2024年2月2日金曜日

五十戸制と「五十戸」の読み

 日本全国から木簡出土例が集積するにつれて、「五十戸」制に関する情報がかなり蓄積されてきた。奈文研の「木簡庫」を活用すれば、次の通りである。

本稿の狙いは、次の2点を確認することにある。

!、「地名+五十戸」という表記法

2,国⇒評⇒五十戸という地方行政組織

にあるが、もう一つ、「五十戸」の読み方である。従来は、「サト(里)」としてきたが、それは奇妙である。里制が導入される前に、「サト(里)」との名称が成立していたと考え難い。

次は『播磨国風土記』揖保郡条である、

  「少宅里(本名漢部里)、土下中、所以号漢部者、漢人居之此村、故以為名、所以後改  

   曰少宅者、川原若狭父娶少宅秦公之女、即号其家少宅、後、若狭之孫智麻呂任為里

   長、由此庚寅年、為少宅里」

をわざわざ引用するまでもないが、庚寅年籍作成時点で「五十戸⇒里」へと改名されたと推定してよい。

さて、私案は、

*「五十戸」は「「五十」を「イソ」と読み、「戸」は「へ」

である。つまり「イソ+ヘ」である。


 ①「髙志□新川評石背五十戸」は『和名抄』越中国新川郡石勢郷 (https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHA20000137)

五十戸制下の荷札木簡としては大型。「桑原五十戸」は『和名抄』大和国葛上・下総国葛飾・近江国髙島・信濃国諏訪・播磨国揖保・備後国世羅・安芸国佐伯・紀伊国伊都・伊予国温泉・土左国吾川・筑後国上妻・肥後国託麻・同葦北・大隅国肝属郡に桑原郷がみえる。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHC17000138)

「依地評都麻五十一戸」は『和名抄』隠岐国隠地郡都麻郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHG22000133)

「次評新野五十戸」は『和名抄』隠岐国周吉郡新野郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHH23000132)

「若佐小丹評木津了五十戸」は『和名抄』若狭国大飯郡木津郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHL29000018)

「葦見田五十戸」であれば『和名抄』伊勢国三重郡葦田郷(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAHL30000024)

丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/○物部○古麻里∥」は、『日本書紀』景行四年二月甲子条に美濃国行幸時の行宮としてみえる泳宮に関係する地名であろう。泳宮は『万葉集』三二四二番歌では「八十一隣之宮」とみえる。「丁丑年」は天武六年(六七七)。「次米」は諸説あるが、「次」と「米」の合成字である「粢(しとぎ)」に餅の意があること、十二月に糯(餅)米を貢進する例がある(「平城宮木簡二』二七〇四号)ことから、正月儀式用の糯米の可能性が高い(吉川真司「税の貢進」「文字と古代日本三」吉川弘文館、二〇〇五年)。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNH34000101)

⑧「丁丑年十二月三野国刀支評次米・恵奈五十戸造○阿利麻\舂人服部枚布五斗俵」「三野国刀支評恵奈五十戸」は「和名抄』美濃国恵奈郡絵上・絵下郷に該当する。恵奈郡の中心をなすサトが「刀支評」(後の土岐郡)に管せられていることから、恵那評は存在しなかったとみられ、その初見が天平勝宝二年(七五O)まで降る(美濃国司解〈『大日本古文書三』三九〇頁〉)こととも関係しよう。「次米」の貢進責任者は「恵奈五十戸造阿利麻」であるが、舂米作業に従事した「服了枚布」の名前も記す。この「五十戸造」は氏姓が明瞭でないが、その職掌・地位にあることがその者の素性を証明することにつながるため、あえて記さなかった可能性がある。

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ33000101)

「弥奈了下五十戸」は『和名抄』紀伊国日高郡南部郷に該当しよう。ただし「弥奈了」が御名部、すなわち名代・子代の部とすれば、他所の可能性もある。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ36000103)

