2022年4月22日金曜日

高嶋正武氏の「筑前山家宿の設置について」 




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https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/pdf/d-363.pdf



 郡屋とは、郡内の村役人の集会所で、筑前六宿(むしゅく)をはじめ主要な宿場に置かれていました。御笠(みかさ)郡(現在の筑紫野市・太宰府市・大野城市を合わせた範囲)では、山家・原田(はるだ)・二日市に置かれていましたが、現在残っているのは山家だけです。

 山家宿の郡屋については、文久(ぶんきゅう)2(1862)年の指図(さしず)があり、建物の広さや位置関係がよくわかります。それを見ると、門を入って左に郡屋守(もり)の屋敷と宝蔵があり、その先が郡屋で敷地の中央に位置しています。郡屋の右には稲家(いなや)と穀蔵、その奥に牛馬小屋があって裏門につづいています。裏門の並びには灰屋(はいや)(堆肥(たいひ)を置くところ)・材木小屋・薪(たきぎ)小屋があり、一番奥に土蔵があります。

 郡屋は入口の先が土間になっており、土間を囲むように8畳・6畳・8畳・16畳・8畳・12畳の6部屋が設けられていました。参勤交代に係わる打合せや藩からの重要な伝達があったときには、ここに郡(こおり)奉行・代官・下代(げだい)・大庄屋・庄屋・組頭(くみがしら)などが集まって会議を開きました。

 今では郡屋本体と宝蔵は残っていませんが、そのほかの建物はおおむね保存されており、往時を偲ぶことができます。

『筑紫野の指定文化財』より

郡屋跡(正面は郡屋守の住居)

 
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山家宿下代跡地(市史跡)[山家]

記事ID:0001891 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示

 下代とは、代官のもとで諸事務にあたった宿場役人のことです。その主な任務は、次のようなものでした。

  1. 諸大名や幕府役人が休憩宿泊する場合、人馬継所(馬や人足を提供する施設。問屋場(といやば)ともいう)に1名が出張し、宿内の監督取締を行うこと。
  2. 予備の人馬について1名が指図監督にあたること。
  3. 長崎奉行・日田郡代が宿泊する場合、2名が御進物の運搬について指揮監督にあたること。
  4. 長崎町年寄・漂着した異国人の付添役人には、代官の代理として挨拶に出ること。
  5. 御状箱・御用物が町茶屋に宿泊する場合、不寝番に立つ庄屋・組頭の監督にあたること。
  6. 唐銀・公納銀が宿泊する場合、宿役人とともに不寝番に立つこと。

 山家宿の下代屋敷は、西構口の横から御茶屋と代官所の間まで4軒が並んでいました。指定地は、そのうちの高嶋家の下代屋敷跡地です。高嶋家は、代々原田宿の下代を勤めていましたが、明治3(1870)年、山家宿下代として転勤し、同5(1872)年まで勤めました。転勤の際、それまで使用していた家屋を原田宿から移築したと伝えられています。その家屋は屋根の腐食が著しかったため、平成6(1994)年、学術調査のあと解体されました。

『筑紫野の指定文化財』より

往年の山家宿下代跡地
往年の山家宿下代跡地(高嶋家)


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山家宿大庄屋役宅跡(市史跡)[山家]

記事ID:0007185 更新日:2021年8月4日更新 印刷ページ表示

 大庄屋とは、江戸時代に触(ふれ)(20ヶ村前後の村々から構成される行政区画)を治めた長のことです。文化(ぶんか)九(1812)年ごろの御笠(みかさ)郡内57ヶ村は、山家・山口・下大利(しもおおり)の3触に分かれていました。役宅とは、役所と自宅を兼ねた家屋のことをいいます。

 当指定地は、山家宿(村)の大庄屋を務めた近藤家の役宅跡です。家伝によれば、近藤家は最初、上町(かんまち)に居住していましたが、4代弥九郎の代に大庄屋となり、寛保(かんぽう)二(1742)年に当地に役宅を新築し移住したとされています。

 明治4(1871)年、郵便取扱所が中茶屋(なかんちゃや)に設けられましたが、その後、山家郵便局は、明治22(1889)年4月から昭和5(1930)年12月までの41年間、この旧大庄屋役宅入口の長屋門(ながやもん)内に置かれていました。また、現存しない東構口は、長屋門東側の恵比須石神の場所にあったといわれており、「町口」という字が残っています。その長屋門は老朽化のため、学術調査のあと平成3(1991)年に解体されました。

