2024年6月20日木曜日

人「生」いろいろ

 日本語の難しさは漢字音の多さ。実生活の中で、この漢字に出会うたびに、それを記憶する日本語習得の壁を感じる。

1,人生ージン「セイ」(漢音)

2、生涯ー「ショウ」ガイ(呉音)

⇒誕生ータン「ジョウ」

3,生きるー「イ」キル

4,生まれるー「ウ」マレル

5,生糸ー「キ」イト

6,皆生ーカイ「ケ」

7,麻生ーあそ「ウ」

8,羽生ーは「ニュウ」

9,生憎ー「アイ」ニク

などなど


「千代」に関して

 古代において、「千代」といえば、町段歩制以前の田積の単位である。高麗尺六尺=一歩の測地法。

「一〇〇歩四方」が二千代

2024年6月10日月曜日

意富加羅国と大辛氏

 『日本書紀』垂仁2年是歳条に、

一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」

とある。この記事自体はあまりにも著名であるので、不要な解説は抜きにして、早速私の問題の所在を指摘したい。

 本文によると、角鹿在地の人が来着した「額有角人」に対して質問する、「何国人也」と。その来着者は「意富加羅国」人だと答える。その名を「都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐」と回答する。この名に関しては、後考に委ねる。

 当面の考察対象は、「何国人也」と尋ねたのに対して、その来着者が「意富+加羅+国」と回答した時に、「加羅」の前に「意富」という語を付着させていることである。この「意富」は「おほ」と読み、「大きい」と理解するのが定説である。例えば、「お ほ ち (大 路 )」だけを取り上げれば、容易に納得できるだろう。 「青 丹 よ し 余 良 の 於 保 知 は 行 き よ け ど こ の 山 道 は 行 き 悪 し か り け り (安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利)」(万 3728番歌 ) とか「路(ミチ、 オ ホ チ)(名 義 抄 )」を提示するだけでもその補完は十分である。なお、追記するならば、『続日本紀』天平18年正月条の

*大辛刀自売

の例も頭の隅においてよいだろう。

その考え方を支持するならば、その問答は日本語運用者しか理解出来ないことになる。加えて、敦賀に来着した朝鮮半島人と現地人との間に訳語(通詞)が介在しない会話を成立させている。

 ここで想像を許されるならば、その朝鮮半島の「おほから」の地が日本語と朝鮮語(加羅語)の両言語の通用を可能にした多重言語地帯であったと考えられる。人々はバイリンガルもしくはトリリンガルであったと推測したい。例えば、シンガポールでは英語・中国語・マレー語・タミル語の4言語が公用語であるように。

なお、日本の統治地域であったと想定するつもりは全くない。朝鮮半島に存在した百済や新羅の王権が及ばず、そして日本の支配も届かない、いわば両統治が重なり合う中間地帯を想像したい。それがこの朝鮮半島南部地域において政治的に必要であったからである。朝鮮半島各国や日本列島、さらには中国大陸などの諸権益の緩衝地帯であったのではないだろうか。

 もちろんこの一語(「意富」)だけを針小棒大化して、すべてを解決できると甘い期待を持つわけではない。むしろ硬直した日韓古代交流史に多様な考えを提出したいと願うだけである。



 

2024年6月3日月曜日

賀羅国人か新羅国人か

下記は『続日本紀』天平宝字2年(758)10月28日条である。

(資料①) 「丁卯、授、遣渤海大使從五位下小野朝臣田守、從五位上。副使正六位下高橋朝臣老麻呂、從五位下。其餘六十六人、各有差。

 美濃國席田郡大領外正七位上子人、中衛無位吾志等言、子人等六世祖父乎留和斯知、自賀羅國慕化來朝。當時、未練風俗、不著姓字。望隨國號、蒙賜姓字、賜姓賀羅
この記事の趣旨は、 美濃國席田郡大領-外正七位上-子人、中衛-無位-吾志等が上申して、子人等六世祖父-乎留和斯知は「自賀羅國慕化來朝」とあるように、「賀羅國」から来日したとある。この6世先の祖先であるので、仮に1世を約30年と推定すれば、約200年前に来日しただろう。
 興味深いのは、天平宝字2年(758)の約200年をさかのぼる550年ごろに、朝鮮半島に「賀羅」国が存在していたと主張しても、周囲から咎められることがなかったことである。
ところで、問題はそう簡単ではない。『続日本紀』霊亀元年(715)7月丙午(13日)条に、

(資料②)「丙午、知太政官事一品穗積親王、薨。遣從四位上石上朝臣豐庭、從五位上小野朝臣馬養、監護喪事。天武天皇之第五皇子也。
 尾張國人外從八位上席田君邇近、及新羅人七十四家、貫于美濃國、始建席田郡焉

とある。つまり、天平宝字2年条にある「美濃國席田郡大領外正七位上子人」らと尾張國人外從八位上席田君邇近」との関係が気になるが、これらは親密な関係にある一族であったと理解して大過ないだろう。

加えて「席田君」が筑前国席田郡(福岡市東区および糟屋郡など一帯)に出自する人であったらしいことにも、留意しておきたい。

これら3点をつなぎ合わせると、席田君の出身は賀羅国」を語るだけに、何らかの理由で朝鮮半島を離れ、まず筑前国席田郡に来住した。そしていつの時代か不明であるが、筑前国から尾張国に移住した。そして霊亀元年(715)7月に尾張国から美濃国席田郡へ「新羅人」として移配された。
しかしながら天平宝字2年(758)になって、彼らは突如として「新羅人」ではなく、「賀羅国」人だと宗旨替えを実行する。なぜ、天平宝字2年なのか。
 下記の資料に見る通り、この時期に藤原仲麻呂政権下における各種の渡来人政策の急速な動きと変化を見逃さないでおこう。逆に言えば、席田君らは彼らの生存を危険に冒すわけにいかない切羽詰まった理由である。

