大分県史近世編
画面左側に唐人町とある。
さて『桜翁雑録』には、唐人と高麗人を書き分けている。高麗人 善右衛門とか、高麗人 小右衛門とか。
従って、中国人が先に定着し、文禄・慶長の役以降に朝鮮人が定住したとわかる。
大分県史近世編
画面左側に唐人町とある。
さて『桜翁雑録』には、唐人と高麗人を書き分けている。高麗人 善右衛門とか、高麗人 小右衛門とか。
従って、中国人が先に定着し、文禄・慶長の役以降に朝鮮人が定住したとわかる。
小林謙一 2002「韓半島出土の倭系甲冑」『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』
日本列島における重装騎兵装備の出現 は、早くても 5世紀後半だという。桂甲が日本列島の広範囲に普及している状況を 考慮すれば、新たに導入された騎兵装備には、重装騎兵が含まれていた
元慶5年(881)5月3日条には、
「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野」
の記事が見える。この日、物部斯波連永野は外従五位下を授けられた。そもそも物部斯波連は尚和7年(840)3月12日条に、
*物部斯波連宇賀奴
の名が認められる。しかも彼は「俘夷」とあるので、もともと蝦夷系住民であった。この宇賀奴との永野との間に血縁関係があったとする証拠はない。だが物部斯波連が蝦夷語に親しい一族であったとするば、2人の濃密な血縁関係を否定するには膨大なエネルギーを要するだろう。
『沙羅書房古書目録』第104号、304頁に、
「鶴岡より江戸道中絵画」(仮題)安永7年写し
が出品されている。原本は未見であるが、鶴岡から江戸中屋敷までの道中を記述するらしい。
グーグルの計算では、その道中は475キロ。
当時の鶴岡藩江戸藩邸は、
下屋敷(台東区浅草橋1丁目)→中屋敷(千代田区神田和泉町)→上屋敷(千代田区大手町1丁目)
であった。
なお、江戸藩邸の場所を知るに、
大名屋敷 – Google Earthで街並散歩(江戸編) (sannpo.iobb.net)
は便利なツールである。
参考資料
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」
「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)」
『続日本紀』宝亀11(780) 年5月甲戌条に 武蔵国新羅郡人沙羅真熊等二人の名前を見る。
「 従四位下、治部大輔興世朝臣書主卒 (中 略)、能く和琴を弾き、仍大歌所別当為、常会供奉、新羅人沙良真熊、善新羅琴弾」
没年:嘉祥3.11.6(850.12.12)
生年:宝亀9(778)
平安前期の官人。吉田古麻呂の子。百済系渡来氏族で,祖父,父共に侍医であったが,書主は早くから嵯峨天皇に寵愛されて左衛門大尉,左近衛将監などを歴任した。儒学に精通する一方,泳ぎや武芸にも秀でていたことから,武官に抜擢されたのであろう。和琴の名手としても知られ,新羅人沙良真熊から新羅琴を秘伝されている。和泉守,備前守としても名声を得た。承和4(837)年興世朝臣の姓を賜る。嘉祥3(850)年治部大輔となったが,山林に隠棲し仏道に専念,多感な生涯を送った。
(瀧浪貞子)
どなたか有識者へのお願い
確かにカールグレンや王力などの力作で、古代漢字音研究飛躍的に進展した。しかしながら、時代別、地域別中国語研究となると、寡聞にしてその総括的整理を知らない。
正直に言えば、古代朝鮮語を知る手掛かりとしたいからである。
そして、その推定の上に、渡来人たちが日本に持ち込んだ漢字音を復元したい。確かに夢物語であるが、その夢に向かってドンキホーテ的挑戦を続けている。
なお、
呉音は仏教系、漢音は儒教系だと言う俗説に賛同しない。
古代建築の用材や出土コウヤマキ材に注目した研究は多い。代表的なものとして以下をあげる。
西岡常一・小 原二郎『法隆寺を支えた木』(NHKブックス318、日本放送出版協会、1978年6月)、
岡田英男「古代建築に使った 木」(『普請研究』8、1984年6月)、
『古墳時代木棺の用材選択に関する研究』(平成15~平成17年度科学研究費補助 金基盤研究(C)(2)研究成果報告書、研究代表者岡林孝作)
、『古墳時代におけるコウヤマキ材の利用実態に関する 総合的研究』(平成18~平成20年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書、研究代表者岡林孝作)、
裕 明「古墳時代王権中枢のコウヤマキ利用」(『博古研究』46、2013年10月