国語発達史 p125
Ⅳ 中期国語
1 概観
朝鮮時代前期に該当するこの時期は、国語の発達過程にあって非常に重要な位置を占めている。14世紀末、高麗から朝鮮に王朝が変わったが、国語の中心勢力はソンドから遠くはない漢陽に移されただけ、京畿中部地域の言葉が持続され、大きな変動もなく引き継がれた。しかし、15世紀の中葉訓民正音の創製・頒布は国語生活全般に少なからず影響をもたらした。我が国の言葉を自由に書くことのできる文字が作られ、広く全面的に文字生活を支配することはできなかったものの、我々の意味と感情をそのまま表出する文字生活が始まったのである。このときから始められた仏教のハングル翻訳やハングル文学はこのような点において、その意義と成果が絶大であった。従って、これまで進行してきた国語における様々の変遷の様相が露わになり、一定の形態に整理さる様相を呈するに至った。これは、我が国の言葉を我々の固有の文字で正確に記録しつつ、自由に表せる文法意識に起因するものである。このような面を考慮する時、1443年訓民正音の創製頒布を分岐点として、新しい中期国語の時代が始まったと言ってよい。
訓民正音は独創的な文字として、当時我が国の言葉の形態音素を正確に分析し、表記することができるように、非常に科学的な体系をもっている。一方、この新しい文字は、漢字音を表記する上においても、その効用性は極めて大きかった。しかし、ハングルが頒布された以後にも、両班の文字生活は、主として漢文に依拠しており、胥吏の公文書も引き続き、吏読や吏文に依存していたために、ハングルは庶民階層において多く用いられた。
ところで、朝鮮初期の興隆していた文化は、壬・丙、両乱を経ながら、一大転換点を迎えるに至る。これにより、国語にも大きな変化が見られたが、ほとんどは訓民正音頒布150余年の間、変動してきた様々な現象が大きく拡大したり変動したりした姿を呈し、定着したものである。特に、16世紀末、朝鮮時代、各領域に大きな衝撃と、変化をもたらしていた壬辰倭乱は、社会現象の反映である国語発達にもそのまま影響を与えた。それゆえ、壬辰倭乱が終了した1598年までを中期国語の下限線として取り扱う。それ以後、展開される近代国語の時期には、発芽した庶民の意識を土台にして、ある新しい言語生活の様相が示される。では、15世紀中葉、訓民正音が発表され、16世紀末の壬辰倭乱が収束する朝鮮時代前期150年間の中期国語の時代に進行した国語変遷を概観すれば、次のとおりである。
訓民正音が頒布された以後には、樂章・時調など、新しい文字による文学が発達し、仏教を主としてに多くの諺解本の出版が行われた。概ねは、中央官庁を中心としたソウル地域において出版されたものであり、中部地域語が主として反映されている。16世紀に入り、訓民正音が刊行され、訓民正音を再び整理し、宣祖時代には、経正庁を設置し、儒教の経典を翻訳した。そこで、この時期の文献は壬辰・丙子乱に遭遇したため大部分が散逸し、今日まで書物が残っているのは貴重なことであり、両乱の以後に出された重刊本だけ伝わる本も相当数にのぼる。しかし、我が国の言葉をそのまま書いた文献が大量に出版された時期は、国語発達史を記述するときに、正確に精密な資料を豊富に提供する意味において、極めて重要であり、よって、集中的な研究対象となって来た。
中期国語は、基本子音20個と単母音7個の体系をもっていた。子音体系は閉鎖音系列から気音化と喉頭化対立をする3肢的相関束を形成し、摩擦音系列では喉頭化対立の2肢的相関束を形成している。
子音の合用並書は硬音(濃音)を生み出し、各字並書は有声音の表記と見られる。単母音は’이’を無関母音で後舌’아 으 오’対、非後舌’어 으 우’母音が相関的対立をなしており、このような対立は当時の母音調和と一致する。訓民正音の初期には終声の8個が使われているが、16世紀を過ぎて語末内破作用が起き、ㄷとㅅが中和され7個の終声に変わった。硬音化と激音化現象も明らかになったが、激音化は硬音化より多少遅く拡大されたようである。口蓋音化と鼻音化の作用は、15世紀に稀に表れるが、16世紀を過ぎると勢いが増した。この時期に発生の兆候を示す頭音法則現象はさらに遅く18世紀にならねば普遍化されることはない。中期国語末期になると’・’音の消失を経験する。まず、第2音節以下に’ㅡ’母音に変わる。これに伴い、後舌母音対非後舌母音だけの対立を示していた母音調和が体系に均衡を失い、厳格さが弱くなり始めた。中国語の四声によって、平・上・去・入声の声調が見られる中期国語は音の高低と長短による弁別力があったようである。しかし、16世紀を過ぎ、次第に意味上意味上の弁別力を消失しつつ体系が乱れ始め、近代国語に至っては表記もなくなってしまった。国語の漢字音は概ね、6~7世紀ごろの隋・唐初期の切韻音系である北方中原音が基層となっており、訓民正音頒布直後には現実中国音に立ち返ろうとする東国正音式の漢字音改新の試みがあったものの、程なく廃止された。
文法部門において特筆すべき事項は、主格形語尾’가’の登場である。以前まで一つの形態‘이’だけ存在していた主格形に16世紀後半に新しく登場した‘가’は、17世紀になってからは、広く拡散していった。郷歌にも見える語幹挿入母音’-오/-우’は中期国語においても主語話者の意図を意味するなどの使用が比較的多かった。時制も古代国語から体系化された過去(-니-)・現在(-느-)・未来(-리-)が用い続けられ、ただ過去形で’엇’が15世紀に形成され使用を拡大させていった。敬語法としては主語を高くする主体尊待と、目的語に対する客体尊待、及び聞き手に尊待を示す相対尊待があり、それぞれ’-시-, 습, 이’ に対応する。中期国語においては’-이, -히, -리, -기’など接尾辞形被・使などの形態が現代国語に、より生産性の高い力をもっており、相対的に’-어 지다’被動形と’-게 흐다’使動形の分布が少なかった。否定文では、否定詞が本動詞の前に来る短い否定文と、古代国語後期に生まれた’-디 아니흐다’という長い否定文がすべて自然に使われていた。中期国語だけでなく、開花期以前の近代国語までにも文献に表れる文語は、一連の一つの事件を一つの文章として表現しようとし、大部分が複合文の性格をもった非常に長い文章である。これらは当時口語と異なり、保守的な表現をもつこともあった。
諺解本は、ほとんど口訣文の影響を強く受けた。長らく使用されて来た漢文は、文章だけでなく語彙の面においても大量の借用語を国語にもたらした。中期国語にも既に文化概念語の外に日常基本語彙に至るまで漢字語の使用は極めて広範囲に及んだ。韓国語の固有語まで駆逐する現象も少なくなかった。この時期まで国語の借用語のほとんど大多数は漢字語であり、仏教に関連した用語に梵語が中国を経て漢語として流入して来た。当時の中国から真っ直ぐ入ってきた中国語の借用語も見える。
造語法は現代国語と似ている。名詞形には‘-음’が最も生産的で、‘이’の用法も今日よりはるかに広範囲であり、’-기’はその用いられ方が少なかった。複合用言形成においては、先行語幹の次に来る語幹を直接結合していた従来の造語形式において次第に二つの語幹の間に‘어‘を介入させる形態に変わりつつ共存していた。さらに当時用いられていた語彙の意味がその後にもほとんど変わっていない場合も大部分であるが、少なくはない語彙が、また、意味の変化がもたたらされて来た。意味が異なる値を持ち、縮小・拡大、または分化する通時的に様々の変遷の様相を示すのである。
15世紀中葉訓民正音が頒布されて制定された文字の中で、一部、既に音韻の変化により自然に消滅した’よ ㅎㅎ ゑ’は15世紀に消滅し、'ゑ
わ’ も16世紀末まで保つことなく、’・’も変化を経た。訓民正音で規定した表音的音素主義的表記は、大体保持されてきたが、月印千江之曲には表意的形態主義で表記したものもあり、今日と同じ文法意識を示している。しかし、16世紀に至ると形態意識と表音性をすべて満たそうとする重綴表記を示しており、近代国語に至り、分綴表記として発達していった。15世紀中葉、当時の国語音韻に沿うよう作られた訓民正音は、時代が下るにつれて変遷する言語体系に沿う表記法としては自然のまま対応することはできなかった。朝鮮の公式文書でない政策的に整理できなかったためである。よって、16世紀を過ぎ、時代が下れば下るほど表記法の基準がなく混乱を避けることができなかった。
以上、簡略に考えた中期国語の様々の変化は、壬辰乱を経て際だって表れ新たな曲面を迎える。政治・経済や文化の多くの分野にわたった近代社会としての変貌と共に近代国語の新しい時代が始まるのである。