天平宝字2年8月:帰化した新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し、新羅郡を設置したからである。かれら席田君らは尾張国から美濃国への移住の強制を思い出すのは、『続日本紀』霊亀2年5月の記事である。

とあるように、東国への新羅人(「高麗人」)の移配された記憶も作用したはずである。筑前国から尾張国、そして美濃国へと移り住み、さらに東国へと強制移住させられてはなる
まいと考えただろう。
加えて、『経国集』巻20に見る通り、新羅征討法が出題されており、席田君らは遠からぬ内に新羅征討の海外遠征を予測していたと思う。

「『経国集』巻20 策下 対策

問。三韓朝宗。為日久矣。占風輸貢。歳時靡絶。頃藂爾新羅。漸闕蕃礼。蔑先祖之要誓。従後主之迷図。思欲。多発楼船。遠揚威武。斮奔鯨於鯷壑。戮封豕於鶏林。但良将伐謀。神兵不戦。欲到斯道。何施而獲。

 

文章生大初位上紀朝臣眞象上

臣聞。六位時成。大易煥師貞之義。五兵爰設。玄女開武定之符。人禀剛柔。共陰陽而同節。情分喜怒。與乾坤以通靈。實知。天生五材。民並用之。廢一不可。誰能去兵。若其欲知水者先達其源。欲知政者先達其本。不然何以驗人事之終始。究徳敎之汚隆。故追光避影而影逾興。抽薪止沸而沸乃息。何則。極末者功虧。統源者効顯。觀夫。夷狄難化。由来尚矣。禮儀隔於人靈。侵伐由於天性。雁門警狁火。獫猾於周民。馬邑驚鹿塵イ驕。子梗放漢地。自彼迄今。歴代不免。其有協柔荒之本圖。悟懷狄之遠者。是蓋千歳舞階之主。江漢被化之君也。故不血一刄而密須歸仁。不勞一戎而有苗向徳。然則甲千重。虎賁百萬。蹴穴イ之地。叱咜鋒刄之間。徒見師旅之勞。遂無綏寧之實。我國家。子愛海内。君臨中。四三皇以垂風。一六合而光宅。青雲中呂。異域多問化之人。白露凝秋。將軍無耀威之所。兵器鎖而無用。戎旗卷而不舒。別有西北一隅鶏林小域。人迷禮法。俗尚頑兇。傲天侮神。逆我皇化。爰警居安之懼。仍想柔邊之方。秘略奇謀。俯訪浅智。夫以。勢成而要功。非善者也。戰勝而矜名。非良將也。故擧秋毫者。不謂多力。聽雷電者。不爲聡耳。古之善戰者無智力。無勇功。謀於未萠之前。立於不敗之地。是以權或不失。市人可駈而使。謀或不差。敵國可得而制。發號施令。使人皆樂聞。接刄交鋒。使人皆安死。以我順而乗元イ逆。以我和而取元イ離。孫再生。不知爲敵人計矣。是百勝之術。神兵之道也。於臣之所見。当今之略者。多発船航遠跨邊岸。耕耘既撫甿之術。役之勞。紛織無脩。室盈怨曠之歎。殆撫甿之術。恐貽害仁之刺。誠宜択陸賈出境之才。用文翁牧人之宰。陳之以徳義。示之以利害。然後啗以玉帛之利。敦以和親之辭。絶其股肱之佐。呑其要害之地。則同於檻獣。自有求食之心。類於井魚。詎有觸綸之意。謹對。

 

問。上古淳朴。(以下、略)」


いずれにせよ、席田君らは「新羅人」だと自称することによる利益を見出さなかったからだろう。だからこそ、彼らは急いで「賀羅国」人へと衣換えをすることで、彼らはチャンスを捕まえ、さらには大きな利益が期待できたからであろう。













2024年5月30日木曜日

臼杵城下の唐人町

大分県史近世編


画面左側に唐人町とある。

さて『桜翁雑録』には、唐人と高麗人を書き分けている。高麗人 善右衛門とか、高麗人 小右衛門とか。

従って、中国人が先に定着し、文禄・慶長の役以降に朝鮮人が定住したとわかる。



2024年5月12日日曜日

 小林謙一 2002「韓半島出土の倭系甲冑」『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』

  小林謙一 2002「韓半島出土の倭系甲冑」『古代東アジアにおける倭と加耶の交流』


日本列島における重装騎兵装備の出現 は、早くても 5世紀後半だという。桂甲が日本列島の広範囲に普及している状況を 考慮すれば、新たに導入された騎兵装備には、重装騎兵が含まれていた

2024年4月25日木曜日

蝦夷訳語

 元慶5年(881)5月3日条には、

「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野」

の記事が見える。この日、物部斯波連永野は外従五位下を授けられた。そもそも物部斯波連は尚和7年(840)3月12日条に、

*物部斯波連宇賀奴

の名が認められる。しかも彼は「夷」とあるので、もともと蝦夷系住民であった。この宇賀奴との永野との間に血縁関係があったとする証拠はない。だが物部斯波連が蝦夷語に親しい一族であったとするば、2人の濃密な血縁関係を否定するには膨大なエネルギーを要するだろう。

2024年4月24日水曜日

江戸藩邸リスト

 『沙羅書房古書目録』第104号、304頁に、

「鶴岡より江戸道中絵画」(仮題)安永7年写し

が出品されている。原本は未見であるが、鶴岡から江戸中屋敷までの道中を記述するらしい。

グーグルの計算では、その道中は475キロ。

当時の鶴岡藩江戸藩邸は、

下屋敷(台東区浅草橋1丁目)→中屋敷(千代田区神田和泉町)→上屋敷(千代田区大手町1丁目)

であった。

なお、江戸藩邸の場所を知るに、

大名屋敷 – Google Earthで街並散歩(江戸編) (sannpo.iobb.net)

は便利なツールである。

参考資料

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)



2024年4月8日月曜日

新羅郡人沙羅真熊は同一人物か?

