2023年5月31日水曜日

付け届けか、賄賂か

 公儀所とは、萩藩江戸藩邸におて当役および加判役の下、幕府・諸大名との渉外実務を担当した役職である。その公儀人の日記が『公儀人日乗』。

これが面白い。当時、萩藩江戸藩邸から幕閣や有力大名などへのGiftが横行した。その量と質たるや半端ではない。

これは「付け届け」それとも「賄賂」.「口利き謝礼」、幕府重職への祝儀、見舞いの品なのか。

余りの多さに全期間にわたる調査は未完成であるが、それでも一年間分を算出したところ、その量に驚嘆した。

 これほどまでに「Giftの交換」をしなくてはならないとすれば、おのずと(Marcel Mauss、1872年5月10日 - 1950年2月10日)の「Essai sur le don: forme et raison de l'échange dans les sociétés archaïques (1925)」を思い出さずにいられない。たしかに、贈答行為は社会的関係の潤滑油となる。

 この役人たちは「後ろめたさ、ゼロ」人間。


2023年5月30日火曜日

南畝さん、あなたの人生は幸せでしたか

 太田南畝さんへ、あなたの人生は幸せでしたか。

70俵5人扶持の徳川の下っ端幕臣の家に生まれたものの、その傑出した頭脳で、『寝惚先生文集』で若くして文名をあげて、その狂歌・狂詩で一躍江戸文壇のスターを駆け上った南畝。

 晩年、我が子定吉は狂人となり、孫鎌太郎は生前は最後まで無役のまま。

田沼時代に、狂歌の友である土山某のおこぼれで吉原で豪勢な遊びに興じ、そして遊女までも身請けするクレージーな時代を経て、南畝はすさまじい勢いで筆を進める。

 あの時代、600石の旗本があれよあれよの間に5万7千石の大名へと駆け上がった田沼意次であったが、その時代の風潮の中で、強烈なParodyで世間を魅了した南畝。

さて、あなたは幸せ者、それとも不幸者だったの。

近世文学者であれば、神様の如き南畝に対する、礼を逸する質問ですが、あえてご了承ください。



延享度朝鮮通信使が詠んだ和歌、ただし意味不明

 

「延享来聘の時朝鮮人よめる和歌

とらてんなんのせんとんちゃとらすんぱねいきるねいらちゃんぱちんぴら」 

南畝「一話一言」補遺参考編3(全集383頁)


日本語だけではなく、朝鮮語としても私には歌の意を解せない。賢人の知恵をお借りしたい。

対馬藩江戸藩詰家老と太田南畝

 

太田南畝の著に『半日閑話』がある。今や、『太田南畝全集』(岩波書店)第11巻に収録してあるので、読むに不自由はない。南畝の視野・交友範囲は想像以上に広い。さすが当代の人気者であった。大名・江戸詰め各藩の家臣なども含まれていた。

 その一端を示す。『半日閑話』第18巻(全集、第11巻、543)に「対州大森氏の話」とあるのは、対馬藩大森繁右衛門。彼の江戸詰め屋敷で開かれた宴に南畝は招聘され、ひと時の宴の場を持ったらしい。

 対州の碩学、陶山庄右衛門や雨森芳洲、されには義憤にかられて直訴した鹿島兵助などが紹介されている。

 私の関心は対馬の陶山訥庵や雨森芳洲を語るのではなく、その当時、文化度朝鮮通信使招聘に対馬藩江戸屋敷で孤軍奮闘していた江戸詰め家老大森繁右衛門がなぜ幕閣への影響力を有しない南畝を藩邸に招待したか、にある。

 やはり常識的に、時代の寵児と共に一夜の座敷を楽しみたい田舎侍の酔狂か。それとも江戸幕府と朝鮮政府との間で、硬直状態にある外交交渉に疲れた家老の「気晴らし」か。

なお、己の才覚一つで大森繁右衛門は対馬藩の鷹匠から家老まで登った立志伝中の人である。


倭館の虎退治

 これまた南畝の「半日閑話」巻12(全集、347-348)収録の話


*23日、宗対馬臣田島左近右衛門家来、朝鮮国勤番にて虎を打候由、その書付の写」


虎の味、鶏のごとし

徳川幕府の鎖国体制

 とかく鎖国という。確かに国を閉ざしていたのも事実である。

しかしながら、下記の漂流事件の場合、

*「好風にまかせ出帆のよし承る」(南畝「半日閑話」巻6,全集188-189頁)