2 資料
この時期の文献資料は、我々の文字で書かれて刊行されされ、当時の言語の実態を極めて正確に反映している点において、これまでの資料と比べ高い価値をもっている。そこで、これらの編纂・刊行が概ね宮中やソウルの官庁で行われたものであり、ソウルを中心とした中央語が反映されており、両班・官吏など比較的上流階級の言語が盛り込まれている。仏教の漢文に対する諺解類が主として多く、漢文口訣と関わりのある翻訳の文体も一つの特徴である。また、口語と隔たりのある文語的表現も少なくない。しかし、綿密な考察を加えれば、15・6世紀国語の姿を明らかにする研究は、大きな成果を重ねることができる。漢字を借りて我が国の言葉の文章を記したり語彙を転写したりする方法によって記録されたそれまでの資料は、不完全であり分量面においても非常に少なく、古代国語研究に決定的な制約になってきた。中期国語時代に表れた文献も壬・丙両乱のときに多く消失し、現在本刊本に接するのが難しいのは惜しいことである。
新しい固有の文字である訓民正音で書かれた本としては、訓民正音を嚆矢とする。新しい文字の名称であり同時に本の名前でもある。訓民正音の版本には、いわゆる解例本と例義本がある。世宗25年(1443)に創製完了し発表された訓民正音例義を記したものを例義本と呼び、例義の解説書として世宗28年に頒布されたものを解例本と呼ぶ。解例本は漢文本としてただ澗松文庫に伝わっている。例義本は実録、例部韻略に掲載された漢文本と月印釈譜の最初に掲載された国訳本がある。内容としては、御製序文と本文(新しい文字の音価及び使用法を明らかにした礼義)、そして解例정인지序文が載せられている。当時の新しい文字に対して、または、音韻体系や文法現象を研究するに当たっての基本的な資料として極めて重要な意味をになっている。
訓民正音文字で刊行された二番目の本は、龍飛御天歌である。樂章形式のこの歌は、世宗27年(1445)に作られ世宗29年(1447)に刊行された。
初刊本として巻1・2が伝わり、관행군4年(1612)・孝宗10年(1659)・英祖41年(1765)にそれぞれ重刊された。
釈譜詳節は世宗の命により首陽大君が主管し世宗29年(1447)に編纂した釈迦の一代記である。全体が24巻と推定されるが、中間本(第11)まで併せて現在第1・6・9・11・13・19・23・24巻が伝わるのみである。15世紀に表れた外の諺解類と異なり比較的口語体であり特に月印千江之曲は世宗の意味を敬い、金守温が作った釈迦讃詩である。全体が3巻に580曲前後と推定されるが、上巻に其194までの歌だけ伝わっている。ハングルで歌詞を書き、漢字を従属的に表記してあり、同じ時期の異なった本と異なった形態的表記法を示しており、漢字音の喉音’ㅇ’を支え쓰지 않는 高い文法意識と表記意識が表れている。月印千江之曲と釈譜詳節を合編した月印釈譜は世祖5年(1459)に刊行された。月印千江之曲と各節は本文となっており、それに該当する内容の釈譜詳節は注釈のように書き表して編纂したものであり、巻1には訓民正音諺解が掲載されている。元来、全体が30巻にわたるようであるが、現在原干・重刊を含め巻1・2・7・8・9・10・13・14・17・16・21・23だけが伝わるのみである。
一方訓民正音創製に伴い、当時の漢字音を整理するために韻書の編纂が進められた。世宗28年には崔恒に命じ韻会を翻訳させ、申叔舟・成三間に洪武正韻をまねた東国正韻を編むように命じた。世宗29年(1447)に完成し、翌年刊行した東国正韻(全6巻)は我々の漢字音を中国音で標準化しようとしたが、長い間実用化されることはなかった。洪武正韻釈訓(1445)は、中国の洪武正韻をハングルで訳音しておいた本として当時中国の漢字音と国語漢字音との関係を研究するにあたって重要な資料となる。全16巻8冊の中で第一冊(巻1・2)が欠巻となった7冊だけが保存されている。洪武正韻訳訓はこのように膨大な本であり、これを四声通攷として分量を減らして編纂したが伝わっていない。ただ四声通攷を補充した崔世珍の四声通解が忠宗12年(1517)に初刊されたが、その終わりに四声通攷の凡例が載せられている。
世祖の時代には仏教の典籍を刊行する機関として刊経都監を置き、多くの仏典をハングルに翻訳して刊行した。これらは豊富な内容と流麗な表現及び当時の生動する我が国の固有語を示す面において文学的成果のみならず語学的にも重要な価値をもっている。今日、国語史研究が外の時代より中期国語に傾斜しており、また、中期国語の姿が相当明らかになったことは、仏典諺解本の力によるところが多い。
世祖の時代、刊経都監で出した仏典諺解には楞厳経諺解(1462)、妙法蓮華経諺解(1463)、金剛般若波羅蜜経諺解(1463)、仏説阿弥陀経諺解(1464)、禅宗永嘉集諺解(1464)、心経諺解(1465)、円覚経諺解(1465)、牧牛子修心訣諺解(1467)、四法語(1467)、蒙山和尚法語略録諺解などがあり、正確な年代は未詳であるが世祖の時代に刊行されたものと見られる地蔵経諺解がある。これらは壬辰乱のために初刊本と伝えられるものは少なく、重刊本・復刊本として多くの種類が伝わっている。また世祖の時代に出された資料に五臺山上院寺重創勧善文は、その中で一冊の本がハングルと漢文が混じり筆写されており貴重である。この外に医学書を我が国の言葉で翻訳した崔チョの本である救急方諺解(1467)上・下が活字本として伝わる。ここには’ㅎわ’が終声に’ぽ’と母音価の’め し’が規則的に使われており、土俗語が多く資料がとしての価値が高い。
刊経都監では以後にも続けて仏教ソジョクを刊行した。宣祖の時代には金剛経三家解(1482)、栄嘉大師証道家用泉禅師継頌諺解(1482=南明集諺解)、仏頂心陀羅尼経諺解(1485=観音経諺解)などが現された。明皇誡鑑諺解(1477)は唐の明皇の故事を記述したものであるが、伝わっていない。霊験略抄は宣祖16年(1485)に現された五大真言に漢文として付いていたもので、明宗5年(1550)にハングルで翻訳刊行した。ここまでの仏書には、概ね東国正韻の漢字音が用いられているが、以後は現実漢字音が表れている。
昭恵王后、韓氏が부녀자 系統のために1475年に編纂した内訓は宮中用語も提供する15世紀の価値のある資料集である。三綱行実図はもともと世宗が1432年に偰循に命じ中国と我が国の孝・忠・烈に秀でた人物の行跡を絵と共に記録するようにしたものであるが、これを宣宗12年(1481)翻訳刊行した。しかし、’よ・ㅎ・わ 방점’が用いられた訓民正音直後の表記法を示し、翻訳は前もって行われたようである。この本の빠진事実を記録した続三綱行実図は中宗9年(1514)に、膨大な内容の東国新続三綱行実図は관행군9年(1617)にそれぞれ刊行した。三綱行実図と同じ体制で長幼と朋友に関した事実を集めた二倫行実図は中宗13年(1518)に刊行された。これら両本を合冊した五倫行実図は전조21年(1797)に刊行された。教訓を内容とするこれら行実図は、大体後代になるにつれ幾たびか重刊・復刊された。
分類杜工部詩諺解=杜詩諺解は、宣宗12年(1481)に25巻19冊の活字本として刊行された。初刊本は、現在、巻1・2・3・4・12・13を除いた残りが伝わり、仁祖10年(1632)に著わされた木版を基本とし改刻されているが、わ、ゑ、방점、口蓋音化など150年の時代の流れによって、変遷した姿を比較するとき、重要な資料となる。医学書として救急簡易方(1489)があるが、全体8巻の中で巻1・2・3・6巻だけが伝わり、これらも初刊本ではないようである。世宗15年に作った郷薬集成方を成宗23年(1492)に司訳院から刊行した伊呂波は倭学訳書で韓・日語の音韻体系の研究に極めて重要である。王命を受けて成俔がまとめた音楽論書楽学軌範(1493)には、トンドン・処容歌など高麗歌謡の歌詞が収められている。この本は、広海君(1610)と孝宗6年(1655)に重刊された。
ヨンサングンの時代には稀に伝わる印経木活字で二種類の仏書が刊行されたが、六祖法寶壇経諺解(1496)と施食勤供諺解(1496)がそれである。この中で、施食勤供諺解は真言勧供と三壇施食文の合本である。すべて漢字音の表記に現実音を反映し、15世紀末の国語の様子を示している。応急処置法を書いた救急易解方(1499)は現在伝わっていない。
