に視認できる距離であるにも拘わらずボーダーが存在し、対馬から福岡まで約150㎞であり、相互に視認できない距離であるにも拘わらずボーダーが存在しないことである。その原因は何であろうか。
換言すれば、相互に視認しながら、自由に船舶で往来してきた「指呼の間」にある釜山と対馬との間に、日本語を指標とする日本民族と韓国語を指標とする韓国民族がそれぞれに成立したのは、なぜだろうか。この問題に対する正答を得るのは容易ではないが、まずは海洋物理学者の尹宗煥による玄海灘の海流、対馬暖流の変動のメカニズム・データ分析は傾聴に値しよう。尹の研究は、対馬海峡を横断する博多―釜山間往復フェリー「かめりあ」号の船底に、流速・表面水温・塩分・クロロフイルをモニタリングするために「ADCP(ドップラー流向流速計)」を付けて観測を実施した結果である。そもそも対馬暖流は、九州西方沖に位置する東シナ海の大陸棚の斜面上を流れる黒潮と陸棚上を流れる海水が対馬海峡を通って日本海に流入する暖流であるが(「図1」)、北部九州と朝鮮半島の間にある対馬の島影によって反流し、その暖流は大きな影響を受けることになる。「図2」に見るように、季節によって変動するとは言え、過去10年間のデータを整理すると、釜山と対馬の間には1.3ノット(9月最大)~0.8ノット(1月最少)、そして対馬から福岡の間には0.8ノット(9月最大)~0.4ノット(1月最少)の平均海面流速データが得られたという。
〔図1) 〔図2〕
尹によると、古代船の早さを2ノットであったと仮定すれば、対馬暖流が北東方向へ平均1ノットで流れる6月の、風力が弱く、しかも島影を視認できる満月の夜に船出するのが、一年でもっとも安全に渡海できるという。それでも、応永の外寇(1419年)では、その年の6月17日(旧暦5月15日満月)に巨済島を出航した朝鮮軍船は潮流に押し流されて引き返し、同月の19日に再出航した。しかし、たとえ最適なシーズンである6月であっても、平均4~5ノットの速度であったと推定される朝鮮軍船でさえ、潮流が卓越する対馬暖流を渡海できなかったのであれば、ましてや平均1~2ノットであった古代船の渡海は困難を極めたはずであり、言うまでも無く出港が釜山ではほとんど無理であった。要するに、風が弱く、潮流が遅く、しかも島影が視認できるという好条件が続くのであれば、巨済島南端から約1日で浅茅湾へ、そして大船越を陸路で越えて対馬南端から約1日で壱岐勝本へ、壱岐から約半日で呼子へ到着するという古代の推定渡海ルートが想定できるという。その反対のルートは、図3に示したとおりである。
(図3:対馬から朝鮮半島へ)
考古学の最新の知見では、こうした古代の航路・航法などで、朝鮮半島から北部九州に水田などを含む灌漑農耕文化が伝わったという。宮本一夫の最新の見解によると、東アジアにおける農耕文化は4段階に区分できるらしい。
第1段階:紀元前3500年頃にアワ·キビとともに、農耕化した採集狩猟民が
磨盤·磨棒や石鋤などを持ちながら朝鮮半島南部や沿海州南部
へ拡散する段階(朝鮮半島南部の新石器時代中期初頭)
第2段階:紀元前2500~2000年頃に山東半島煙台地区から遼東半島へ、アワ・
キビ農耕に栽培植物としてイネを加え、遼東形石斧·石包丁な
どが拡散する段階。(朝鮮半島新石器時代後·晩期)
第3段階:紀元前1500年頃、山東半島に生まれた畦畔水田を持った灌漑農耕
が遼東半島を経由して朝鮮半島に流入する段階。その段階には、
朝鮮半島においても遼東形石斧、扁平片刃·柱状片刃石斧、石包丁、
木製農具などが伝播し、次第に変容していく段階(朝鮮半島での
無文土器社会)。
第4段階:紀元前1000年~800年頃、寒冷期が契機となって、朝鮮半島南海
