2024年12月18日水曜日

哀悼、Carter J. Eckert先生

  Carter J. Eckert先生逝去の報告に接した。

ハーバード大学で、そしてAASなどで貴重な教えを受けた。偉大な研究者の心からのご冥福をお祈りします。

. Eckert先生から教わったのは、通説や定説を疑い、新たな仮説を立てること。そしてevidenceで完璧なまでに論証すること。徹底的な資料調査と、思いもかけない分野から発見された資料によって、「どうだ」とダメ押しをされて、読むものはギューの音も言えないこと。その手法の素晴らしさに、先生の著書が上梓されるたびに感じた。


最後に私が特筆しておかなくてはならないのは、ハーバード韓国学の樹立を目指した気概である。多忙の中で、予算確保や後学への熱心な指導などである。

余人をもって代え難い研究者の逝去に、重ねて哀悼の意を表したい。

ーーーーーー

Subject: [KS] Carter J. Eckert, 1945 


It is with deepest sadness that we announce<https://korea.fas.harvard.edu/news/carter-j-eckert-1945-2024> the passing of Carter J. Eckert<https://ealc.fas.harvard.edu/people/carter-eckert> (1945 - 2024), Yoon Se Young Professor of Korean History Emeritus at Harvard University.

2024年12月12日木曜日

「六反田豊」先生の「六反田」の由来

 教科書でもおなじみの日本古代の「条里制」を理解しなければ、「六反田」の語義は解しえない。

念のためにごく簡単に説明すれば、条理制とは土地表示システムであり、かつ課税管理システムである。1区画(1里=109.4m。高麗尺6尺=1歩、300歩=1里)四方に区画して、さらに東西南北に6区画を分ける仕組みである。その並べ方には千鳥式と平行式があったが、その説明はここでは割愛する。その二つの方式は各地の土地利用・地形に合わせて適用したので、一様ではない。

 さて、鹿児島県では六反田のほかに、例えば川内市の場合だけでも「六反畑」(平佐町)・「六反平」(宮崎町)・「六反堀」(宮崎町)などに見るように枚挙にいとまがない。同種の問題関心で探索を全国に拡大すると、「二反」・「三反」・「四反」・「五反」などもある。インターネット検索ではヒットするものの、管見に拠る限り、「八反」・「九反」を実際に見たことがないので、博雅の士のご教示を得たい。

さて、「六反田」先生の由来に戻ろう。上記したように、条里制の下、1からスタートしてその坪へと数え、それから36坪まで数字化されて土地は表示される。つまり六反田とは、その36坪を示す。

 したがって、六反田先生のご先祖の本貫がいずれにあるのかをお尋ねしないままであるが、その36坪の田を意味し、その表示田の持主もしくは借り主であったと仮説できる。

 なお、この「六反田」姓は圧倒的に鹿児島県に集中して存在する。その理由は後考を俟つ。




2024年12月11日水曜日

大野晋博士著作目録(未完)

 大野先生ご所蔵のA4判ノートに、ペン書き自筆で書かれた著作目録が残されていた。

生前に、私にそのノートのコピーを恵与してくださり、自らの学的トレース(昭和20年~昭和43年)をベンチマークせよというご命令であったと思うが、私の勘違いかもしれない。

大野先生の偉大な学問的業績の紹介は浅学菲才の小生にはいささか荷が重いが、近い将来に予定している「大野晋論の試み」の参考にも供したいと考えて、ここでご研究の一端を公開することは彼岸の彼方から先生も了となさり、先生の合言葉である「すすめ、進め、大野晋」とハッパをおかけになると信じる。(大野先生の評伝は、川村二郎著の名著『孤高 国語学者大野晋の生涯』2009年、280頁に詳しい)。

なお、本掲載にあたり、

①表記法はさまざまであったが、原文に忠実に再現した。

②漢数字は洋数字に変更した。


(1)昭和20年

◎3・4月合併号(国語と国文学)「万葉集巻第18の本文に就いて」


(2)昭和21年

◎2月号「文学」「うつせみの語義について」


(3)昭和22年

◎11月号(国語と国文学)「日本書紀の字音仮名に於ける清濁表記に就いて」(上)

◎10月号(解釈と鑑賞)「新刊紹介 時枝誠記博士『国語研究法』

(4)昭和23年

◎1月号(国語と国文学)「日本書紀の字音仮名に於ける清濁表記に就いて」(下)

◎6月号(余情第8集 佐々木信綱研究)「古典学の学問的基礎」

(5)昭和24年

◎10月号(国語と国文学)「柿本人麻呂訓詁新見」

(6)昭和25年

◎5月号(国語と国文学)「言語過程説に於ける詞・辞の分類について」

(7)昭和26年

◎大学院終了論文執筆

◎9月(国文学)「奈良朝語訓釈断片」

(国語学)「はじめて文法を教える時に」


(8)昭和27年

◎1月号(国語学)「古文を教える国語教師の対話」

◎2月号(教育) 「戦後の国語教育の検討」

大野先生の記述にある(教育)は「(『教育』 / 教育科学研究会 編 2 (2), 17-

22, 1952-02、東京 : 旬報社)だと推定して、補記する


◎4月号(万葉)「万葉集訓詁断片」

◎5月号(国語と国文学)「日本語と朝鮮語との語彙の比較についての小見」

◎8月(教育評論・日教組)「言語生活に必要な基礎的技能習得の実態とその対策」

◎12月号(文学)「仮名の発達と文学史との交渉




(9)昭和28年

◎6月10日「上代仮名遣の研究」岩波

◎6月号(国語と国文学)「日本の動詞の活用形の起源について」

◎金田一京助古希記念言語民俗論叢「『カラ』と『カラニ』の古い意味について」


(10)昭和29年

◎10月号(解釈と鑑賞)「日本語の黎明」

◎7月号(万葉12号)「奈良時代のヌとノの万葉仮名について」

◎8月号(言語生活)「語源を調べる」

◎8月(万葉集大成)「上代語の訓詁と上代特殊仮名遣」

◎(国語学9)「『上代仮名遣の研究』について」


(11)昭和30年

◎5月号(岩波図書)「日本語の古い辞書の話」

◎(国語学24)「基礎語彙に関する2、3の研究」


(12)昭和31年

◎3月号(文学)「レプチャ語とはどんな言葉か」

◎2月号(知性)「誤りと偽りの万葉集の謎」

◎4月号(文学)「万葉集開巻第1の歌」


(13)昭和32年

◎5月6日「日本古典文学大系万葉集(1)」

◎9月20日「日本語の起源」(岩波新書)