以上、15世紀に刊行された文献は、それ以前から内容と分量共に豊富で当時の国語を研究するにあたって充実した資料を提供するものである。15世紀は中期国語のみならず、古代や近代国語を研究するにあたっても基準となるものであり、国語発達史上、自然にこの時期に対し集中している。しかし、言語の変遷はどの時期に局限されたりとどまったりすることはない。それゆえ、最近に至り16世紀や近代国語に関心が高くなる傾向は好ましいことである。特に16世紀は、国語変遷において、一つの大きな分水嶺となり、壬辰直前の言語の様相を示し、壬辰乱以後の国語と比較し資料上重要な意義がある。16世紀のハングル資料にも中央の上流階層の言語が反映されており、近代に広範囲に表れる外国語会話の資料と比較し、ただ文語体の表現が多いことは事実である。しかし、15世紀の時より本の内容が多様になり、一般大衆を対象とした読者を拡大する面も次第に顕著になり、語彙や文章表現においてある程度これらの言語の姿が反映されている様相を呈している。
ヨンサン君の在位の時代、ハングル文献は焚書されるという受難があった。そして、後には中宗以後には15世紀に初刊された仏教諺解の文献を重刊・復刊する作業も活発になり、新たな多くの本が出版された。1481年に刊行され三剛行実図から抜け落ちた孝(36名)・忠(6名)・烈(28名)の事実を記録した続三剛行実図が中宗9年(1514)に出版された。当時、すでに使用されていなかった’よ ㅎ’を使うなど、これまでの三剛行実図の体系にそのまま従っている。翻訳小学・呂氏郷約諺解・正俗諺解は1518年に刊行された。小学は、もともと朱熹の教えを劉子澄が編纂したものであり、諺解本には翻訳小学として初刊された後、宣祖19年(1586)、校正庁で印行した小学諺解があり、先に出版された内訓(1475)にも一部内容が引用されている。呂氏郷約諺解は慶尚道観察師金安國がその地域の人心・風俗を教化するために朱子増損呂氏郷約に口訣で토를 달고 ハングルで翻訳したものであり、初刊本はなく、壬乱以前に覆印した版本が伝わっており、16世紀の国語研究にとって価値のある資料となっている。正俗諺解もやはり同様の目的で金安國が翻訳刊行したものであるが、原刊本はまだ見つかっておらず、壬乱の後、刊行本が伝わり17世紀の言語の姿を提示している。
この頃には当時流行した瘟疫伝染病の予防と治療をするため、王命を拝し宋の医学書が出版された。辟瘟方諺解(1518)、簡易辟瘟方(1525)、牛馬羊猪染疫病治療方(1541)、分門瘟疫易解方(1542)などがあるが、壬辰乱以前の刊行本が現存している。これら16世紀前半期の文献に至っては、방점이 문란해지거나심지어없어진 場合もある。それだけ成祖が国語において弁別力を失ったものと解釈される。正確な変遷年代は分からないが、国語の楽譜と歌詞を収録した時用郷楽譜はわの文字が正確に用いられたものと見られ、中宗の時代を越えぬものであろう。国朝楽器という編者未詳の楽章歌詞も中宗のときに刊行されたものと見られる。これらの歌詞集には高麗歌謡が多数収録されている。
訓民正音は創製、頒布後、約80年余りぶりに語学の大家である崔世珍の到来により、再び整理される機会を迎えることになった。彼は四声通古の不足した点を補充するため四声通解(1517)全2巻を編纂した。ここには当時の漢字音を我が国の文字で表記てあるが、460余りの我が国の言葉を示している重要な文献である。初刊は活字本であるが、幸い日本で発見され影印で紹介され、広海君6年(1614)と孝宗7年(1656)に重刊され木版本を見ることができる。訓蒙字会(1527)全3巻1冊は漢字の教習書として作られたものであるが、漢字3,360字を33項目に分け文字の音と訓を記入してある。この本には凡例に反切27字に関する解釈があり極めて重要である。初刊活字本以外に多くの刊本が伝わる。それはまた朝鮮初期に使われていた漢語の学習書として編纂者・編纂年代が未詳である老乞大と朴通事を我が国の言葉で翻訳されている。崔世珍の翻訳した老乞大は上下2巻で中宗朝(1510年台)に成立したものと考えられるが、老乞大の諺解本は以後にも翻訳した文章を再び口語に書き改めつつ数次にわたって重刊された。顕宗11年(1670)、新たに翻訳された老乞大諺解(上・下)と英祖37年(1761)に3巻として再び編纂し翻訳した老乞大諺解、正祖19年(1795)史歴院で2巻にまとめて刊行した重刊老乞大諺解がそれである。朴通時の諺解も老乞大と同じ時期である中宗12年(1517)以前に作られたものであり、やはり後代に改編した重刊が相次いだ。粛宗12年(1677)に朴通時諺解、英祖41年(1765)に朴通時新諺解がある。老乞大と朴通時が重刊された時に再び改修したものはそれぞれ時宜に適うようにするためであり、会話本がもつ性格によるものである。そして、崔世珍は老乞大と朴通時の諺解本として重要な語彙と句とを抜粋して解説した老朴集覧(1510年台)を著わした。この4巻はすべて我が国の言葉と中国語の当時の口語を土台にして作られたものであり、特に言語資料として価値が高い。孝経諺解(1542)も崔世珍の翻訳として知られている。
明宗8年(1533)に刊行し広く読まれた仏説大報父母恩重経=恩重経は初刊本と以後数次重刊された版本が伝わる。1554年に著わされた救荒撮要は世宗時代の漢文本救荒辟穀方を抄訳したものである。明宗時代刊行されたとされる百聯詩抄解は敬宗3年本が伝わるのみである。
宣祖2年(1569)に慶尚道품기の喜方寺で刊行した七大万法は慶尚道方言の要素を反映しているので方点の表示は認められない。誡初心学人文、発心修行章、野雲自警告は、三つが一つの本となっており宣祖10年(1577)に刊行されており、1582龍仁の瑞峰寺で別々に開刊した版本も伝わっている。서산대사が作った禅家亀鑑の諺解は宣祖12年(1579)に刊行されたものと考えられ、広海君2年(1610)の刊行本も伝わる。詩経の本文以外に別に物名に対して漢字名と我が国の呼び方を対照した詩経物名諺解(1588)もある。徐居正がはじめて撰したと言われる新増類合(1588)は千字文、訓蒙字会と併せて用いられた漢字の教習用テキストであるが、約3,000の漢字にハングルで訓と音を付している。この本は、宣祖9年(1576)、同14年、英祖12年(1736)刊行が相次いだ。また、石峰千字文(1583)は、石峰濩が王命を拝し校正庁千字文を用いてハングルで訓と音を단漢字学習入門書として、粛宗20年、英祖30年にそれぞれ重刊された。
宣祖は同18年校正庁を設置し、経書の翻訳事業を推進した。ここでは小学と七書を翻訳していたが、小学諺解は1587年にまず出版され、大学諺解、中庸諺解、論語諺解など四書諺解と孝経諺解は宣祖23年に刊行された(三経も翻訳は宣祖21年までなされたが戦乱により刊行されることがなかった)。校正庁で翻訳し刊行したこれらの諺解本は官本として賞賛され、すべてが安東の陶山書院に保存されている。表記や表現が保守的である点はあるものの壬辰乱直前の国語の様相を示しており、量的に優れた資料である。現在では方点とわ▼を初刊本に使用した最後の文献となっているためである。一方、栗谷はこれより前に1548年まで四書諺解をほとんど終えていたが、刊行は英祖25年になって遂げられ、この本の中には栗谷の時代と刊行年代の言語をあわせて提示するものである。
最後に注目に値する資料がある。香川春継は人臣乱のときに朝鮮侵略に加わった日本人であるが、その子孫、香川正矩が書いた陰徳記がある。この全体81巻の中で高麗詞之事という韓国語の語彙および短い文章が載せられている。よしんば壬辰乱より以後に著された筆写本とはいえ一つの16世紀末の国語と日本語の音韻の様子を見出すことができる。[1]
3 音韻
中期国語に至り訓民正音の創製を契機として我が国の言葉の実態が露わになったと事実は、すでに言及したとおりであるが、特に音韻分野においてはさらに明らかである。無論、未だ正確な音価が明らかにされていない音素もあって、体系上模倣した部分がなくなったのではないが、訓民正音によって中期国語の音韻体系は概ね明らかにされた。しかし、訓民正音は文字体系であり非現実的な漢字音の表記も併せて考慮して作られたものであり、当時の音韻の実態をそのまま反映したものであると見なすのは困難な面もある。それゆえ、次に記述した音韻体系、すなわち、子音体系は訓民正音を土台として現代言語学の観点から帰納することにした。引き続き、中期国語の時代に表れた様々の音韻現象を概観する。
1)音韻体系
(1) 子音体系
訓民正音に規定された子音組織から、基本字として次の17を規定した。
|
基本字
|
가획자
|
牙音
舌音
唇音
歯音
喉音
半舌音
半歯音
|
ㄱ
ㄴ
ㅁ
ㅅ
ㅇ
|
ㅋ ゑ
ㄷ ㅌ
ㅂ ㅍ
ㅈ ㅊ
ㅎ ㅎ
ㄹ
わ