とあるように、規則通りに長崎経由で中国に帰国する舟ばかりではなかった。

つまり幕府にも、地方役人の許可もなく、そっと帰国する例は、日本でも朝鮮でも存在した。

無論、在地の人間たちにとって厄介者であり、加えて保護中の生活費、さらには長崎までの移送費などは馬鹿にはならない。だから、厄介者を追い払いたかったかもしれない。

南畝の「薩摩竹籠」

 南畝の「一話一言」巻25(全集470頁)には、

「薩摩国伊集院(日置郡)のうちより竹籠の火鉢出す。これはむかしより薩摩より朝鮮を伐て擒にしてかえりし子孫、此物をつくりて世をわたりし也。故に一村みな李氏なりといへり」

とある。

朝鮮から対馬へ米4000俵

 南畝の『一話一言』巻18(全集230頁)に、木村兼霞堂の話として、

「対州へ朝鮮米をばいばいするは、以前より隣国日本米を調へしより通用勝手宜く、白米にては有之、常に彼国通交のちなるゆへ、城下村民ともに朝鮮米多く食用す。渡る米の員数は定まりなし。彼地の年豊により多少あり、最朝鮮より毎年五斗三升入4千俵程渡る、家中渡りになるよし。」

2023年5月27日土曜日

林羅山さん、あなたの幸せはなんだったの。

 天賦の才に恵まれ、教育の機会に恵まれ、時の運に恵まれ、万巻の書との出会いに恵まれ、師に恵まれ、出世の運に恵まれ、時の指導者の寵愛に恵まれ、さらに家族に恵まれ、健康に恵まれ、当時にあって長寿に恵まれた林羅山。

1659年正月23日、羅山、逝去。その75年間の生涯は果たして幸せであっただろうか。

今、鈴木健一著『林羅山年譜稿』ペリカン社、1999年を読み、改めて問いたい。


最晩年、明暦の大火ですべての財産を失った羅山。万巻の書を読み、時の権力者に迎合し、僧侶の姿になり、法名を名乗り、徳川家の命ずるままに仕事に精励する羅山。その結果の報酬は970石余り。

林羅山の幸せは何だっただろうか。

知的探求心を満たすこと、出世欲を満たすこと、金銭欲を満たすこと、顕示欲を満たすことーーー。


寸暇を惜しまず勉学に励み、あらゆる誘惑をはねのけて座学に努め、書を読みて未だ倦まず、大火にあっても一冊の書(『梁書』)のみを携えて逃げ、そして妻に先立たれ子や嫁に先立たれた羅山。


酒池肉林に溺れるわけでもなく、多数の愛人を持つわけでもなく、雑事に無駄な時間を費やすわけでもなく、奇妙な性癖に財産を浪費するわけでもなく、ひたすら禁欲の身であり続け、書を読み続け、知識の蓄積に励んだ羅山。


主君の心の動きを常に追い続け、見限られないように絶えず主君にへつらい阿り、そして主君に絶対服従の姿を良しとし、主君の言に迎合し反発することもなく、ひたすら出世を願い続けた羅山。

羅山さん、そんな人生で満足だったの。

あなたにとって、自由とは何だったの。勉強秀才として確かに書を読む自由はあった。その比類まれな知識を披露する自由もあった。しかし徳川家の御用学者の道を選択したあなたに、どんな自由はあったの。

羅山さん、あなたにとって、何が幸せだったの。







2023年5月25日木曜日

林羅山、檀君神話を問う

  『林羅山全集』巻第14、


「寄朝鮮國三官使、朝鮮國奉命使來爲觀國濱、想其優于仕學歟、平素思問之疑、 雖有多端先就貴國事跡、以質之 

一、聞説檀君享國一千餘年、何其如此之長生哉、蓋鴻荒草眛不詳其實乎、抑檀君子孫苗裔承襲遠久至此 乎、恠誕之説君子不取也、且中華歴代之史朝鮮三韓傳備矣、皆不載檀君之事何也、以齊東野人之語故乎 

