30数年、福岡市に居住してきたが、つい最近、福岡市東区に「大蔵」という地名があると知った。西鉄バスの23番が「大蔵行き」だったからである。ところが、その「大蔵」の地名が「オオクラ」ではなく、「オオゾウ」であると知り、また又、驚き。「オオクラ」であれば、「大きな蔵」が存在したと推測できるが、「オオゾウ」と読む限り、その説は放棄すべきだろう。
そこで思い出すのは、『令義解』巻40の「喪葬令」である。
「凡三位以上、及別祖氏宗、並得営墓、以外不合、雖得営墓、若欲大蔵者聴」
この記事によって、「オオゾウ」が墓に関連する用語であると知るに違いない。つまり、中世以前、大蔵地区は「墓域」であったと想像できる。
2018年4月21日土曜日
『朝鮮通交大紀』を通して見る対馬藩
田中健夫先生に教えて頂いたことであるが、『朝鮮通交大紀』の宗家文庫本と内閣文庫本とは大きく異なるという。それを聞いた後、改めて両本を対校して初めて、序文がまったく別であるだけでなく、本文も両者の差は顕著であると知った。幕府に提出した内閣文庫本には宗家文庫本を換骨奪胎するばかりでなく、日朝外交関係の真実を語ることもない。つまり自らに不利な情報を幕府に伝えまいと必死になる対馬藩の苦労の跡を見る。
2018年4月15日日曜日
明治初めの釜山の人口は?
明治維新を迎え、対馬藩の外交権が奪われた結果、釜山にあった和館は全員立ち退きを余儀なくされた。明治9年に至り、釜山開港が決まるや、日本人は
明治9年 男 52人 女2人 計54人
であったという。翌明治10年では、計345人であったが、併合直前の明治42年の日本人は、計14万6147人に至った。
併合後には、渡韓する日本人は急激に増加して、明治43年には17万1543人、戸数5万992戸に達した。その後、大正4年には30万人を超え、大正12年に40万人を超えた
楽浪郡の人口は?
大原利武によると、楽浪郡の人口は40万6748人、戸数6万2812であった。玄◆(草かんむり+兎)郡の人口は22万余数、戸数は4万5千余りであった。
古代の人口数は推定値で200万人ほどであったか。一方、朝鮮時代正祖13年に至り、初めて全国的な人口調査が実施された。
175万2837戸、 男 360万7376人、女 379万7230人
ところで、明治33年に至ると、人口調査は
139万7630戸、人口 550万8151人
と判明した。日本による併合直前の朝鮮半島には、
明治42年 274万2263戸、人口 1293万4282人
であった。
大正14年4月21日の来福丸事件を忘れるな!!
大正13年の日米関係を思い浮かべると、その当時の米国のアジア人排撃論(黄禍論)は最高潮にあった。端的に言えば、日本人移民入国禁止令の実施である。トランプ大統領のイスラム教徒排撃論の約100年前であった。
大正14年4月21日のカナダで発生した来福丸沈没事件も思い出してもよいだろう。難破のモールス信号を知り、救援に向かった英国船ホメリックは38名の日本人乗組員を救助することもなく、立ち去った。その現場がいかなる自然条件下にあったかは不明であり、救助不可能であったとしても、それはやむをえない。問題は、英国船ホメリック号の船長が乗客に説明した言葉である、「白人は誰一人として、来福丸に存在しない」、と。
朝鮮書物同好会
書物同好会について
(1)はじめに
かって京城(今のソウル)には、綺羅星のごとき愛書家で、蔵書家の一群がいた。前間恭作・鮎貝房之進・藤田亮策・末松保和・ 藤塚鄰・田川孝三・中村栄孝・今西竜・稲葉
君山・三木栄・奥平武彦らの日本人に加えて、李仁栄・宋錫夏・崔南善らの韓国人である。かれら蔵書家たちは「書物同好会」を発足させた。昭和12年5月5日、その創立第1回会合が開催された。ただし理由は明確ではないが、崔南善だけは加入しなかった。