|
それに、この基本17字の形態を合用し、次の異音字を展開した。
各字並書 ㄲ ㄸ ㅃ ㅉ ㅆ ㅎ
合用連書 よ ら ■ め
このような並書と連書で規定された合用字については、その音価や音節についていかなる説明もない。これら以外に正式に規定されたものがないが、当時、実際の文献に使用された子音文字に次の合用字がある。
各字並書 ゐ ふ
合用連書 ゃ ゆ ■ょ り る れ ろ や ゅ
以上の訓民正音の子音組織は認められるものの極めて精巧で体系的である展開性を知ることができる。しかし、基本音韻17字を根幹とした合用字の展開は、基本子音17字についての副次的な発展と考えることができるのである。実際に当時の時代的環境から見たとき、中国の声韻学理論を導入し、これを制字に適用した当事者の心理は、漢字・漢文を使用している現実性と見るが、儒教立国の国是の上から이왕に制作される新しい文字とするほど漢字の音韻も表記することができる反切の役割を期待したものである。そこで、漢字音の整理に寄与する意図によって、国語の現実音韻に存在しない不必要な文字も副次的に生み出す結果をもたらした。これは、東国正韻の23字母体系と訓民正音の23字音(基本音韻17字と各字並書6字を含む)が一致している点から推察する。よって、各字並書は ㄲ=[g], ㄸ=[d], ㅃ=[b], ㅉ=[z], ㅆ=[ds],ㅎㅎ=[ĥ]に該当する中国の全濁音表記字であり、ゐ ふもこの類推的な使用であると考えられ、中期国語の音韻体系の確立的組織からは除外される。ただ、合用並書は訓民正音に規定されていなかったが、当時実在していた音韻である喉頭化音と考えられる。この合用並書は、ㅅ系とㅂ系に分かれているが、これらが語源的には多少の移動があることは、一つ、すべて、次のような喉頭化音と考えられる。
り や ㄱの喉頭化音 /?k/
れ ゃ ゅ ㄷの喉頭化音 /?t/
ろ
ㅂの喉頭化音
/?p/
ゆ
ㅈの喉頭化音
/?c/
ご ㅅの喉頭化音 /?s/
そして、ょは、ゃの類推音と考えられ、るはㄴと音韻論上弁別的資質が認められず除外する。このように合用並書を喉頭化音とし見る理由は、歴史的にサイッソリである'ㅅ’にディェンシオシと認識されて来ており、現在もやはりそのとおりであるためである。未だにこのㅅ系とㅂ系の合用並書の音価に対する意見は分かれている。ㅅ系とㅂ系をすべてもともとㅅとㅂの複合とみなす見解もあり、反面、ㅂ系はㅅ系と分離し、語源論的に元来ㅂとの複合と見る反面歴史的にディェンソリであったとみなす見解がある。[2]ただ、明らかなことはㅅ系とㅂ系がすべて語源論的に二音節であったことを予想することができる点と、ㅂ系はㅅ系に統合されたという事実である。
また、連書として規定された唇軽音は、東国正韻序において明らかに唇重音と分別されることができない理由で統合されながらこれを再び蘇生そせたのは改新漢字音による中国音韻を表記するために発展させた結果であり、やはり音韻体系から除外した。
このように整理してみるとつまり、基本子音として規定された17字が核心となっているが、ここにも独立音韻として難しい喉音の’し’と半歯音’ わ’がある。’し’については例解終声解に’し 声淡而虚不必用於終 而中声可得成音也’と述べ、音が薄くであるため、中声に使われなかったとしても、実質的な音価を保有できなかったという意味であると考えられる。
半歯音’’わ音は唇軽音の中で’よ’とともに15世紀国語の書写言語において使用されたことは事実である。しかし、先に述べたように’わ’も中国の伝統的声類体系による日母の規範性と当時、中国方言の発音傾向であった’ ㅅ/s/’音の母音の間で弱化し脱落現象による音韻の干渉的機能に対する配慮から、一時書写言語に利用されたのみ、独立音韻としての資質は認めることができないのである。実際に、中期国語で使用された分布を見れば、原則的に‘わ’は語中に、'ㅅ’は語頭に位置し、互いに相互補完的分布を示し、‘わ’が使われた位置は、’ㅅ‘が有声化する環境においてである。よって、’わ‘は’ㅅ‘の変異音であるはずである。唇軽音’よ’も’わ‘と同じように解釈される。
喉音に規定された喉音破裂音’ ’は訓民正音において’し’と類似し、実際の音韻の是非に対する解釈が 。しかし、この喉音破裂音’ ’は深い声門から出される音であるという点から、異なった音韻とは 程度に差があるだけ、独立音韻として見なすことができのである。このような喉音破裂音は、無声無気音の喉頭化に大きな役割を担っていたものと考えられ、古代国語の子音体系についての通時的な変化の面において見たとき、重要な意義をもつものであると言える。ただ、喉音’ ’は、16世紀までだけ保たれ、以後には独立した音韻機能を喪失した。
ゆえに、以上訓民正音の子音組織の性格から見て、厳密な意味から独立音韻としての資質もった15世紀中葉の中期国語の子音体系は、次のように推定することができる。
子音位置
調音方法
|
唇音 舌音 歯音 牙音 喉音
両唇音 歯硬音 硬口蓋音 軟口蓋音 喉頭音
|
破裂音
摩擦音
破擦音
鼻音
流音
|
P(ㅂ) t(ㄷ) k(ㄱ) ʔ()
p‛(ㅍ) t‛(ㅌ) k‛(ㅋ)
p’(ろ) t’(れ ゃ ゅ) k’(り や)
s(ㅅ) h(ㅎ)
s‛(ご)
c(ㅈ)
c‛(ㅊ)
c‛(ゆ)
m(ㅁ) n(ㄴ) ŋ(ゑ)
r(ㅣㄹ)
|
上の表で見たとおり20個の子音音素体系は、閉鎖音系列において気音化と喉頭化のよる対立による3肢的相関束を形成しており、摩擦音体系において喉頭化の対立による2肢的相関束を形成していた。
(2) 母音体系
訓民正音に規定された母音組織を見ると、まず、天地人、三才を形成し、基本字を整え、この基本字を併合し初出字と再出字に発展させ、母音11字を基本音韻とし体系化した。これを表に示すと次のとおりである。
基本字
字形
|
下の位置
|
音感
|
・
ㅡ
ㅣ
|
縮
小縮
不縮
|
深
不深不浅
浅
|
再出字
字形
|
同出音
|
配 合
|
開口度
|
ㅗ
ㅏ
ㅜ
ㅓ
|
・
・
ㅡ
ㅡ
|
・ ㅡ
ㅣ ・
ㅡ ・
・ ㅣ
|
蹙
張
蹙
張
|
再出字 ㅛ ㅑ ㅠ ㅕ
それに以上の基本音韻を合用し、さらに次のような合用母音を整えた。
2字 合用終声 ㅘ ㅛㅑ ㅝ ㅠㅓ ㅣ ㅢ ㅚ ㅐ ㅔ ㅛㅣ ㅒ ㅠㅣ
3字 合用終声 ㅙ ㅞ ㅛㅒ
上記のように訓民正音の母音組織は、基本音韻11字、2字終声14字、3字終声4字、併せて29字の体系であった。前述の子音組織が東国正韻の23字母体系をそのまま反映して体系化したのと比べ、この母音組織は、東国正韻の91韻韻母体系とは異なった独自的な方式により展開させた。そこで、合用母音として展開された18字は実質的に基本母音の二重又は三重母音一つの単位として制定したものであり、単母音体系とは別個の問題である。そして、第一次的な基本母音に規定した11母音の中にあっても、単母音でない二重母音と見られる再出字’ㅛ ㅑ ㅠ ㅕ’がある。これは/io ia iu iә/または/jo ja ju jә/と見ることができ、基本単母音の本質とそぐわない。再出字はただ理想的な漢字音の表記により、'ㅛㅑ ㅠㅒ ㅠㅖ’の合用字を整えていたが、これらは当時国語に存在していなかった、また、使用にされなかったため合用母音体系からも除外される。そして、中期国語の単母音体系は、基本母音として規定された11字の中で、再出字’ㅛ ㅑ ㅠ ㅕ’の4字を合用母音におけば、次のとおり7母音体系が成立する。
/・ ㅡ ㅣ ㅗ ㅏ ㅜ ㅓ/
それに複母音体系は、'ㅛㅑ ㅠㅔ ㅠㅒ ㅠㅖ’の4字を除外し、代わりに’ㅛ ㅑ ㅠ ㅕ’の4字をおけば次のような18字の体系である。
/ㅛ ㅑ ㅠ ㅕ/
/ㅐ ㅚ ㅟ ㅔ ㅣ ㅢ ㅜㅏ ㅝ/
/ㅛㅣ ㅠㅣ ㅒ ㅖ ㅙ ㅞ /
この外に半母音として/j/が追加される。[w]は国語漢字音の反映か訓民正音の規定に照射し近代国語において生じた音韻変化とみなし除外する。‘ㅛ ㅑ ㅠ ㅕ’の/j/は滑走音(gliding sound)で発音されたと考えられるためである。
ではこれらの単母音の音価はどうであろうか。現在国語学界では中期国語の母音音価体系についていくつかの異なった見解を提示している。それぞれの母音の音価の体系を推定するにあたって、唐代に出された訓民正音解例の題字解は最も価値のある根拠となる。訓民正音において母音字の説明によると、‘・ ㅡ ㅣ’については舌の位置とこれに伴う音響感を述べている。舌縮は舌が縮まろうとすることであるので、‘・’は最も後舌になり、‘ㅡ’は‘ㅣ’より後舌になる音価である。初出字’ㅗ ㅏ ㅜ ㅓ’は’縮感’に区分し、'ㅗ’と’ㅓ’は唇を狭めて縮まる高母音・狭母音であり、’ㅏ’と’ㅓ’は唇を広げて張る低母音・広母音であることを説明したものである。このような縮・張の区別は‘・/ㅡ ’を基準にしただけ、‘・’と‘ㅡ ’は半高・半狭母音と呼ぶことができる。以上解釈したように中期国語の単母音を体系化すると、次のような母音図を作ることができる。