 『続日本紀』宝亀11(780) 年5月甲戌条に 武蔵国新羅郡人沙羅真熊等二人の名前を見る。

五月,甲子朔辛未,以京庫及諸國甲六百領,且送鎮狄將軍之所。
 甲戌,左京人-從六位下-莫位-百足等一十四人,右京人-大初位下-莫姓-真士麻呂等一十六人,並賜姓-清津造。左京人從-六位上-斯臈-行麻呂,賜姓-清海造。右京人-從七位下-燕-乙麻呂等一十六人,並賜姓御山造。正八位上-韓-男成等二人,賜姓-廣海造。武藏國新羅郡人-沙良-真熊等二人,賜姓-廣岡造。攝津國豐嶋郡人-韓人-稻村等一十八人,賜姓-豐津造。」

 

『文徳天皇実録』嘉祥3(850)年 11 月己 卯条には、

「 従四位下、治部大輔興世朝臣書主卒 (中 略)、能く和琴を弾き、仍大歌所別当為、常会供奉、新羅人沙良真熊、善新羅琴弾」

とあるが、この二人は同一人物だろうか。


********************

<参考情報>

没年嘉祥3.11.6(850.12.12)
生年宝亀9(778)
平安前期の官人。吉田古麻呂の子。百済系渡来氏族で,祖父,父共に侍医であったが,書主は早くから嵯峨天皇に寵愛されて左衛門大尉,左近衛将監などを歴任した。儒学に精通する一方,泳ぎや武芸にも秀でていたことから,武官に抜擢されたのであろう。和琴の名手としても知られ,新羅人沙良真熊から新羅琴を秘伝されている。和泉守,備前守としても名声を得た。承和4(837)年興世朝臣の姓を賜る。嘉祥3(850)年治部大輔となったが,山林に隠棲し仏道に専念,多感な生涯を送った。

(瀧浪貞子)

2024年3月9日土曜日

日本古代漢字音整理のお願い

 どなたか有識者へのお願い


確かにカールグレンや王力などの力作で、古代漢字音研究飛躍的に進展した。しかしながら、時代別、地域別中国語研究となると、寡聞にしてその総括的整理を知らない。

正直に言えば、古代朝鮮語を知る手掛かりとしたいからである。

そして、その推定の上に、渡来人たちが日本に持ち込んだ漢字音を復元したい。確かに夢物語であるが、その夢に向かってドンキホーテ的挑戦を続けている。


なお、

呉音は仏教系、漢音は儒教系だと言う俗説に賛同しない。

2024年2月21日水曜日

古代建築材に関する研究

  古代建築の用材や出土コウヤマキ材に注目した研究は多い。代表的なものとして以下をあげる。

西岡常一・小 原二郎『法隆寺を支えた木』(NHKブックス318、日本放送出版協会、1978年6月)、

岡田英男「古代建築に使った 木」(『普請研究』8、1984年6月)、

『古墳時代木棺の用材選択に関する研究』(平成15~平成17年度科学研究費補助 金基盤研究(C)(2)研究成果報告書、研究代表者岡林孝作)

、『古墳時代におけるコウヤマキ材の利用実態に関する 総合的研究』(平成18~平成20年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書、研究代表者岡林孝作)、

裕 明「古墳時代王権中枢のコウヤマキ利用」(『博古研究』46、2013年10月

2024年2月20日火曜日

日本の相撲の源流を探る

 正倉院所蔵の『周防国正税帳』天平10年に、相撲に関する興味深い記事がある。

6月20日条:長門国相撲人3人

6月21日条:周防国相撲人3人

の記事である。平城京へ向かう6人であるが、いずれも相撲取りとある。両国から選抜された、腕っぷしの強い力自慢の者たちが平城京での相撲大会に出場したかもしれない。

どうやら各国から相撲取り(相撲人)が平城京へ派遣されたらしい。平城京場所の具体像は不明であるが。ジョークは別としても、相撲本来が神事であったと考えられるので、その儀式に参加する力士であったらしい。


なお、次の木簡も相撲に関係するが、この人物も平城京場所に出場したかもしれない。出土場所が「平城京式部省東方」とあり、相撲会場とは無関係である。「木善佐美」は「しこ名」かとも思えるが、この時代に勧進相撲はあり得ないので、名前であろう。

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAIBN14000111
木簡番号0
本文・甲斐○□□ε(二人の人物画)・【千□】○木善佐美\○人国国\○忍○乃止国○未年ε(相撲絵)
寸法(mm)(209)
47
厚さ4
型式番号065
出典木研20-17頁-1(98)(城34-20下(214))
文字説明 
形状上欠(折れ)、下欠(折れ)、左削り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮式部省東方・東面大垣東一坊大路西側溝
所在地奈良県奈良市佐紀町・法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数274
遺構番号SD4951
地区名6AAIBN14
内容分類文書?・習書
国郡郷里 
人名木善佐美
和暦 
西暦 
木簡説明 

2024年2月4日日曜日

玄界灘に浮かぶ大島方言 米と酒

 『大島村史』昭和60年、588頁に、大島村方言として

*米=シャリ(梵語・朝鮮語)

*酒=チンタ(南蛮語)

とある。

たしかに本土では、お寿司屋さんでお米を「シャリ」と呼ぶ。しかし、それ以外の一般家庭や冠婚葬祭など場所でも、日常生活で「シャリ」ということはない。

 同書では、現代朝鮮語の 쌀 を連想しているが、それが正解かどうかは不明である。


チンタは、

(ポルトガル語)vinho tinto》赤ぶどう酒。

に由来するだろう。






古代の女性医師ーー竹野王子女医

 



詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITE11000445
木簡番号0
本文・竹野王子女医二口・一升半受真木女
寸法(mm)(107)
17
厚さ5
型式番号019
出典城23-8上(40)
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数193E
遺構番号SD4750
地区名6AFITE11
内容分類文書
国郡郷里 
人名竹野王子・真木女
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報