創立会合に参加したメンバーは、飯島磁次郎・岡田貢・菊池謙譲・岸謙・黒田幹一・桜井義之・末松保和・岡野真吉・中吉功・山田富士松の11名であった。創立メンバーを見る限り、京城やその周辺に在住する京城帝国大学・朝鮮総督府・中枢院の研究者・京城帝国大学図書館司書、京城電気社員・新聞社経営・医師など多彩な職種の会員で組織されていたことが判明する。
この中の桜井義之(当時、京城帝国大学法文学部助手)が発足の呼びかけ人であったし、創設から会の活動が停止するまで会の実務を担当した。
昭和13年1月21日改正の会則は、5つの本則と1つの附則で構成されている。
会則
1、組織及事業
第1条 本会ハ「書物同好会」ト称シ書物同好ノ士ヲ以テ組織シ書物ヲ
中心トシテ東洋文化関係事象ヲ研究シ併セテ会員ノ親睦ヲ図ル
ヲ目的トス
第2条 本会ハ第1条ノ目的ヲ達スル為左ノ如キ事業ヲ行フ
1、毎月1回例会ヲ開催
2、研究会、座談会、展覧会等ノ開催
3、其他例会二於テ適切ト認メル諸事業
2、会員
第3条 本会会員ハ左ノ各項二該当スル者ヲ以テ会員トス
1、書物ヲ愛好スル者
2、本会ノ趣旨二賛同スル者
会員タラントスル者ハ会員ノ紹介ヲ要ス
第4条 会員ハ会費トシテ年額金2円ヲ納入スルモノトス
(以下、略)
|
」
この会則に照らし合わせて、書物同好会の主要活動である月例会は、この後、第1回から第63回(昭和18年11月26日)まで継続された。昭和12年から昭和18年の間といえば、すでに中国大陸では戦雲が立ち込めている時期であった。
各月例会の題目と発表者に関しては、別表に見るところであるが、その発表回数や活動報告に照らし合わせると、藤田亮策・末松保和・奥平武彦・桜井義之らの京城帝国大学・中枢院勢、三木栄・岸謙・今村鞆らの民間人が活躍するが、残念ながら李仁栄・宋錫夏らの韓国人が月例会で発表することは無かった。もっとも会の雑誌である『書物同好会報』には、李らは寄稿していることから推測して、書物同好会そのものに反対していたようには思われない。念のために付言すれば、李らが毎月開催された月例会に出席したかどうかは確認できない。少なくとも会報末尾に掲載された概報には、二人の名前を見出すことは出来ない。
(2)3人の先達――前間恭作・鮎貝房之進・今村鞆
月例会で発表された内容の多くは、雑誌『書物同好会報』(第1号から第20号)に転載されており、活発な活動内容の一端を知ることが出来る。月例会の性格からして、発表者の手配がどうしても優先される関係上、例会は統一したテーマで毎月連続してはいない。むしろ諸種雑多と言うべきであるが、月例会の発表を掲載した会報を見ることで、一応の方向性を確認しておこう。19冊発刊された会報の中で、唯一特集された号が、第2号「紙」であろう。
「紙反古」――藤田亮策
「造紙署の事ども」――田川孝三
「朝鮮紙について」――安田邦誉
「朝鮮紙文献一覧」――桜井義之
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そして特集号と言えば、次の4号は同好会の会員諸氏の思いがどこにあったかをよく知りうるものであろう。
第9号―――「今村鞆先生古希祝賀記念特輯」
第15号――「前間恭作先生追悼号」
第十七号――「鮎貝房之進先生喜寿祝賀号」
第19.20号――「奥平武彦教授追悼号」
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今村鞆・前間恭作・鮎貝房之進の3人は、1910年の日韓併合以前に韓国に渡ってきたものたちであり、かれらは警察官(今村)、総領事館通訳官(前間)、そして与謝野鉄幹とともに閔妃殺害事件に関与した一在野の民間人(鮎貝)であった。しかしながら彼らは大学等の教官ではなかったものの、
今村鞆―ー『朝鮮風俗集』『朝鮮漫談』『船の朝鮮』『朝鮮の姓名氏族に関する
研究調査』『人参史』『李朝実録風俗関係資料撮要』『各種文献風