◎10月号(岩波図書)「日本語の起源 高津春繁氏」

◎4月号(岩波図書)「万葉ひとつの謎」


(14)昭和33年

◎10月号(岩波図書)「女らしいことば」

◎7月(筑摩現代国語学Ⅲ)「日本語の古さ」

◎10月号(近代文学No124)「日本語の起源」について


(15)昭和34年

◎9月5日「日本古典文学大系万葉集(2)」

◎2月号(岩波図書)「『日本語の系統』を読んで」

◎5月号(解釈と鑑賞)「万葉集研究の新しい方法と基準」「本文のきめ方」


(16)昭和35年

◎10月5日「日本古典文学大系万葉集(3)」

◎11月号(岩波図書)「ピラミッド型の教室」

◎10月(岩波古典大系月報)「日葡辞書のことなど」


(17)昭和36年

◎11月号(岩波図書)「ハワイの印象」

◎1月号(岩波図書)「私の読書法」

◎5月(岩波講座 教育7)「日本語の歴史的な根ーーぶんぽうきょういく私見」

◎5月(日本文化研究第9巻)「王朝文学と言語」

◎1月(日本文学協会・日本文学Vol10)「思想と文体」座談会


(18)昭和37年

◎5月7日「日本古典文学大系万葉集(4)」

◎7月号「優と艶と色好み」

◎6月号(法政、No121)「言語は文化とともにある」

◎1月号(世界)「新国語審議会の課題」

◎11月号(文学)新潮社(月報)「日本語の発音と詩歌」


(19)昭和38年

空白


(20)昭和39年

◎3月号(数学セミナー)「数学ではなく数学」

◎1月(筑摩国語通信)「日本最初の散文『源氏物語』」

◎1月(岩波講座日本歴史別巻2)「文字と言語」

◎2月号(言語生活)「いま、いちばん大事なこと」


(21)昭和40年

◎7月5日「日本古典文学大系日本書紀(下)」

◎國學院大學日本文化研究所紀要第17号「日本書紀の訓読について―日本書記私記の仮名遣の検討」

◎8月号「文学」「記紀の創世神話の構成」

◎4月号(国語と国文学)「国語史研究-上代・中古・中世」

◎2月号(筑摩国語通信)「日本のことばの理想の辞書」


(22)昭和41年

◎5月10日「日本語の年輪」(新潮文庫)刊


(23)昭和42年

◎3月31日「日本古典文学大系日本書紀(上)」

⇒解説・諸本・訓読及び訓読文、国語学的頭注」

◎12月号(文学)「日本人の思考と日本語」

◎7月号(文学)「記紀成立以前のこと」


(24)昭和43年

◎4月号(文学)「書評『時代別国語大辞典・上代篇』

◎5月号(万葉)「書評沢潟博士著『万葉集講義巻第18』

◎2月号(文学)「日本の思考と叙語様式」

◎5月15日「本居宣長全集第1巻」

◎7月15日「本居宣長全集第9巻」

◎11月25日「本居宣長全集第10巻」

◎「日本語を考える」(読売新聞社)


以下は、空白。

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なお、向後、勝手連ではあるものの、平成20年2008)7月14日のご逝去日までのご業績を補充・追加していきたい。






2024年11月30日土曜日

浮世絵の中の猫ー30数枚の中で3枚のみ掲載

 

いずれの時代も、猫は可愛い。

それにしても、猫は何を眺めたいるのだろうか?







全てを開催したいが、容量を気にするあまり踏み切れない。


奈良県立万葉文化館への希望(3訂版)ホームページ制作にあたり、アナログ時代の発想から早く脱却してほしい

 以下に、大伴家持の生涯を二つ紹介するが、一方が専門家でしか理解しがたい履歴の羅列、他方は一般市民向けに分かりやすい平易な内容である。読者の求める要求は多様化しているだけに、現状ではいずれも「帯に短し襷に長し」状態である。たしかに専門家向けの情報提供も必要であろうが、専門家であれば、多くのツールを保持しているので、わざわざ奈良県立万葉文化館HPにアクセスすることもないはずである。そうであれば、一般人に理解不可能な記事を同館HPに掲載する必要もないだろう。

 したがって二館は公共館だけに、紙媒体であれば困難であるが、AI時代の特性を生かして、HPに対象別・レベル別・要求度別に数種類の紹介文が長短も自由に選択できるように準備されても良いのではないだろうか。奈良県立万葉文化館は一般読者対象のそれ、そして高岡市万葉歴史館はセミプロ=万葉集・古代史愛好家向けのQR-コードを駆使する時代も到来している。You-tubeを活用するのも、妙案であるが、それは官費による支出になじまないという反発を受けるかもしれない。

すくなくとも奈良県立万葉文化館のHP制作方針は今の時代に即応していないではないだろうか。HP閲覧者はz世代へ突入しているにもかかわらず、その時代遅れの発想のままである。すでに民間企業では常識となっている「more view」の欄さえない。

このように書けば、自分ちの館の責務は事実の羅列だけで良く、残りはネットの世界から溢れる情報を主体的に選択してほしいと反論なさるにちがいない。それも一理あろう。下記に見る通り、館から提示された情報自体、仮に専門家向けであれば当たり前の知識であり、新情報発信は見当たらない。

 圧倒的にアクセスするのは、万葉集入門者である。例えば奈良をはじめとして国内各地にある万葉集にゆかりのある土地への旅行の楽しみを増やしたいと願う方々などであるはずである。

そうした万葉集の方々への普及、啓蒙活動なくして万葉集理解者は増大するはずもなく、しかも奈良を訪問し、現地で万葉集を楽しむ方々が出現するとは考えられない。奈良を愛し、奈良県を理解し、奈良県に居住する方を拡充させ、奈良県への投資が拡大し、奈良県民の所得が上昇し、ひいては奈良県の税収増加gが期待されよう。そうした奈良県の公益促進を目的に、貴重な税金を投入して奈良県立万葉文化館が設置され、今日まで維持・運営されてきたに違いない。再度、館の設置目的や運営方針などを見直してはいかがだろうか。(なお、井上さやか氏ら各研究員の優れた論文は高く評価している)

少なくともHP制作にあたり、年度予算を伴う印刷費不要であり、しかも印刷物を倉庫に積み上げることもないわけでもない。インターネット世界の現段階はすでにご存じであるので、再論する必要もないが、プログラミング不要で初心者向けのHP制作ソフトも廉価で発売されている。奈良県立万葉文化館と高岡市万葉歴史館は、紙中心のアナログ時代の発想から早く抜け出してほしい。

