2024年2月3日土曜日

石川県河北郡津幡町加茂・船橋の加茂遺跡から出土した木簡


石川県河北郡津幡町加茂・船橋の加茂遺跡から出土した木簡を紹介したい。


いずれの時代、いずこにおいても勤勉実直さが美徳であり、推奨された。


○一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状\

○一禁制田夫任意喫魚酒状\

○一禁断不労作溝堰百姓状\

一以五月卅日前可申田殖竟状\

○一可捜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状\

○一可禁制无桑原養蚕百姓状\

○一可禁制里邑之内故喫酔酒及戯逸百姓状\

○一可填〔慎ヵ〕勤農業状○□村里長人申百姓名\




URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK023121000201
木簡番号0
本文{←符深見村□郷駅長并諸刀弥〔祢〕等\応奉行壱拾条之事\○\○一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状\○一禁制田夫任意喫魚酒状\○一禁断不労作溝堰百姓状\○一以五月卅日前可申田殖竟状\○一可捜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状\○一可禁制无桑原養蚕百姓状\○一可禁制里邑之内故喫酔酒及戯逸百姓状\○一可填〔慎ヵ〕勤農業状○□村里長人申百姓名\←案内被国去□〔正ヵ〕月廿八日符併〔偁ヵ〕勧催農業\○□〔有ヵ〕法条而百姓等恣事逸遊不耕作喫\←魚殴乱為宗播殖過時還称不熟只非\←弊耳復致飢饉之苦此郡司等不治\←之□〔期ヵ〕而豈可◇然哉郡宜承知並口示\←事早令勤作若不遵符旨称倦懈\←由加勘決者謹依符旨仰下田領等宜○◇\←毎村屢廻愉〔論ヵ〕有懈怠者移身進郡符\←国道之裔縻羈進之牓示路頭厳加禁\←領刀弥〔祢〕有怨憎隠容以其人為罪背不\←有〔宥ヵ〕符到奉行\○大領錦村主○主政八戸史\○擬大領錦部連真手麿○擬主帳甲臣\○少領道公○夏〈〉○副擬主帳宇治\○□〔擬ヵ〕少領勘了\○嘉祥□〔二ヵ〕年□〔二ヵ〕月□□〔十二ヵ〕日\○□〔二ヵ〕月十五日請田領丈部浪麿}
寸法(mm)(233)
617
厚さ17
型式番号081
出典◎木研23-121頁-2(1)
文字説明「填」は異体字「塡」。
形状(文字方向に対し)上欠、下欠、上端左右と下端左、左側面下半部に切り込みあり。表面尖った金属を使用し28本の縦界線を引く。{}内横材。
樹種
木取り板目
遺跡名加茂遺跡
所在地石川県河北郡津幡町加茂・船橋
調査主体(財)石川県埋蔵文化財センター
発掘次数6
遺構番号大溝
地区名
内容分類文書
国郡郷里加賀国加賀郡越前国加賀郡深見村〉・加賀国加賀郡深見駅〈越前国加賀郡深見駅
人名錦村主・八戸史・錦部連真手麿・甲臣・道公夏〈〉・宇治・丈部浪麿
和暦5月30日・(嘉祥2年1月28日)・(嘉祥2年2月12日)・(嘉祥2年2月15日)
西暦(849)(年), 5;(1);(2);(2)(月), 30;28;(12);15(日)
木簡説明 

■研究文献情報

2024年2月2日金曜日

五十戸制と「五十戸」の読み

 日本全国から木簡出土例が集積するにつれて、「五十戸」制に関する情報がかなり蓄積されてきた。奈文研の「木簡庫」を活用すれば、次の通りである。

本稿の狙いは、次の2点を確認することにある。

!、「地名+五十戸」という表記法

2,国⇒評⇒五十戸という地方行政組織

にあるが、もう一つ、「五十戸」の読み方である。従来は、「サト(里)」としてきたが、それは奇妙である。里制が導入される前に、「サト(里)」との名称が成立していたと考え難い。

