直木先生の生前に、私は数回おめにかかる機会に恵まれた。いつ、どこで、なぜ、なにを、どのようにという5Wをほぼ失念したことは、昔ならば不敬罪か。
その折の強烈な印象は、五味智英先生は直木先生に「直木君」と、そして直木先生は五味先生を「先生」と、さらに大野晋先生と直木先生は「直木、大野」と呼び合う関係性であった。
もちろん、旧制一高時代の回顧談に浸る3人ではない。3人の熱い議論は、万葉集。
『万葉集』巻8の巻頭に、
*岩走る 垂水の上の さわらびの 萌え出る春に なりにけるかも」(1418番歌)
の「題詞」にある「志貴皇子の「懽」の御歌一首」の「懽」をめぐって喧々諤々の意見が交換された。お二人の師である五味先生は、悠然として筆鋒鋭い(いや、口数多い?)お二人の教え子の論争をお聞きになっていた。直木先生の論点は、「志貴皇子,雌伏14年説」。なお、未熟な私はひたすら我慢の時間。
過日、偶然に直木先生の「古代を語る」シリーズの12冊目「万葉集と歌人たち」収録の「志貴皇子の懽び」という高論を拝読する機会に恵まれた。そこに直木先生のお説が紹介されていた。あ、これだ、と改めて思うとともに、その場を共にした私にはチンプンカンプンな内容を、今になって理解する愚かさに気付く。
五味先生の一言は、「そうかもしれないね」。そして大野先生の一言は、「おもしろいな」。
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