館長にさしたる権限があるとは思えないので、奈良県から出向中の奈良県立万葉文化館事務局長にお願いしたほうがよいかもしれない。

 とはいえ、当該事務局長にしても、いずれにせよ各方面への根回しと、館内におけるあらゆる検討に時間を要するので、しばらく時間を頂戴したい」とそつなくご回答になるに違いない。その通りである。

私でさえ、外部からの質問があれば、

⇒「広報体制に関しては、限られた人員によって実務が遂行されており、必ずしも十分な陣容であるとはいいがたい。制限された予算配分では、各分野における人員配分は少数精鋭主義で、ましてや専門的知識を有する広報業務担当者も限定的で、その不足は外部に専門業者に委託するしかありえない現状にある。引き続き、公費の適切な支出に腐心しながら、県民のみならず国内外からの来館者のご理解を賜りながら、皆様の満足度が高くなるように、再度緊張感をもって誠心誠意業務に努めていきたい」

とは、予想される回答。

確かにその通りであるものの、次回の改定時までにぜひご検討いただきたいと願う。ただし、館のスタッフの方々の中には、研究業務で多忙とか、自分の業務範囲を超えているとか、さらには自らの力量では責任を持てないので、HP制作を専門業者に依頼してほしいという要望も予想される。

 今さら賢明な事務局長に拙劣なアドバイスをするつもりはないが、館内のスタッフで組織されたOne TeamでHPをどしどし画期的なリニューアルに努めていただきたい。

釈迦に説法となるので、アメリカ合衆国や韓国・シンガポールなどでの先端的な博物館・美術館・図書館などのHPを一見なさることを推奨したい。

なお、現在、公募中の

奈良県立万葉文化館魅力発信コンテンツ制作業務委託(公募型プロポーザル)について

○公告日:令和6年11月20日(水曜日)


に言及しなければ、奈良県立万葉文化館の新たなチャレンジを見逃しているという誹りを受けるだろう。

約3000万円近くの県費を投入すると告示しているので、いかなる斬新なHPに仕上がるか今から楽しみである。これだけの巨費によってリニューアルされるHPがいかに画期的に変革されるのか、楽しみである。

 


(1)奈良県立万葉文化館の紹介

奈良県立万葉文化館の紹介によると、大伴家持の生涯は、下記の通りである。

「安麻呂の孫、旅人の子、書持の兄(伴氏系図)。妻の坂上大嬢は従妹(759左)。天平10(738)10橘諸兄旧宅での奈良麻呂の宴に内舎人。同11・6亡妾、同12・10広嗣の乱に際し伊勢河口行宮、狭残行宮、不破行宮行幸幸従駕。同16・2月及び3月安積皇子薨を傷む挽歌をなす折も内舎人(万葉集)。天平17・1正六位上より従五位下、同18・3宮内少輔、同6月越中守(続日本紀)。同9月書持の喪を聞き、同19・2病に臥し、同月より3月にかけて池主と贈答、同4月正税帳使として入京、同9月射水郡で鷹狩り、同20・1頃諸郡巡行、同3月田辺史福麻呂と布勢水海遊覧(万葉集)。天平勝宝1(749)4従五位上(続日本紀)。同5月陸奥の出金の詔書の賀歌、同月尾張少咋を喩す。同3・8遷替により上京、少納言、同5・2左大臣橘家の宴の折も少納言(万葉集)。同6・4兵部少輔、同11月山陰道巡察使(続日本紀)。同7・2防人の悲別を詠み、同8・6族を喩す歌をなす(万葉集)。同9・6兵部大輔(続日本紀)。天平宝字1(757)12右中弁、同2・2右中弁(万葉集)。同6月因幡守、同6・1信部大輔、同9月石川年足薨の弔賭使、同8・1薩摩守、神護景雲1(767)8大宰少弐、宝亀1(770)6民部少輔、同9月左中弁兼中務大輔、同10月正五位下、同2・11従四位下、同3・2左中弁兼式部員外大輔、同5・3相模守、同9月上総守兼左京大夫、同7・3伊勢守、同8・1従四位上、同9月藤原良継薨条に仲麻呂を除く計画が発覚」人物詳細 | 万葉百科 奈良県立万葉文化館


(2)高岡市万葉歴史館紹介

大伴氏の跡取り

大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。

家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。

越中に国守として赴任
天平10年(738)に、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属する官。名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる。平安時代には低い家柄から出た。)として朝廷に出仕しました。その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となります。同年6月には、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。着任の翌月にはたった一人の弟書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしたようです。この頃は、通常の任務のほかに、東大寺の寺田占定などのこともありましたが、この任も果たしています。
家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。
帰京後、政権の嵐の中で
家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。
家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、『万葉集』に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。
因幡国守、そして多賀城へ
天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国庁における新年の宴の歌を最後に『万葉集』は閉じられています。この歌のあと家持の歌は残されていません。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかりません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがあります。
大伴家持と万葉集|高岡市万葉歴史館|大伴家持が来た越の国[富山県]


2024年11月29日金曜日

中山道馬籠宿の「馬籠」に関する覚書

 『木曽路はすべて山の中である。』

この有名な冒頭文ではじまる「夜明け前」の作者の島崎藤村の出身地は馬籠宿、「中山道」の43番目の宿場である。
この「馬籠」の地名の由来を考えることもなかったが、律令時代の資料には「馬込」と記述する例を見る。文学愛好者ならば、尾崎士郎・宇野千代・石坂洋次郎、川端康成、室生犀星、山本周五郎・北原白秋・萩原朔太郎などの多数の文人が居住した東京大田区の「馬込文士村」を思い浮かべる人も多いかもしれない。その「馬込」である。東京にある「駒籠」や「牛込」も、同様である。
 浅学にして、その大田区馬込の地名の由来を知らないが、歴史地理学の研究成果に目を見張る。馬込・牛込が古代官牧制に遡るのは、『続日本紀』文武4年3月条の
*「馬籠考ー古駅址想定の手掛かりとして」『信濃の歴史と文化の研究』黒坂周平和先生の喜寿を祝う会編、2,信毎書籍印刷、1990年
がある。
 駅には馬が配分され、その定数は大路が20疋,中路が10疋,小路が5疋であった。しかし駅使がいない時もあれば、あるいはその定数すべてを必要としない時もあっただろうから、非番の馬を放牧しておく場所が必要であった。それが馬込であり、それは通例谷間に設置される。