次は『播磨国風土記』揖保郡条である、

  「少宅里(本名漢部里)、土下中、所以号漢部者、漢人居之此村、故以為名、所以後改  

   曰少宅者、川原若狭父娶少宅秦公之女、即号其家少宅、後、若狭之孫智麻呂任為里

   長、由此庚寅年、為少宅里」

をわざわざ引用するまでもないが、庚寅年籍作成時点で「五十戸⇒里」へと改名されたと推定してよい。

さて、私案は、

*「五十戸」は「「五十」を「イソ」と読み、「戸」は「へ」

である。つまり「イソ+ヘ」である。


 ①「髙志□新川評石背五十戸」は『和名抄』越中国新川郡石勢郷 (https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHA20000137)

五十戸制下の荷札木簡としては大型。「桑原五十戸」は『和名抄』大和国葛上・下総国葛飾・近江国髙島・信濃国諏訪・播磨国揖保・備後国世羅・安芸国佐伯・紀伊国伊都・伊予国温泉・土左国吾川・筑後国上妻・肥後国託麻・同葦北・大隅国肝属郡に桑原郷がみえる。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHC17000138)

「依地評都麻五十一戸」は『和名抄』隠岐国隠地郡都麻郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHG22000133)

「次評新野五十戸」は『和名抄』隠岐国周吉郡新野郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHH23000132)

「若佐小丹評木津了五十戸」は『和名抄』若狭国大飯郡木津郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHL29000018)

「葦見田五十戸」であれば『和名抄』伊勢国三重郡葦田郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHL30000024)

丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/○物部○古麻里∥」は、『日本書紀』景行四年二月甲子条に美濃国行幸時の行宮としてみえる泳宮に関係する地名であろう。泳宮は『万葉集』三二四二番歌では「八十一隣之宮」とみえる。「丁丑年」は天武六年(六七七)。「次米」は諸説あるが、「次」と「米」の合成字である「粢(しとぎ)」に餅の意があること、十二月に糯(餅)米を貢進する例がある(「平城宮木簡二』二七〇四号)ことから、正月儀式用の糯米の可能性が高い(吉川真司「税の貢進」「文字と古代日本三」吉川弘文館、二〇〇五年)。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNH34000101)

⑧「丁丑年十二月三野国刀支評次米・恵奈五十戸造○阿利麻\舂人服部枚布五斗俵」「三野国刀支評恵奈五十戸」は「和名抄』美濃国恵奈郡絵上・絵下郷に該当する。恵奈郡の中心をなすサトが「刀支評」(後の土岐郡)に管せられていることから、恵那評は存在しなかったとみられ、その初見が天平勝宝二年(七五O)まで降る(美濃国司解〈『大日本古文書三』三九〇頁〉)こととも関係しよう。「次米」の貢進責任者は「恵奈五十戸造阿利麻」であるが、舂米作業に従事した「服了枚布」の名前も記す。この「五十戸造」は氏姓が明瞭でないが、その職掌・地位にあることがその者の素性を証明することにつながるため、あえて記さなかった可能性がある。

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ33000101)

「弥奈了下五十戸」は『和名抄』紀伊国日高郡南部郷に該当しよう。ただし「弥奈了」が御名部、すなわち名代・子代の部とすれば、他所の可能性もある。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ36000103)

「加毛五十戸」は『和名抄」山城国愛宕・同相楽・参河国賀茂・同宝飫・同設楽・伊豆国賀茂・安房国長狭・越前国丹生・佐渡国賀茂・丹波国氷上・出雲国能義・隠岐国周古・美作国勝田・同苫東・同久米・備前国津高・同児嶋・安芸国賀茂・同山県・紀伊国伊都・淡路国津名・阿波国名東・伊予国新居郡に賀茂郷、伯耆国会見郡に鴨部郷、上総国武射郡に加毛郷がみえる。このうち「加毛」郷の表記は、阿波国名方郡(『長岡京木簡一』三四六号)、伊豆国賀茂郡(『藤原木簡概報十七』一二四号)にみえる。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ36000125)