一、箕子遭殷亂避地朝鮮、或曰武王封之、中華群書未之見也、欲知其所據」 

2023年5月19日金曜日

直木孝次郎先生と「懽」のこと

 直木先生の生前に、私は数回おめにかかる機会に恵まれた。いつ、どこで、なぜ、なにを、どのようにという5Wをほぼ失念したことは、昔ならば不敬罪か。

 その折の強烈な印象は、五味智英先生は直木先生に「直木君」と、そして直木先生は五味先生を「先生」と、さらに大野晋先生と直木先生は「直木、大野」と呼び合う関係性であった。

もちろん、旧制一高時代の回顧談に浸る3人ではない。3人の熱い議論は、万葉集。

『万葉集』巻8の巻頭に、

*岩走る 垂水の上の さわらびの 萌え出る春に なりにけるかも」(1418番歌)

の「題詞」にある「志貴皇子の「懽」の御歌一首」の「懽」をめぐって喧々諤々の意見が交換された。お二人の師である五味先生は、悠然として筆鋒鋭い(いや、口数多い?)お二人の教え子の論争をお聞きになっていた。直木先生の論点は、「志貴皇子,雌伏14年説」。なお、未熟な私はひたすら我慢の時間。

 過日、偶然に直木先生の「古代を語る」シリーズの12冊目「万葉集と歌人たち」収録の「志貴皇子の懽び」という高論を拝読する機会に恵まれた。そこに直木先生のお説が紹介されていた。あ、これだ、と改めて思うとともに、その場を共にした私にはチンプンカンプンな内容を、今になって理解する愚かさに気付く。

 五味先生の一言は、「そうかもしれないね」。そして大野先生の一言は、「おもしろいな」。

2023年5月17日水曜日

福田良輔「奈良時代東国方言の研究」ーー森山隆先生の書評→書評の亀鑑

 森山隆による要約

イ、縄文時代までは、中部地方以東の東日本地域では、原始 蝦夷語が最も広く行われていた。 

ロ、原始日本語ないし史前日本語は弥生文化の初期に北部九 州、中期に近畿地方に行われた形跡が認められる。

 ハ、史前日本語の東国地方への伝播は、日本語種族が東国へ 進出するような社会的経済的条件と政治状勢が成立した時代 で、弥生文化の東鼠地方への伝播とは必ずしも平行しない。

 ニ、四世紀中葉以後、大化改新まで大和系種族は東国地方に おいて先住夷種族の解体・同化、混血を繰り返して、大和 系種族化した東人(あづまひと)を生産し、これら混血の 東国庶民の子孫が第一次東国方言を形成した。

 ホ、奈良時代の東国方言は、右の(古墳時代の)東国方言が 更に大化以後の中央語系古代語の影響を受けて成立した第 二次的東国方言である。

 

 第二章について。古代日本語の音節結合の法則は近時「有坂 法則」と呼びならはされてゐる。この、古代の四母音aUO( 男性母音)とδ(女性母音)の結合についての秀抜な理論は、 論自体の批判よりも、提示された四母音の結合事実をいかに解 釈するか、という面から討究されるのが近年の傾向であったと 言へる。いはば古代語研究の基本的前提とも目された有坂法則 について、再検討された著者の独自の所見と、古代の入母音の すべてについて、その結合能力を調査し、さらに諸説錯綜する、 古事記のホに甲乙両類の別が認めちれるか否かについての見解 を述べられたのが本章の骨子である。 

有坂法則は「結合単位(およそ語幹または語根に相当)」を 作業の前提とし、同一結合単位内の母音の結合を精査された結 果、発見された法則である。その第二則のただし書きを便宜、 二音節語においてu-6結合は存在しない(周知の如く有坂博 士の表現は、もっと柔軟かっ慎重な別の表現であるが)と私な りに言ひ換へると、この法則は再考の余地があることを指摘さ れる。すなはち、有坂氏が除外された固有名詞の中に、前代の 音韻形式を伝へてゐる語があり、十数例のuIδ結合例を説か れるのである。もっとも著者の真意は有坂第二法則の否定では なく、人名・地名などに見えるulδ結合事例から、前代にお ける中舌的鱒uの存在を推定し、有坂法則をも含めて通時論的観 点から合理的な説明を試みられたもののやうである。この前代母音の推定はそれ自体、はなはだ興味ある問題であるが、従 来の四母音にとどまらず、古代八母音の結合様式の特徴をまず 明らかにし、推古期から奈良末期にいたる約二百年間の母音組織の変遷過程を通時的に考察し、ほぼ古事記成立期までは母音 調和の衰退期であり、それ以後は衰退期より崩壊期に臨んでゐ たとされる。 古事記のホについては、甲乙両類の区別が少なくとも残存してゐる、といふ論証過程を示されたが、とくに「国のマホラ= (国土の果て)」の解釈に示された新見は容易に読み過ぐし得 ないところであらう。 

