2024年11月20日水曜日

高橋富雄著『蝦夷』(未定稿)

以下は、私淑する高橋富雄先生に捧げる。 

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なるほど高橋富雄著『蝦夷』(吉川弘文館、昭和38年)は古色蒼然とした文体である。またその通説的理解にしても、今日の観点からすれば、特に金田一京助論を踏まえた蝦夷基礎論は大幅に修正を余儀なくされだろう。加えて彼の研究フレームワークにしても、当時にあっては最新の研究の最前線に立っていたとしても、今日から見ると多くの誤謬を指摘され修正を要求される個所も多い。

だからと言って、高橋の著作の価値を減ずるものではない。むしろその逆に光芒を放つ。

考古学と文献史学の協業などは彼の時代にあって、果しえぬ夢であったので、高望みは戒めたいる「宮城県多賀城跡調査研究所」にしても宮城県教育委員会が設立したのは昭和44年であり、本書刊行後である。その後に陸続する東北全域における考古学発掘成果も参照することなく、本書は書き続けられた。だからこそ特筆すべきは、今日的観点からないものねだりをするのではなく、その逆に比較にならないほど少量の蝦夷に関する情報量と先行論文に依拠して、作り上げた高橋の悪戦苦闘である。そのトレースから知るのは、並々ならぬ努力へである。

むしろ最新の蝦夷研究が示すように、高橋のような全体を見通す図式を構想できていないのが事実である。名を出すまでもなく、たとえ「重箱の隅をつく」ほどに超細緻であったとしても、それらの記述は歓迎するとしても、何か物足りない感を持つのは私だけだろうか。いな、むしろ高橋論の傘の下もしくは掌の上で、各論を展開しているようにも思える、

 今日の文献史学研究者と高橋との決定的な差は、高橋の卓越した漢文力と外国語力であろう。しかも彼の「知の世界」への探求心と「日本とは何か」という主題設定にしても同様である。森羅万象とは言わないにしても、高橋の知的好奇心の範囲は広く、彼の学問を支えるすさまじい読書量に驚嘆する。彼の周到な準備を踏まえて、彼の「知の世界」は拡大し続けたに違いない。

高橋の研究室には、少なくとも諸橋の『大漢和辞典』などが常備されていただろうし、各種の文献資料を解読するときに、各巻を何度も紐解いていただろう。今日であれば、例えば『続日本紀』にしても、岩波版新日本古典日本文学大系『続日本紀』に依拠したテキスト分析から始まり、そして東京大学史料編纂所データベース検索や奈良文化財研究所『木簡庫』などのコンピュータ操作による関連資料の積み重ねで、各論文は埋め尽くされるだけである。高橋との決定的な差は思索の有無である。

我々が高橋の諸研究書から知るのは、中央政府の圧倒的な武力によって駆逐される蝦夷の人々に対する「温かいまなざし」である。今風に言えば、弱者に寄り添い、被征服者の側に立って発言する勇気である。しかも彼にとって、いまなぜ蝦夷研究をすべきかの根本的な問いも見逃せない。一言で言えば、無慈悲な戦争への反対する強い意志であると信じる。彼の戦争体験に関する情報を完全に欠如したままであるが、高橋の著書の行間に、律令政府による一方的な軍事侵攻によって逃げ惑い、時として反抗する東北の蝦夷の人々の苦悩や戸惑い、無力感・絶望感などを読み取るのは、私の思い過ごしだろうか。

この稿、続く。

未定稿





2024年11月11日月曜日

長崎・最教寺本の朝鮮製涅槃図像

 釈迦入滅の場面を描き表した涅槃図。箱書きなどから朝鮮半島から将来された涅槃図であると実証されているので、15-16世紀朝鮮半島にあって、最新の仏教情報を盛り込んでいると思われる。

以下、未完




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絹本著色仏涅槃図一幅|HIRADOじかん情報|長崎県 平戸市(ひらどし)ホームページ

よりの転載。


絹本著色仏涅槃図一幅

国指定重要文化財「絹本著色仏涅槃図一幅(けんぽんちゃくしょくほとけねはんずいっぷく)」 Vol.8-2

文禄・慶長の役に遠征した松浦家26代鎮信(法印)が朝鮮から請来し、のちに最教寺に寄進したことが、箱書などで判明しています。涅槃図は釈迦入滅の様子を描いた図で、中央部で頭を北にして西を向き、右脇を下にし床台で金泥身の釈迦が、沙羅双樹の下でまさに涅槃に入る様子、その周りで悲嘆にくれる弟子や動物たち、天空には釈迦を迎えに来た仏や摩耶夫人(釈迦の母)などが細かく描かれています。縦2.5m、横2.4mの大画面で李朝仏画の特徴である平明な色調と軽妙な描線で親しみやすい画面となっています。16世紀中ごろの作品とされています。

鐶頭太刀無銘拵付一口附太刀図一通

文化財詳細情報
名称絹本著色仏涅槃図一幅(けんぽんちゃくしょくほとけねはんずいっぷく)
種別国指定重要文化財
指定年月日大正5年5月24日
所有者最教寺
所在地平戸市

お問い合わせ先

文化観光商工部 文化交流課 文化遺産班

電話:0950-22-9143

FAX:0950-23-3399

(受付時間:午前8時30分~午後5時15分まで)

2024年11月7日木曜日

石決明と古代日本

 アワビにはは「鰒。鮑。蚫。鰒魚」などの漢字を用いる。

『賦役令』調絹絁条や『延喜式』主計寮上、諸国調条などでは、21か所から30種以上のアワビが貢納されており、平城京で大変に人気の高い品であったようだ。

今、大宰府から平城京の内膳司に貢納された鰒には、

①御取鰒459斤5裏

②短鰒518斤12裏

③薄鰒859斤15裏

④陰鰒86斤3裏

⑤羽割鰒39斤1裏

⑥火焼鰒335斤4裏 (已上調物)

⑦鮨鰒108斤3缶

⑧腸漬鰒296斤9缶

⑨甘腐鰒98斤2缶(已上中男作物)