岸地域の先松菊里式期において、水田などを含む灌漑農耕文化が
北部九州へ伝播した段階。半島南部からの渡来民が北部九州へ移
り、縄文人との融合の中に弥生文化を生み出した。北部九州へは
環濠集落、支石墓、水田、大陸系磨製石器、木製農具、磨製石剣
などの新来の文化要素が朝鮮半島から伝播した。
(図4)東アジアにおける農耕文化の流れ
さて、日本の水稲栽培の起源に関しては、考古学の樋口隆康や植物遺伝学の佐藤洋一郎などのように、朝鮮半島を経由しないで大陸から北部九州に海を渡って直接に渡来したという学説もある。しかしながら当面、我々は紀元前1000年~800年頃に、寒冷期が契機となって環境の悪化に伴い、朝鮮半島南海岸地域で水田などを含む灌漑農耕文化を営んでいた渡来民が対馬を経由して、朝鮮半島南部と北部九州の間を南下した事実に注目をしたい。当然ながら朝鮮半島から日本への南下が一度きりであったはずもなく、容易に太古より無数の類例を探せるだろう。たとえそうだとしても、紀元前1000年~800年頃でさえ、対馬海流を乗り越えて朝鮮半島南部から北部九州へ渡海できる航海術があった事実の確認に満足することで、まずは両地域にボーダーとは、環境の激変を原因とすれば、無意味だったと理解しておこう。
そこで、再度、我々の課題に立ち戻る前に、ナラ林帯(落葉広葉樹林帯)と照葉樹林帯に大別される東アジアの植生を想起しておいても、決して無駄ではない。この仮説は、すでに日本列島の東・西の差を説明するのに有効であった。周知のように、「居る」は東日本で「おる」であり、西日本で「いる」と発音するように、言語学の東条操や大野晋などの研究によって、日本語方言における東と西の対立が提示され、新潟・富山の県境から伊勢湾に至るボーダーが設定されたことがある。その後、民俗学からの報告が続き、その東・西方言圏を念頭に置いた諸文化要素の地域差が確認された。こうした文化の地域差を説明するに、植物学の中尾佐助や民族学の佐々木高明らの学説の驥尾に付して、日本列島の東方言圏とほぼ同一なナラ林帯、西方言圏とほぼ同一な照葉樹林帯の植生図を重ね合わせて理解したい。水稲耕作が流入する以前の縄文時代にあって、西日本に比較して東日本に偏在する人口密度の高さを教える考古学的知見は、彼ら縄文人の重要な食料であった鮭・鱒の漁撈とトチ・クルミ・栗など堅菓類の豊かな食料に恵まれたナラ林帯採集狩猟民と、野生のサトイモなど半栽培食物やドングリを中心として大量の食料に恵まれない照葉樹林帯採集狩猟民の差であると説明した。しかし発想を逆転させるならば、人口密度が濃密でなかったからこそ、そして高い生産性を持っていたからこそ、「海峡を渡って来た」灌漑型水稲耕作民がまずは北部九州に、そして西日本各地で受け入れられていったに違いない。
さて、ここで東アジアの植生図を一覧すると、南北に冷涼なナラ林帯とやや温暖な照葉樹林帯との大別できる。日本列島がそうであったように、朝鮮半島においても、ほぼ北緯35度線を境界に半島南部の慶尚南道・全羅南道一帯が照葉樹林帯、残りの大半がナラ林帯に分けられる。すなわち文化的に見れば、アワ・キビなどの雑穀を栽培し、豚の飼育を行いつつ狩猟や漁猟に従事したナラ林帯と、主に雑穀・根菜型の焼畑農耕が生業の中心である照葉樹林帯の二つである。飲茶・漆・養蚕と絹織り技法、麹酒、味噌・納豆など大豆の発酵食品、コンニャク・餅などの食品、歌垣・8月15日夜・鵜飼などの習俗のセットは、すべて照葉樹林帯文化的特徴である。