 

第三章について。この章では、中央都人士の手が加はってゐ るかとも想定され勝ちな万葉集巻十四の資料的性格と、常陸国 風土記に採集されてゐる歌謡の方言的特色を吟味される。巻十 四の成立論は一・二にとどまらぬが、著者はかって「斯・西・ 抱」などの使用字母から複数資料説を提出されたことがあった。 本章では更に、巻十四の意義連想字母や東国方言的要素の記録、 編纂の諸事情を併せて家持が越中守であった五年間に、家持に よって整理され、表記字面にも家持の手が加はったことを考察 される。また常陸風土記歌謡については、当時の東国方言の成 立過程を示唆する方言現象と、動詞連用形の古語法に関連して 資料的価値の重要さを説かれる。 

さて、第四・五・六章は本書の中核をなす東国方言の音韻・ 語法・語彙に関する精緻な論証による新見に満ち満ちた各論な のであるが、すでに紙幅に余裕がなく、以下かいなでの紹介に 留まらねばならぬことをはなはだ遺憾に思ふ。 万葉集の防人歌・東歌を中心とする全数調査の分析的結論に よれば、単に音韻の面からのみ判断しても、東国にはほぽ各国 々を中心とする小方言区画が成立する。その全般的特徴は、中 央語に比し、甲iが基本的イ列母音であって乙宝の存在が認め られない。エ列に甲乙の音韻的対立が不確かで、オ列において も甲oより乙・oが、より安定した位置にあった。しかも中央語 に顕著な母音調和現象は存在せず、却って中央語に見られぬ特 異な結合単位すら発見することができる。等々。 右の事実は、中央語の古い語彙・語法が東国方言中に指摘さ れ得る事実と併せ考へて、奈良時代の東国方言が、文献時代に 前接する史前日本語ないし古代日本語当初の頃に分派した、と 推定される重要な理由の一つとなってゐる。さらに小方言区画 の特徴や、一地域・一個人に及ぶ方音の実例を細叙し、ひるが へって前代の古墳文化圏との重なりを確められる。その多彩な 論述の基底に、第一章以降、主張される著者の言語史観が具体 性をもって語られ、精彩を放ってゐるのである。

 第五章、語法について。「降らる」「干さる」「告らる」な ど「る」「ろ」や、「狙らはり」「立たり」「置かれ」などの 「り」「れ」は「あり」系語の後接によって生じた形だとする のが従来の諸説の一般的傾向であった。著者は、この接尾辞( 複語尾)が四段活であること、派生動詞の接尾辞「る」とは違 って、接続形式活用形式、意味の面からの、いはゆる形態的 機能において語としての自立性を有してゐる点を論証し、下 二活の複語尾「る」に先行して存在し、中央語系ではすでに 衰滅に瀕してゐた四段活複語尾であるとされる。また、この 事象に関連して中央語系に見える「過ぐり」「恋ひすちば」 の 「り 」 「ら 」 、 さ ら に は 接 尾 辞 「ゆ 」 「す 」 「ふ 」.の 機 能 と の 比 較 や 助 動 詞 「ら し 」 「ら む 」 「め り 」 に 含 ま れ る 「あ り 」 系 的 要 素 の 考 察 と 「あ り 」 系 語 尾 を 持 つ 「あ り 」 「を り 」 「け り 」 「せ り 」 「め り 」 な ど の 「り 」 の 形 成 に 関 す る 包 括 的 見 解 を 開 陳 さ れ る 。 こ れ ら 動 詞 語 尾 ・ 助 動 詞 ・複 語 尾 を 形 成 す る 「 り 」 「る 」 に 関 す る 発 生 史 的 ・ 意 味 機 能 考 究 の 論 証 過 程 を 読 む と 、 音 韻 の 各 章 に 比 し て ま こ と に 地 味 な 印 象 を 受 け る が 、 文 法 的 考 察 の 教 訓 的 在 り 方 を さ へ 感 ず る と 言 へ ば 、 癖 言 の そ し り を ま ぬ か れ ぬ だ ら う か 。 東 国 方 言 特 有 の 「な ふ 」「が へ 」 や 、 「な ふ 」 に 関 連 し て 「な な 」 、 さ ら に 「か も 」 「や も 」 の 論 考 か ら 、 語 法 概 観 と 章 節 は 続 く が 、文 法 史 の 単 な る 平 面 的 考 察 を 抜 け て 、 位 相 差 や 、 次 章 の 語 彙 の 項 と も 相 関 し て 、 分 布 に つ い て の 、 そ れ ぞ れ の 微 細 な 面 を 指 摘 さ れ る の で あ る 。