俗関係資料撮要』『高麗以前風俗関係資料撮要』『扇・左縄・打毬
・★』など
前間恭作――『校訂交隣須知』『韓語通』『龍歌故語箋』『鶏林類事麗言攷』『朝鮮
の板本』『半島上代の人文』『古鮮冊譜』『訓読吏文』など
鮎貝房之進――『雑攷』(第1輯~第9輯、計12冊)
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といった著作リストを瞥見するだけでも、日本人の韓国研究の先達たちの健筆と偉大さが分かると言えるものである。今村にしても鮎貝にしても二人の膨大な蔵書がどのような内訳であったのか不明であるが、在山楼主人として知られる前間恭作の旧蔵書は、幸いにも白鳥庫吉の懇請によって東洋文庫に譲渡されていたために、前間の蒐書の全貌をほぼ知りうることが出来る。
昭和12年から昭和18年にかけて、前間恭作はすでに朝鮮半島を離れ、福岡に居住していたために、書物同好会会員が直接に指導を受けてはいないようであるが、手紙魔ともいえる前間の書簡を手にした会員は、異口同音に前間からの教えに感謝している。しかも書誌学データベースなどない時代にあって、前間の名著『古鮮冊譜』は会員による典籍調査の指針となっており、彼からの薫陶は計り知れないものがあったに違いない。それに反して、当時、今村や鮎貝は京城に在住していたために、会員諸氏は日々その声蓋に接していた。開化期の朝鮮に來住し(鮎貝は明治27年、今村は明治??年)、各会員よりも一早く朝鮮本の蒐書を開始した先輩であったので、其の蔵書の質は、前間にけっして劣るものではなかった。財産家であっただけに、鮎貝の蔵書のクオリティーの高さが光り輝くが、1945年の敗戦と共に、彼のコレクションが散逸してしまったのは惜しまれる。
一方、昭和17年当時、今村宅には約3000冊の朝鮮本が所蔵されていたと言う。
なお第4番目の特集号であった「奥平武彦」に関しては、後述する。
(3)活字に就いて
昭和の初め、京城の古書籍商といえば、翰南書林白斗鏞・書買朴駿和・書買朴鳳秀らが著名であった。その当時、書誌学辞典はいうまでもなく、専門の書誌学者さえいなかったわけであるから、同好会員諸氏が購入した典籍の鑑定に苦労したに違いない。
会報をみると、最も多い記事は活字に関してである。最古の金属活字を作り出した国の朝鮮で作成された典籍であるだけに、多様な活字を作り出して刊行されおり、異本、刊行地や刊行年次の決定などに、どうしても活字に対する正確な知識は必須であった。
第4号 「李朝初期の活字印刷につき」―――園田庸次郎
第5号 「甲辰活字について」---―末松保和
第6号 「朝鮮の宋元明板覆刻本」――奥平武彦
第10号 「古活字2題」――関野真吉
第11号 「鋳字所応行節目につきて」――藤田亮策
第11号 「板堂考(鋳字所応行節目)」
第11号 「鋳字雑記(1)」――駝駱山下人(藤田亮策)
第12号 「鋳字雑記(2)」――駝駱山下人(藤田亮策)
第17号 「乙亥字小攷」――李仁栄
第18号 「文禄役直前の朝鮮活字」――李仁栄
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この他にも書物同好会では、毎月の月例会で、
第3回例会 鮎貝房之進「支那及び朝鮮の古活字に就いて」
の発表があった。
藤田亮策が適切に指摘するように、書物同好会員たちのバイブルは、前間恭作の『朝鮮の板本』であった。
「活字の実例を挙げての説明は極めて有意義であるばかりでなく、同一活字の年次を隔てての増鋳・改鋳を注目して、同じ種類の活字に数種の刊版あることを注意されたことは寔に尤なことで、多数の本の比較研究によって初めて知りうることである。鋳字の種類並びにその刊行に就いては、前間氏の本で大体尽くされている」(藤田亮策、第111号、10頁)
謎1)