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以下は、ウチダ和漢薬のHPからの転載

セッケツメイ(石決明) - 生薬の玉手箱 | 株式会社ウチダ和漢薬


基源:アワビの仲間 Haliotis spp. (ミミガイ科 Haliotidae)の貝殻


 「石決明」は『名医別録』に収載された生薬で、ミミガイ科のアワビの仲間の貝殻を基源としています。『中華人民共和国薬典(2005年版)』では、原動物として雑色鮑(和名:フクトコブシ) Haliotis diversicolor Reeve、皺紋盤鮑(エゾアワビ) H. discus hannai Ino、羊鮑(マアナゴ) H. ovina Gmelin、澳州鮑 H. ruber (Leach)、耳鮑(ミミガイ) H. asinina Linnaeus、白鮑 H. laevigata (Donovan) を規定しています。またアワビの仲間といえば重要な食材であり、日本では、メガイアワビ H. gigantea Gmelin、マダカアワビ H. madaka (Habe)、クロアワビ H. discus discus Reeve、エゾアワビ、トコブシ H. diversicolor aquatilis Reeve、フクトコブシが近海に生息し、一般に、前の4種が「アワビ」、後の2種が「トコブシ」と総称し、食用とされています。

 アワビの仲間は巻貝に分類されますが、その形態は一般的な巻貝とは異なっており、耳形や長卵円形の浅い皿のような形で、ふたはなく、内面に強い真珠光沢があるのが特徴です。また、殻には数個の孔が列状に並んでおり、この孔の下には、えら、肛門、生殖器などの器官が存在していて、孔から、呼吸に使った水や排泄物を体の外に出したり、繁殖期に精子や卵子を海中に放出したりしています。殻の成長にしたがって古くなった孔はふさがっていく傾向にあります。アワビ類とトコブシ類とでは、この孔の数と形態が異なっており、アワビ類では、数は通常4〜5個で、直径が大きく、孔の周囲が盛り上がり管状になり、トコブシ類では、数は通常6〜8個で、直径は小さく、孔の周囲は盛り上がらない形になります。

 歴代の本草書の中では、「石決明」の品質に関して、この孔に注目した意見が述べられています。『新修本草』には「七孔のものが良い」と記され、『図経本草』には「七孔と九孔のものが良く、十孔のものはよくない」と記され、『日華子本草』には「石決明」の別名として「九孔螺」とあります。また、日本の『和漢薬の良否鑑別法及調製方』にも「九孔といって穴の九つあるものが上等で、それ以外のものは薬用に供しない」と記されています。孔の数を基準にするかぎりは、古来の「石決明」の基源はアワビ類ではなく、トコブシ類ではなかったかと思われます。

 「石決明」の主治については、『名医別録』に「味鹹、平。無毒。目障瞖痛、青盲を主る。久しく服すれば、精を益し、身を軽くする」とあり、『日華子本草』に「目を明らかにし、障瞖をおろす」、『海薬本草』に「青盲内障、肺肝風熱、骨蒸労極をつかさどる」、『本草綱目』に「五淋を通す」と記されているように、目の病に対する重要な薬であり、緑内障、白内障などによる視力障害、結膜炎などに応用し、その他、肺結核の消耗熱、淋疾にも用いられてきました。また、日本の民間療法では、貝殻を溶かした水をやけどにつける、結膜炎に殻の粉末をねってまぶたにつける、乳腺炎に、殻の黒焼きをつけるなどの方法が知られています

 一方、『本草衍義』に「肉、殻ともに使用できる」とあるように、身も殻と同じ効能があり、薬用になります。江戸時代の本草書である『大和本草』には「石決明(あわび)は、肉も殻も目を明らかにする」とあり、『本朝食鑑』には「鰒(あわび)は、甘、微鹹、平。無毒。目を明らかにし、障(つかえ)を磨(おろ)し、肝熱を清(さま)し、五淋を通し、渇を止め、酲(ふつかよい)を解する」とあります。「アワビは目に良い食材だ」という言葉は、現在でもよく耳にしますが、このように本草書にも明記されています。また、アワビは乾鰒(ほしあわび)、長鰒(のし)などに加工して用いる場合も多くあり、『本朝食鑑』には「乾鰒、長鰒は、甘、鹹、微温。無毒。一切の病に対し、禁忌はない。多食すると、力を強くし筋を壮にする」とあり、乾燥加工前後で、薬性が平から微温に変化し、功能にも変化がみられます。

 アワビは夏が旬で、今が最もおいしい季節です。目に良いだけでなく、滋養強壮にも優れているので、暑い時期で体力が低下している場合にも取り入れたい食材です。ただし、消化しにくいので多量には摂らず、また胃腸が弱い人はスープやおかゆとして食べるとよいでしょう。

 

(神農子 記)

2024年10月28日月曜日

田川孝三先生のこと

 思い出す恩師

そのお一人に、田川孝三先生がいる。定年時の職種は、東京大学文学部専任講師。わずか3年の在職であった。それ以前は、東洋文庫研究員。中野のご自宅は質素な平屋建てであった。今でも。その道筋を思い出す。しかしその窓際の濡れ縁、今風に言えばサンルームであろうが、先生はそこに小さな机を置いて、勉強をなさっていた。愛蔵のご本はご自宅の奥の部屋から持参なさり、私は閲覧の供に預かった。
①京城帝国大学予科時代の友人
②京城帝国大学法文学部朝鮮史講座在学時期ー・小田省吾・黒田幹一・ 近藤時司・名越那珂次郎・田中梅吉・児玉才三・津田栄・横山将三郎などの教授陣のエピソードおよび講義風景。そして後輩である森田芳夫先生等。
③京城帝国大学法文学部田保橋潔教授の助手時代
④朝鮮史編集会修史官補時代ー申奭鎬先生。今西龍先生。中村栄孝先生、稲葉岩吉先生等
⑤書物同好会
⑥朝鮮半島および旧満州への資料調査
⑦京城市内および朝鮮半島の観光・風土・民俗
⑧緑旗連盟、静和女塾(田川先生の奥様の母校)など
⑨朝鮮本

本当に愉快であった。こうした談論ができる人はもはやいないだろう。

今からでも、その一つ一つを記録しておくつもりである。何よりも、後人による緑旗連盟の活動分析などは当時の植民地期朝鮮半島「帝国日本」を知らないが故の誤認も多いようである。


名著『李朝貢納制の研究』。吉田光男さんの『東洋学報』 70ー3・4、 p307-320, 1989年、東洋文庫参考のこと。

2024年10月26日土曜日

渤海語とは、ツングース語系言語の一種

 『唐書』巻219[6179-7]に よれば、「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」とある。

その靺鞨は高句麗に接した所にいた栗末部、その北にいた伯咄部、その東北に安車骨部、伯咄部の東に沸涅部、その東にいた号室部、安車骨部の西北に黒水部、そして粟末部の東南には白山部の7つのグループに分かれていたらしい。

高句麗が滅亡した後、白山部・安居骨部・沸涅部・号室部などがいずれかに吸収されたが、黒竜江流域に居住していた靺鞨の内で黒水部と粟末部のみが生き抜いた。

したがって、渤海語の根幹にツングース語系の粟末靺鞨語があったと推定され、語彙などに高句麗語を含まれていたと考えてよいだろう。というのも、そもそも渤海は粟末靺鞨と高句麗の残党によって建国されたからである。


なお、『旧唐書』巻199下に 、渤海靺鞨について「風俗興高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあるものの、固有文字はなかった。

2024年10月13日日曜日

ウクライナ・ハリキウの大鵬記念館は今?