2023年5月11日木曜日

柳夢寅の文集の行くへーー浅見倫太郎

 柳夢寅と言えば、『於于野談』などの著者として著名である。今、柳夢寅文集に関して、浅見倫太郎の記事によれば、

「昭和10年4月、韓京に遊びて鮎貝氏を訪ひ於于の文集13巻が総て尾田満氏の所蔵に帰したるを聞ける」

とある。尾田満氏に関する情報は乏しいけれども、幸いにも

「叙従七位 大正9年2月6日 朝鮮総督府通訳官高等官7等 勲6等 尾田満」

の「大正9年2月19日付け 朝鮮総督府男爵 斎藤実」による人事記録を、アジア歴史資料センターHP上に見ることができる。また、同HP上には、

元拓務省通訳官尾田満外六名特旨叙位ノ件」(昭和10年11月11日付け)

の人事記録もあることから、朝鮮総督府から拓務省通訳官へと移動したのち、拓務省で退官したらしい。

さて、その先であるが、現段階では探索できない。

尾田家からどこへ流出したのかを知ることはできない。



2023年5月10日水曜日

考古学者Mark Hudson のコメント

 (1)Currently one of the more interesting debates in Japanese linguistics is that over the possible relationship between Tamil and Japanese. ”Interesting" is perhaps an understatement worthy of an Englishman  living in Japan; in fact the debate is best described as acrimonious. The pages of various jounals are almost palpably warm with the heat of the discussion to which anyone at all connected seems to come in for flak from one quarter or another. Even the editors of one learned periodical, who apparently declined to publish a submitted article, are a regular butt of criticism. If these scholars are writing the things they are in academic publications, one wonders what they are actually saying to their colleagues and students.

⇒拙訳

現在、日本語学で最も興味深い議論の一つは、タミル語と日本語の関係をめぐる議論である。 「面白い」というのは、日本に住むイギリス人にふさわしい控えめな表現かもしれない。実際、この議論は辛辣なものとして最もよく表現されている。 さまざまなジャーナルのページは、関係者が四分五分の一から非難を受けるような議論の熱さで、明らかに熱くなっています。 提出された論文の掲載を拒否したとみられるある学者の定期刊行物の編集者でさえ、批判の的になっている。 これらの学者が学術誌に掲載されているものを書いているとしたら、実際に同僚や学生に何を言っているのだろうか。


(2)One reason the Tamil-Japanese debate has taken the course it has is that there are very few scholars who are equally conversart with Tamil and Japanese. As for myself, as an archacologist I cannot claim any sort of expertise in any language. The aim of this article is rather to place the proposed Tamil-Japanese relationship in a wider cultural context. Particular refercnce will be given to Ono Susumu's reccnt suggestion that Tamil arrived in Japan in theYayoi period

⇒拙訳

タミル人と日本人の議論がこのように進んでいない理由の一つは、タミル語と日本語を同一レベルに話す学者がほとんどいないことである。 私自身についても、考古学者としてどの言語であれ専門的な見解を主張することはできません。 この論文の目的は、むしろ提案されたタミルと日本の関係をより広い文化的文脈に置くことです。 しかしながらタミル人が弥生時代に日本に到着したという大野晋氏の大胆な提案については、特に言及したいと思う。


(3)On the face of it the idea that Tamil and Japanese may be genetically related seems incredible. I remember first reading of rhis theory with considerable suspicion. After all, over the years Japanese has been compared with practically every language in the world; wasn't this just another harebrained hypothesis? 