したがって、中山道の馬籠にしても、想定すべきは近くに設置された駅である。その駅で非番の馬を放牧したり、あるいは治療すべき馬を置いていたことも想定してよいかもしれない。 

 「駅家はその機能から様々な設備があった。まず,駅の直接の運営にあたる駅長執務室, 多数の駅馬を繋留する厩舎,『令義解』に記載された蓑笠を私備する駅子の溜まり場,これは駅舎に待機 し駅馬の養飼に当たらなければならなかった駅子にとっては必要であった。また,駅使と従者などの休息、 宿泊の部屋や,これに伴う湯沸かしなど炊飯の簡単な設備もあったであろう。そのほか,駅使供与のため の稲・酒・塩などの飲食料や,駅馬替買料にあてる駅稲を収納する倉庫・物置といった駅舎に付随する建 物もあった。また,『万葉集』の東歌には,駅に堤井つまり水を囲って堪えてある人馬の水飲み場があり, 駅の雑務に当たる駅戸の娘などがいたことを表したものもある。他にも,延暦元年(782)の太政官符から, 駅に駅門があったことがわかる」(花岡興史「律令国家の駅制と駅家の比定の可能性―肥後国片野駅推定地と出土「馬取」刻書土器を中心として」『古代交通研究会大会資料集』20輯、古代交通研究会、 48-58頁、2019-年 古代交通研究会、特に54-55頁)






2024年11月27日水曜日

「方言」とは?

 延暦21年10月20日、沙門最澄上表文 「請求法訳語表 一首」 (傳教大師全集、第 1巻267頁)に

 「唐朝 玄奘踰葱嶺以尋師、蚊皆不限年数得業為期。是以、習方言於西域。傳法蔵於東上」

とある漢語「方言」はいかなる意味で使用されたのだろうか。

平安初期の漢語語義・用法などに詳しい識者の見解を待ちたい。

静岡県方言「けけれなく」は、 「こころなく」

  「けけれなく」は、 「こころなく」


鍋島報效会徴古館蔵『東遊歌図風俗』に、

「甲斐が嶺をさやにも見し けけれなく横ほりたてるさやの中山」(飯島一彦・富田紘次「解題・翻刻鍋島家本 『東遊風俗歌』(『梁塵研究と資料』29号、2012年)

とある。

この「けけれなく」の語義に苦しんでいたところ、すでに福田良輔先生が

*「心なく」

と解釈できると一刀両断で指摘なさっていた。何ということはない、

「オ列音が 工列音 になる事は、駿河や東部遠江の地域においては、奈良時代実際に存在してい江該地域の代表的方言現象であり、また稀には工列音がオ列音になる現象も実際に存在したものと思われる」

であったお話。疑問が氷解。

2024年11月20日水曜日

高橋富雄著『蝦夷』を再読する(改訂版)(未定稿)


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なるほど高橋富雄著『蝦夷』(吉川弘文館、昭和38年)は古色蒼然とした文体である。またその通説的理解にしても、今日の観点からすれば、特に金田一京助論を踏まえた蝦夷基礎論は大幅に修正を余儀なくされだろう。加えて彼の研究フレームワークにしても、当時にあっては最新の研究の最前線に立っていたとしても、今日から見ると多くの誤謬を指摘され修正を要求される個所も多い。

だからと言って、高橋の著作の価値を減ずるものではない。むしろその逆に光芒を放つ。

考古学と文献史学の協業などは彼の時代にあって、果しえぬ夢であったので、高望みは戒めたい「宮城県多賀城跡調査研究所」にしても宮城県教育委員会が設立したのは昭和44年であり、本書刊行後である。その後に陸続する東北全域における考古学発掘成果も参照することなく、本書は書き続けられた。だからこそ特筆すべきは、今日的観点からないものねだりをするのではなく、その逆に比較にならないほど少量の蝦夷に関する情報量と先行論文に依拠して、作り上げた高橋の悪戦苦闘である。そのトレースから知るのは、並々ならぬ努力と強固な意志である。

むしろ最新の蝦夷研究が示すように、高橋のような全体を見通す図式を構想できていないのが事実である。名を出すまでもなく、たとえ「重箱の隅をつく」ほどに超細緻であったとしても、それらの記述は歓迎するとしても、何か物足りない感を持つのは私だけだろうか。いな、むしろ高橋論の傘の下もしくは掌の上で、各論を展開しているようにも思える、

 今日の文献史学研究者と高橋との決定的な差は、高橋の卓越した漢文力と外国語力であろう。しかも彼の「知の世界」への探求心と「日本とは何か」という主題設定にしても同様である。森羅万象とは言わないにしても、高橋の知的好奇心の範囲は広く、彼の学問を支えるすさまじい読書量に驚嘆する。彼の周到な準備を踏まえて、彼の「知の世界」は拡大し続けたに違いない。

高橋の研究室には、少なくとも諸橋の『大漢和辞典』などが常備されていただろうし、各種の文献資料を解読するときに、各巻を何度も紐解いていただろう。今日であれば、例えば『続日本紀』にしても、岩波版新日本古典日本文学大系『続日本紀』に依拠したテキスト分析から始まり、そして東京大学史料編纂所データベース検索や奈良文化財研究所『木簡庫』などのコンピュータ操作による関連資料の積み重ねで、各論文は埋め尽くされるだけである。高橋との決定的な差は思索の有無である。

我々が高橋の諸研究書から知るのは、中央政府の圧倒的な武力によって駆逐される蝦夷の人々に対する「温かいまなざし」である。今風に言えば、弱者に寄り添い、被征服者の側に立って発言する勇気である。しかも彼にとって、いまなぜ蝦夷研究をすべきかの根本的な問いも見逃せない。一言で言えば、無慈悲な戦争に反対する強い意志である。彼の戦争体験に関する情報を完全に欠如したままであるが、高橋の著書の行間に、律令政府による一方的な軍事侵攻によって逃げ惑い、時として反抗する東北の蝦夷の人々の苦悩や戸惑い、無力感・絶望感などを、そしてその逆に平和を希求し、安逸な日常生活を期待する蝦夷の人々の願望まで読み取るのは、私の思い過ごしだろうか。

この稿、各章へと続く。

未定稿





2024年11月11日月曜日

長崎・最教寺本の朝鮮製涅槃図像

 釈迦入滅の場面を描き表した涅槃図。箱書きなどから朝鮮半島から将来された涅槃図であると実証されているので、15-16世紀朝鮮半島にあって、最新の仏教情報を盛り込んでいると思われる。