当該木簡を取り上げている研究文献一覧を表示します。

古代の名医ー従六位下太羊甲許母

 



詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITB11000371
木簡番号147
本文・◇符○召医許母矣進出急々・◇○五月九日○/家令/家扶∥
寸法(mm)268
41
厚さ5
型式番号011
出典◎平城京1-147(城21-6下(16))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数193E
遺構番号SD4750
地区名6AFITB11
内容分類文書
国郡郷里 
人名許母〈太羊甲許母〉
和暦5月9日
西暦5(月), 9(日)
木簡説明医の許母は、養老五年正月に医術を賞され絁等を賜った従六位下太羊甲許母のことであろう。彼は神亀元年五月に正六位下胛巨茂として再び『続紀』に登場し、この時に城上連を賜った。改姓後は城上連真立と名のったらしく(関晃『帰化人』)、天平二年一二月の大倭国正税帳には正六位上行大掾兼侍医として見え(『大日本古文書』一-四一三頁)、同七年四月に外従五位下に昇叙した著名な医師であった。彼が城上連の姓を賜ったのは木上という地にちなむものであり、長屋王家とは木上司を介してつながりをもったと推定する説(福原栄太郎「長屋王家形成についての基礎的考察」『続日本紀研究』二七七)もある。

■研究文献情報

古代の医薬品

 

1)楡皮


*********

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000109
木簡番号1739
本文□□〔楡皮ヵ〕五斤
寸法(mm)125
17
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1739(飛9-10上(45))
文字説明 
形状上削り、下切断、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上端・左右両辺削り、下端切断。「楡皮(ユヒ)」は、楡白皮あるいは零楡に同じ。ニレ科の落葉高木ユジュの周皮を除いた樹皮あるいは根皮に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』木上に「也尓礼」、『医心方』に「也尓礼、以倍尓礼」、内閣文庫本『延喜式』典薬寮に「ヤニレノカハ」(93紀伊年料雑薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、伊勢・美濃・出雲・紀伊各国の年料雑薬としてみえる(50伊勢年料雑薬条・64美濃年料雑薬条・83出雲年料雑薬条・93紀伊年料雑薬条)。楡皮は薬用以外に食用にも供され、皮を剝いだニレの皮を吊して乾かしてから臼でつき粉末にして食した。その工程は、『万葉集』巻十六―三九〇八番歌にもみえる(瀧川政次郎「楡樹楡皮考」『日本上古史研究』七―三、一九六三年)。藤原宮跡北面外濠SD一四五(第一八次調査)から「楡皮」と記した木簡が出土している(『藤原宮木簡一』一六一)。また、天平十一年(七三九)八月二十四日写経司解(正倉院文書続修後集第三十一巻④、『大日本古文書』二―一八四頁)に、「尓礼廿七把○價銭六十六文」とみえる。

■研究文献情報


(2)防風

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000112
木簡番号1721
本文・/出雲臣首万□/○/出雲臣石寸∥○/〈〉/出雲臣知万呂∥○防風十斤十二□〔両ヵ〕・○〈〉
寸法(mm)(272)
(25)
厚さ2
型式番号081
出典藤原宮4-1721(木研11-33頁-2(1)・飛9-11上(65))
文字説明 
形状上削りヵ、下二次的切断ヵ、左欠(割れ)、右欠(割れ)。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類文書
国郡郷里 
人名出雲臣首万□・出雲臣石寸・出雲臣知万呂
和暦 
西暦 
木簡説明上端削りか、下端二次的切断か、左右両辺割れ。薬物の支給に関わる文書であろう。大宝二年(七〇二)九月、出雲狛が臣の姓を賜っている(『続日本紀』同月乙酉条)。「防風(ボウフウ)」は、セリ科の多年草ボウフウの根に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草上・『医心方』に「波末須加奈、波末尓加奈」、内閣文庫本『延喜式』典薬寮に「ハマオホ」(2朧月御薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、駿河・伊豆・相模・上野各国の年料雑薬としてみえる(54駿河年料雑薬条・55伊豆年料雑薬条・57相模年料雑薬条・67上野年料雑薬条)。養老雑令によると、銀・銅・穀を量るには大斤、その他には小斤が用いられ(2度地条)、『延喜式』雑式によると、薬用を除き大斤が用いられた(7度量権衡条)。大一斤は一八〇匁(約六七四g)で、大一斤(大一六両)は小三斤(小一斤は小一六両)にあたるから、小一斤は約二二五g、小一両は約一四gである。

■研究文献情報


(3)芎窮


■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000103
木簡番号1727
本文・伊看我評・芎窮八斤
寸法(mm)90
24
厚さ4
型式番号032
出典藤原宮4-1727(荷札集成-148・木研11-33頁-2(5)・飛9-9下(34))
文字説明 
形状上削り、左削り、右削り。下端切断後表裏から面取り。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類荷札
国郡郷里丹波国何鹿郡伊看我評
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上端・左右両辺削り、下端切断の後表裏から面取り。「伊看我評」は、『和名抄』の丹波国何鹿郡にあたる。「芎窮(キュウキュウ)」は、川芎(センキュウ)ともいい、セリ科の多年草センキュウの根茎に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草上・『医心方』に「於无奈加都良久佐」、内閣文庫本『延喜式』典薬寮に「オウナカツラクサ」(3中宮朧月御薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、丹波など十二箇国の年料雑薬としてみえる(78丹波年料雑薬条など)。