『筑紫野の指定文化財』より

山家宿大庄屋役宅跡の画像
​山家宿大庄


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山家代官所の図

10月21日(金)に古材の森歴史講座を開催いたします!ぜひご参加ください。

さて、以前、前原代官所の間取り図を見つけた事を書きましたが、その資料には、長崎街道の山家宿(現在の筑紫野市山家)にあった代官所の間取り図も載せられていました。これまで山家宿では、藩主が宿泊したり、長崎奉行をもてなしたりする御茶屋と、近年まで残っていた代官の下で働く下代屋敷の間取りは分かっていましたが、代官所については、位置は分かっていましたが、詳細な間取り図までは分かっていませんでしたので、貴重な資料となります。原図をもとに修正加筆をした図を載せます。


山家代官所の様子が少し記載されている資料があります。
福岡藩の儒者亀井南冥の息子である亀井昭陽は、藩校甘棠館が類焼し、廃校になると、家業であった儒者を解かれ、城代組の平士にされていました。その後、文化5年に長崎港にフェートン号が不法侵入するという事件が起こり、今後の連絡方法として、長崎から小倉までの要所に烽火台を設けることになり、筑前では、天山、四王寺山、しょうけ越、竜王岳、六が岳、石峰山の六ヶ所に新設されました。亀井昭陽は、この六峰の番人を命ぜられ、六峰を次々に10日間勤めては10日間休むという輪番勤務繰り返していました。文化六年10月、昭陽は天山烽火台(筑紫野市)に勤務しており、その昭陽を、21日山家代官の息子原左太夫と下代の箕形と医師の平嶋を引きつれて慰問行き、その3日後、今度は昭陽を山家宿に招待しています。ここで代官所の様子が記されています。
「山家の宿場町に入ってすぐ左に曲がると、原左太夫が代官屋敷の門に出迎えていた。庭には谷川の水が巡り、カキツバタの花が池に彩を添えている。吹く風が心地よい。座敷に上がると、壁に鍾馗の図が掛けてある。」代官屋敷の座敷には、かつて昭陽が賛をした鍾馗の図が掛けてあり座敷からは、谷川の水を引き込んだ池があったことが記されています。

代官屋敷は、下代屋敷の奥にありました。
※代官所の間取り図は、筑紫野市歴史博物館で10/8から開催される特別展で展示される予定です。



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山家宿西構口並びに土塀(県指定史跡)[山家]

記事ID:0001845 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示

 構口とは、宿場の出入口に設けられた門塀のことです。江戸に近い方を「東構口」、反対側を「西構口」といいました。その構造は、宿場の内側に向かってL字型に曲げた石組基礎の上部に土塀を築き、漆喰(しっくい)で白壁として、その上に瓦を葺いたものです。

 初めて筑前を旅した吉田松陰の目には珍しく映ったとみえ、「道(どう)中(ちゅう)ノ諸駅(しょえき)ヲ歴観スルニ、駅ノ前後ニ於(おい)テ左(さ)右(ゆう)袖(そで)ノ如ク石垣ヲ築(きず)キ、女墻(ひめがき)ヲ附(つけ)ル者多シ、亦事(またこと)アルノ時(とき)、里(り)門(もん)ヲ作ルガ為(ため)ニ便(べん)スルカ」と『西遊日記』に書いています。

 筑前国内には27の宿場が置かれていましたが、そのうち現在まで構口の痕跡が残っているのは、青柳(あおやぎ)宿・木屋(こや)瀬(のせ)宿・山家宿の3ヶ所です。特に山家宿の西構口は、道の両側とも石垣の上に土塀、瓦を葺いたままの姿を伝えている点で貴重です。

 昭和5(1930)年、福岡県が山家宿西構口の前に標示板を建てましたが、それには「今構口の遺(い)蹟(せき)の甚(はなはだ)稀(まれ)なり」と記されており、当時としてもすでに珍しいものであったことがわかります。

 東構口は今は残っていませんが、山家村の大庄屋を務めた近藤家の長(なが)屋(や)門(もん)横にあったといわれています。

『筑紫野の指定文化財』より

北側土塀(西側より)
北側土塀(西から)












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