「尾治□評嶋田五十戸」は『和名抄』尾張国海部郡嶋田郷に該当しよう。三文字目は旁の右上部がみえるにすぎないが、「海」の残画とみて矛盾ない。五文字目「嶋」は「嶌」字。裏面一文字目は「神」の可能性がある。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ36000192)

次評/上部五十戸巷宜部/刀由弥軍布廿斤∥」の(次評上了五十戸」は平城宮・京跡出土の荷札木簡に隠伎国周吉郡上部郷がみえる(『平城木簡概報六』四頁上段、『同十六』七頁上段、『同二十二』三六頁下段、『同二十三」一九頁下段、『同二十九』三五頁下段)。「巷宜了」は宗我部(蘇我部)であろう。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNL34000101)

⑬「←野評佐野五十戸・○五斗」はは『和名抄』丹後国熊野郡佐濃郷に該当しよう。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNL34000102))

⑭「□〔芹ヵ〕□」粟田部三山」は和名抄』越前国今立郡芹川郷に該当する可能性がある。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNL35000102)
「湯評大井五十戸」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえない。濃満郡に大井郷がみえるが、温泉郡との間には風早郡が存在するため、飛び地を想定しないかぎり、成立しがたい。これに対して、井門郷の東隣にあたる旧浮穴郡高井・南高井村に遺称地を求める見解がある(日野尚志「考徳天皇の時代に久米評は存在していたか」『松山市考古館開館五周年記念シンポジウム(古代の役所)一九九四年)。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAWN24000109)
。「湯評笶原(のはら)五十戸」は西隆寺跡出土の荷札木簡に伊与国温泉郡箆原(のはら)郷がみえるhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAWN24000110)
⑰「←五十戸8/阿止伯部大尓/鵜人部犬〓∥」(「阿止伯了」は未見の部姓。「鵜人了」は鵜養部のことか。)
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAWN24000115)
⑱「知夫利評由羅五十戸\加毛□□加伊□〔鮓ヵ〕〈〉〈〉」は、『和名抄』の隠岐国知夫郡由良郷にあたる(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AJLCM19000101)
⑲「井手五十戸刑部赤井白米」伊勢国飯野郡井手郷井手五十戸(出羽国飽海郡井手郷井手五十戸〉)(越前国足羽郡井手郷井手五十戸〉)(加賀国石川郡井手郷〈加賀国加賀郡井手郷/越前国加賀郡井手郷/井手五十戸)(上野国群馬郡井出郷井手五十戸〉)(伊与国周敷郡井出郷/伊予国周敷郡井出郷井手五十戸〉)(相模国高座郡渭提郷井手五十戸〉)(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK025047000040)
⑳「遠水海国長田評五十戸・匹□〔沼ヵ〕五十戸□□〔野具ヵ〕ツ□五斗」は『和名抄』の遠江国長上郡蟾沼郷にあたる。遠江国を「遠水海国」と表記する例は他にないが、類例に「遠淡海国造」(『先代旧事本紀』)などがある。長田評は大宝元年(七〇一)に長田郡となり和銅二年(七〇九)に上下に分割された(『続日本紀』)。裏面「五斗」の上の文字は「俵」の可能性がある。(木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)
㉑「以三月十三日三桑五十戸・御垣守涜尻中ツ刀自」は美濃国不破郡三桑郷美濃国不破郡三桑五十戸〉)・もしくは(美濃国大野郡三桑郷美濃国大野郡三桑五十戸〉(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDQR75000009)
㉒「三川国鴨評山田五十戸国」は参河国賀茂郡山田郷三川国鴨評山田五十戸〉(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDQF76000251)
㉓「乙亥□〔歳ヵ〕十月立記知利布五十戸・□止□下又長部加□小□米□□」は参河国碧海郡智立郷知利布五十戸〉((乙亥歳)天武4年10月)(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDQG73000703)