「加毛五十戸」は『和名抄」山城国愛宕・同相楽・参河国賀茂・同宝飫・同設楽・伊豆国賀茂・安房国長狭・越前国丹生・佐渡国賀茂・丹波国氷上・出雲国能義・隠岐国周古・美作国勝田・同苫東・同久米・備前国津高・同児嶋・安芸国賀茂・同山県・紀伊国伊都・淡路国津名・阿波国名東・伊予国新居郡に賀茂郷、伯耆国会見郡に鴨部郷、上総国武射郡に加毛郷がみえる。このうち「加毛」郷の表記は、阿波国名方郡(『長岡京木簡一』三四六号)、伊豆国賀茂郡(『藤原木簡概報十七』一二四号)にみえる。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ36000125)

「尾治□評嶋田五十戸」は『和名抄』尾張国海部郡嶋田郷に該当しよう。三文字目は旁の右上部がみえるにすぎないが、「海」の残画とみて矛盾ない。五文字目「嶋」は「嶌」字。裏面一文字目は「神」の可能性がある。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNJ36000192)

次評/上部五十戸巷宜部/刀由弥軍布廿斤∥」の(次評上了五十戸」は平城宮・京跡出土の荷札木簡に隠伎国周吉郡上部郷がみえる(『平城木簡概報六』四頁上段、『同十六』七頁上段、『同二十二』三六頁下段、『同二十三」一九頁下段、『同二十九』三五頁下段)。「巷宜了」は宗我部(蘇我部)であろう。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNL34000101)

⑬「←野評佐野五十戸・○五斗」はは『和名抄』丹後国熊野郡佐濃郷に該当しよう。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNL34000102))

⑭「□〔芹ヵ〕□」粟田部三山」は和名抄』越前国今立郡芹川郷に該当する可能性がある。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5BASNL35000102)
「湯評大井五十戸」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえない。濃満郡に大井郷がみえるが、温泉郡との間には風早郡が存在するため、飛び地を想定しないかぎり、成立しがたい。これに対して、井門郷の東隣にあたる旧浮穴郡高井・南高井村に遺称地を求める見解がある(日野尚志「考徳天皇の時代に久米評は存在していたか」『松山市考古館開館五周年記念シンポジウム(古代の役所)一九九四年)。(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAWN24000109)
。「湯評笶原(のはら)五十戸」は西隆寺跡出土の荷札木簡に伊与国温泉郡箆原(のはら)郷がみえるhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAWN24000110)
⑰「←五十戸8/阿止伯部大尓/鵜人部犬〓∥」(「阿止伯了」は未見の部姓。「鵜人了」は鵜養部のことか。)
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AKAWN24000115)
⑱「知夫利評由羅五十戸\加毛□□加伊□〔鮓ヵ〕〈〉〈〉」は、『和名抄』の隠岐国知夫郡由良郷にあたる(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AJLCM19000101)
⑲「井手五十戸刑部赤井白米」伊勢国飯野郡井手郷井手五十戸(出羽国飽海郡井手郷井手五十戸〉)(越前国足羽郡井手郷井手五十戸〉)(加賀国石川郡井手郷〈加賀国加賀郡井手郷/越前国加賀郡井手郷/井手五十戸)(上野国群馬郡井出郷井手五十戸〉)(伊与国周敷郡井出郷/伊予国周敷郡井出郷井手五十戸〉)(相模国高座郡渭提郷井手五十戸〉)(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK025047000040)
⑳「遠水海国長田評五十戸・匹□〔沼ヵ〕五十戸□□〔野具ヵ〕ツ□五斗」は『和名抄』の遠江国長上郡蟾沼郷にあたる。遠江国を「遠水海国」と表記する例は他にないが、類例に「遠淡海国造」(『先代旧事本紀』)などがある。長田評は大宝元年(七〇一)に長田郡となり和銅二年(七〇九)に上下に分割された(『続日本紀』)。裏面「五斗」の上の文字は「俵」の可能性がある。(木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)
㉑「以三月十三日三桑五十戸・御垣守涜尻中ツ刀自」は美濃国不破郡三桑郷美濃国不破郡三桑五十戸〉)・もしくは(美濃国大野郡三桑郷美濃国大野郡三桑五十戸〉(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDQR75000009)
㉒「三川国鴨評山田五十戸国」は参河国賀茂郡山田郷三川国鴨評山田五十戸〉(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDQF76000251)
㉓「乙亥□〔歳ヵ〕十月立記知利布五十戸・□止□下又長部加□小□米□□」は参河国碧海郡智立郷知利布五十戸〉((乙亥歳)天武4年10月)(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDQG73000703)


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