 ウクライナ北東部にあるハルキウ州の州都 、ハルキウ(1ウクライナ語Харків [ˈxɑrkiu̯] 英語Kharkiv)に、大鵬記念館があるという。大鵬幸喜を顕彰するために、親族が建設した。

ロシアによるウクライナ侵攻で、ハルキウも大きな被害が発生したという。大鵬記念館の無事を伝えるマスコミはない。無被害で、今後ともにウクライナー日本間の友好の懸け橋となってほしい。


河野六郎先生の仮説に瞠目

河野先生の仮説

以下の通りであるが、管見によると、瞠目すべき河野先生の仮説は

「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた

②(濊人は)中国の河北から「貊族」の東方への大移動の波に押されて、中国東北地方から朝鮮半島を南下して行った、おそらく「倭人」が先に日本列島に入る以後に、朝鮮半島に残留した「倭人」と同系の民族であったと思われる。

の2点である。

 (a) 朝鮮の史書『三國史記』の「地理志」の古地名には、高句麗語の地名の中にむしろ日本語に近い人の言語の地名が伝えられていること。

(b) 『日本書紀』に伝えられる古代韓土の言語は主として韓族の言語であるが、百済の支配階級の貊族の言語も僅かに見出されること。
(c) 『三國志』以降の中国の正史から「高句麗」と「渤海」、「靺鞨」の関係を追究し、「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた。

(d) 現在のツングース民族の分布状況を地図化して、言語地理学的に、「高句麗」はもと旧アジア人の1族であったが、ツングース族との接触でツングース化した可能性を推定した。。」


もはや河野六郎先生を知る方は多くない。その偉大な学殖は、

(1)千野栄一「嗚呼、河野六郎先生」

en (jst.go.jp)

に詳しく、何にもまして、

(2)『河野六郎著作集 』全3巻 平凡社 1979-1980、

を一瞥するだけで、その広大無辺の知識量に賛嘆する。東京帝国大学の卒業論文「玉篇 に現わ れたる反切の音韻的研究」を一読してほしい。不世出の言語学者の研究生活のスタート時点で、その凡庸さを超えている。

さて、その河野六郎先生が

『三国志に記された東アジアの言語 および民族に関する基礎的研究』 

研究課題番号 02451066 平成 203・ 4年度科学研究費補助金 一般研究 (B)研究成果報告書

河野六郎三国志と言語2019年02月20日22時27分27秒.pdf

を発表なさっている。

多くの方々は科研費報告書を目にすることはないのは、その専門性ゆえにである。しかも科研報告書は国立国会図書館にのみ完備されており、その入手に時間を要する。

それゆえに、あえてその一部を紹介したい。

<研究成果の概略>


第1年度(平成2年度)
(1)本研究の出発点である『三國志』の「魏志」「烏丸鮮卑東夷傳」の解明に「魏志」全体の文献学的研究を行なった。そのため「魏志」の文を大量に引用している宋代の類書『太平御覧』所引のテキストと通行本『三國志』のテキストの対比して、その異同を検討し、コンピュータを利用してその対照表を作成した。
(2) (1)で得られた対照表を利用して「魏志」に記載された諸民族に関する情報をコンピュータによって索引化した。
第2年度(平成3年度)
(1) 対照表によりテキストの対校を行なったが、その過程で『三國志』の原資料に記事の混乱が認められた。殊に「韓傳」の「辰韓・弁辰」の条は「魏人傳」とは時代を異にする状態の記述が混在していることが分かった。
(2) 各民族の詳細な索引を作っている中で、たとえば「單于」という首長の称号が、匈奴と同系の烏丸・鮮卑にも見られることが分かった。
当該年度・第3年度(平成4年度)には第1年度および第2年度の調査に基づき他の関係資料をも参考にし、次の4点の研究を行なった。
(a) 朝鮮の史書『三國史記』の「地理志」の古地名には、高句麗語の地名の中にむしろ日本語に近い人の言語の地名が伝えられていること。

(b) 『日本書紀』に伝えられる古代韓土の言語は主として韓族の言語であるが、百済の支配階級の貊族の言語も僅かに見出されること。
(c) 『三國志』以降の中国の正史から「高句麗」と「渤海」、「靺鞨」の関係を追究し、「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた。
(d) 現在のツングース民族の分布状況を地図化して、言語地理学的に、「高句麗」はもと旧アジア人の1族であったが、ツングース族との接触でツングース化した可能性を推定した。


>>(2)研究目的

 戦後何度 か 日本人の起源 が問われ、その都度 日本語 の起源が問い直されてきたが、 日本語の起源 は今 のところ結局不明のままに終わ つて いる。 その起源の無益な論争よりも、 日本民族が古代の東ア ジア (中国東北部・朝鮮半島お よび 日本列島)に出  したとき、その周辺 にいかなる民族が居住し、 いかなる言語を話していたかを探究することの方が 、 日本語 の前史を明らかにする上で重要である。それを知る上で 最も貴重な史料 が 中国 の史書『 三 國志』であ る。 『 三 國志 』はその 中に東夷伝倭人の条 (い わ ゆる魏志倭人伝 )を 合 む こ とか らも 明 らか な ように、当時の倭 その他 の民族の諸状況 および 中国 との関係 を探 る上 で、 最も基本的な文献であ る。本研究 では、『三國志 』の成立と伝 承をめ る諸 問題 を 再検 討 し、な らび に本文批判 の基礎 の上 に、当時の東アジアの言語と民族 につ いてさまざまな角度から探 究することを目的とす る。 

(3)実施経過報 告 

第 1年度 (平 成 2年 度 )