■研究文献情報



(4)当帰


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDA64000101
木簡番号1728
本文・伊看我評・当帰五斤
寸法(mm)94
23
厚さ4
型式番号032
出典藤原宮4-1728(荷札集成-149・飛20-28上・木研11-34頁-2(6)・飛9-9下(35))
文字説明 
形状下削り、左削り、右削り、上端切断の上表裏ともに面取りする。下端左右両角を削り落とす。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDA64
内容分類荷札
国郡郷里丹波国何鹿郡伊看我評
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上端切断の後表裏から面取り、下端・左右両辺削り。「当帰(トウキ)」は、セリ科の多年草トウキ(和名カラトウキ)の根に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草中に「也末世利、宇末世利、加波佐久」、『医心方』に「宇末世利、也末世利、於保世利、加波佐久」とみえる。『延喜式』典薬寮に、丹波国が当帰を貢納する規定はみえないが(78丹波年料雑薬条)、隣国の但馬国に「当帰十斤」の規定があるなど十七箇国の年料雑薬としてみえる(80但馬年料雑薬条など)。奈良県飛鳥京跡苑池遺構から「当帰二両」(奈良県立橿原考古学研究所『史跡・名勝飛鳥京跡苑池(一)』五一号)と記した木簡が出土している。

■研究文献情報


(5)・□□〔決明ヵ〕子四両四両桂心三両白芷三両\○□○車前子三両防風三両・/○□両/柏実一両∥○右九物


■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000108
木簡番号1722
本文・□□〔決明ヵ〕子四両桃四両桂心三両白芷三両\○□○車前子三両防風三両・/○□両/柏実一両∥○右九物
寸法(mm)173
25
厚さ4
型式番号011
出典藤原宮4-1722(木研11-33頁-2(3)・飛9-11上(68))
文字説明裏面「柏」は異体字「栢」。
形状上切断後粗い削り、下削り、左削りヵ、右削りヵ。裏面下端部は墨を塗っている。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類文書
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上端切断後粗い削り、下端削り、左右両辺削りか。裏面下端部は墨を塗っている。薬物の支給に関わる文書ないし薬物の処方に関する文書であろう。元来、表面二行目と裏面一行目の判読できない箇所に一つずつ薬名が記されていたとすれば、九種類の薬名が記されていたことになり、「右九物」の記載と品数は一致する。

決明子(ケツメイシ)」は、マメ科の一年草ケツメイ(和名コエビスグサ)の成熟した種子に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草上・『医心方』に「衣比須久佐」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「エヒスクスリ」(58武蔵年料雑薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、駿河など十箇国の年料雑薬としてみえる(54駿河年料雑薬条など)。「桃(トウ)」は、後掲「桃人(トウニン)」(一七五二)を参照。
桂心(ケイシン)」は、クスノキ科の常緑高木肉桂(ニッケイ。和名ケイ)の幹皮と枝皮に比定される。『本草集注』草木上品に「桂」、『本草和名』木上、『和名抄』に「桂女加豆良」とみえる。藤原宮跡北辺地区から「桂心一両二分」(奈良県『藤原宮』八一号)、飛鳥池遺跡北地区溝SD一一一〇(第八四次調査)から「桂心二両」(『飛鳥藤原京木簡』一―七一一)と記した木簡が出土している。桂心は、『延喜式』典薬寮の諸国進年料雑薬にみえず、国内で自給できなかったらしい。天平勝宝八歳(七五六)六月二十一日献物帳(種々薬帳〈正倉院文書北倉158二巻の内。『大日本古文書』四―一七三頁〉)にみえる大仏に献納された正倉院薬物の桂心は、華南を産地とするものであり、また、奈良時代には新羅との交易で入手した例が知られる(天平勝宝四年六月十五日中臣伊勢連老人買物解〈尊経閣文庫所蔵文書。『大日本古文書』二十五―四五頁〉など)。「白芷(ビャクシ)」は、セリ科の多年草興安白芷(コウアンビャクシ。和名ヨロイグサ)などの根に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草中に「加佐毛知、佐波宇止、与呂比久佐」、『医心方』に「加佐毛知、与呂比久佐、佐波宇止、佐波曽良之」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「ムマクサ」(21近衛府雑薬条)、「ミラネクサ」(50伊勢年料雑薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、大和など十八箇国の年料雑薬としてみえる(46大和年料雑薬条など)。藤原宮跡北辺地区から「白芷二両」(奈良県『藤原宮』七四号)と記した木簡が出土している。「車前子(シャゼンシ)」は、オオバコ科の多年草車前(シャゼン。和名オオバコ)などの種子に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』草上に「於保波古」、『医心方』に「於保波己」とみえ、『延喜式』典薬寮に、大和など十七箇国の年料雑薬としてみえる(46大和年料雑薬条など)。藤原宮跡北辺地区から「車前子一升」(奈良県『藤原宮』七五号)と記した木簡が出土している。
「防風(ボウフウ)」は、一七二一。「
栢実(ハクジツ)」は、ヒノキ科の常緑高木側柏(ソクハク。和名コノテガシワ)の種子に比定され、「栢子仁(ハクシジン)」に同じ。『本草集注』草木上品、『本草和名』木上に「比乃美、加倍乃美」、『医心方』に「比乃美」とみえ、『延喜式』典薬寮に、参河など五箇国の年料雑薬としてみえる(52参河年料雑薬条など)。

■研究文献情報


(6)〓茄十斤


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000101
木簡番号1746
本文〓茄十斤
寸法(mm)125
20
厚さ2
型式番号031
出典藤原宮4-1746(木研11-34頁-2(11)・飛9-9下(41))
文字説明「〓」は「くさかんむり」に「五」。
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ属△
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。「〓(草冠+五)(五)茄(皮)(ゴカ・ゴカヒ)」は、ウコギ科の落葉低木ゴカなどの根皮に比定される。『本草集注』草木下品、『本草和名』木上に「牟古岐」、『医心方』に「牟古支」とみえ、『延喜式』典薬寮に、伊勢など十一箇国の年料雑薬としてみえる(50伊勢年料雑薬条など)。

