2026年10月21日水曜日

脇坂安董と対馬藩の関係に関してーー阿比留章子論文に触発されて

 問題の所在:脇坂安董と対馬藩の関係は、いつ始まったのか

阿比留論文の主眼は、朝鮮本を媒介とした対馬藩の政治的人脈の解明にあった。国内の様々な人物との関係性を解明する中で、文化8年度通信使応接副使であった脇坂安董にも視野を拡大し、翌文化9年の対馬藩主宗義質の後見役、そして文化9年以降の安董の対馬藩への継続的関与にも言及する先駆的な研究を開拓した。阿比留氏の問題関心そのものが我々と大きく離れているものの、阿比留氏によって、脇坂安董と対馬藩との接点を見出された価値は高い。

 再論すれば、脇坂安董は文化8年の通信使応接に関与し、翌文化9年には対馬藩主宗義質の後見役となっている。文化8年の外交御用と、文化9年以降の安董の対馬藩への継続的関与は、どのような関係にあり、なぜ脇坂安董は対馬藩との関係を維持し続けなくてはならなかったのだろうか。換言すれば、脇坂安董にとって、対馬藩との関係を断ち切ることができなかった理由は何だろうか。

 管見によれば、その糸口の一つが

 *『文化十四丁丑年ゟ義質様御代脇坂中務大輔様江之御状控』

だと考えている。

ただ、先生。私はもう一つ、確かめたいことがあります。

文化7年の銀6貫480匁の借銀について、借用証文に「朝鮮御用」「通信使御用」など、借入れの目的を示す記述はありますか。

もし明記されていれば、外交御用と民間金融との関係を直接立証する史料になります。

明記されていない場合でも、『易地聘使録』の支出記録と照合することで、その関係を検証できる可能性があります。

この違いは、論文の結論を左右する重要な点だと考えます。

そのような断り書きはありません

先生、承知しました。

文化7年(1810)の借銀証文には、「朝鮮御用」「通信使御用」といった借入目的の記載がないのですね。

これは史料解釈上、重要な点です。

借入れが文化8年(1811)の易地聘礼に先立つことは確実ですが、借入金が易地聘礼の準備費用に充てられたと断定することはできません。

私も、これまでの推論を少し修正する必要があります。

ただし、借入れの目的が明記されていないからといって、易地聘礼との関係を否定することもできません。

ここで注目したいのは、次の三点です。

  1. 借入れの時期
    文化7年という時期が、脇坂安董の通信使応接御用の準備過程と重なるのか。

  2. 借入れの金額
    銀6貫480匁という端数を伴う金額が、既存債務の整理や利息計算によって生じたものなのか、それとも具体的な資金需要を反映したものなのか。

  3. 借入れの経緯
    なぜ龍野藩は、生野銀山の有力商人に資金を求めたのか。通常の藩財政における借入先だったのか、それとも特別な資金調達だったのか。

そして、阿比留論文との関係で私が重視するのは、もう一つ別の問題です。

脇坂安董は、文化8年の外交御用を契機として、対馬藩とどのような継続的関係を築いたのか。

阿比留論文によって、文化9年の後見役就任と文政2年の留任要請という事実が確認できます。

この継続的な関係そのものは、龍野藩の借銀の使途が判明しなくても検討できます。

したがって、研究上は、借銀の使途をめぐる仮説と、安董・対馬藩間の政治的関係の解明を、ひとまず分けて進めるのが適切だと思います。

ここで先生に一つだけお尋ねします。

文化7年の銀6貫480匁の借入れについて、生野銀山の大野友右衛門からの借銀であることは、証文そのものに明記されているのでしょうか。

この点を確認したいのは、龍野藩と生野銀山商人との金融関係を、推測ではなく一次史料によって検討するためです。

ハイ。

先生、これで重要な事実が一つ確定しました。

文化7年(1810)、龍野藩が生野銀山の有力商人・大野友右衛門から銀6貫480匁を借り入れたことは、借銀証文そのものによって確認できるわけですね。

借入目的は明記されていませんが、借入先・金額・年利・期間が判明していることは、龍野藩の財政構造を研究するうえで貴重です。

私は、ここで研究の視点を少し広げたいと思います。

「外交御用」と「藩財政」をつなぐ研究

文化8年の易地聘礼について、従来の研究は幕府・対馬藩・朝鮮王朝の外交関係に重点を置いてきました。

しかし、脇坂安董を中心に据えると、別の問題が見えてきます。

それは、幕府から外交上の役務を命じられた大名が、その遂行に必要な財政的負担をどのように処理したのかという問題です。

先生の借銀史料は、この問題を検討するための一つの手がかりになります。

ただし、現時点では借銀と易地聘礼との直接的な関係は未証明です。

むしろ、阿比留論文が指摘する文化9年以降の安董と対馬藩との継続的関係を、龍野藩側の史料から検証することが重要でしょう。

とりわけ私が注目しているのは、阿比留論文が紹介している次の史料です。

『文化十四丁丑年ゟ義質様御代脇坂中務大輔様江之御状控』

これは、対馬藩から脇坂安董に宛てた書状の控えです。

この史料を『易地聘使録』と比較することで、文化8年の外交御用から、その後の後見役としての政治的関与へと、安董の役割がどのように変化したのかを追跡できる可能性があります。

私が今後、最も重視したいのは、脇坂安董を「朝鮮通信使の応接担当者」という一時的な役割から解放し、近世後期の日朝外交を支えた政治的人物として捉え直すことです。

そのためには、まず『易地聘使録』の翻刻を進め、安董自身の記録に即して検討することが不可欠だと考えています。

AI君. 安董は副使として赴任手当として、幕府から1万5千両を拝借し、文化9年になって、幕府から返済不要との命をもらっている。

先生、これは極めて重要な新事実です。これまでの私の解釈を大きく修正しなければなりません。

脇坂安董は、文化8年(1811)の朝鮮通信使応接に際し、副使としての赴任手当として幕府から1万5千両を拝借し、文化9年(1812)には、その返済を免除されたのですね。

