『耳袋』の著者根岸鎮衛は江戸の都市文化・民俗・医療・怪異・社会風俗などの稀代のメモ魔である。
彼の驚くべき精励さと稀有な記憶力、さらには比類ない描写力などが発揮されたのは、大身になった時ではなく、すでに幕府の非エリートである旗本時代に、彼の片鱗が表れている。
時は、天明3年【1783)7月8日(1783年8月5日)。俗に「天明の浅間焼け」と呼称される浅間山の大噴火があった。この噴火による降灰は浅間山から200km離れた江戸ばかりではなく、400km離れた佐渡にも達したという。もちろん多数の人的被害があったばかりではなく、家屋の消失や倒壊、用水路の破壊、耕作地への火砕物堆積、さらには利根川に達する天明泥流などの被害状況が幕府にもたらされた。加えて、中山道が小諸から軽井沢・上野国に至るルートで遮断され、上京中の大名が多数足止めを食ったという。直接的に、
浅間山山腹にあった幕府の直轄地、俗称「なぎのはら」も壊滅的被害を受けたという。この時点では、天明大飢饉の発生までを予測できなかったにせよ、前代未聞の大災害であったという認識が幕府にあった。噴火直後の8月6日に現地に派遣されたのが、当時幕府勘定吟味方にあった根岸九郎左衛門鎮衛(1737―1815)であった。
この調査報告は微に入り、細に入り、その描写は卓越しており、後年、『耳袋』を執筆する片鱗をうかがわせる。メモ魔である。
その紹介は災害学に無関心な方に退屈だろうから、意を以て割愛する。
なお、根岸九郎左衛門鎮衛の出世談は、天明大飢饉・天明の打ちこわし、老中首座が田沼意次から松平定信への交代期にあたったために、その時期の世相の観察は興味深いが、後日に紹介する。
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