■研究文献情報


(7)瞿麦一斤十両


■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000106
木簡番号1743
本文瞿麦一斤十両
寸法(mm)115
13
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1743(木研11-34頁-2(12)・飛9-10上(44))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右切り込みより上は削り、下は割れ。
樹種ヒノキ科#
木取り追柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上下両端・左辺削り、右辺切り込みより上は削り、下は割れ。
「瞿麦(クバク)」は、ナデシコ科の多年草クバク(和名エゾカワラナデシコ)、あるいは石竹(セキチク)の花を含む全草に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草中・『医心方』に「奈天之古」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「トコナツ、ナテシコ」(49伊賀年料雑薬条)、『和名抄』に「奈天之古、止古奈豆」とみえ、『延喜式』典薬寮に、伊賀など六箇国の年料雑薬としてみえる(49伊賀年料雑薬条など)。『万葉集』にも、なでしこを「瞿麦」と表記する例がみえる(巻三―四六七番歌題詞、巻八―一五〇〇番歌・一五四二番歌・一五五三番歌・一六一四番歌、巻十―一九七六番歌)。

■研究文献情報



(8)人参

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDB64000102
木簡番号1733
本文人参十斤
寸法(mm)129
20
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1733(木研11-34頁-2(9)・飛9-9下(39)・日本古代木簡選)
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種針葉樹材C(ヒノキ科)△
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDB64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
「人参(ニンジン)」は、ウコギ科の多年草ニンジン(和名オタネニンジン)の根に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』草上に「加乃尓介久佐、尓己太、久末乃以」、『医心方』に「加乃尓介久佐、尓己太、クマノイ」、内閣文庫本『延喜式』典薬寮に「ニコタクサ」(18斎宮寮雑薬条)とみえ、『延喜式』典薬寮に、摂津など十箇国の年料雑薬としてみえる(47摂津年料雑薬条など)。藤原宮跡東面外濠SD一七〇(第二七次調査)から「人参一両」と記した木簡が出土している(『藤原宮木簡三』一一〇八)。

■研究文献情報


(9)桔梗


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000131
木簡番号1725
本文无耶志国薬桔梗卅斤
寸法(mm)191
18
厚さ3
型式番号033
出典藤原宮4-1725(荷札集成-73・木研11-34頁-2(8)・飛9-9下(37)・日本古代木簡選)
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り、上端表裏とも面取りする。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類荷札
国郡郷里武蔵国无耶志国
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。「无耶志国」は、『古事記』にも「無耶志」とみえる武蔵国の古様な国名表記である(天安河之宇気比段)。「桔梗(キキョウ)」は、キキョウ科の多年草キキョウの根に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草下・『医心方』に「阿利乃比布岐、乎加止〻岐」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「アリノヒフキクサ」(19内匠寮雑薬条など)、『新撰字鏡』に「阿佐加保、岡止〻支」とみえ、『延喜式』典薬寮に、武蔵など二十四箇国の年料雑薬としてみえる(58武蔵年料雑薬条など)。「无耶志国」の表記は、一七二六にもみえるとともに、国の下に「薬」とあり、早い段階の「国薬」として国を単位とした薬物貢納の姿が窺われる(丸山裕美子「延喜典薬式「諸国年料雑薬制」の成立と『出雲国風土記』」前掲)。

■研究文献情報


(10)


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000102
木簡番号1726
本文无耶志国薬烏
寸法(mm)162
17
厚さ4
型式番号032
出典藤原宮4-1726(飛20-31下・荷札集成-74・木研11-34頁-2(7)・飛9-9下(36))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り、上端緩やかな圭頭形。
樹種ヒノキ科#
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類荷札
国郡郷里武蔵国无耶志国
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。「烏」は不詳だが、『延喜式』典薬寮に烏頭がみえ(58武蔵年料雑薬条)、あるいはこれを指すか。「
烏頭(ウズ)」は、キンポウゲ科の多年草ウズ(トリカブト)の野生種北烏頭(ホクウズ。和名エゾトリカブト)あるいはその他多種の同属植物の塊根に比定される。『本草集注』草木下品、『本草和名』草下に烏〓(喙の別字)・天雄・附子・側子と共に「已上五種和名於宇」、『医心方』に「於宇」とみえ、『延喜式』典薬寮に、武蔵・近江・下野各国の年料雑薬としてみえる(58武蔵年料雑薬条・63近江年料雑薬条・68下野年料雑薬条)。『唐律疏議』巻十八、賊盗律に毒薬の一つとしてみえ(16以毒薬薬人条)、日本律にも同様にみえる(16毒薬条)。

■研究文献情報


(11)棑子一斗


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000122
木簡番号1749
本文棑子一斗
寸法(mm)91
13
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1749(飛9-10下(55))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
「棑(榧)子(ヒシ)」は、イチイ科の常緑高木榧(ヒ。和名カヤ)の種子に比定される。『本草集注』草木下品に「榧実」、『本草和名』木下・『医心方』に「榧実○加倍乃美」とみえ、『延喜式』典薬寮に、大和など二十四箇国の年料雑薬としてみえる(46大和年料雑薬条など)。

■研究文献情報


(12)大戟


■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000103
木簡番号1744
本文大戟
寸法(mm)103
20
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1744(木研11-34頁-2(15)・飛9-10上(48))
文字説明 
形状上削り、下切断、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上端・左右両辺削り、下端切断。「大戟(ダイゲキ)」は、トウダイグサ科の多年草ダイゲキ(和名タカトウダイ)などの根に比定される。『本草集注』草木下品、『本草和名』草下・『医心方』に「波也比止久佐」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「ヒヽラキ」(6雑給料条)、国立歴史民俗博物館蔵田中教忠旧蔵土御門本(以下、土御門本)『延喜式』典薬寮に「ムヤヒトクサ」とみえ(18斎宮寮雑薬条)、『延喜式』典薬寮に、大和など十一箇国の年料雑薬としてみえる(46大和年料雑薬条など)。