이
우 오
으 ㅇ・
어 아
このとき、単母音の対立関係が図によりはっきりと読みとれる。
아 ㅇ・ 오 이
어 으 우
/이/を無関母音とし、他の6母音が2系列に後舌母音対非後舌母音という相関的対立をなしている。このような対立関係は中期国語の母音調和とも一致する。
2 音韻変化
先には16世紀を中心とした中期国語の子音と母音の体系を眺めた。これからこれら子音・母音が実際言語の運用においていかなる特性を示しつつ、また、古代国語と比較しいかなる変化を経て近代国語に移行していくのかなど、中期国語の時代に現れた様々の音韻変化について考察する。
(1)
子音の変化
① ‘’音喪失
先に概論的に述べた子音と母音の体系の中で、中期国語時代を経て喪失したか音価に変化があった音韻として’’と’・’音を挙げることができる。’’音は訓民正音で’初声のとㅇは相似て諺可、以て通用するなり’と述べ、’ㅇ’音と似ていると記している。この喉頭破裂音’’は深い声門から生じる独立音韻として[ʔ]の音価をもつので、無声無気音の喉頭化に大きな影響をもたらしたものと考えられる。漢字音’(音)、(安) (末)’などと固有語の冠形化において’ ■ 、오■날’のように用いられた’’は、しかし、16世紀に入り消滅した。
② 子音群
中期国語に見られる語頭子音群の音価については、諸学者の見解が一致していない。子音群はㅂ系とㅅ系とに大別されるが、これらはそもそも語源的には一つの音節が省略されたとき、母音が脱落しながら残った子音が、他の子音群は硬音化の音韻変化を経た。しかし、国語では語頭に子音群を許容しない音韻上の特性をもっているので、不安定なこれらの子音群は硬音化の音韻変化を経、従って、中期国語に至っては、ㅂ系とㅅ系がすべて後に続く子音を喉頭化する機能をもった。母音と母音の間においても二つの子音までだけ許容したので’넘ㅄ디다(濫)’は、[nәmtʔida]と発音されたものであり、’わわ(酉時)’でも’・’母音と’ㅐ’母音の間においては’k’と’ʔt’音だけが読まれたと考えなければならない。表記上生じた合用並書’ご’は近代国語の初期に’ㅂ’の合用並書に合わせられ、ㅂ系は近代国語の後期に至りㅅ系に表記上の統一を示しており、硬音表記を各字並書に変えたのは1933年ハングルマッチュム法統一案によるものである。
③ 語末子音
中期国語において語末子音の対立は、すべての子音を受容することができなかった。訓民正音の終声解によると、8終声に規定されているが、これは当時に語末子音の弁別様相を説明したものである。8個の子音’ㄱ ゑ ㄷ ㄴ ㅂ ㅁ ㅅ ㄹ ’に見られるように有気音や硬音の対立が中和されたことは現代国語と同じである。ただ、ㄷとㅅが厳密に対立しているが、16世紀を経過し、ㅅも[t]と内破する変化を経て、結局7終声体系と現在に至るようになる。15世紀の’낮나치(月印釈譜 8.8), 잇느니(金剛経三歌解 2.23)’が16世紀の文献には’난나치<박통사 상41>’인느니<분문온역이해방7>と変わっているが、これは’ㅅ’が’ㄷ’と読まれ、続く’ㄴ’に同化された形態である。
④ 硬音化
硬音化現象は、既に古代国語末期から見え始めるものの、15世紀に至ると明らかな音韻現象となる。例えば、’그わ다(牽)’が’스わ다’としても同じく現れるのである。かような硬音化現象の原因は、幾つかを挙げることができる。古代国語末期に音節が줄어들며 生じた語頭子音群の’ご
ㅂ ㅅ’が後に来る子音を硬音化させる作用をした( 女> >딸, 米>쌀)。元来、国語では子音群を許容できないため、縮約過程において不安定に生じた音韻構造である子音群は結局硬音化により変化するが、このような現象は特に17世紀近代国語から後半に生じた。終声にある’ㅅ’や複合語の間に差し込まれるいわゆるサイッソリが後に来る音節が初声を硬音で発音することもある(삿기(雛)사>새끼,곶(梨花)>꽂>배꽃)。逆行同化による硬音化も一つの要因として数えられる。’곳고리>꾀꼬리,다>꺾다(折)’などによって見出されるこのような変化は、概ね近代国語において生じたものである。そして、言語の外的な要因として激烈な行動を現わす語彙において硬音化の現象が多数現れた。(다(積)、쑤짖다(罵)など)。これは社会的な雰囲気が言語に影響を与えたものである。16世紀に入り、硬音化された語彙は次第に増え始め、17世紀以後近代国語に至りさらに増加していった。中期国語で硬音が意味を弁別する働きをもち、独立した音韻として位置を占めるようになったのは、喉頭音’’の役割が大きかったものと考えることができる。15世紀に個別音韻として存在した喉頭音系列が自立独立音韻衝열で’’と’ㅎ’があったが、この中で、前者は硬音化に、後者は激音化に寄与したのである。
⑤ 激音化
激音化現象は平音に有気音が굡치는 作用で、中期国語に入り硬音化より多少遅く広がり、16世紀を経過し、範囲に広がった。ㅎ終声体言に比較的多いが、これはㅎ逆行同化をもたらしめたものと見られる(발ㅎ(臂)>플)고ㅎ(鼻>코)。そして、硬音化における場合と同じように、急迫していく社会的傾向が硬音化現象を促した点も指摘することができる(손ㅅ돕(爪)>손톱、갈ㅎ>칼)。
⑥ 有声音化
中期国語においても現代国語で生じる有声音化現象がそのまま見られる。これは文字表記にまで認めらた’よ’と’わ’を見ると明らかである。’굴발(文)、셔블(都)、스가블(鄕)、마즘(心)、가즐(秋)、한잠 (葎)’など皆、有声的環境からㅂ系とㅅ系が有声音化した。当時にも閉鎖音と破擦音’p t k ks’は有声音の間でそれぞれ’b d g dz’とと発音されたのである。このような有声音化において、さらに新しく生まれたり消えたりすることもあった。すでに中期国語で’글발>글월、셔블>서울、스가블>스가울、마즘>마음、가’즐ㅎ>을ㅎ’が進行しており、二つの表記が生まれることになった。
⑦ 子音脱落
これ以外にも子音が脱落する現象も数多く見受けられる。代表的な’ㄹ’音の脱落は、’물ㅅ결(波)>뭇결’、놀다가>노다가、곯브가>고프다、나리>내、바를>바르、’などその範囲が広範にわたった。’ㄱ’音も音響度が高い’ㄹ’音あるいは’ㅣ’母音の下で脱落した。’놀개(翼)>놀애、물개(砂)>물애’と同じ体言の中や体言の共通格語尾’믈(水)과>믈와’において、’ㄱ’音が脱落した。そして用言の活用語尾において、’디고(落)>디오、 ’글외거늘(行悪)>글외어늘、알건마른(知)>알언마른、밍글고(製)>밍글오’、副詞形において’디외게(為)>디외에’と同様、’ㄱ’音が脱落した。’ゑ’は、’그어기(其処)>그어긔>거기’のように縮約されたり、’싱강(畺)>싱안>시앵’のように、’ㄱ’音が弱化する過程を示しているが、脱落した。’ㅎ’音も有声音の間で脱落した。’일흠(名)>이름、가히(犬)>개’などの変化がすでに15世紀の文献に現れている。そこで、これらの子音の脱落には、必須的規則はない。同じような音韻の条件で外に現れる場合もあり、方言によって適用されないこともある。例えば、’얼우시고<용비어천가 20장>’ では、’ㄱ’音が脱落していない。また、慶尚道、咸鏡道方言では’ㅂ’脱落が、全羅道・咸鏡道方言では’ㅅ’脱落が適用されない場合が多い。
⑧ 口蓋音化
世界の夥しい数の言語で認められる口蓋音化が、国語では中期国語の時代から徐々に現れ始めた。15世紀にも一際珍しくなるだけ、口蓋音化した例を文献から探し出すことができる。
(1) 츠기 너겨 모지마라 줄ㅎ다라도 <月印釈譜9.12>
(2) 진짓 氣運이(眞氣)<두시언해 8.56>
しかし、中期国語では’디다(落):지다(負)、 티다(打):치다(牧)、딥(藁):집(家)’などと同様口蓋音化は意味を分化する弁別力をもっていた。中部方言では’ㅅ・ㅈ’が’i・j’の前で口蓋音化されず、’섬(階)・셤(島)・저(自)・져(筋)’の弁別がなされており、漢字音においても’디(地)・지(止)・텬(天)・쳔(千)’と分化されていた。しかし、この時期に’마듸(節)・잔듸(茅)・어듸(何処)・드듸다(踏)’などは、口蓋音化の条件が成立せず変化をこうむらなかったが、後に単母音に変わり’마디(節)・잔디(茅)・어디(何処)・디디다(踏)’となった形態が今日にまで用いられている。つまり、口蓋音化現象は、15世紀ごろ南部方言から始まり、次第に北部に領域が広がって行き、16世紀に入り近代国語に至り、急速に拡散したと考えられる。