① まず本研究 の 出発点 である『三 國志 』の「魏志 」 「烏丸鮮卑 東夷博 」 を解明す るため、 「魏志」全体 の文献学的研究 を行なった。 そ のた め、「魏志 」 の文 を大量 に引用 して いる宋 代 の類書 『太平御 覧』 (李昉奉勅撰 、 中華書局景 印本 )所 引 のテ キス トと通行本『 三 國志』 「魏志 」 (中華書局標点本 ) のテ キス トを対 比 して、その異同を検討 し、そ の対照表 を作成 した。 その結果 、哈仏燕京学社刊 の『 太平御 覧 引得 』 (1935年 1月 刊 )で 指摘 されている個条 よ り遥 か に多 く、989条 に及ぶ ことが明 らかにな った (そ の対 比の結果 は、『 (4)「 研究成 果 内容報 告」 I.『 三 國志』 のテ キス トと『 太平 御覧』引用文 の比較 』 に詳 しい)。 なお、理解 を深 め るた め に、『 太平御 覧』所 引 の「魏志 」のテ キス トに訓点 を施 し た。

 ② 「魏志」の中か ら、『太平御覧』 との対比において、特 に異同の多 い笛所 を 検索するため、パーソナル・ コンピューターを購入 して、その箇所の一部 を入力 し た。これは後 日、一覧表・索引を作成するためである。

 ③ ①で得 られたテキス トの対照表 を利用 して、本研究の対象である「魏志」に 記載 された諸民族のそれぞれ を採 り上げ、それ らの民族 に関する情報 を『三國志』の記 事 か ら能 うか ぎ り読 み取 るた め 、 それ らの民 族 の索 引 を コ ン ピュ ー ター を使 っ て作 成 した 。 そ の際 、各 民 族 につ いて、 そ の民 族 の名称 ・ 地 名 。人 名 等 の項 目を選 定 した 。


 第 2年 度 (平 成 3年 度 )

① 平成 2年 度 に完 了 した『 三 國志』 「魏志 」 と『 太 平御 覧』所 引 のテ キス トとの対照表 を検 討 して 、校勘 を伴 うテキス トをコ ンピュー ター に入力す る作業 を続 行 した。その際、本研究 の主題 に鑑 み、 まず 「魏志 」 の「 鳥丸鮮卑東夷停 」 よ り始 め次第 に関連 す る他の記 事 に及ん だ。な お、 このテ キス ト の対校 の過程 で 、『 三國志 』の原資料 に記事 の混 乱が認 め られた。殊 に 「韓傳」 の 「辰 韓・ 弁辰 」 の条 は 「倭人傳」 とは時代 を異 にす る状態 の記述が混在して いる こ とが分 か つた 。

 ② 一方、「魏志」「烏丸鮮卑東夷偉」に記 されている諸民族 につ いて、民族・ 部族 ・社会組織・地 名 。人名等について、詳細な索引を作 り、それをコンピュータ ーに入力 した。その索引を作成する過程で、た とえば、「單干」 という首長の称号 が、匈奴 と同 じく烏丸・鮮卑には見 られるが、他の民族 には見 られないことな どが 分かつた。 これらの研究 を行つている中に、貊族との正体を追究する必要 を痛感 し、次の 研究 に従事 した。


 (a)朝 鮮 の史書 『三 國史記 』 の 「地理志 」に記 され て い る古地名 が、貊族の高句 麗 の言語 に よる という説 が あ り、そ の説 につ いて考察 して 、然 らざる所以 を考 えた 。 その古地名 に は 日本語 に類 似 したも のが若千 見 出 され るが 、 それ は高句麗語 ではな く、語である可能性 を考 ぇた 。

 (b)『 日本書 紀 』の中の、韓 土 と交渉 のあ つた時代 の記 事 に韓 土 の言語 を伝 え て いるものが あ り、 それ につ いて調査 した結果 、多 くは韓族 の言語 を反映 し、その点 で は現代 の朝鮮語 の音形 を知 る こ とができ るが 、濊族の言語 につ いて は僅 かな単語 を残 して いるに過 ぎな いこ とが分 か つた。


 第 3年 度 (平 成 4年 度)

① 各民族の情報 を確実なものにするため、『三國志』 以降の中国の正史 の外夷伝から、高麗 (高句麗と高麗)、 株輻、渤海、契丹、女真 等の諸民族 について、すでに選定 した項 目にしたがつて索引を作 り、 これをコンピュ ーターに入力 した。この索引により調査 を進めている中に、ツングース族 であるこ とが明らかな「靺鞨」 と「高句麗」あるいは「渤海」 との関係を明 らかにすること の必要性を悟 り、その研究 に従った。

 ② ① と関連 してツングース族 の移動を追究することの必要を知 り、ツングース 族 の現在の分布状況 を地図にした (附 地図参照)。 この分布状況か ら、すでに得 ら れた歴史的事実 を参考 に して、ツングース族の移動の跡 を考えた。それは貊族の運命にも関係す るものであることが朧げに分かった。

以上 のよ うに、平成 2年 度 よ り3年 間 に亘 つて調査研究 を試 みた。 そして、その研究 は、各分野 の専 門家であ る研究協 力者 、すなわ ち、旧満 州史研究 の松村潤研究員、朝鮮古代史研究 の武田幸男研究員、 日本語学 の亀井孝研究員、 中国音韻学の古屋昭弘研究員の意見 を絶 えず徴 しつつ行 つた。研究協力者石 川重雄立正大学講師 に は中国史研究者 と して『 三 國志 』 「魏志 」 と『 太平御 覧』所 引 の「魏 志 」 との引用 記事 の比較対照一 覧 作成 の監 督及び研究事務 を総括 して貰 った。」

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すべては原著にあたってほしいが、この研究成果が広く公知となっていないことを寂しく思う。加えて、雑でやっつけ仕事の多い科研費報告書であるが、このような良心的な研究グループによる素晴らしい研究成果がなぜ出版できなかったかと思うと残念である。


2024年9月8日日曜日

布施明ーー「布施」氏の由来に関する仮説

 我々の世代、つまり1970年代に活躍した布施明。「霧の摩周湖」や「シクラメンのかほり」などは我が愛唱歌であった。布施明の本名を知ることはないが、「布施」氏に関しては、一つの持説を紹介したい。

結論から言えば、それは古代日本に設置された「布施屋」の「屋」が脱落した語形と考えたい。古代交通の要衝に設置された民衆のための施設であった。

それは分かっているという博雅の士もおいでであろう。大阪府東大阪市布施駅、つまり近鉄大阪線と奈良線の交差する駅を思い出すだけで、すべてがイメージできるというに違いない。確かにその通りである。