詳細は別に譲るとして、私の仮説はこうである。紀元前1500年(縄文時代中期末)以降の気候変動は冷涼化に進み、第3段階灌漑農耕が半島を南下していったが、その一方で朝鮮半島と日本列島の両地域北緯35度より南の照葉樹林帯にその特有な文化セットが中国から渡来し定着した。紀元前1000から800年頃の寒冷化を期に、第4段階灌漑農耕が海峡を渡り、北部九州に伝来した。主として雑穀・根菜栽培など照葉樹林文化型焼畑農耕に支えられていた北部九州は灌漑型稲作を容易に受容し、その生産性の高さゆえに西日本一帯に急速に拡大していった。ただし、稲作に適する平地に乏しい対馬を経由せず、朝鮮半島南部から北部九州へダイレクトに灌漑型稲作が渡来したと考えて良いだろう。したがって縄文時代前期ごろに中国大陸・朝鮮半島南部と西日本一帯に照葉樹林帯が拡大すると共に、中国大陸から両地域へほぼ同時期にプレ農耕段階の照葉樹林文化が伝来した。その後、紀元前1500年頃に第3段階灌漑農耕が半島南部に伝来して、プレ農耕段階の照葉樹林文化を吸収しつつ、生産性を向上していった。さらに500年前後時代が下った時期、地球の寒冷化現象に伴い、半島よりも温暖な北部九州に伝播して、さらなる水稲文化を発展させていった。要するに、この時期、北部九州と北緯35度線以南の照葉樹林帯には大きな文化的差異は認められず、それだけに言語を標識とする異民族は成立していなかったと考えたい。これも大胆な想像は避けられないが、7世紀の統一新羅国(AD676-AD935)成立に至るまで、韓系言語を話し、照葉樹林帯文化特有の民族要素を保有し、さらには灌漑式農耕に従事するライフスタイルを共通にする日韓海峡圏には、相互に「異国」視するボーダーは存在しなかったにちがいない。
しかしながら、紀元前4世紀から1世紀にかけて存立した、半島南部の古代国家群、いわゆる三韓(半島西岸方面の馬韓54国、北東部の辰韓12国、南東部の弁韓12国の総称。後代の馬韓・辰韓・弁韓3国)が、7世紀に至り統一新羅に吸収され、それと同時に唐国との間に国家安全保障システム及び通商システムが締結されることによって、朝鮮半島におけるボーダーは、華夷秩序原理を内外に表明することとなった。その結果、上述したとおりに新羅使節が中国の衣冠を着用したように、朝鮮半島は中国を中心とした東アジア政治秩序体制に編成された。それに伴い、中華統治システムの中でボーダーが作り出されたために、自然と朝鮮半島において「民族・言語・文化・空間マッピング」を相互に同定する作業も加速度的に進展していったにがいない。また「他者の排除」の論理(華夷秩序原理)を貫徹するために、朝鮮半島南部と対馬の間に民族的ボーダーが確定し、「他者との区別」を求めるディスクールが要求されることとなった。また朝鮮民族内においても、白頭山から流出する地脈が続く地域こそ、朝鮮民族の地であると教える民族的イデオロギー(『八域誌』李重煥著など)が出現するとともに、その民族の地脈で連結されない地域を「異国」「異界」視し、民族の優位性を説明する小中華イデオロギー(エスノセントリズム)を作り出したために、海峡で切断された対馬は自然と「異国」に属するとされた。その結果、「八道総図」など代表的な朝鮮古地図に見るとおり、華夷秩序の外部にある日本を描くことはなかった。あるいは対馬が作図されるとしても、華夷秩序原理の両義性を帯びた地域として表現されたに過ぎない。
四
私達の視点を朝鮮半島北部の辺境に向けるとき、思い出されるのは、2006年から翌年に掛けて、韓国のテレビ局総てが放映した歴史大河ドラマ群である。高句麗の建国王である朱蒙、高句麗滅亡後に朝鮮民族を組み込んで渤海(AD698-AD926)を建国した大祚栄などを主人公として製作されたテレビドラマは、そのいずれも韓国内で高視聴率をあげたばかりでなく、韓流ドラマのブーム中でアジア各地でも放映された。これらのドラマに共通するのは、舞台が朝鮮半島ではなく、中国大陸東北部であることだ。ラッシュアワーのごとき製作時期、主人公の類型性、同一な舞台背景を考慮すれば、とても偶然の一致に企画されたドラマ群と言えまい。