2026年4月14日火曜日

那須町唐木田に関して

地名「唐木田」(栃木県那須郡那須町大字芦野1096-2)に所在する方墳が芦野の南、芦野氏旧墳墓に隣接した竹林の中にある。この地名の「唐Kara」に関しては、同じ那須地域には「御所(栃木県那須郡那珂川町和見2538)」という地名も伝わっている。また、少し離れているが、那須塩原市には「杉」の地名もある。

那須町WEBによると、

唐木田は「唐来た」であり、古くから渡来人説が残っているという。


持統天皇元年(686)、3年、4年に「以投化新羅人居下野」とあり、大陸からの渡来人を下野国に住まわせたことが記録されており、唐木田もその比定地と考えて、大きな矛盾はない。


唐木田古墳 | 那須町行政ページ


と説明されている。この「唐木田は『唐来た』」語源説が語呂合わせに過ぎないと考えるのか、それとも朝鮮半島系渡来人の移住事実の一端を伝承するのかは意見に相違がある。


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以下は、引用。私見ではない。


 「堂平・寺下両遺跡は、いわゆる東山道の下野通過最終点にあたり、那須郡を縦断する東山道が陸奥に達する直前の地点(黒川駅附近)に前者は位置し、後者は、それが那須郡に入った地点(新田駅と磐上駅の中間)に位置している。両遺跡の距離約二十四キロメートルの間には、五世紀の初頭から中葉の造営といわれる上待塚・下待塚古墳(共に前方後方墳)が、湯津上村にあり、小川町の八幡塚古墳(前方後方墳)は上・下待塚より時期的にさかのぼるものである。その他これらの古墳に近接して小古墳群が密集して所在し、当地域が早くから拓け、仏教文化を導入できるだけの高度な文化を有していたと考える。その近傍には、那須郡衙と推定されている梅曽遺跡が、その北々西五百メートルには奈良時代前期建立で、那須郡唯一の瓦葺きの寺院跡、浄法寺跡が所在しこの辺が、古代那須郡においても中心的地域であったことが知られる。また、堂平遺跡の南西七キロメートルには後期古墳の舟戸古墳都が所在し、北東一・五キロメートルの唐木田には、関東最北の唐木田古墳(方墳)や帰化人伝説等が残っていて、この辺は、東山道にそい那須郡における文化の中心地から程遠からぬ地点で、しかも八溝山脈の屏風一枚で陸奥と境しているという重要な地点であった」



<参考資料:唐木田古墳写真>


那須町の文化遺産




<参考資料>御所横穴
栃木県那須郡那珂川町和見2538)
「那珂川町史」よりの転記


唐御所横穴 八溝山地の西縁にある凝灰岩丘陵の露頭を利用して掘り込んだ横穴である。横穴群のある尾根は、那珂川と小口川に挟まれた舌状の地形であり、尾根の西側に20数基からなる北向田横穴群、東側に同じく20数基からなる和見横穴群がある。唐御所横穴は和見横穴群中の一基である。両横穴群はいずれも丘陵中腹から上に構築され、最も精緻で横穴群の主墓と思われる唐御所横穴は、最高所の丘陵鞍部近くにある。唐御所横穴はほぼ南面して開口し、玄室・玄門・羨道・前庭がよく残っている。横穴の全長は4.78Mであることが、この前の長さ1.94M、先端幅3.8Mの台形状の前庭がある。玄室は長さ2.75M、中央部での幅2.34M、高さ1.9Mで、床面には棺台がある。棺台は、奥壁正面に横位置に一つと両側壁に沿って縦位置に二つの計三つが造りだされているが、奥壁と右側壁の棺台は同じ高さで、左側壁のそれは一段低くなっている。天井は中央に棟木を造り出し、左右に切妻屋根に似せた傾斜をつけている。羨門部の左右にはほぞ穴が掘り込まれ、閉塞材のがん入に使用されたものであろう。横穴は6世紀後半から7世紀にかけて、全国的に構築される。」唐御所横穴|観光情報|那珂川町






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