以下、未完




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絹本著色仏涅槃図一幅|HIRADOじかん情報|長崎県 平戸市(ひらどし)ホームページ

よりの転載。


絹本著色仏涅槃図一幅

国指定重要文化財「絹本著色仏涅槃図一幅(けんぽんちゃくしょくほとけねはんずいっぷく)」 Vol.8-2

文禄・慶長の役に遠征した松浦家26代鎮信(法印)が朝鮮から請来し、のちに最教寺に寄進したことが、箱書などで判明しています。涅槃図は釈迦入滅の様子を描いた図で、中央部で頭を北にして西を向き、右脇を下にし床台で金泥身の釈迦が、沙羅双樹の下でまさに涅槃に入る様子、その周りで悲嘆にくれる弟子や動物たち、天空には釈迦を迎えに来た仏や摩耶夫人(釈迦の母)などが細かく描かれています。縦2.5m、横2.4mの大画面で李朝仏画の特徴である平明な色調と軽妙な描線で親しみやすい画面となっています。16世紀中ごろの作品とされています。

鐶頭太刀無銘拵付一口附太刀図一通

文化財詳細情報
名称絹本著色仏涅槃図一幅(けんぽんちゃくしょくほとけねはんずいっぷく)
種別国指定重要文化財
指定年月日大正5年5月24日
所有者最教寺
所在地平戸市

お問い合わせ先

文化観光商工部 文化交流課 文化遺産班

電話:0950-22-9143

FAX:0950-23-3399

(受付時間:午前8時30分~午後5時15分まで)

2024年11月7日木曜日

石決明と古代日本

 アワビにはは「鰒。鮑。蚫。鰒魚」などの漢字を用いる。

『賦役令』調絹絁条や『延喜式』主計寮上、諸国調条などでは、21か所から30種以上のアワビが貢納されており、平城京で大変に人気の高い品であったようだ。

今、大宰府から平城京の内膳司に貢納された鰒には、

①御取鰒459斤5裏

②短鰒518斤12裏

③薄鰒859斤15裏

④陰鰒86斤3裏

⑤羽割鰒39斤1裏

⑥火焼鰒335斤4裏 (已上調物)

⑦鮨鰒108斤3缶

⑧腸漬鰒296斤9缶

⑨甘腐鰒98斤2缶(已上中男作物)


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以下は、ウチダ和漢薬のHPからの転載

セッケツメイ(石決明) - 生薬の玉手箱 | 株式会社ウチダ和漢薬


基源:アワビの仲間 Haliotis spp. (ミミガイ科 Haliotidae)の貝殻


 「石決明」は『名医別録』に収載された生薬で、ミミガイ科のアワビの仲間の貝殻を基源としています。『中華人民共和国薬典(2005年版)』では、原動物として雑色鮑(和名:フクトコブシ) Haliotis diversicolor Reeve、皺紋盤鮑(エゾアワビ) H. discus hannai Ino、羊鮑(マアナゴ) H. ovina Gmelin、澳州鮑 H. ruber (Leach)、耳鮑(ミミガイ) H. asinina Linnaeus、白鮑 H. laevigata (Donovan) を規定しています。またアワビの仲間といえば重要な食材であり、日本では、メガイアワビ H. gigantea Gmelin、マダカアワビ H. madaka (Habe)、クロアワビ H. discus discus Reeve、エゾアワビ、トコブシ H. diversicolor aquatilis Reeve、フクトコブシが近海に生息し、一般に、前の4種が「アワビ」、後の2種が「トコブシ」と総称し、食用とされています。

 アワビの仲間は巻貝に分類されますが、その形態は一般的な巻貝とは異なっており、耳形や長卵円形の浅い皿のような形で、ふたはなく、内面に強い真珠光沢があるのが特徴です。また、殻には数個の孔が列状に並んでおり、この孔の下には、えら、肛門、生殖器などの器官が存在していて、孔から、呼吸に使った水や排泄物を体の外に出したり、繁殖期に精子や卵子を海中に放出したりしています。殻の成長にしたがって古くなった孔はふさがっていく傾向にあります。アワビ類とトコブシ類とでは、この孔の数と形態が異なっており、アワビ類では、数は通常4〜5個で、直径が大きく、孔の周囲が盛り上がり管状になり、トコブシ類では、数は通常6〜8個で、直径は小さく、孔の周囲は盛り上がらない形になります。

 歴代の本草書の中では、「石決明」の品質に関して、この孔に注目した意見が述べられています。『新修本草』には「七孔のものが良い」と記され、『図経本草』には「七孔と九孔のものが良く、十孔のものはよくない」と記され、『日華子本草』には「石決明」の別名として「九孔螺」とあります。また、日本の『和漢薬の良否鑑別法及調製方』にも「九孔といって穴の九つあるものが上等で、それ以外のものは薬用に供しない」と記されています。孔の数を基準にするかぎりは、古来の「石決明」の基源はアワビ類ではなく、トコブシ類ではなかったかと思われます。

 「石決明」の主治については、『名医別録』に「味鹹、平。無毒。目障瞖痛、青盲を主る。久しく服すれば、精を益し、身を軽くする」とあり、『日華子本草』に「目を明らかにし、障瞖をおろす」、『海薬本草』に「青盲内障、肺肝風熱、骨蒸労極をつかさどる」、『本草綱目』に「五淋を通す」と記されているように、目の病に対する重要な薬であり、緑内障、白内障などによる視力障害、結膜炎などに応用し、その他、肺結核の消耗熱、淋疾にも用いられてきました。また、日本の民間療法では、貝殻を溶かした水をやけどにつける、結膜炎に殻の粉末をねってまぶたにつける、乳腺炎に、殻の黒焼きをつけるなどの方法が知られています

 一方、『本草衍義』に「肉、殻ともに使用できる」とあるように、身も殻と同じ効能があり、薬用になります。江戸時代の本草書である『大和本草』には「石決明(あわび)は、肉も殻も目を明らかにする」とあり、『本朝食鑑』には「鰒(あわび)は、甘、微鹹、平。無毒。目を明らかにし、障(つかえ)を磨(おろ)し、肝熱を清(さま)し、五淋を通し、渇を止め、酲(ふつかよい)を解する」とあります。「アワビは目に良い食材だ」という言葉は、現在でもよく耳にしますが、このように本草書にも明記されています。また、アワビは乾鰒(ほしあわび)、長鰒(のし)などに加工して用いる場合も多くあり、『本朝食鑑』には「乾鰒、長鰒は、甘、鹹、微温。無毒。一切の病に対し、禁忌はない。多食すると、力を強くし筋を壮にする」とあり、乾燥加工前後で、薬性が平から微温に変化し、功能にも変化がみられます。