Tamil is a language of southern India which forms part of the Dravidian language family. Dravidian is a rather small family with some two dozen  languages mainly spoken in the southern subcontinent but with outliers in eastern India and southern Pakistan.


⇒拙訳

タミル人と日本人が遺伝子的に関係しているという考えは、一見信じられないように思える。 私は彼の理論を最初に読んだときかなりの疑いを持っていたことを覚えている。 何年もの間、日本語は世界中のほとんどすべての言語と比較されてきた。これは単なる頭の悪い仮説ではないか?
タミル語はインド南部の言語で、ドラビダ語族の一部を形成している。 ドラビダ語は、主に南亜大陸で話されているが、インド東部とパキスタン南部で特異な言語を持つ、かなり小さな言語である。


(4)Although the genetic affinities of Japanese have not been solved to

everyone's satisfaction, it is widely agreed that it probably belongs to a Northeast Asian language family -either Altaic or the more cautious Macro-Tungusic. The most surprising thing about the Tamil-Japanese theory, however, is the lack of any sort of attested direct cultural contact between south India and Japan in the perhistoric or early historic periods which would lead us to expect such a linguistic relationship

⇒拙訳

しかしながら、日本人の遺伝子親和性はまだ解明されていない。
誰もが同意する説は北東アジアの言語ファミリーに属しているということ考えです。アルタイ語か、より慎重なMacro-Tungusic語のどちらかです。 しかし、タミル語・日本語説の最も驚くべき点は、歴史的あるいは歴史的初期に南インドと日本の間の直接的な文化的接触が確認されておらず、そのような言語的関係が期待されることである。


(5)Despite these obvious misgivings, the hypothesis of a Tamil-Japanese link has continued to gain ground. While he was not the first to investigate this question, the Tamil-Japanese theory has come to be  particularly as sociated with Ono Susumu, Emeritus professor of Linguistics at Tokyo's  Gakushuin University and one of Japan's most distinguished linguists.  Ono has publishecl a string of books and papers in support  of  his theory in both Japanese and English. In Japan itself Ono's work seems to have been greeted with little enthusiasm.

 Outside Japan there have been two main reactions: criticism by a number of Japanese specialists contrasts with the qualified support of many Dravidianists. The difference of opinion is primarily over the validity of the specific linguistic comparisons proposed by Ono.

If one reads beyond this, however, all commentators share a concern with how to explain a connetion between the two languages.

⇒拙訳

これらの明白な懸念にもかかわらず、タミル語と日本語の関連性の仮説は引き続き根拠を得ている。 彼がこの問題を最初に調査したわけではないが、特にタミル·日本語説は、東京にある学習院大学国文学科名誉教授で日本で最も著名な言語学者の一人である大野晋と関連があるようになった。 大野氏は日本語と英語の両方で彼の理論を裏付ける一連の本や論文を出版している。 日本では大野氏の作品自体が少しばかりの熱意をもって歓迎されているようである。
日本国外では、2つの主な反応があった。多くの日本人専門家による批判は、多くのドラビダ主義者の適格な支持とは対照的です。 意見の相違は、主に大野氏が提案した具体的な言語比較の妥当性に関するものである。
しかし、これ以上読むと、すべてのコメンテーターは、2つの言語のつながりをどのように説明するかについて懸念を共有します。

(6)ln other words, while opinions differ over whether the languages are actually related, remarkably similar doubts are raised over how such a relationship could have come about.


ln the most recenl review, the Dravidianist K.V. Zvelebil suggests four possibilities to account for the similarities between Tamil and Japanese::

(l) Chance

(2) "straight" borrorwing

(3) Ancient diifusion of linguistic traits when the ancestors of both languages were in close geographical contact

(4) A true genetic relationship


Zvelebil rules out the first of these suggestions which he believes to be incompatible with the evidence accumulated by Ono. 