以下は、吹田市立博物館のHPに記載された記事である。

古代の吹田と寺社|吹田市公式ウェブサイト (city.suita.osaka.jp)

古代の吹田と行基

地図:摂津国

行基は、人々のために池・溝を掘り田畑の開墾をたすけ、川に橋をかけ、各地に旅人たちが休息するための布施屋をつくり、運河を掘り、難波京を中心とした交通体系の整備を行いました。吹田周辺では、次田(吹田)堀川・垂水布施屋などの運河や旅人たちの休息所が造られました。この辺りが京や西国に通じる交通の要衝(ようしょう)であったことがわかります。また市内には行基の開創を伝える寺院がいくつか残り、現在にまでその活動の大きさを物語っています。

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さて、本論はこれからである。





2024年9月1日日曜日

大仏開眼会の際に聖武天皇が着用した靴は、百済手部の職人たち

 古代朝廷で使用される靴履などは、中務省内蔵寮で製作された。

「典履2人(掌下縫作靴履鞍具、及検校百済手部)、百済手部十人(掌縫作事)」

とあり、百済手部10人の職人が天皇らの靴履鞍などを製作したとある。

 その製作場所は「左京六戸、紀伊四戸」(古記)により、二か所であった。

ところで、その靴履の原材料は、

(1)丹波国 「御履牛皮弐張、充直稲壱伯玖拾束」(丹波国正税帳)

(2)周防国 「交易御履料牛皮弐領価稲壱伯七拾束」(周防国正税帳)

(3)駿河国 「御履皮弐張直稲弐伯玖拾束」(駿河国正税帳)

などから提供された。この職人集団が形成された時期も、また解散した時期も不明であるが、天皇をはじめとする宮廷において、朝鮮半島流のファッションで製作された靴履鞍を使用していた。

 なお、正倉院所蔵の衲御礼履などが百済手部によって製作されたと推定している。

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衲御礼履 - 正倉院 (kunaicho.go.jp)

衲御礼履

のうのごらいり

用途 : 服飾品
技法 : 皮革
倉番 : 南倉 66
寸法 : 長31.5 高12.5 爪先幅14.5
材質・技法 : 赤染革 彩色(白) 金線 飾金具は銀台鍍金 真珠・色ガラス・水晶を嵌入 底敷は表裏とも白綾 藺むしろの芯
つま先が反り上がった、鼻高履とも呼ばれる浅型の靴。赤く染めた牛革製で、小口を白く塗り、金線で縁取りし、珠玉を嵌めた花形金具で飾る。天平勝宝4年(752)の大仏開眼会の際に聖武天皇が着用したものと考えられる。



参考文献

竹之内昭(元北海道大学農学研究科)著「古代の皮革」 

157_2.pdf (tokyo.lg.jp)






表1 皮および革の熱収縮温度

皮の種類

熱収縮温度(℃)

革の種類

熱収縮温度(℃)

牛皮(カーフ)

63~65

クロム

77~120

牛皮(成牛)

65~67

ジルコニウム

75~97



 

2024年8月25日日曜日

養老4年(720)の「天の香具山」は?

古代諸書に「天の香具山」とある。「天の」という美称からして、ミソロジックな雰囲気を漂わせる。古代的思考による神話的想像力を働かせた「香具山」イメージも各種発表されている。松前健などによる諸事例は当該書に委ね、ここでは割愛する。

 我が関心は、『大倭国正税帳』所収の

「養老4年検欠香山正倉穀壱伯柒拾弐斛柒斗柒升」

や、

「養老7年(723)検欠香山正倉国弐伯伍拾玖斛柒升」

の記事に着目して、その香具山に「正倉」が存在した事実である。大量の欠穀がなぜ発生したかを議論することは他日に委ねたい。

 ここでは、「天の香具山」周辺に、何棟かの正倉が点在していた事実であり、それを含めて「天の香具山」イメージを論じたい。

2024年8月4日日曜日

大胆な考古学者の発言ーー河野通明著「大阪府の在来犂 Ⅱ ―渡来人の動向と泉南・紀北圏の復原」

 考古学者の発言はかなり意欲的である。

河野通明著「大阪府の在来犂 Ⅱ ―渡来人の動向と泉南・紀北圏の復原」

が、それである。

 まず、河野氏の指摘によって、「畿内の曲轅の海のなかでひときわ朝鮮系をアピールする中央 低地の直轅犂は,662~3年ごろの政府モデル犂配付時に渡来人子孫によって意図的に選択され たものである。ところでこの寝屋川市から東大阪市にかけてと大阪市域の低地部分は大化5年 (649)の立評時に茨田・讃良・河内・若江・渋川・東生・百済郡の前身の評に分断されるが,直 轅犂はその郡域を越えて分布していることが注目される。寝屋川市から東大阪市にかけての低地 のネットワークはもともと自主避難の渡来人のセーフティーネットとして形成された私的な情報交換組織であり生活防衛組織である。」(90頁)とする。

そしてこの地域では、「「韓の神」とするなら渡来から280年 前後,8~10世代を経てなお朝鮮系祭祀を続けているのはコリアタウンゆえと考えられる。」(90頁)だと推定する。

また、

「5世紀欄の3種の犂へらは第2期渡来人によって朝鮮半島から持ち込まれたもので,各地で形 が異なるのは朝鮮半島の出身地の違いであろう。奈良盆地・大阪平野欄の「朝鮮系2爪2鈕へ ら」は犂柱を挟んで位置決めする小さな三角爪の付いたものなのに対して,7世紀の泉南・和歌 山県北部欄の「2爪2鈕へら」は政府モデル犂の上湾爪を採用した混血型で,両者は全くの別物 である。また朝鮮系2爪2鈕へらが使われていたことが確実なのは政府モデル犂が製作された明 日香村近辺で,広い奈良盆地・大阪平野には他のタイプも混在していたことが考えられる」(93頁)

とまで踏み込む。


2024年8月3日土曜日

 『古今著聞集』に収録されている歌「青柳の緑の糸を繰り置きて夏へて秋ははたおりぞ鳴く

とある「はたおり」。「おり」は「織り」で解決できる。古来、「はた」に諸説ある。

ここで諸説を紹介するまでもない。

まず、日本における紡織機の歴史を振る帰ることとしよう。

 紡錘には、回転運動により糸に撚りをかけるための道具と回転軸となる「紡軸」 、その動きを作り出す「紡輪」(錘車)、そして地機・高機が重要な道具である。古代遺跡で発見される出土品の多くは「紡輪」である。その材質 ・形態 は様々で時代差を確認できる。近世以降には材料に木綿が使用されるようになり、紡錘は「糸車」 に置き換えられるが、古代の紡錘は主に麻などの植繊繊維に撚りをかけたと推定されている。