 アワビは夏が旬で、今が最もおいしい季節です。目に良いだけでなく、滋養強壮にも優れているので、暑い時期で体力が低下している場合にも取り入れたい食材です。ただし、消化しにくいので多量には摂らず、また胃腸が弱い人はスープやおかゆとして食べるとよいでしょう。

 

(神農子 記)

2024年10月28日月曜日

田川孝三先生のこと(改訂版)

 思い出す恩師

そのお一人に、田川孝三先生がいる。定年時の職種は、東京大学文学部専任講師。わずか3年の在職であった。それ以前は、東洋文庫研究員。中野のご自宅は質素な平屋建てであった。今でも。その道筋を思い出す。しかしその窓際の濡れ縁、今風に言えばサンルームであろうが、先生はそこに小さな机を置いて、勉強をなさっていた。愛蔵のご本はご自宅の奥の部屋から持参なさり、私は閲覧の供に預かった。
そして誰よりも恵まれたのは、九州大学に集中講義にお越しになった時の座談である。

①京城帝国大学予科時代の友人
②京城帝国大学法文学部朝鮮史講座在学時期ー・小田省吾・黒田幹一・ 近藤時司・名越那珂次郎・田中梅吉・児玉才三・津田栄・横山将三郎などの教授陣のエピソードおよび講義風景。そして後輩である森田芳夫先生等。
③京城帝国大学法文学部田保橋潔教授の助手時代
④朝鮮史編集会修史官補時代ー申奭鎬先生。今西龍先生。中村栄孝先生、稲葉岩吉先生等
⑤書物同好会
⑥朝鮮半島および旧満州への資料調査
⑦京城市内および朝鮮半島の観光・風土・民俗
⑧緑旗連盟、静和女塾(田川先生の奥様の母校)など
⑨朝鮮本
⑩編集会時代の国内外の資料調査エピソード
⑪京城時代の知人・友人

本当に愉快であった。こうした多岐にわたる談論ができる人はもはやいないだろう。

今からでも、その一つ一つのメモを紐解いて、記録しておくつもりである。

何よりも、後人による緑旗連盟(津田栄会長、津田剛主幹)の活動分析などは当時の植民地期朝鮮半島「帝国日本」を知らないが故の誤認・頓珍漢な議論なども多いように見受けられる。
 田川先生が明治町から京城帝大予科寮までの道のりで放歌高吟なさった予科寮歌はテープに録音済み

①名著『李朝貢納制の研究』。ーー田川先生のご研究の凄さは、注にあり。『李朝実録』に精通し、さらに各種文集を精読した研究の厚みは、余人をもって変えがたい。加えて、朝鮮王朝時代の漢字語彙の解釈は、田川先生ならでのお仕事。


②吉田光男著『東洋学報』 70ー3・4、 307-320頁、 1989年、東洋文庫参考のこと。

2024年10月26日土曜日

渤海語とは、ツングース語系言語の一種

 『唐書』巻219[6179-7]に よれば、「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」とある。

その靺鞨は高句麗に接した所にいた栗末部、その北にいた伯咄部、その東北に安車骨部、伯咄部の東に沸涅部、その東にいた号室部、安車骨部の西北に黒水部、そして粟末部の東南には白山部の7つのグループに分かれていたらしい。

高句麗が滅亡した後、白山部・安居骨部・沸涅部・号室部などがいずれかに吸収されたが、黒竜江流域に居住していた靺鞨の内で黒水部と粟末部のみが生き抜いた。

したがって、渤海語の根幹にツングース語系の粟末靺鞨語があったと推定され、語彙などに高句麗語を含まれていたと考えてよいだろう。というのも、そもそも渤海は粟末靺鞨と高句麗の残党によって建国されたからである。


なお、『旧唐書』巻199下に 、渤海靺鞨について「風俗興高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあるものの、固有文字はなかった。

2024年10月13日日曜日

ウクライナ・ハリキウの大鵬記念館は今?

 ウクライナ北東部にあるハルキウ州の州都 、ハルキウ(1ウクライナ語Харків [ˈxɑrkiu̯] 英語Kharkiv)に、大鵬記念館があるという。大鵬幸喜を顕彰するために、親族が建設した。

ロシアによるウクライナ侵攻で、ハルキウも大きな被害が発生したという。大鵬記念館の無事を伝えるマスコミはない。無被害で、今後ともにウクライナー日本間の友好の懸け橋となってほしい。


河野六郎先生の瞠目すべき仮説

河野先生の仮説

以下の通りであるが、管見によると、瞠目すべき河野先生の仮説は

「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた

②(濊人は)中国の河北から「貊族」の東方への大移動の波に押されて、中国東北地方から朝鮮半島を南下して行った、おそらく「倭人」が先に日本列島に入る以後に、朝鮮半島に残留した「倭人」と同系の民族であったと思われる。

の2点である。

 (a) 朝鮮の史書『三國史記』の「地理志」の古地名には、高句麗語の地名の中にむしろ日本語に近い人の言語の地名が伝えられていること。

(b) 『日本書紀』に伝えられる古代韓土の言語は主として韓族の言語であるが、百済の支配階級の貊族の言語も僅かに見出されること。
(c) 『三國志』以降の中国の正史から「高句麗」と「渤海」、「靺鞨」の関係を追究し、「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた。

(d) 現在のツングース民族の分布状況を地図化して、言語地理学的に、「高句麗」はもと旧アジア人の1族であったが、ツングース族との接触でツングース化した可能性を推定した。。」


もはや河野六郎先生を知る方は多くない。その偉大な学殖は、

(1)千野栄一「嗚呼、河野六郎先生」

en (jst.go.jp)

に詳しく、何にもまして、

(2)『河野六郎著作集 』全3巻 平凡社 1979-1980、

を一瞥するだけで、その広大無辺の知識量に賛嘆する。東京帝国大学の卒業論文「玉篇 に現わ れたる反切の音韻的研究」を一読してほしい。不世出の言語学者の研究生活のスタート時点で、その凡庸さを超えている。