⑨ 頭音法則
語頭に子音群、あるいは’ゑ ㄹ’など特定的な音が回避される、いわゆる頭音法則はアルタイ言語に共通しているが、中期国語では徹底して守られてはいなかった。先に述べたように、ㅂ系とㅅ系の子音群が存在していたことは、中期国語の一つの特徴でもあるが、不安定な音韻形態をもっていた、これらの子音群は、漸次、硬音に音価の体系を変えていった。語頭に’ゑ’が来ることがないことは、古代国語以来、今日までそのまま続いている。しかし、語頭の‘ㄹ’は、中期国語の固有語や漢字語に僅かに見える。’나귀(驢)・노새(騾)・늬질(来日)・네절(礼節)’のごとく’ㄹ>ㄴ’形も認められるが、’라귀(驢)・로새(騾)・례절(礼節)・란간(欄干)’も同様に見られる。’i・j’母音の前で’ㄴ’も弁別力をもち使われており、’녀름(夏):여름(騾)、닐다(謂・早):일다’は、時期によって異なった意味をもつ。語頭において’ㄹ>ㄴ’の進行や、’i・j’母音の前での’ㄴ>ㅇ’の変化は、中期国語の時代に兆候を示しており、概ね近代国語の時期に入り、18世紀ごろから普遍化した。しかし、平安道地方では’j’母音がそのまま喪失し今日’낭방(両班)、너름(夏)’のような形態を示すこともある。
⑩ 鼻音化
子音が前・後に連接して発音されるとき、この二つの中で、一つ、または両方が音節的変化を経ている場合がある。後に来る音が硬音化されることもあり、いずれか、または両方が同化作用を起こすこともある。この時、同化は大体口の開く度合いが大きい方向になり、鼻音化の様相を帯びるようになる。例を示すと’ㄷ’音は、’ㄴ’音の前で有声音化し、’ㄴ’音は’ㅂ’の前で唇音’ㅁ’に同化されることもある。’걷나다(渡)・듣니다(步)’は、’건나다・듣니다’でも現れている。’흔? (無)’は、’??’でも現れる。子音のこのような変化は、初めは一部で随意に生じたものが、一般化しながら後には音韻論的な必須規則としてその座を占めるようになった。国語では15世紀以前に既に一部で変化が始まっていたが、16世紀以後に大きく拡大した。反面、一つの単語や音節の中で似たような音韻が他の音韻に変わる異化作用も起こり、’간난(貧)>가난’の変化を示した。
⑪ ㄷ・ㄹ
語彙の中で一部に’ㄷ’と’ㄹ’が互いに行き来する現象が中期国語にも認められる。’짇(짓):(行為)、듣다(落):드리우다、바를(海):바다ㅎ、불다(吹):붇채(扇)’で、’ㄷ’と’ㄹ’が互転しており、’걷다(歩) 묻다(問)’のㄷ変則動詞においても現代語同様’ㄷ>ㄹ’の現象が生じた。この中で’ㄷ>ㄹ’の変化は前・後の母音に間隙同化を引き起こさしめたものであり、形式素においてもしばしば現れる自然な現象である。また、叙述形’-이-’や未来形’-리-’すなわち、’i’母音の下で、繋詞’-다’と回想語尾’-더-/-다-’も、’-러-/-라-’も流音化した (例:-이다>이라、이더라>이러라、흐리다>흐리라、흐리더니>흐리러니)。
⑬ 舌側音化
国語で流音/ㄹ/は舌側音[l]と舌顫音[r]の音声的な音価をもっている。’r’音が’l’音で発音される舌側音現象は、すでに15世紀に現れている。’모르-(不知)+아>물라、므르-(退)+어>물러’は、르/르変則用言として知られている。これ以外にも’벌에-(虫)>벌레、머리(遠)>멀리’からも舌側音化の作用を知ることができる。
⑭ 子・母音衝突回避
二つ以上の形態素が結合するとき、子音だけまたは母音だけ連接する場合が生じるとき、このような衝突を回避する音韻変化が現れる。子音の衝突を防止するためには、調声母音が介入したり、または二つの子音の間で一つが脱落させたり、初めから縮約されることもあった。’됴ㅎ(好)+ㅇ+니>됴ㅎ니’においては、調音母音’-ㅇ-/-으‘が挿入されたものであり、’늘(飛)+니>ㄴ니’においては終声’ㄹ’が脱落し、’됴ㅎ(好)다>됴타’は、’ㅎ’音と’ㄷ’が合わさって’ㅌ’となった例である。このような音韻現象は、母音においても同様に生じた。’ㄷ외 (化)+j+오+ㅁ>ㄷ외욤’のように子音’j’が挿入されたり、’더으(加)+우+ㅁ>더움’のように一つの母音が脱落することもあり、’ㅅ이(間)>새、ㅂ리+옴>ㅂ륨’のように音節が縮約されることもあった。特に似たようになれば、二つの中で一つが脱落するのが容易であるとき、これを同音省略と呼んでいる。’듣니다(步)>듣니다(步)、간난(艱難)>가난、출렴(出斂)>추렴’においては同一の子音が省略され、’수울(酒)>술、괴요ㅎ다(寂)>고요ㅎ다’は、隣り合う母音で省略がされた。一つの音節の中に2つの’ㄹ’が初声と終声にあった語彙は、終声の’ㄹ’が脱落する同音省略を中期国語を経て生まれた(例:거우를(鏡)>거우루、바를>바ㄹ、나를다(至)>나르다)。
(2) 母音の変化
① ‘・音の’動揺
‘・’は15世紀の7つの単母音の一つで[+back, -high, -low]の音価をもっていた。しかし、当時不安定であった‘・’は中期国語から音価に動揺が生じ’・’音をもった音節に音韻変化が起こった。16世紀の末頃にほぼ収束した1次的変化は、‘・>-’であるが、第2音節以下で主として進行した(ㄱㄹ치다(教)>ㄱ르치다、ㅁわㄹㅎ(里)>ㅁ을ㅎ、말미(由)>말므ㅣ)。第1音節で’・>ㅏ’又は他の母音に変わった第2次変化は18世紀に起こった。
② 母音調和
アルタイ諸語で多様に現れる母音調和は中期国語でも際だった特徴の一つである。調音位置が似た母音だけ結びつける中期国語の母音調和は後舌母音’아、ㅇ、오’対非後舌母音’어、으、우’の対立を示している。よく前者を陽性母音、後者を陰性母音と呼び、この対立から外れる中性母音’이’は、現代国語と異なりほぼ陽性母音であった。母音調和は意味素と形式素の間に明らかであり、意味素の中でも整えられているのが原則である。’나(我)+는;너(汝)+는、막(防)-+-ㅇ니;먹(食)-+-으니、곱-(麗)+-움;덥- (暑)+-움、글바쓰다(並書);니어쓰다(連書)’のように語幹と語尾の結合においては勿論、’자조(頻)、새우(強)’のように副詞の形成において、それに’ㄱ즐(秋)・겨즐(冬)’のように意味素内でも母音調和がよく守られていた。ただ、派生接尾辞や子音で始まる屈折接辞は母音調和に伴う異形態をもたない場合が多かった。15世紀にも’스가よㄹ(鄕)、녀토시고(淺)’などのように母音調和に外れた使い方がなきにしもあらずであるが、比較的厳格に守られている。しかし、16世紀から少しずつ揺らぎ始めた母音調和は、近代国語に至り急激に乱れるようになった。これは‘’音が喪失しながらその間に作られていた母音の体系が動揺するに至り、これに伴ってこれまでの母音調和がその根拠を失ったことが大きな原因である。これらの変化は、ほぼ陰性母音の方で生じ、以後、形式素にも陰性母音が比較優位を示している。
③ 円唇母音
非後舌母音で平唇母音である’ㅡ’は、’ㅁ・ㅂ・ㅍ’の下で唇音の下で安定した円唇母音’ㅜ’と調音される現象が生じる。中期国語においても15世紀に既にこのような変化が起こり始めていた。’브르다(飽)>부르다、픔다(懐)>품다、어듭다(暗)>어둡다’の進行が15世紀の文献において確認される。以後、円唇母音化は、’ㅜ’がやや後舌化する近代国語で大いに活発化した。非前舌母音がむしろ前方で発音される前舌母音化現象は、近代国語後期に現れ、中期国語では探すことができない。
④ 1母音逆行同化
後に続く’ㅣ’母音の影響により母音同化を引き起こすUmlaut現象も15世紀から現れ始めた。’겨시다(在)>계시다、이다(使)>이다’と同様に、’ㅏㅓㅗㅜ・ㅡㅑㅕ’が’ㅐㅔㅚㅟㅢㅒㅖ’と変化したものである。このような’ㅣ’母音の逆行同化は、南部方言からさらに広範囲に広がり、近代国語に受け継がれた。
⑤ 間音化
単母音2つの音節が縮約され、複母音の一音節となる間音化現象が一部において起こった。’막다히(杖)>막대’は、’ㅎ’が脱落して生じたものであり、’이(間)>’は、ただ同化作用によって生じたものである。これは’부텨(佛)+ㅣ>부테、군(君子)+ㅣ>군’においても同様である。
反面、隣り合う母音だけ調音位置を近づけようとする母音の同化は、’누록(麵)>누룩’の変化をもたらし、似通った音韻が他の母音に変わる異化作用は’나내(客)>나구내’の変化をもたらした。