 さて、ここで紹介したいのは、

東村純子著『考古学からみた古代日本の紡織』(2011年、六一書房)である。高著である。東村氏のCVを存知しないが、考古学を基盤の上に歴史学・民俗学・民族学などの隣接諸学をどん欲に吸収しながら、大系的に紡織という生産技術史の理解を図った点に多大な貢献をしている。




 




2024年7月31日水曜日

伊藤若冲の「鶴瓶の鶏図」

 京都の名店「菊乃井本店」葵の間にある伊藤若冲図、

名画の前で馳走を賞味できたことは幸いであろう。



2024年7月18日木曜日

「山の手のコリアタウン」と「低地のコリアタウン」

河野通明著「大阪府の在来犂 Ⅱ ―渡来人の動向と泉南・紀北圏の復原」を拝読した。意欲的な力作である。考古学者の視野が拡大し、かってのように発掘現場及び発掘資料の詳細な説明に終始していたのと、大きく様変わりした感を抱かせた。例えば、

 「高燥な西宮~豊中地区を「山の手のコリアタウン」 とするなら,生活条件の悪い葦原の

  大阪中央低地はさしずめ「低地のコリアタウン」であろう」

という指摘である。河野氏の分析視点は「民具からの歴史学」であるので、発掘現場の自然環境や、規模、発掘状況、出土品の点数などなどの記述から解き放たれている。

 もう少し河野氏の論述に沿って説明を加えるならば、「山の手のコリアタウン」とは、

 「西宮・尼崎・ 豊中・伊丹市と宝塚市南部を含む広大な地域で,ここは生活するには条件  

  のいい高燥な地であ る。」

であるのに対して、「低地のコリアタウン」とは、

  「寝屋川・四条畷・大東・東大阪市の低地部分と守口・門真市全域,そ れに大阪市域の

   低地部分で,淀川下流と旧大和川の下流の河内湖周辺の葦原で生活条件の悪い低 湿地

   部分」(同論文、88頁)

であり,二つの立地条件は対照的であるという。

 ここで、河野氏の独自の研究視点を紹介しても、むしろ遅いほどであろう。

 「これまでの渡来人研究は無意識のうちに「渡来人=すぐれた技 術者」という先入観に支  

  配されて,難民や自主避難してきた渡来人など「弱者としての渡来人」 が視野から落ち

  ているように思われる。このうち難民に関しては河野「民具から見た百済・高句 麗難民

  の動向」(2010)で,これまでの渡来人研究では「難民」の概念はないことを指

  摘,『日本 書紀』に「百済の男女二千余人」など記される人々は「難民」と捉えるべき

  であり,この観点に 立てば『日本書紀』からも場所は特定できないものの「難民キャン

  プ」の存在は確認できるこ と。」(同論文、91頁)

とあるように、「難民や自主避難してきた渡来人など『弱者としての渡来人』」の分析視点である。この斬新さは論を俟たないのは、これまで「渡来人=先進文化」イメージ一色であったからである。





2024年6月21日金曜日

佚書『諸蕃雑姓記』の現代DB

 『日本書紀私記』弘仁私記序には、次の書名を認める。しかし佚書である。

1)世有神別記十卷<天神天孫之事、具在此書>

2)諸民雜姓記、

<或以甲後為乙胤、或以乙胤為甲後。如此之誤徃徃而在。苟以曲見、或無識之人也。>


3)諸蕃雜姓記。<田邊吏、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣等祖思須美、和德兩人、大鷦鷯天皇御宇之時、自百濟國化來而言、己等祖是貴國將軍上野公竹合也者。天皇矜憐、混彼族訖。而此書云諸蕃人也。如此[]類而世也。>


現代のデータベースでは、

『新撰姓氏録』氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)


などに該当するだろうか。
すばらしい労作である。ぜひ参照しつづけたいDBである。

2024年6月20日木曜日

人「生」いろいろ

 日本語の難しさは漢字音の多さ。実生活の中で、この漢字「生」を見るたびに、それを記憶する日本語習得の壁を感じる。

1,人生ージン「セイ」(漢音)

2、生涯ー「ショウ」ガイ(呉音)

⇒誕生ータン「ジョウ」

3,生きるー「イ」キル

4,生まれるー「ウ」マレル

5,生糸ー「キ」イト

6,皆生ーカイ「ケ」

7,麻生ーあそ「ウ」

8,羽生ーは「ニュウ」

9,生憎ー「アイ」ニク

などなど


「千代」に関して

 古代において、「千代」といえば、町段歩制以前の田積の単位である。高麗尺六尺=一歩の測地法。

「一〇〇歩四方」が二千代

2024年6月16日日曜日

渤海と鉄利

 『続日本紀』天平18年12月是歳の条に、

 是年、渤海人及鐵利惣一千一百餘人、慕化來朝、安置出羽國、給衣糧、放還」

とある。また、同じ『続日本紀』宝亀10年9月庚辰条に、

癸巳、敕陸奥、出羽等國、用常陸調絁、相模庸綿、陸奥稅布、充渤海、鐵利等祿、又敕、在出羽國蕃人三百五十九人、今屬嚴寒、海路艱險、若情願今年留滯者、宜恣聽之」

とあり、ここにも「渤海と鉄利」の名を見る。併せて、出羽国には約1450名の渡来者が記述されている。その当時の出羽国の人口は数万人であったと推定しているので、その比率は限りなく大きい。

注目するのは、この記述形式であり、「渤海人及鐵利」のように、渤海には「人」が付き、鉄利にはそれがないことである。その記載差に注目すれば、渤海は国家として認め、鉄利は国家名ではなく、部族名であるとさえ想到してもかまないだろう。


なお、 『唐書』巻219[6179-7]に よれば、「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」とある。

その靺鞨は高句麗に接した所にいた栗末部、その北にいた伯咄部、その東北に安車骨部、伯咄部の東に沸涅部、その東にいた号室部、安車骨部の西北に黒水部、そして粟末部の東南には白山部の7つのグループに分かれていたらしい。

高句麗が滅亡した後、白山部・安居骨部・沸涅部・号室部などがいずれかに吸収されたが、黒竜江流域に居住していた靺鞨の内で黒水部と粟末部のみが生き抜いた。

したがって、渤海語の根幹にツングース語系の粟末靺鞨語があったと推定され、語彙などに高句麗語を含まれていたと考えてよいだろう。というのも、そもそも渤海は粟末靺鞨と高句麗の残党によって建国されたからである。