多くの識者が指摘するとおりに、2004年に勃発した韓国と中国の「歴史紛争」が背景にあると断定して良い。具体的には、中国社会科学院の辺境歴史地理研究センターが進めたプロジェクト「東北工程」(「東北辺境歴史與現状系列研究工程」の略)が「高句麗史論争」の火種を作った。その論争を「高句麗史に対する歪曲」と反発する韓国側の立場で論争の行方を見守るべきかどうかは慎重に保留しなくてはならないが、二千数百年まえの歴史が、突如として現代政治の枠組みの中で議論されることに興味が引かれる。それと共に、政治がリードする韓国メディアの流れの中で、テレビドラマの1話に盛り込まれたシナリオライターの想像力は、神話的存在さえも実在の人物へと視聴者に変換(錯覚?)させるほどに、100冊の高句麗史専門書よりも韓国社会に強いインパクを与えた。両国家間では表面的に、2004年8月に締結された口頭了解覚書5項目で沈静化したものの、東アジアにおける一連の韓中ボーダー問題は、現代の国際情勢のコンテキストで把握すると同時に、各国家の歴史イデオロギーと強い関連を有すると世界に告白したと言って良い。忘れてならないのは、朝中間におけるボーダー紛争の主因の一つは「民族の聖なる故地」論と「多民族国家の領域」論の対立であることと、国境は人間(もしくは民族、国家)が作り出したイデオロギーの所産であるという教科書の記述を再確認させたことだ。
五
今さら、「白頭山定界碑」論争に首を突っ込み、韓国・中国間の国境画定が曖昧だと蒸し返すことは控えておきたい。すでに篠田治策が明記したように、その石碑建立時(1712年)から碑文解釈の食い違いを生じていたからであり、たとえ石碑の位置確定が相互に完了したとしても(昭和6年7月28日ー7月29日の間に撤去)、それで万事終わりという単純な問題ではないからである。既知の事実であるが、中華統治システムにおけるボーダーはヨーロッパの万国公法が提示する国境線とは本質的に異なる。中国皇帝の徳化を慕って来訪した周辺国家に対する王印や中国暦などを与える冊封と、各国王から皇帝への朝貢による関係性の中で、中華統治システムが構築される「徳治国家」群の集合体であっただけに、現在のように旅券法違反などという国境侵犯とは無縁な統治モデルであった。したがって、朝鮮と清国との間に生じたボーダー紛争の原因の一端は、華夷秩序原理が崩壊しつつあるプロセスで、法治国家群による西洋型統治モデルと徳治国家群による中華統治モデルとの衝突であったと言って決して過言ではない。定界碑文の解釈より生じた両国のボーダー争議をめぐる2回の協議(乙酉勘界<1885年>と丁亥勘界<1887年>)の場において、双方から「公平な商議」の語が頻出するのも、故無しではない。加えて、白頭山が両国政府の建国王「祖先発祥の聖地」であっただけに、その聖地を死守することが双方の協議の前提であれば、「会議は踊る、されど進まず(Le congrès danse beaucoup, mais
il ne marche pas.)」でしかない。
そこで本稿では、現状を直視するだけで、白頭山定界碑をめぐる境界論争に介入することなく、むしろもう一つの境界紛争となっている豆満江の河口に位置する鹿屯島問題を取り上げることとしたい。
まず鹿屯島がどこにあるかを確かめたいが、現段階ではそれさえも困難である。その河口に島が現存しないからである。しかしながら、ある韓国人研究者によって、朝鮮時代における鹿屯島の所在を確認するために、自らの論考に都合の良い十余りの古地図で立証しようとしているが、我々の立場からすれば、彼に不都合な古地図を一枚提示するだけで良い(図5)。
〔図5:1673年)