母音は子音と比べ容易に脱落したり変化したりするが、中期国語でも母音の脱落は様々の環境で起きている。’파라다(碧)>파랗다、외다(爲)>되다、스로(自)>스스로’は通時的な音韻変化であり、-(滅)+-어>、건나(渡)+-아>건나、-(用)+-움>’などは形態素の結合によって現れる共時的な音韻現象である。
4 声調
中期国語において現れる韻素で最も著しいものは声調である。15世紀の文献に正確に表記されている傍点がこれを物語っており、訓民正音にもはっきりとした説明があるためである。訓民正音には
左加一点則去声 二則上声 無則平声 入声加点同而促急
と述べ、訓民正音諺解には
去声は노 소리라 (去声は、高くならない音であり)、
上声は처미 늦갑고 乃終이 노 소리라(上声は最初低く、終わりが高い音であり)
平声は소리라、(平声は高くならない音であり)
入声は소리라、(入声は高くならない音であり)
と説明している。このような傍点と声調の説明は、当時の国語に高・低に二分された音調があったことを物語っている。すなわち、去声は文字の左側に点一つを記した高調であり、平声は傍点がない低調で、この両者は平板調である。上声は傍点が2つ表示され最初は低く、後に高い低高の複合調になる。それに、訓民正音解例によれば、高低が音調の区別と関係なく’ㄱ・ㄷ・ㅂ’の閉鎖末音の音節を指している。また、訓民正音解例本には声調の特徴を次のように取り上げている。
平声:安而和(春)
上声:和而挙(夏)
去声:挙而壮(秋)
入声:促而塞(冬)
声調についての以上の説明は、ほとんど同じことが崔世珍の訓蒙字会にも記されているが、これらはすべて中国の伝統的四声についての説明をそのまま取り入れた部分が多い。もともと声調は中国語の特質上音韻の単純性に伴い極端な同音異義現象を減らすための手段として発達したものであり、切韻時代に平・上・去・入の4声があった。この中国語の四声は強弱・高低・長短と互いに密接な関係があり、例えば強弱の場合は、’音高・音長’を招き易く、弱音であるときには’音高・音短’になり易いものである。このような中国の伝統的四声についての観念が国語の声調体系によって少なからず適用され、訓民正音の制定においては声調言語としての国語の音韻的機能で記号化したものである。例を挙げると、中国の四声の伝統に従い、去声と入声を別に立てている点である。よって、上の記録がある程度の特質は分けることができるが、国語の音に特有の声調を説明したものと見なすのは不十分である。ところで崔世珍の翻訳老乞大朴通事の凡例中には国語音声調の本質を平・仄の2音に分けて側音[3]を再び上声と去声に分けており、入声を別に取り立てていない。ここに中期国語の声調を’平声・上声・去声’の三声と分けることができるのである。
この三声は上で見たように高低の音調をもつが、音の高低は音の長短を自然に伴うものではないかと考えられる。これは中国語の四声においても同様のことである。実際に中期国語でこれに関連した資料がある。宣祖2年(1569)に刊行された無等山安心寺版真言集には梵字についての発音法を漢字とハングルで対訳して載せているが、その中で母音12字については、中国の四声と国語の長短で区分している。すなわち、中国語の去声は、我が国の言葉では長音に、上・入声は短音に分けている。中期国語でも我が国の言葉に関わる初分節音素の弁別で’長短’を想定している。問題は、音の高低と長短の中で一次的な弁別資質が何であるかとする点であるが、しばし多くの研究を必要とする。いずれにせよ、中期国語では声調による意味を区別する語彙が多く、声調の機能はある程度認められうる。’・눈(眼)눈(雪): ・내(我 主格):내(我 冠形格)、가지(茄子):・가지(枝):자・지(種): ・가・지(轎)’の対立は、すべて声調を変えることによって機能した例である。体言の声調は固定されていたが、用言は語尾の変化によって声調が変えられる場合(例:돕는(助)>도・방)が多かった。また、平声と去声が結合して上声になるが(例:부텨(佛)+・이>부・텨)、上声自体が複合素の性格をもった2モーラ(mora)の調音になるためである。実際に’:뫼(山)、:내(川) 、:뉘(世)’はすべて上声であるが、これらは古代国語で、’모・리、나・라、누・리’であったが、ㄹ音が脱落し、ㅣ音節に縮約され声調に変化をもたらしたものと推定される。故に上声は高低の声調を失った近代国語以後にも調音として継承されていく。
国語の声調は、古代国語以前に遡及しうる可能性を排除することができないが、中期国語の文献に至り、やっとはっきりと認められるのみである。15世紀の文献で厳格に守られていた傍点表記は16世紀に至り混乱した様子が認められ始める。漢学と語学の大家である崔世珍が記した訓蒙字会でも声調体系が壊れていく様相を示している。声調の弁別力は16世紀の中葉に至るや弱化に拍車がかかり、後半に至っては表記体系が極度に乱れ、弁別機能を喪失している。傍点が表示された初刊本としては壬辰乱の直前の宮本経書諺解類を最後として考えられるが、既に表記の規則性が失われたままの様子を垣間見るのみであり、近代国語以後には傍点も痕跡を留めていない。15世紀、比較的厳格であった声調体系が、わずか1世紀が経ち秩序を崩したの理由は未だつまびらかではないが、これらがもつ初分節音素としての弁別力が、あまりに感覚的であったためであったと考えられる。声調体系の中で上声など、各声調の音韻的特性に変化が生じた可能性もある。それに、主格語尾から始まった格語尾の低調化(去声>平声)現象が用言の活用語尾にも拡大し、主として去声を中心に同じ声調が連続したときに、声調が変わったり音韻規則の適用により生じた異形態が声調の実現に従わないなど、ある形態素による固定された声調に変化が生じる現象も体系の崩壊の原因の一つとして数えることができる。現代国語の東南方言に現れる’音の高低’と中部地域に広く分布する’音の長短’の区別は、中期国語に認められた声調体系が変化・消滅しつつ残存した痕跡であることは確実である。
国語漢字音の声点の表示においては、中国の伝統的四声をそのまま取り入れた東国正韻式の傍点法と、国語音に特有の声調体系による現実国語の漢字音の傍点法がある。前者は訓民正音の頒布直後の文献に見られるが、東国正韻式の漢字音の表記が消滅して共に消え去り、後者の表記が用いられるようになった。従って、国語漢字音の声調に伴い、傍点を施した訓民正音の伝承字音を中国の伝統的四声と対照してみると、その性格を知ることができる。中国の平音は国語音において主として無声点の平声であり、中国音の上・去声は主として声点が2点の上声であり、中国音の入声は主として声点が1点の去声と対応をなしている。このような国語の去声の大部分が、国語においては上声に帰属している。平声と上声だけが元来の座を維持したのは、国語の漢字音は本来から平声と上声の対立だけが弁別的であったという事実を立証するものである。しかし、国語の漢字音の声調は中国の清濁によって2つに大別できるが、原則的に国語音の平声は中国の伝統的平声と類似した声調であり、側音の上・去声だけは国語音声調で1点・2点にまとまって流動した。このような事実は、国語音声調の傍点法が無点(平音)と有点(側音 1点去声、2点上声)で平・側観念において2つに分けたことをうかがい知ることができる。側音を強いて上声と去声に分けるのは、中古漢音の伝統的四声の観念と元・明の時代に変動した北京官話の声調体系-ここには入声韻尾が喪失しており、主に陽平[4]と去声に編成された。-との調和によるものであった。また、当時、中国語と国語に関わる初分節要素の1次的弁別が互いに異なっていたことにも起因すると考えることができる。固有語の声調体系においても言及したとおり、国語漢字音がもった初分節要素の弁別的基本パターンは音量の長短であった可能性が極めて高いと言えるのである。この場合、音の高低が剰余的な性格をもつであろうことは自然な現象である。P157
5 訓民正音
中期国語は訓民正音の創製・頒布から始まる。漢字の音と訓を借り、郷札、吏読を用い窮屈な文字生活を長らくし続けてきたが、我が国の言葉に沿った新しい文字を創製したので、我が民族ははじめて正常な言語生活を営むことができるようになったのである。無論、訓民正音が15世紀中葉に頒布された後、我が国の文字としての責務を果たし、国語を表記するにあたって、今日に至るまでには漢字・漢文化の対立において、幾多の紆余曲折を経たのである。しかし、これが民族文化の表現手段に収縮されつつ、成功裏に文字の機能を発揮し一般化したのは、それに伴うだけ文字の組織が科学的であり、また、文字本来の記号性においても長所を具備していた音素文字体系であったためであると言うことができる。