2024年1月30日火曜日

漢人部


戊寅年十二月尾張海評津嶋五十戸・韓人部田根春〔舂〕赤米斗加支各田部金」

この木簡は飛鳥京第147次調査時に、飛鳥京跡苑池遺構から出土した。

尾張海評津嶋は『倭名類聚抄』尾張国海部部に見当たらない。しかし津嶋神社496-0851愛知県津島市神明町1)付近と推定してよいだろう。

主意は、天武7年(678)12月に尾張国海評津嶋五十戸の漢人部田根が搗いた赤米を額田部金がコメの検量(「斗加支」)したとある。


さて、

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK025048000052
木簡番号0
本文・戊寅年十二月尾張海評津嶋五十戸・韓人部田根春〔舂〕赤米斗加支各田部金
寸法(mm)234
35
厚さ6
型式番号011
出典荷札集成-22(木研25-48頁-(52)・飛鳥京跡2001年度発掘調査概報)
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。上端左右両角丸く削る、下端緩やかな圭頭形で先端部表裏とも面取りする。
樹種
木取り柾目
遺跡名飛鳥京跡苑池遺構
所在地奈良県高市郡明日香村岡小字林・西フケ
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数第4次(飛鳥京跡第147次)
遺構番号水路SD0013(Ⅳ-2トレンチ)
地区名MK025048
内容分類荷札
国郡郷里尾張国海部郡尾張海評津嶋五十戸
人名韓人部田根・各田部金
和暦(戊寅年)天武7年12月
西暦678(年), 12(月)
木簡説明 

■研究文献情報

2024年1月14日日曜日

古代日本のハイウエー(2024年3月1日増補)

 ①東山道ルート

1996年に犬上郡甲良町尼子西遺跡(内田1998)において足利健亮推定ルート上で路面幅12メートルが出土。

①ー1国分寺市泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は、上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)。発掘調査の結果、幅12mの道路跡が出土、

①ー2栃木県大田原市湯津上の「小松原遺跡」で確認された東山道の両側にある側溝と溝との間隔が9~12メートル。


①ー3群馬県太田市にある新田郡家遺跡では、郡家の南500メートルにある「牛堀・矢の原ルートの幅員は13メートル。この古代道路は伊勢崎市矢の原遺跡から太田市久保畑遺跡まで10キロメートル以上一直線に伸びているという。

(小宮俊久「上野国新田郡家の景観」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、235頁)


②ー1九州では、博多湾に面した丘に建つ鴻臚館と大宰府を結ぶ官道(水城西門ルート)は、1978年に発掘調査された春日公園内遺跡から幅9メートルであると判明。

③ー12021年に発掘された鳥取市青谷遺跡で発見された古代山陰道の道幅は9メートル。

④-1古代東海道の場合、2021年に滋賀県栗東市高野遺跡で発掘された古代の官道「東海道」の跡の道幅は約16メートル

④-2:平成6年、静岡市駿河区曲金北遺跡で発見された古代東海道の遺構は、道幅約9m(両側側溝の幅2から3メートルを含めると道路幅は12mから13メートル)。

(鈴木敏則「静岡県伊場遺跡群と遠江の古代交通」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、313~314頁)

④ー3「市原条里制遺跡の古代道や、五所四反田遺跡の古代道路跡は、駅路から分岐した伝路と推定され、台地上の古代道と同じ規格で、約6メートルの道幅で側溝が両側にあります。

 これらの伝路は、海岸線に近い海岸砂丘上の古代東海道駅路から分岐して、上総国府(推定地)へ向かうもので、国府からさらに南下する道路が、山田橋地区の古代道路跡と推定されます。」(近藤敏氏報告、049海岸から台地へ海岸平野を通り抜ける古代の道/市原歴史博物館 (imuseum.jp)近藤敏2004年「五所四反田遺跡について」『市原市八幡地区の遺跡と文化財』市原市歴史と文化財シリーズ第九輯平成16年度歴史散歩資料 市原市地方史研究連絡協議会