そもそも前近代における地図は万国公法に裏付けられた明解な国境線で画されたはずもなく、むしろ辺境や隣接領域を「意図的にファジーな状態」に記述したと考えているからである。それゆえに豆満江の河口一帯がたとえ矛盾に満ちたマッピングであったとしても、それは明確な国境線確定を欲していなかったわけではなく、単に国境線に無関心であったり、あるいはその反対に針小棒大にしているに過ぎないからであった。したがって、豆満江下流に鹿屯島がマッピングされていたとしても、それはGPSとGIS等を活用した作図であったのではない。ましてやオランケなど異民族が盤踞する未征服の地であるだけに豆満江の彼方への情報記述に冷淡で有り、しかも鹿屯島の名が明記されていたとしても、その島名を知っているに過ぎないと考えた方がよい。だからこそ、朝鮮古地図上に島名があったとか無かったとかで一喜一憂するのは妥当ではない。
さて、まずは鹿屯島領有権問題に直結する朝鮮・清国・ロシア3国の主張と論理を追求するのではなく、日本側政府記録を辿りながら我々の関心を鹿屯島問題へ戻すこととしたい。
話は1889年(明治22年)11月に遡る。在朝鮮近藤代理公使より大隈重信外務大臣宛の電信に、
「朝鮮政府鹿屯島ヲ清国エ譲与ノ風説機密第百五十八号、鹿屯島ノ事先使
機密第百五十五号追書ヲ以テ清国政府ハ俄韓交界ニ在ル鹿屯島占領ノ義
風説ノ侭御報申上候所、其後種々探偵ヲ尽シ候得共、今ニ確説シ得兼居
候、尤モ朝鮮探偵ヨリハ別紙写ノ通「今般朝鮮政府ヨリ俄公使ニ向ヒ該
島ノ返還ヲ要求セシ事ハ有之トイヘ共、清国ニハ毫モ関係セザル旨」報
道有之候、左スレバ清国占領ノ風説ハ、或ハ虚伝ニ属スルカト被愚考候、
別紙相添此段、及御報道候 敬具
明治十九年十一月十五日
在朝鮮臨時代理公使杉村濬
外務大臣伯爵井上馨殿 」
とあり、当時、ソウル市内には「朝鮮政府、鹿屯島ヲ清国エ譲与ノ風説」が充満していたようである。そのために、在朝鮮臨時代理公使杉村濬は韓国人スパイを朝鮮・ロシア国境に派遣して、事実を解明しようとしたけれども、それが誤伝であったという。もっともこの報告を本省宛に送信する前に、「鹿屯島露国ニテ占領ニ関スル件機密第四十四号」が送られており、
「過般、下官袁世凱ヲ訪問致候所、同人ヨリ不遠内ニハ、俄清韓トノ間ニ
一ノ紛議ヲ生ジ可申哉難測トノ噂有之候ニ付、其委細ヲ質シ候所、近来
俄国ニテ豆満江ニアル一島ヲ俄有ナリト称シ候由、然ルニ該島ハ古来朝
鮮ニテハ、我版図内ニ属スルモノト自信致候事故、若シ俄領ナリトノ説
ヲ聞カバ、必ズ争議ヲ引起シ可申、一体俄国ガ該島ヲ其所有トスル理由
ハ、当初清国ガ該地方ヲ俄国ニ譲与セル節取結ビタル約書ニ、豆満江ヲ
以テ界トナストノ語有之ニ根拠セル由ニ相聞ヘ候、但シ該島ハ最モ江口
ニ位置シ、江流該島ニ当リテ両分シ、一ハ俄領ニ沿テ流レ、一ハ朝鮮地
方ニ沿テ流レ候、該島俄国図ニテハ二小島トサレ、朝鮮図ニテハ一島ト
ナス由」
という同年7月9日段階の報告が本省宛になされている。これによると、在朝鮮清国総領事袁世凱は、「当初清国ガ該地方ヲ俄国ニ譲与セル節取結ビタル約書ニ、豆満江ヲ以テ界トナストノ語有之ニ根拠セル由ニ相聞ヘ候」と回答したという。その伝聞の信憑性を確かめる手立てが必要となり、上記の朝鮮人スパイの派遣となった。ソウルと東京間の電報のやりとりは続き、鹿屯島がロシア領土に編入された理由は、
「1860年、清魯国境画定の条約第1条中、豆満江以西は魯国に与える等
の文字を有する」
という条約に依拠したとして、1890年(明治23年)5月3日の打電となる。
それでも疑いを持った日本外務省は在釜山日本総領事館に指令を与えて、1890年(明治23年)7月4日付けで復命させている。報告者は、同年6月15日に釜山を出発し、鹿屯島見物にでかけた釜山領事館川上書記生。彼の実見によると、鹿屯島の概況は、