念のために付言すれば、李らが毎月開催された月例会に出席したかどうかは確認できない。少なくとも会報末尾に掲載された概報には、二人の名前を見出すことは出来ない。
謎2)朝鮮総督府図書館の萩原館長の参加もない。
長崎で出会った朝鮮人像
「(長崎)対馬邸の前にて朝鮮人を見るに、顔黒く惣髪にて山伏の姿に似たり。謙益ぬし烟草をのみ居たりしが、手を出して乞ふようにすれば、少しひねりてやいければ大いに喜び、我も我もときたりてもとむ。」(日柳燕石「旅の恥かきすての日記」巻之下、板坂耀子編『近世紀行文集成』第2巻、九州編、37頁、葦書房、2002年)
2018年4月13日金曜日
碩学 柳希春
碩学 柳希春の声望は高く、宣祖の命を受けて、宣祖7年10月に四書五経吐釈が下った。しかしながら全編の完成に至らず、宣祖9年5月に『新増類合』とともに宣祖に上達された『大学釈䟽』が唯一であった。
江戸時代『高麗史』の購入価格
加賀藩主松雲公前田綱紀は愛蔵の書物を多数有ったという。その大半は尊経閣文庫に引き継がれているが、残念ながら『桑華書志』にのみ伝わる本がある。
「高麗史百三十九巻 朝鮮鄭麟趾等奉教撰
右高麗史七十二冊、元禄辛未閏八月下旬感得之」
とあり、その下にメモ書きがある。
「能勢友進媒之、アタイ金壱百両」
とある。松雲公の購入ルートは、対馬藩ー倭館であり、私貿易品の一つであった。
儒胥必知の成立は?
私蔵の儒胥必知は、いつ刊行されたのであろうか。たまたま立ち寄った全州の骨董品店で、告目や族譜などとともに数点購入した中の一点であった。だれが、いつ、なぜ編纂したか不明だが、前間先生によると、哲宗朝頃の刊行であると言う。
拙蔵の本はくたびれが目立ち、相当の使用頻度があったと想定される。
拙蔵の本はくたびれが目立ち、相当の使用頻度があったと想定される。
2018年4月2日月曜日
「てんぷら」とは?
「てんぷら」とは?
漢字で天麩羅とあっても、その意味の理解は不可能である。京山の『蜘蛛の糸巻』には、この名付け親が京伝であったとある。ところが美食家であった京伝の『荏戸自慢名産杖』や『五人切西瓜斬売』などに、天麩羅は見当たらない。
『歌仙の組糸』(寛延元年)には、
「てんぷらは何魚にても饂飩の粉まぶして油にて揚る也」
安曇氏と朝鮮半島
安曇氏が注目を浴びている。世界遺産に認定された「沖の島」遺跡群に関与したのが安曇氏も含まれていたからである。
(1)
天智元年5月、大将軍大錦中安曇比羅夫連等、率船師百七十艘、送豊□(王章)等於百済国~~
とあるように、百済救援に向かったのが安曇比羅夫であった。
(2)
召翹岐、安置於安曇山背連家(皇極元年2月条)
とあり、当時に存在した「三韓館」などではなく、百済の王子を我が家にて居住したという。
いずれにせよ安曇氏が朝鮮半島と密接な関係を有していたと考えても不自然ではない。
松前藩のアイヌとの交易収入
松前藩のアイヌとの交易収入
1,直轄領アイヌ交易 1000から2000両
2,鷹代金 1000から2000両
などにあるように、アイヌ交易品(鮭・鱒漁、獣皮など)と海産物販売、砂金採取などの収入があった。(寛文9年)
問題は、これらのアイヌ交易品と海産物販売などを現金に換えてくれる商人が誰であったかという点である。気候上、その当時、米穀の生産は困難であったので、自給自足はムリであった。
江戸初期には、小浜・敦賀港の豪商(船持商人)が派遣した商船(年3回)によって、その商品流通の役を担当した。東北諸藩にはマーケットが未発達であったことと、生産力が乏しい段階にとどまっていたからである。
寛永年間以降、田付家、建部家、岡田家などの近江系商人が松前に進出した。彼らは「両浜組」と呼ばれるギルドを作って、利益を保護・独占した。かれら両浜組は単に物流だけでなく、商品の松前における集荷から関西での販売までのルートを確立した。
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