さて、その河野六郎先生が

『三国志に記された東アジアの言語 および民族に関する基礎的研究』 

研究課題番号 02451066 平成 203・ 4年度科学研究費補助金 一般研究 (B)研究成果報告書

河野六郎三国志と言語2019年02月20日22時27分27秒.pdf

を発表なさっている。

多くの方々は科研費報告書を目にすることはないのは、その専門性ゆえにである。しかも科研報告書は国立国会図書館にのみ完備されており、その入手に時間を要する。

それゆえに、あえてその一部を紹介したい。

<研究成果の概略>


第1年度(平成2年度)
(1)本研究の出発点である『三國志』の「魏志」「烏丸鮮卑東夷傳」の解明に「魏志」全体の文献学的研究を行なった。そのため「魏志」の文を大量に引用している宋代の類書『太平御覧』所引のテキストと通行本『三國志』のテキストの対比して、その異同を検討し、コンピュータを利用してその対照表を作成した。
(2) (1)で得られた対照表を利用して「魏志」に記載された諸民族に関する情報をコンピュータによって索引化した。
第2年度(平成3年度)
(1) 対照表によりテキストの対校を行なったが、その過程で『三國志』の原資料に記事の混乱が認められた。殊に「韓傳」の「辰韓・弁辰」の条は「魏人傳」とは時代を異にする状態の記述が混在していることが分かった。
(2) 各民族の詳細な索引を作っている中で、たとえば「單于」という首長の称号が、匈奴と同系の烏丸・鮮卑にも見られることが分かった。
当該年度・第3年度(平成4年度)には第1年度および第2年度の調査に基づき他の関係資料をも参考にし、次の4点の研究を行なった。
(a) 朝鮮の史書『三國史記』の「地理志」の古地名には、高句麗語の地名の中にむしろ日本語に近い人の言語の地名が伝えられていること。

(b) 『日本書紀』に伝えられる古代韓土の言語は主として韓族の言語であるが、百済の支配階級の貊族の言語も僅かに見出されること。
(c) 『三國志』以降の中国の正史から「高句麗」と「渤海」、「靺鞨」の関係を追究し、「高句麗」がツングース族でないことをつきとめた。
(d) 現在のツングース民族の分布状況を地図化して、言語地理学的に、「高句麗」はもと旧アジア人の1族であったが、ツングース族との接触でツングース化した可能性を推定した。


>>(2)研究目的

 戦後何度 か 日本人の起源 が問われ、その都度 日本語 の起源が問い直されてきたが、 日本語の起源 は今 のところ結局不明のままに終わ つて いる。 その起源の無益な論争よりも、 日本民族が古代の東ア ジア (中国東北部・朝鮮半島お よび 日本列島)に出  したとき、その周辺 にいかなる民族が居住し、 いかなる言語を話していたかを探究することの方が 、 日本語 の前史を明らかにする上で重要である。それを知る上で 最も貴重な史料 が 中国 の史書『 三 國志』であ る。 『 三 國志 』はその 中に東夷伝倭人の条 (い わ ゆる魏志倭人伝 )を 合 む こ とか らも 明 らか な ように、当時の倭 その他 の民族の諸状況 および 中国 との関係 を探 る上 で、 最も基本的な文献であ る。本研究 では、『三國志 』の成立と伝 承をめ る諸 問題 を 再検 討 し、な らび に本文批判 の基礎 の上 に、当時の東アジアの言語と民族 につ いてさまざまな角度から探 究することを目的とす る。 

(3)実施経過報 告 

第 1年度 (平 成 2年 度 )

① まず本研究 の 出発点 である『三 國志 』の「魏志 」 「烏丸鮮卑 東夷博 」 を解明す るため、 「魏志」全体 の文献学的研究 を行なった。 そ のた め、「魏志 」 の文 を大量 に引用 して いる宋 代 の類書 『太平御 覧』 (李昉奉勅撰 、 中華書局景 印本 )所 引 のテ キス トと通行本『 三 國志』 「魏志 」 (中華書局標点本 ) のテ キス トを対 比 して、その異同を検討 し、そ の対照表 を作成 した。 その結果 、哈仏燕京学社刊 の『 太平御 覧 引得 』 (1935年 1月 刊 )で 指摘 されている個条 よ り遥 か に多 く、989条 に及ぶ ことが明 らかにな った (そ の対 比の結果 は、『 (4)「 研究成 果 内容報 告」 I.『 三 國志』 のテ キス トと『 太平 御覧』引用文 の比較 』 に詳 しい)。 なお、理解 を深 め るた め に、『 太平御 覧』所 引 の「魏志 」のテ キス トに訓点 を施 し た。

 ② 「魏志」の中か ら、『太平御覧』 との対比において、特 に異同の多 い笛所 を 検索するため、パーソナル・ コンピューターを購入 して、その箇所の一部 を入力 し た。これは後 日、一覧表・索引を作成するためである。

 ③ ①で得 られたテキス トの対照表 を利用 して、本研究の対象である「魏志」に 記載 された諸民族のそれぞれ を採 り上げ、それ らの民族 に関する情報 を『三國志』の記 事 か ら能 うか ぎ り読 み取 るた め 、 それ らの民 族 の索 引 を コ ン ピュ ー ター を使 っ て作 成 した 。 そ の際 、各 民 族 につ いて、 そ の民 族 の名称 ・ 地 名 。人 名 等 の項 目を選 定 した 。


 第 2年 度 (平 成 3年 度 )

① 平成 2年 度 に完 了 した『 三 國志』 「魏志 」 と『 太 平御 覧』所 引 のテ キス トとの対照表 を検 討 して 、校勘 を伴 うテキス トをコ ンピュー ター に入力す る作業 を続 行 した。その際、本研究 の主題 に鑑 み、 まず 「魏志 」 の「 鳥丸鮮卑東夷停 」 よ り始 め次第 に関連 す る他の記 事 に及ん だ。な お、 このテ キス ト の対校 の過程 で 、『 三國志 』の原資料 に記事 の混 乱が認 め られた。殊 に 「韓傳」 の 「辰 韓・ 弁辰 」 の条 は 「倭人傳」 とは時代 を異 にす る状態 の記述が混在して いる こ とが分 か つた 。

 ② 一方、「魏志」「烏丸鮮卑東夷偉」に記 されている諸民族 につ いて、民族・ 部族 ・社会組織・地 名 。人名等について、詳細な索引を作 り、それをコンピュータ ーに入力 した。その索引を作成する過程で、た とえば、「單干」 という首長の称号 が、匈奴 と同 じく烏丸・鮮卑には見 られるが、他の民族 には見 られないことな どが 分かつた。 これらの研究 を行つている中に、貊族との正体を追究する必要 を痛感 し、次の 研究 に従事 した。