国土交通省HP 相模国の駅路 (mlit.go.jp)


⑤ー1山陽道ルート 広島県府中市鳥居地区で山陽道の道幅は約12メートル

(木本雅康「西日本の交通・官衙と景観ー国府の朱雀大路と十字街」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017年、400頁)









国土交通省HPから転載(道路:道の歴史:古代の道 - 国土交通省 (mlit.go.jp)  2024年1月20日アクセス)


内田保之『尼子西遺跡2』(ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書2)滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会、 1998年 


恵方巻の由来

 恵方巻


米国ボストン市にボストン美術館に浮世絵版木520余枚が所蔵されていることは、昭和60年のTBSテレビの報道によって、広く知られることとなった。

私もボストン美術館通いをした身の一人として、その版木群を止目したこともある。

その一枚、19世紀のごく初めに葛飾北斎が作った『絵本墨田川 両岸一覧』中の「高輪の暁鳥」に興味深い絵柄がみられる。「旭 本船乗初 房総春暁」とある絵柄には一艘の船に9人の乗客と2人の船頭が描かれている。左から3人目の人物の半纏に注目すると、その背中にマル印「恵」と染めてある。これが「恵方」を表象する印である。

 つまり江戸時代後半、江戸在住の庶民層は正月に恵方を求めて、どこからの神社に参拝に出かける風俗を認めてよい。


ただし、恵方「巻」を説明する確かな資料は未見。管見によれば、2000年代に入り、太巻き販売にかかわる業者が販売拡大促進を狙って、「恵方」を引っ付けたといううわさ話を耳にしたことがある。その理由は、北斎の浮世絵にあるように、正月の行事として「恵方」にある神社への、今で言えでば「初詣」の行事にあったが、それがなぜか節分行事の一つに変化している。こりゃ、不思議。

 いずれにせよ、無病息災が一番、おいしく恵方巻を皆で賞味しましょう。

2024年1月8日月曜日

大津京と渡来人

 大津京と渡来人

大津京が存在していた大津の北郊大友郷・錦織郷には、

  大友村主・大伴日佐・大伴漢人・穴太村主・穴太史・穴太野中史、錦織村主・錦織日佐・大友但波史・大友桑原史・滋賀史・登美史・槻本村主・三津首・上村主などで、9世紀以前の文献史料に見える、 滋賀郡の古代人名の約四〇パーセントを占めている。後の滋賀郡大友村主一族、大友郷南部の穴太を本拠とする穴太村主一族、錦部郷を本拠とする錦部村主一族、古市郷を本拠とする大友但波史一族がなかでも有力であった。」(大橋信弥、「近江における文字文化の受容と渡来人」『国立歴史民俗博物館研究報告 』第 194 集、2015 年 3月、42頁)

とある。


などの渡来人の本拠地であった。



名前のあれこれ--「田」の付く苗字 寺田・神田・志田・井田・香田・高田などの由来

 大宝律令といえば、大宝元年(701)に文武天皇によって制定された律令。その律令による施行以後、班田は慶雲元年(704)、和銅3年・霊亀3年・養老7年に実施され、貴族の位田や官人の功田・賜田、そして寺刹の寺田、神社に対する神田などが班給された。

 とすれば、今にもその名が苗字として残っているのは興味深い。

①寺田ーージデン⇒テラダ⇒寺田

②神田ーージンデン⇒カミダ⇒カンダ(神田)

③賜田⇒シデン⇒賜田⇒シダ⇒志田(シダ)

④位田⇒イデン⇒井田(イダ)

⑤功田⇒コウデン⇒コウダ⇒幸田・香田・高田⇒幸田(コウダ)・香田(コウダ)・高田(タカタ)