この事実を加えると、財政関係は次のようになります。

年龍野藩・脇坂安董の動向
文化7年(1810)生野銀山の大野友右衛門から銀6貫480匁を借入れ
文化8年(1811)安董が副使として対馬に赴任し、朝鮮通信使を応接
文化9年(1812)幕府からの拝借金1万5千両について返済免除
文化9年(1812)安董が宗義質の後見役となる

ただし、1万5千両の拝借年月日については、まだ確認が必要です。

1.借入金から給付金への転換

ここで注目すべきは、幕府からの1万5千両が、当初は返済義務のある「拝借金」でありながら、後に返済不要となったことです。

これは単なる赴任手当の支給とは、財政制度上の意味が異なります。

幕府はなぜ、当初から給付金として支給せず、いったん拝借金という形式を採用したのでしょうか。

さらに、文化9年の返済免除は、赴任以前から予定されていた措置なのか。それとも、外交御用終了後に新たに決定された措置なのか。

この点を解明することで、幕府が外交御用を担当する大名の財政負担をどのように処理していたのかが見えてきます。

2.龍野藩の借銀をどう位置づけるか

私は、ここで文化7年の銀6貫480匁の意味を改めて考えたいと思います。

幕府から1万5千両という相当額の資金が提供されていたにもかかわらず、龍野藩は民間商人からも借銀を行っていました。

もっとも、両者の時系列と使途が確定していないため、直ちに外交御用のための二重の資金調達とはいえません。

むしろ検討すべきは、幕府からの資金が龍野藩のどの経費を賄い、どのような経費が藩自身の負担として残ったのか、という問題です。

3.阿比留論文の評価も変わってきます

阿比留論文は、脇坂安董が文化8年の外交御用を担当し、翌年には宗義質の後見役となったことを指摘しています。

しかし、先生が提示された財政史料を組み合わせると、安董の役割をより立体的に考察できます。

すなわち、安董は外交使節の応接を担当するだけでなく、その任務に伴う資金調達と財政処理を経験し、その後、対馬藩主の後見役として政治的な関係を継続したことになります。

ここから私は、次の研究課題を提案したいと思います。

「文化8年の易地聘礼における幕府の財政負担と脇坂安董――外交御用の遂行から対馬藩主後見役への展開」

この問題は、阿比留論文が十分に追究していない論点です。


先生、ここで一つ確認させてください。

文化9年の1万5千両の返済免除は、安董が幕府に願い出た結果なのでしょうか。それとも幕府が自発的に返済不要を命じたのでしょうか。

この違いは重要です。

前者であれば、龍野藩の財政負担軽減を求める政治交渉の問題になります。

後者であれば、幕府が外交御用の費用を最終的に負担するという政策判断の問題になります。

私は、この点が明らかになれば、龍野藩の財政史と近世日朝外交史を結びつける論証が、さらに具体的になると考えています。

幕府の命です。願い出てはいまさない。

先生、これで重要な点が明確になりました。

文化9年(1812)の1万5千両の返済免除は、脇坂安董からの願い出ではなく、幕府の命令によるものだったのですね。

これは、幕府の財政政策と外交御用の関係を考えるうえで、非常に重要な事実です。

私が特に注目するのは、次の点です。

幕府は、文化8年の朝鮮通信使応接に伴って脇坂安董に1万5千両を拝借させ、その翌年、自らの判断によって返済を免除した。

つまり、形式上は貸付金であった資金が、結果的には返済不要の資金になったわけです。

ただし、幕府が返済を免除した理由については、なお検討が必要です。外交任務への報償だったのか、実際の経費負担を考慮した措置だったのか、あるいは別の政治的事情があったのか。返済免除の命令文が重要になります。

私がさらに注目するのは、対馬藩との対比です。

阿比留論文によれば、対馬藩も文化6年(1809)に通信使来聘に伴って幕府から金3万両を拝借しています。

しかし、対馬藩は文政4年(1821)になっても返済問題を抱え、返納猶予を願い出ています。

ここには対照的な事実があります。

  • 龍野藩・脇坂安董: 1万5千両の拝借金について、文化9年に幕府が返済を免除。
  • 対馬藩: 3万両の拝借金について、文政4年にも返納猶予を願い出る必要があった。

もちろん、貸付条件や返済状況が異なる可能性がありますから、単純な比較はできません。

それでも、同じ朝鮮通信使応接に関係する資金について、幕府の処理が異なっていた点は注目に値します。

なぜ幕府は脇坂安董への1万5千両について返済を免除し、対馬藩の拝借金については同様の措置を取らなかったのでしょうか。

この問いは、阿比留論文を発展させる有力な研究課題になると思います。

さらに、文化9年には安董が宗義質の後見役となっています。

したがって、外交御用、拝借金返済免除、後見役就任という三つの出来事を、同一年の政治的文脈のなかで検討する必要があります。ただし、三者に直接の因果関係があったとは、まだ断定できません。

先生から伺った史実によって、私の関心は一段と明確になりました。

問題の核心は、文化8年の易地聘礼が、幕府・対馬藩・龍野藩の間に、どのような財政的・政治的関係を形成したのかということです。

阿比留論文は、そのうち対馬藩と幕府要人との政治的関係を論じています。しかし、龍野藩側の財政史料を組み合わせることによって、外交御用の財政的基盤という新たな側面から再検討できると思います。

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