「該島(鹿屯島)は所謂鹿島に非らず鹿屯と云ふ周囲、我8丁許の小島に
して現地図の如く川の中央に非らず(現地図は2,30年前のものと考
ふ)乃ち2,30年前より川流西に転じ現今は朝鮮岸側にのみ流れ東岸
魯領と連接せる一の半島となれる。慶興府は地図の如く深く陸地に入り
あらずは豆満江より僅か我5丁ほど隔絶するのみ、而に豆満江より慶興
府までは日本里数十里甚中対岸の上部七里は清国領にして下三里は魯国
領なり」
また、同年7月10日発の外務省への電信を掲載しても無駄ではあるまい。それによると、在釜山日本総領事館の久水領事代理は6月12日、豆満江口に鹿屯島を実見した上で、「地は同く俄の地」と結論づけた上で、
「鹿屯島は朝鮮咸興道慶興府を距る東南70里(我里法凡そ7里)豆満
江の海に入る處即ち江口の一デルタ(出島)にして、同府所管造山堡
(堡は萬戸を置く)に相対し豆満江の一水を隔て同堡城門を距る里餘の
處にあり。元と朝鮮国の藩図にして萬戸(官名)を置き之を管したる
も数十年前(年紀不明)支那の地に属したれは萬戸を撤去し人民は其儘
住居耕耘せり、今を距る五年前(明治19丙戌年)、又転じて俄の地に
属せり、該島の総て支那に属する所以のものは豆満江水該島を巡って二
派に流れ島は江口中央にありたるも旧支那地と該島間の流れは自ら絶止
し只朝鮮と該島間の一方に流るることとなりしによより自然支那元来の
陸地と連続し地形上より遂に支那に属せることとはなれり、然れとも朝
鮮は彼為に任せ敢て争はさりしと云、然るに又転じて俄の地に属する所
以のものは全く該島満州大陸と連続し半島の姿を呈したるより満州地方
俄の領する所となりしは即ち五年前に於いて俄清境界取極委員立会の上、
清より俄に交付したる地区内に自から含入しあるものの如くあれは、爾
来公然俄領と唱来りしものなりと云。」
とある。
その結果、日本外務省が入手した情報に従えば、
1,1860年、清魯国境画定の条約第1条中、豆満江以西は魯国に与える等
の文字を有すること
2,その条約に依拠して、1885年に俄清境界取極委員立会の上で、鹿屯島
領有権はロシアに移管されていたこと
3,鹿屯島の現況は、1860年から1870年ごろより島嶼ではなく、ロシア領
と陸続きとなっていること
の3点が判明した。
アヘン戦争・太平天国の乱・アロー号事件などで、強大な軍事力を背景とした欧米列強は南京条約など次から次へと不平等条約を清国に対して強引に押しつけることによって、中国内で自国権益を拡大させていった。その結果、中国一辺倒の原理で動いてきた東アジア諸国は大きな衝撃を受け、それとは別な国際秩序の洗礼を受けることとなった。中国各地で頻発した「太平天国の乱」などの民衆反乱を目の当たりにした朝鮮燕行使たちは、伝統的な華夷秩序原理に対する懐疑心を持ち始めた。「中華帝国の落日」は決定的となった間隙を突いて、1689年のネルチンスク条約以降、キャフタ条約(1727年)、璦琿条約(1858年)などを締結することで、次々と清帝国を蚕食していったロシアは、北京条約(1860年)を期についに豆満江以西の地の獲得にも成功した。もはや華夷秩序原理による伝統的ルールは通用しなくなったとも言えよう。