2024年6月10日月曜日

意富加羅国と大辛氏

 『日本書紀』垂仁2年是歳条に、

一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」

とある。この記事自体はあまりにも著名であるので、不要な解説は抜きにして、早速私の問題の所在を指摘したい。

 本文によると、角鹿在地の人が来着した「額有角人」に対して質問する、「何国人也」と。その来着者は「意富加羅国」人だと答える。その名を「都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐」と回答する。この名に関しては、後考に委ねる。

 当面の考察対象は、「何国人也」と尋ねたのに対して、その来着者が「意富+加羅+国」と回答した時に、「加羅」の前に「意富」という語を付着させていることである。この「意富」は「おほ」と読み、「大きい」と理解するのが定説である。例えば、「お ほ ち (大 路 )」だけを取り上げれば、容易に納得できるだろう。 「青 丹 よ し 余 良 の 於 保 知 は 行 き よ け ど こ の 山 道 は 行 き 悪 し か り け り (安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利)」(万 3728番歌 ) とか「路(ミチ、 オ ホ チ)(名 義 抄 )」を提示するだけでもその補完は十分である。なお、追記するならば、『続日本紀』天平18年正月条の

*大辛刀自売

の例も頭の隅においてよいだろう。

その考え方を支持するならば、その問答は日本語運用者しか理解出来ないことになる。加えて、敦賀に来着した朝鮮半島人と現地人との間に訳語(通詞)が介在しない会話を成立させている。

 ここで想像を許されるならば、その朝鮮半島の「おほから」の地が日本語と朝鮮語(加羅語)の両言語の通用を可能にした多重言語地帯であったと考えられる。人々はバイリンガルもしくはトリリンガルであったと推測したい。例えば、シンガポールでは英語・中国語・マレー語・タミル語の4言語が公用語であるように。

なお、日本の統治地域であったと想定するつもりは全くない。朝鮮半島に存在した百済や新羅の王権が及ばず、そして日本の支配も届かない、いわば両統治が重なり合う中間地帯を想像したい。それがこの朝鮮半島南部地域において政治的に必要であったからである。朝鮮半島各国や日本列島、さらには中国大陸などの諸権益の緩衝地帯であったのではないだろうか。

 もちろんこの一語(「意富」)だけを針小棒大化して、すべてを解決できると甘い期待を持つわけではない。むしろ硬直した日韓古代交流史に多様な考えを提出したいと願うだけである。



 

2024年6月3日月曜日

賀羅国人か新羅国人か

下記は『続日本紀』天平宝字2年(758)10月28日条である。

(資料①) 「丁卯、授、遣渤海大使從五位下小野朝臣田守、從五位上。副使正六位下高橋朝臣老麻呂、從五位下。其餘六十六人、各有差。

 美濃國席田郡大領外正七位上子人、中衛無位吾志等言、子人等六世祖父乎留和斯知、自賀羅國慕化來朝。當時、未練風俗、不著姓字。望隨國號、蒙賜姓字、賜姓賀羅
この記事の趣旨は、 美濃國席田郡大領-外正七位上-子人、中衛-無位-吾志等が上申して、子人等六世祖父-乎留和斯知は「自賀羅國慕化來朝」とあるように、「賀羅國」から来日したとある。この6世先の祖先であるので、仮に1世を約30年と推定すれば、約200年前に来日しただろう。
 興味深いのは、天平宝字2年(758)の約200年をさかのぼる550年ごろに、朝鮮半島に「賀羅」国が存在していたと主張しても、周囲から咎められることがなかったことである。
ところで、問題はそう簡単ではない。『続日本紀』霊亀元年(715)7月丙午(13日)条に、

(資料②)「丙午、知太政官事一品穗積親王、薨。遣從四位上石上朝臣豐庭、從五位上小野朝臣馬養、監護喪事。天武天皇之第五皇子也。
 尾張國人外從八位上席田君邇近、及新羅人七十四家、貫于美濃國、始建席田郡焉

とある。つまり、天平宝字2年条にある「美濃國席田郡大領外正七位上子人」らと尾張國人外從八位上席田君邇近」との関係が気になるが、これらは親密な関係にある一族であったと理解して大過ないだろう。

加えて「席田君」が筑前国席田郡(福岡市東区および糟屋郡など一帯)に出自する人であったらしいことにも、留意しておきたい。

これら3点をつなぎ合わせると、席田君の出身は賀羅国」を語るだけに、何らかの理由で朝鮮半島を離れ、まず筑前国席田郡に来住した。そしていつの時代か不明であるが、筑前国から尾張国に移住した。そして霊亀元年(715)7月に尾張国から美濃国席田郡へ「新羅人」として移配された。
しかしながら天平宝字2年(758)になって、彼らは突如として「新羅人」ではなく、「賀羅国」人だと宗旨替えを実行する。なぜ、天平宝字2年なのか。
 下記の資料に見る通り、この時期に藤原仲麻呂政権下における各種の渡来人政策の急速な動きと変化を見逃さないでおこう。逆に言えば、席田君らは彼らの生存を危険に冒すわけにいかない切羽詰まった理由である。

天平宝字2年8月:帰化した新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し、新羅郡を設置したからである。かれら席田君らは尾張国から美濃国への移住の強制を思い出すのは、『続日本紀』霊亀2年5月の記事である。

とあるように、東国への新羅人(「高麗人」)の移配された記憶も作用したはずである。筑前国から尾張国、そして美濃国へと移り住み、さらに東国へと強制移住させられてはなる
まいと考えただろう。
加えて、『経国集』巻20に見る通り、新羅征討法が出題されており、席田君らは遠からぬ内に新羅征討の海外遠征を予測していたと思う。

「『経国集』巻20 策下 対策

問。三韓朝宗。為日久矣。占風輸貢。歳時靡絶。頃藂爾新羅。漸闕蕃礼。蔑先祖之要誓。従後主之迷図。思欲。多発楼船。遠揚威武。斮奔鯨於鯷壑。戮封豕於鶏林。但良将伐謀。神兵不戦。欲到斯道。何施而獲。

 