■研究文献情報


(13)蛇床子一升


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000104
木簡番号1738
本文蛇床子一升
寸法(mm)87
14
厚さ2
型式番号032
出典藤原宮4-1738(木研11-34頁-2(16)・飛9-10上(49))
文字説明「蛇」は異体字「虵」。
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
「蛇床子(ジャショウシ)」は、セリ科の一年草ジャショウの果実に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』草上・『医心方』に「比留无之呂、波末世利」とみえ、『延喜式』典薬寮に、尾張など十箇国の年料雑薬としてみえる(51尾張年料雑薬条など)。

■研究文献情報


(14)蛇脱皮


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000111
木簡番号1751
本文蛇脱皮一□
寸法(mm)92
16
厚さ4
型式番号032
出典藤原宮4-1751(木研11-34頁-2(17)・飛9-10上(51))
文字説明「蛇」は異体字「虵」。五文字目は「斗」または「升」か。
形状上削りヵ、下切断、左削り、右削り、二片分離。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上端削りか、下端切断、左右両辺削り。五文字目は助数詞で、斗または升か。
蛇脱皮(ダダッピ)」は、「蛇脱(蛻)(ダゼイ)」ともいい、ヘビ科の多種の動物の抜けがらに比定される。『本草集注』虫獣下品、『本草和名』虫魚類・『医心方』に「倍美乃毛奴介」、土御門本『延喜式』典薬寮に「クチナハノモヌケ」とみえ(49伊賀年料雑薬条)、『延喜式』典薬寮に、伊賀など六箇国の年料雑薬としてみえる(49伊賀年料雑薬条など)。

■研究文献情報


(15)白朮


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000112
木簡番号1731
本文白朮四□
寸法(mm)90
16
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1731(木研11-34頁-2(19)・飛9-10上(52))
文字説明四文字目は「斗」または「升」であろう。
形状上削り、下削り、左削り、右削り。上端左右にわずかに切り込みの痕跡が残る。
樹種ヒノキ△
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。上端左右にわずかに切り込みの痕跡が残る。四文字目は助数詞で、斗または升であろう。
「白朮(ビャクジュツ)」は、キク科の多年草ビャクジュツ(和名オオバナオケラ)の根茎に比定される。『本草集注』草木上品に「朮」、『本草和名』草上・『医心方』に「朮○乎介良」とみえ、『延喜式』典薬寮に、山城など三十三箇国の年料雑薬としてみえる(45山城年料雑薬条など)。天武天皇十四年(六八五)九月、天皇の病のために誦経が行なわれ、十月、十一月には白朮を煎じさせたとみえる(『日本書紀』同年九月丁卯条、十月庚辰条、十一月丙寅条)。現在でも胃腸薬に配合されており、日本古典文学大系『日本書紀』下(岩波書店、一九六五年)の頭注は胃薬として用いたと解釈する。『万葉集』には、「うけら」の語で東歌武蔵国歌に二首みえるほか(巻十四―三三九三番歌・三三九七番歌)、国不詳の相聞歌一首にもみえる(巻十四―三五二四番歌)。

■研究文献情報


(16)「独活(ドッカツ)」

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000119
木簡番号1737
本文独活十斤
寸法(mm)88
21
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1737(木研11-34頁-2(20)・飛9-10下(53))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
「独活(ドッカツ)」は、セリ科の多年草毛当帰(モウトウキ。和名シシウド)などとウコギ科の多年草食用楤木(ショクヨウソウボク。和名ウド)などの根と根茎に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』草上・『医心方』に「宇止、都知多良」、内閣文庫本『延喜式』典薬寮に「ムマタラ」(1元日御薬条)、『新撰字鏡』に「宇度、乃太良」とみえ、『延喜式』典薬寮に、山城など二十七箇国の年料雑薬としてみえる(45山城年料雑薬条など)。平城宮跡内裏北方官衙地区南北溝SD二七〇〇B(第一二九次調査)から「独活壱両」(『平城木簡概報』十五―一二頁下)、藤原宮跡朝堂院回廊東南隅溝SD九八一五(第一二八次調査)から「独活五両」(『藤原木簡概報』十八―一八頁上)と記した木簡が出土している。

■研究文献情報


(17)葛根(カッコン)」

詳細葛根(カッコン)」

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000120
木簡番号1741
本文葛根六斤
寸法(mm)79
19
厚さ5
型式番号032
出典藤原宮4-1741(木研11-34頁-2(21)・飛9-10下(54))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
「葛根(カッコン)」は、マメ科のつる性木本葛(カツ。和名クズ)の塊根に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草中・『医心方』に「久須乃祢」、元和本『和名抄』に「久須加豆良乃祢」とみえ、『延喜式』典薬寮に、山城・伊勢・近江・紀伊各国の年料雑薬としてみえる(45山城年料雑薬条・50伊勢年料雑薬条・63近江年料雑薬条・93紀伊年料雑薬条)。『本草集注』によると、五月五日の日中に採り、屑にするという。推古天皇十九年(六一一)五月五日、同二十年五月五日および同二十二年五月五日に薬猟の記事がみえ(『日本書紀』同日条)、和田萃は、この頃までに五月五日の薬猟が宮廷行事として確立していたのではないかという(和田「薬猟と本草集注―日本古代における道教的信仰の実態」前掲)。

■研究文献情報


(18)「黒石英(コクセキエイ)」

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDC64000121
木簡番号1729
本文・黒石英十一・斤
寸法(mm)82
17
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1729(木研11-34頁-2(27)・飛9-10下(61))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDC64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
「黒石英(コクセキエイ)」は、鉱物性の生薬で、『名医別録』・『本草集注』の白石英(ハクセキエイ)の項には、白石英のうち黒端を黒石英というとある。白石英は、酸化物類の鉱物の鉱石。白石英・紫石英(シセキエイ)は『本草集注』玉石上品、『本草和名』玉石上にみえる。『医心方』に「紫石英○出伯耆国」「白石英○出近江備中大宰」とみえ、産地が示される。内濠SD一四〇〇から、白石英が出土している。なお、黒石英は、紫石英(あるいは紫水晶)の色の濃いものとする理解もある(立木修「藤原宮出土の薬物木簡と古代医療の一側面」前掲)。