ましてや中国と周辺国との間に構築された「華夷秩序」はズタズタになって行くことは避けがたく、清帝国の威信低下は顕著であった。1880年代,咸鏡道の凶作を理由として、間島一帯への朝鮮人農民の移住が増加した。清国はこの刷還を図ったが,両国国境を確定した白頭山(長白山)定界碑(1712年)の条文「東為鴨緑,西為土門」とある事を根拠に、朝鮮国は図們江以北も朝鮮領であると主張した。華夷秩序原理が確立していく清国興隆期であれば、想像もできない宗主国への朝貢国よりの反発であった。両国国境調査は乙酉勘界(1885年)と丁亥勘界(1887年)に実施されたが、その未決着なままで推移した交渉過程を反映してか、鹿屯島がロシア領となったという風説がソウル市内に流布したに違いない。その意味では、元々、オランケなどの異民族が居住する地域であった豆満江以西の地は曖昧な国境線で画されていたが、ロシアの極東進出と共に、自国内でのみガラパゴス化した小中華イデオロギーに固執したままで、朝鮮国は急激な東アジア国際政治環境の変化に振り回されつづけた。
おわりにかえて
不思議なことにあまり知られていないのだが、仮に「Sila」と記載された極東の島が朝鮮であるとすれば、朝鮮が世界地図に記載された初見は、12世紀に製作されたシチリアのアル・イドリーシー地図であることになる。冗談だと理解されかねないが、現在の韓国も「島国」状態だと言っても良いだろう。なぜならば、一般の外国人が韓国へ渡航する場合、船と航空便でしかないからである。仮に12世紀と同様な「島国」であったとすれば、それを取り巻く海だけを表現する地図だけで、四周のボーダーは提示できよう。むろん、事実は半島である。中国と陸続きのボーダーを有する運命にある以上、文化装置としての華夷秩序原理の中で、朝鮮は
1,中国との冊封関係を象徴する燕行使が越境する鴨緑江のボーダーでは、
中華イデオロギー
2,華夷秩序原理の外に位置する日本国とのボーダーでは、小中華イデオ
ロギー
3,中朝両国の無人地帯、白頭山(長白山)・間島地域とのボーダーでは、
聖域意識
4,女真族に代表されるオランケなどが居住する豆満江以西のボーダーで
は、無知蒙昧な野蛮人に対する蔑視意識
の4カテゴリーのボーダーで周りが囲まれていたと見て良いはずである。その上で、東アジアの徳治政治社会におけるコンセンサスでは、
5,三角測量術など近代的な地図作成技術や器具などによる明確なライン
ではなく、たとえ不明確なラインが描かれていようとも、支配者の徳
治が及ぶ領域は暗黙の内に判明する限り、そのボーダーに対する政治
的な関心は低かった
とも考えても、あながち無理な推測ではあるまい。
それを裏付けるかのように、官製であれ、私製の地図であれ、豆満江の河口に位置する鹿屯島が描図されていてもいなくとも、またどの位置に記載されていようとも、その地図制作者に対する処罰がなされた事実がないことは、我々の推測が的外れでない事を傍証するはずである。
朝鮮王にとって重要なのは、華夷秩序原理の中で、どこまで小中華イデオロギーが浸透するかで有り、加えてソウルの王宮を発信点とする王権が中心から周辺へと波及するかであるならば、ボーダーの明白さは大きな政治的イシューではなかった。逆説的に言えば、朝鮮半島南部に対置するのは軍人(武士)国家・日本であり、また華夷秩序原理の外にある異国であるがゆえに、軍事防衛システムを共有しない「何をしでかすか分からない」恐怖の対象が越境するボーダーであった。その逆に鴨緑江を隔てた中国は華夷秩序原理の本拠地で有り、畏敬と憧憬のボーダーであった。白頭山・間島一帯は中朝共有の聖なる対象であるがゆえに、ボーダーそのものが不要であった。その一方で、オランケが盤踞する豆満江以西の地に対しては、朝鮮は唯一、軍事的にも経済的にも文化的にも超越するがゆえに、心理的に安心なボーダーであった。加えて、対中国貿易・対日本貿易にも制限があったのに比して、対オランケ交易だけは自由で、しかもオランケたちが正々堂々と豆満江を渡河して朝鮮領で交易に従事するシステムを採用している以上、そのボーダーは曖昧であることこそ不可欠であった。
最後に、この言葉で本論を終えたい、「ボーダーに常識は通じない」。
0 件のコメント:
コメントを投稿