2026年5月29日金曜日

釜山倭館のその後

 

学校の設置経緯を調べてみると、意外にも興味深い歴史的事実に逢着することがある。広い校舎用地を確保すること、校区から通学するために便利で、危険のない立地は、必須な条件であろう。その上に、市街を建設するときには、役場・警察署・税務署などの行政機関のほかに、学校用地も優先的に確保され、それぞれが隣接することが多い。だからこそ学校用地の選定には、歴史的由緒ある建造物の址を踏襲することもある。

 今となっては、朝鮮王朝時代の釜山に建設された釜山倭館の輪郭を描くことは不可能に近いが、

 「新草梁村とは即今、府内瀛洲町、及び草梁町一帯を指示す。(旧草梁は即今の富民町土城町一帯)又『北大樹』とは瀛洲町公立普通学校所在に今も尚ほ存する大槐樹とす。此の大槐樹は実に往昔の『釜山住所』即ち『草梁客舎』の所在を識るべき唯一の天然記念物なりとす」(都甲玄郷編『釜山府史原稿6』、360~361頁)

とあるように、『草梁客舎』の場所を知ることが出来る。

 又、釜山日本人居留地に居留日本人の子弟にために建設された修斉学校(明治13年7月開学)は、

 「創設せる学校は修斉学校と称し、校舎は即ち明治13年4月、釜山第1次の領事として来任せる近藤真鋤が時の東莱府使洪祐昌と協定し、西館付属の三大庁即ち参判官家(中大庁)第1船正官家(東大庁)副時正官家(西大庁)等を二百金にて朝鮮政府より買収せんとし、朝鮮政府の希望により永代借受の契約を為せる一家屋、即ち、西大庁なる副特送使の旅館たりし所謂、副特正官家の本屋を改造修理し、以て充当せり。斯て、改造修理の成るや、是歳、七月一日を以て開校授業を始む。」(都甲玄郷編『釜山府史原稿6』、376頁)

というように、倭館の経済機能を担当した西大庁址であった。この西大庁址の住所は、西

1丁目5番地である。

 一方、参判官家は東本願寺別院として利用された。(都甲玄郷編『釜山府史原稿6』、376頁)

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