文章生大初位上紀朝臣眞象上

臣聞。六位時成。大易煥師貞之義。五兵爰設。玄女開武定之符。人禀剛柔。共陰陽而同節。情分喜怒。與乾坤以通靈。實知。天生五材。民並用之。廢一不可。誰能去兵。若其欲知水者先達其源。欲知政者先達其本。不然何以驗人事之終始。究徳敎之汚隆。故追光避影而影逾興。抽薪止沸而沸乃息。何則。極末者功虧。統源者効顯。觀夫。夷狄難化。由来尚矣。禮儀隔於人靈。侵伐由於天性。雁門警狁火。獫猾於周民。馬邑驚鹿塵イ驕。子梗放漢地。自彼迄今。歴代不免。其有協柔荒之本圖。悟懷狄之遠者。是蓋千歳舞階之主。江漢被化之君也。故不血一刄而密須歸仁。不勞一戎而有苗向徳。然則甲千重。虎賁百萬。蹴穴イ之地。叱咜鋒刄之間。徒見師旅之勞。遂無綏寧之實。我國家。子愛海内。君臨中。四三皇以垂風。一六合而光宅。青雲中呂。異域多問化之人。白露凝秋。將軍無耀威之所。兵器鎖而無用。戎旗卷而不舒。別有西北一隅鶏林小域。人迷禮法。俗尚頑兇。傲天侮神。逆我皇化。爰警居安之懼。仍想柔邊之方。秘略奇謀。俯訪浅智。夫以。勢成而要功。非善者也。戰勝而矜名。非良將也。故擧秋毫者。不謂多力。聽雷電者。不爲聡耳。古之善戰者無智力。無勇功。謀於未萠之前。立於不敗之地。是以權或不失。市人可駈而使。謀或不差。敵國可得而制。發號施令。使人皆樂聞。接刄交鋒。使人皆安死。以我順而乗元イ逆。以我和而取元イ離。孫再生。不知爲敵人計矣。是百勝之術。神兵之道也。於臣之所見。当今之略者。多発船航遠跨邊岸。耕耘既撫甿之術。役之勞。紛織無脩。室盈怨曠之歎。殆撫甿之術。恐貽害仁之刺。誠宜択陸賈出境之才。用文翁牧人之宰。陳之以徳義。示之以利害。然後啗以玉帛之利。敦以和親之辭。絶其股肱之佐。呑其要害之地。則同於檻獣。自有求食之心。類於井魚。詎有觸綸之意。謹對。

 

問。上古淳朴。(以下、略)」


いずれにせよ、席田君らは「新羅人」だと自称することによる利益を見出さなかったからだろう。だからこそ、彼らは急いで「賀羅国」人へと衣換えをすることで、彼らはチャンスを捕まえ、さらには大きな利益が期待できたからであろう。













2024年5月30日木曜日

臼杵城下の唐人町

大分県史近世編


画面左側に唐人町とある。

さて『桜翁雑録』には、唐人と高麗人を書き分けている。高麗人 善右衛門とか、高麗人 小右衛門とか。

従って、中国人が先に定着し、文禄・慶長の役以降に朝鮮人が定住したとわかる。



2024年5月12日日曜日

 小林謙一 2002「韓半島出土の倭系甲冑」『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』

  小林謙一 2002「韓半島出土の倭系甲冑」『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』


日本列島における重装騎兵装備の出現 は、早くても 5世紀後半だという。桂甲が日本列島の広範囲に普及している状況を 考慮すれば、新たに導入された騎兵装備には、重装騎兵が含まれていた

2024年4月25日木曜日

蝦夷訳語

 元慶5年(881)5月3日条には、

「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野」

の記事が見える。この日、物部斯波連永野は外従五位下を授けられた。そもそも物部斯波連は尚和7年(840)3月12日条に、

*物部斯波連宇賀奴

の名が認められる。しかも彼は「夷」とあるので、もともと蝦夷系住民であった。この宇賀奴との永野との間に血縁関係があったとする証拠はない。だが物部斯波連が蝦夷語に親しい一族であったとするば、2人の濃密な血縁関係を否定するには膨大なエネルギーを要するだろう。

2024年4月24日水曜日

江戸藩邸リスト

 『沙羅書房古書目録』第104号、304頁に、

「鶴岡より江戸道中絵画」(仮題)安永7年写し

が出品されている。原本は未見であるが、鶴岡から江戸中屋敷までの道中を記述するらしい。

グーグルの計算では、その道中は475キロ。

当時の鶴岡藩江戸藩邸は、

下屋敷(台東区浅草橋1丁目)→中屋敷(千代田区神田和泉町)→上屋敷(千代田区大手町1丁目)

であった。

なお、江戸藩邸の場所を知るに、

大名屋敷 – Google Earthで街並散歩(江戸編) (sannpo.iobb.net)

は便利なツールである。

参考資料

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)



2024年4月8日月曜日

新羅郡人沙羅真熊は同一人物か?

 『続日本紀』宝亀11(780) 年5月甲戌条に 武蔵国新羅郡人沙羅真熊等二人の名前を見る。

五月,甲子朔辛未,以京庫及諸國甲六百領,且送鎮狄將軍之所。
 甲戌,左京人-從六位下-莫位-百足等一十四人,右京人-大初位下-莫姓-真士麻呂等一十六人,並賜姓-清津造。左京人從-六位上-斯臈-行麻呂,賜姓-清海造。右京人-從七位下-燕-乙麻呂等一十六人,並賜姓御山造。正八位上-韓-男成等二人,賜姓-廣海造。武藏國新羅郡人-沙良-真熊等二人,賜姓-廣岡造。攝津國豐嶋郡人-韓人-稻村等一十八人,賜姓-豐津造。」

 

『文徳天皇実録』嘉祥3(850)年 11 月己 卯条には、

「 従四位下、治部大輔興世朝臣書主卒 (中 略)、能く和琴を弾き、仍大歌所別当為、常会供奉、新羅人沙良真熊、善新羅琴弾」

とあるが、この二人は同一人物だろうか。


********************

<参考情報>

没年嘉祥3.11.6(850.12.12)
生年宝亀9(778)
平安前期の官人。吉田古麻呂の子。百済系渡来氏族で,祖父,父共に侍医であったが,書主は早くから嵯峨天皇に寵愛されて左衛門大尉,左近衛将監などを歴任した。儒学に精通する一方,泳ぎや武芸にも秀でていたことから,武官に抜擢されたのであろう。和琴の名手としても知られ,新羅人沙良真熊から新羅琴を秘伝されている。和泉守,備前守としても名声を得た。承和4(837)年興世朝臣の姓を賜る。嘉祥3(850)年治部大輔となったが,山林に隠棲し仏道に専念,多感な生涯を送った。

(瀧浪貞子)