 Because of the general historical context, Zvelebil also rules out ihe second possibility, although noting that it seems to be the explanation favoured by Ono( we will relurn to this later). Within his fourth category, the explanation supported by Zveiebil  is that  Japanese and Dravidran may be related as part of a larger linguistic macro-family such as Nostratic. 

Although he has been much Iess sypathetic  to  Ono's proposed correspondences, the American Japanologist Roy Andrerw Miller has made a similar suggestion on the pages of this journal, noting that "there is every possibility that in one sense or another, and

against a vastly remote historic horizon, the Japanese language on the one hand and Tamil on the other have some remote genetic affiliation.

⇒ 拙訳
換言すれば、言語が実際に関連しているかどうかについては意見が異なる一方で、そのような関係がどのようにしてできたかについては、非常に類似した疑問が提起されている。

最も最近のレビューでは、ドラヴィダ語研究者K.V.Zveiebil氏は、タミル語と日本語の類似点を説明するために4つの可能性を示唆している::
(l) チャンス
(2) 『直接的な」借用
(3) 両言語の祖先が密接な地理的接触をしていたときの言語的特性の古代の二分化
(4) 真の遺伝的関係

Zveiebil氏は、大野氏が蓄積した証拠と相容れないと考えるこれらの提案の最初のものを除外している。
一般的な歴史的文脈のため、Zveiebil氏は二つ目の可能性を排除しているが、それは大野氏への好意的な説明であるように思われる(後でこれに戻る)。 彼の4番目のカテゴリーの中で、Zveiebil氏は日本語とドラヴィダ語はノストラティックのような大規模な言語学的マクロファミリの一部として関連しているかもしれないという説明を支持している。
大野氏の手紙の提案に対して、彼は非常に同情的ではあったが、アメリカの日本語研究者Roy Andrerw Miller はこのジャーナルのページで同様の提案をしており、「ある意味ではあらゆる可能性があり、そしてはるかに遠い歴史的地平線に対して、一方では日本語、もう一方ではタミル語は、ある程度の遺伝的関連性を持っている。





北漢山の碑文

 浅見倫太郎の見聞記

(1)寺に至る順路は彰義門すなわち北門(実は京城西北の門)を出て石坡亭前を過ぎ1、1町にして農家の前より右折小径を登れば洗剣亭上流を渓を隔てて碑峯の山脈を前望す。寺を微かに見ゆ。渓流に沿ふて遡る。右すれば北漢山城に達すべし。

(2)この碑の面する方向に関して、浅見は「東微南に面す。新羅の王都慶州に向かふものか」と推測す。

 




小林ふみ子氏の講演会


 2023年4月29日から6月25日の期間、「たばこと塩の博物館」において開催される展示会。

大学院生時代の小林ふみ子氏を知る私には、中野三敏先生と共にベルリンのホテルで伺った狂歌論の進展を確認するに良い講演会が5月20日にあると聞き、早速申し込んだところ、締切日は5月9日。1日違いで、申し込みも不可。

上京する機会はそうそうないだけに、惜しかった。



2023年5月8日月曜日

家蔵の「日鮮関係史の研究」

 家蔵の「日鮮関係史の研究」吉川弘文館には、写真のように、中村栄孝先生の令夫人である中村静子様の署名がある。その当時、私の勤務先の上司との特別なご縁があり、中村先生のご葬儀に駆けつけたことを機に、静子様からご厚誼を賜り、特に恵贈頂いた中村先生の遺品である。もっともこの本自体は乱丁品であるので、晩年まで中村先生も手元に置いて置かれたものらしい。

この本の価値は中村先生の書き入れと訂正である。誤字脱字は言うまでもなく、もっとも興味を引くのは、文禄・慶長の役の評価である。先生は「秀吉による侵略戦争」と活字化しながらも、そこに鉛筆でミセケチをなさっている。「侵略」である点を訂正なさらないとしても、中村先生の真意はどこにあったのだろうか。

多くの人的被害を出し、そして経済的損失をだしながら進めた強引な他国領土侵略の目的を、中村先生は再検討なさっていたと思われる。

残り少ない余生だけに、あの世で中村先生との再会が楽しみである。もっとも、生前に3回お目にかかったものの、中村先生は私をご記憶にないだろうから、まずは私の上司であり、先生の教え子であるO先生ご夫妻のお名前から明かさなくてはなるまい。