■研究文献情報

19)「夜干(ヤカン)」

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDD64000113
木簡番号1723
本文・□□□〔夜干ヵ〕三両杜中・〈〉
寸法(mm)(107)
14
厚さ3
型式番号081
出典藤原宮4-1723(木研11-33頁-2(4)・飛9-11上(69))
文字説明 
形状上欠(折れ)、下欠(折れ)、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDD64
内容分類文書
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上下両端折れ、左右両辺削り。薬物の支給に関わる文書ないし薬物の処方に関する文書であろう。

「夜干(ヤカン)」は、アヤメ科の多年草射干(ヤカン。和名ヒオウギ)の根茎に比定される。『本草集注』草木下品、『本草和名』草下に「加良須阿布岐」、『医心方』に「加良須安不岐」とみえ、『延喜式』典薬寮に、山城など十六箇国の年料雑薬としてみえる(45山城年料雑薬条など)。「杜中(仲)(トチュウ)」は、トチュウ科の落葉高木トチュウの樹皮に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』木上に「波比末由美」、『医心方』に「波比末由三」、内閣文庫本などの『延喜式』典薬寮に「ハヒマユカ」とみえ(51尾張年料雑薬条)、『延喜式』典薬寮に、摂津など十三箇国の年料雑薬としてみえる(47摂津年料雑薬条など)。

■研究文献情報

(20)知苺(母)(チモ)」

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDD64000111
木簡番号1742
本文知苺五斤
寸法(mm)156
18
厚さ4
型式番号031
出典藤原宮4-1742(木研11-34頁-2(23)・飛9-10下(57))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ△
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDD64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
知苺(母)(チモ)」は、ユリ科の多年草チモ(和名ハスナゲ)の根茎に比定される。『本草集注』草木中品、『本草和名』草中に「也末止古呂」、『医心方』に「也末止己呂、也末志」とみえ、『延喜式』典薬寮に、摂津など八箇国の年料雑薬としてみえる(47摂津年料雑薬条など)。藤原宮跡西面内濠SD一四〇〇(第一〇次調査)から「知母九斤」と記した木簡が出土している(『藤原宮木簡一』四九〇)。



知母は薬物。和名をヤマシまたはヤマトコロモという(『本草和名』『医心方』)。陶弘景の『本草注』によると解熱作用がある。上端の左辺を除いてほぼ原形をとどめるが、全体に腐蝕がはなはだしく、墨痕は追いにくい。

■研究文献情報

(21)「牛膝(ゴシツ)」


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDD64000112
木簡番号1735
本文牛膝十三斤
寸法(mm)144
18
厚さ4
型式番号031
出典藤原宮4-1735(木研11-34頁-2(24)・飛9-10下(58))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り板目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDD64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。

「牛膝(ゴシツ)」は、ヒユ科の多年草ゴシツの根に比定される。『本草集注』草木上品、『本草和名』草上に「為乃久都知、都奈岐久佐」、『医心方』に「為乃久都知、川奈岐久佐」とみえ、『延喜式』典薬寮に、山城など十七箇国の年料雑薬としてみえる(45山城年料雑薬条など)。

■研究文献情報

(22)桃人(仁)(トウニン)」

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDD64000102
木簡番号1752
本文桃人七升
寸法(mm)81
18
厚さ4
型式番号032
出典藤原宮4-1752(木研11-34頁-2(26)・飛9-10下(60))
文字説明 
形状上削り、下削り、左削り、右削り。
樹種ヒノキ科#
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDD64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周削り。
桃人(仁)(トウニン)」は、バラ科の落葉小高木桃(トウ。和名モモ)または山桃(サントウ)の種子に比定される。『本草集注』果下品に「桃核」、『本草和名』果・『医心方』に「桃核○毛〻」、内閣文庫本『延喜式』典薬寮に「桃仁○モヽサネ」とみえ(3中宮臘月御薬条)、『延喜式』典薬寮に、山城など四十一箇国の年料雑薬としてみえる(45山城年料雑薬条など)。藤原宮跡東面外濠SD一七〇(第二七次調査)から「桃人一升」と記した木簡が(『藤原宮木簡三』一一〇八)、藤原宮跡北辺地区から「桃子一二升」と記した木簡が出土している(奈良県『藤原宮』七七号)。

■研究文献情報

(23)「流(硫)黄(リュウオウ)」

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJLDZ64000101
木簡番号1730
本文□流黄一□
寸法(mm)108
22
厚さ3
型式番号032
出典藤原宮4-1730(木研11-34頁-2(28)・飛9-10下(62))
文字説明 
形状上削りヵ、下削り、左削り、右削りヵ。
樹種スギ△
木取り柾目
遺跡名藤原宮跡西面南門地区
所在地奈良県橿原市四分町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第58-1次
遺構番号SD1400
地区名6AJLDZ64
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明上端・右辺削りか、下端・左辺削り。

「流(硫)黄(リュウオウ)」は、鉱物性の生薬で、硫黄(イオウ)のこと。『本草集注』玉石中品に「石流黄」、『本草和名』玉石中に「由乃阿加」、『医心方』に「石流黄○由乃阿和」、『和名抄』に「流黄○本草䟽云、石流黄焚石液也。和名由乃阿和俗云由王」とみえ、『延喜式』典薬寮に、相模・信濃・下野各国の年料雑薬としてみえる(57相模年料雑薬条・66信濃年料雑薬条・68下野年料雑薬条)。内濠SD一四〇〇から、硫黄が出土している。『延喜式』典薬寮によると、左右馬寮に馬薬として年六升四合が支給されていた(24馬寮雑薬条)。『同』左右馬寮に毎季「硫黄一升六合」を官に申して請受けよとみえ、その数量は一致している(35馬薬条)。

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