 (a)朝 鮮 の史書 『三 國史記 』 の 「地理志 」に記 され て い る古地名 が、貊族の高句 麗 の言語 に よる という説 が あ り、そ の説 につ いて考察 して 、然 らざる所以 を考 えた 。 その古地名 に は 日本語 に類 似 したも のが若千 見 出 され るが 、 それ は高句麗語 ではな く、語である可能性 を考 ぇた 。

 (b)『 日本書 紀 』の中の、韓 土 と交渉 のあ つた時代 の記 事 に韓 土 の言語 を伝 え て いるものが あ り、 それ につ いて調査 した結果 、多 くは韓族 の言語 を反映 し、その点 で は現代 の朝鮮語 の音形 を知 る こ とができ るが 、濊族の言語 につ いて は僅 かな単語 を残 して いるに過 ぎな いこ とが分 か つた。


 第 3年 度 (平 成 4年 度)

① 各民族の情報 を確実なものにするため、『三國志』 以降の中国の正史 の外夷伝から、高麗 (高句麗と高麗)、 株輻、渤海、契丹、女真 等の諸民族 について、すでに選定 した項 目にしたがつて索引を作 り、 これをコンピュ ーターに入力 した。この索引により調査 を進めている中に、ツングース族 であるこ とが明らかな「靺鞨」 と「高句麗」あるいは「渤海」 との関係を明 らかにすること の必要性を悟 り、その研究 に従った。

 ② ① と関連 してツングース族 の移動を追究することの必要を知 り、ツングース 族 の現在の分布状況 を地図にした (附 地図参照)。 この分布状況か ら、すでに得 ら れた歴史的事実 を参考 に して、ツングース族の移動の跡 を考えた。それは貊族の運命にも関係す るものであることが朧げに分かった。

以上 のよ うに、平成 2年 度 よ り3年 間 に亘 つて調査研究 を試 みた。 そして、その研究 は、各分野 の専 門家であ る研究協 力者 、すなわ ち、旧満 州史研究 の松村潤研究員、朝鮮古代史研究 の武田幸男研究員、 日本語学 の亀井孝研究員、 中国音韻学の古屋昭弘研究員の意見 を絶 えず徴 しつつ行 つた。研究協力者石 川重雄立正大学講師 に は中国史研究者 と して『 三 國志 』 「魏志 」 と『 太平御 覧』所 引 の「魏 志 」 との引用 記事 の比較対照一 覧 作成 の監 督及び研究事務 を総括 して貰 った。」

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すべては原著にあたってほしいが、この研究成果が広く公知となっていないことを寂しく思う。加えて、雑でやっつけ仕事の多い科研費報告書であるが、このような良心的な研究グループによる素晴らしい研究成果がなぜ出版できなかったかと思うと残念である。


2024年9月8日日曜日

布施明ーー「布施」氏の由来に関する仮説

 我々の世代、つまり1970年代に活躍した布施明。「霧の摩周湖」や「シクラメンのかほり」などは我が愛唱歌であった。布施明の本名を知ることはないが、「布施」氏に関しては、一つの持説を紹介したい。

結論から言えば、それは古代日本に設置された「布施屋」の「屋」が脱落した語形と考えたい。古代交通の要衝に設置された民衆のための施設であった。

それは分かっているという博雅の士もおいでであろう。大阪府東大阪市布施駅、つまり近鉄大阪線と奈良線の交差する駅を思い出すだけで、すべてがイメージできるというに違いない。確かにその通りである。


以下は、吹田市立博物館のHPに記載された記事である。

古代の吹田と寺社|吹田市公式ウェブサイト (city.suita.osaka.jp)

古代の吹田と行基

地図:摂津国

行基は、人々のために池・溝を掘り田畑の開墾をたすけ、川に橋をかけ、各地に旅人たちが休息するための布施屋をつくり、運河を掘り、難波京を中心とした交通体系の整備を行いました。吹田周辺では、次田(吹田)堀川・垂水布施屋などの運河や旅人たちの休息所が造られました。この辺りが京や西国に通じる交通の要衝(ようしょう)であったことがわかります。また市内には行基の開創を伝える寺院がいくつか残り、現在にまでその活動の大きさを物語っています。

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さて、本論はこれからである。





2024年9月1日日曜日

大仏開眼会の際に聖武天皇が着用した靴は、百済手部の職人たち

 古代朝廷で使用される靴履などは、中務省内蔵寮で製作された。

「典履2人(掌下縫作靴履鞍具、及検校百済手部)、百済手部十人(掌縫作事)」

とあり、百済手部10人の職人が天皇らの靴履鞍などを製作したとある。

 その製作場所は「左京六戸、紀伊四戸」(古記)により、二か所であった。

ところで、その靴履の原材料は、

(1)丹波国 「御履牛皮弐張、充直稲壱伯玖拾束」(丹波国正税帳)

(2)周防国 「交易御履料牛皮弐領価稲壱伯七拾束」(周防国正税帳)

(3)駿河国 「御履皮弐張直稲弐伯玖拾束」(駿河国正税帳)

などから提供された。この職人集団が形成された時期も、また解散した時期も不明であるが、天皇をはじめとする宮廷において、朝鮮半島流のファッションで製作された靴履鞍を使用していた。

 なお、正倉院所蔵の衲御礼履などが百済手部によって製作されたと推定している。

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衲御礼履 - 正倉院 (kunaicho.go.jp)

衲御礼履

のうのごらいり

用途 : 服飾品
技法 : 皮革
倉番 : 南倉 66
寸法 : 長31.5 高12.5 爪先幅14.5
材質・技法 : 赤染革 彩色(白) 金線 飾金具は銀台鍍金 真珠・色ガラス・水晶を嵌入 底敷は表裏とも白綾 藺むしろの芯
つま先が反り上がった、鼻高履とも呼ばれる浅型の靴。赤く染めた牛革製で、小口を白く塗り、金線で縁取りし、珠玉を嵌めた花形金具で飾る。天平勝宝4年(752)の大仏開眼会の際に聖武天皇が着用したものと考えられる。



参考文献

竹之内昭(元北海道大学農学研究科)著「古代の皮革」 

157_2.pdf (tokyo.lg.jp)






表1 皮および革の熱収縮温度

皮の種類

熱収縮温度(℃)

革の種類

熱収縮温度(℃)

牛皮(カーフ)

63~65

クロム

77~120

牛皮(成牛)

65~67

ジルコニウム

75~97