1 創製の動機
訓民正音を作った動機は、訓民正音のはじめに、世宗御製の序文と訓民正音解例の末に記された鄭麟趾解例の序文に明確に述べられている。この2つの序文は、訓民正音を作った直接的な動機と目的を明らかにしている。
世宗御製序文を見ると、
(1)
国語は中国語と異なるが、漢字では十分に通じない。
(2)
従って、民の心を思いのまま述べることができない。
(3) 故に、新しく28字を作り、人それぞれ容易に身につけさせ、日常生活に使用させるということとしている。この三つの内容を中心として、その製作の動機を伺うと次のとおりである。
まず、世宗を初めとして、世宗を助け、彼の言語制作を遂行した、いわゆる正音音律学派と称する集賢殿の少壮や学士が確固とした言語・文字観をもっていたという事実である。韓・中両国は言語に違いがあるため、漢字が通用することがないと明らかにしたことは、最も平凡な事実ではあるが、漢学至上の当時の時代的環境においては、言語学的な面において、言語・文字意識の発露として高い評価が与えられなければならない。言語・文字の本質的な違いを認識したことは、まさに言語・文字観の確立を意味するものであり、かような意識は新しい文字の創製の根本的な動機となったと言うことができる。
鄭麟趾は、解例序文で再び風土説を取り上げ言語の異同を論じたが、この風土説は中国の声韻学に由来した、当時の根本的な言語の哲学観であり、かような言語思想は、結果的に新しい文字の創造を構築することになったのである。
第2に、一般民衆をして、正常な文字生活をせしめるように企てられたことである。鄭麟趾は解例の序文でこれを具体的に指摘し、よしんば漢字を借りて書いた場合があったとしても、普通の言語においてはその万分の位一も十分に通じることがないことは嘆かわしいことだと述べた。故に、訓民正音を作ったのは、たとえ風土説に立脚した言語思想の発露であはあるが、このような一般大衆の現実を直視して、正常な文字生活を企図しようとする努力が所産だと言うことができる。これは、訓民正音製作動機の核心となるものである。
第3に、制字にあって、大衆性・実用性に基づいた文字の普遍化を目論んだ。
鄭麟趾は、解例序文で、新しく作った訓民正音がいかほど転換・無窮[5]、簡便で精巧な文字であるかを具体的に説明している。これは従来、難しい漢字が一部の上層階級の独占物であったことに比べ、大衆的であり平易な文字を作り訓民政策としての国民教化の政道を実現しようとした、遠大な思想の所産であると言うことができる。
このような動機と目的で訓民正音が創製されたことが明らかであるにもかかわらず、反面、世宗の漢字音を整理するため、まず編纂作業(韻書編纂事業)と関連し、中国声韻学研究の発展過程で訓民正音を作ったとする、異なった動機を模索しようとする見解がある。しかし、このような見解は本末転倒の拡大解釈によりいわれたことで、より慎重を期さなければならない。もちろん、当時の時代的環境に照射し、新しい文字を創製するにあたっては、やむを得ず、中国声韻学についての理論を適用することができなかったのであるp159.l.6。実際に訓民正音は、世宗をはじめとして、正音音韻学派に属する集賢殿の少壮、学士が、当時の声韻学理論を研究し、この克服の所産として製作が可能であったのである。このように、中国声韻学についての理論を導入し、訓民正音の内容面において言語哲学的な分析を企てたのは事実であるが、訓民正音を作った動機の新しい面を提供する事実はないのである。
訓民正音の文字組織において国語音にない文字が加わっているとし、これが、即、初めから漢字音を表記しようとする、異なった動機を意味するということは考えられない。ただ、国語音を表記しようとする文字の製作過程において、副次的に展開させ、漢字音表記にも併せて利用することができるようにしたという方便上の手段に過ぎなかったと言うことができる。
2) 創製の経緯
訓民正音がどのような過程を経て作られたのかという経緯については明確に解明することできない状態にある。元来、訓民正音の製作は挙国的な公開作業ではなく、集賢殿の一部を初めとした守旧派の文臣を無視した、一種の王家事業の性格をもっていたほど、当時の時代的背景を度外視する理解に苦しむものである。
朝鮮儒教立国の国家基盤が世宗時代、強固に確立され、また黄金文化が花開いたのは世宗即位2年3月であり、宮中に集賢殿を新設し、王立文化研究所としての機能を発揮し、世宗の遠大な理想が実現されはじめたと言うことができる。訓民正音の制定もこのような研究活動の雰囲気の下で成し遂げられたのである。
元来、世宗の言語政策は、崔恒をはじめとした集賢殿の新進気鋭の少壮、学士である、いわゆる正音音律学派と提携し促進したもので、これは崔萬里など元老層に属する守旧派とは異なり、比較的政治圏以外から集賢殿本来の使命に忠実であり、世宗が推進する作業の中核として活動していたものである。しかし、崔萬里をはじめとした守旧派文臣は、訓民正音の制定に対して、反旗を掲げた。彼らは儒教立国の国是に照らしてみて、訓民正音の普及により、儒教の発展が低下することを恐れたのであり、当時の斥仏派と根本的に相通じる儒教至上主義であったと言うことができる。かような当時の時代的背景にもかかわらず、世宗は絶対的な王権で初志を一貫し事を推進していたのである。しかし、訓民正音の製作がいつ着手されたのか、その進行過程がいかなるものであったのかということについては、記録は探し出せないだけでなく、その完成・頒布年代さえも実状は僅かの記録があるのみである。それ故、かような時代的背景を前提にその経緯を可能な限り究明しなければならないのである。
まず、訓民正音が、いつ完成したのかということについては、世宗実録と訓民正音解例の鄭麟趾の序文の年代的記録が一致する点から判断し、世宗25年、12月、その礼義が完成し公布された事実は疑うことができない。これを反証しうる事実は、訓民正音が完成するや、その翌年、世宗26年2月16日には訓民正音制定に協賛した集賢殿の学士崔恒ら、正音音律学派をして、韻会諺解を命じ、新しく作った文字の実用段階に入った。このように、訓民正音が実用普及段階に入るや、儒教至上主義を信奉していた崔萬里など守旧派は、即座に、同年2月20日に長い反対上疏文を奏上し、訓民正音の制定が不必要であることを力説し、その利害得失を論破し、その上疏文の中では、このときすでに吏輩を集め、訓民正音を学ばせ工匠数十名を集め、文字を刻みつけたという事実が指摘されている。これは当時、新しく作った訓民正音の普及状況を示しているもので特記に値する事実だと言うことができる。以上のような事実から推し量り、世宗25年12月に訓民正音が完成し、普及段階に入ったのは間違いのないことである。
その後、世宗は再び、正音音律学派の崔恒・朴彭年・申叔舟・成三問・姜希顔・李塏・李善老をして、創製した新しい文字の淵源と精義の実際を広く知らしめ、自ずから気付き学ぶことができるように訓民正音の解例を命じ、世宗28年9月に完成し刊行された。それ故、世宗28年は訓民正音の解説書と言える解例が完成した年であり、従来の通説になっていた訓民正音の頒布年代を意味するのではないことを知ることができる。
では、世宗25年(1443)に完成し公布されたこの訓民正音がいつから着手され、どのような経緯で創製されたかという点については、文献的記録がなく明らかにすることができない。しかし、世宗24年3月に世宗がすでに龍飛御天歌を編もうとの伝旨を下したという事実と、用意周到で決断力のある政策推進力から推察し、世宗24年3月以前、すなわち、正・2月には訓民正音を創製し着手したのではないかと考えられる。龍飛御天歌の編纂は、そのとき推進されていた、新しい文字で将来これを表記し文字としての権威を打ち立てることと同時に、国民教化の鏡として編み、名実共に朝鮮の国威を宣揚しようとしたものと考えられる。故に、世宗24年3月の龍飛御天歌についての実録記事は、翌年、25年に完成をみた訓民正音と全く無関係だとは考えることができない。また、世宗の言語政策上の執念は、26年2月、韻会諺解を筆頭に洪武正韻釈訓・四声通攷の編纂を成し遂げた。
そして、訓民正音の製作にあって世宗を支えた人々は前述の訓民正音例義の詳加解釈、すなわち、解例に関わった人物で、その明断が明らかにされている崔恒以下、8人の集賢殿少壮学士らである。これらはすべて正音音律学派と言える学士たちで世宗の言語政策具現化のために、終始世宗の側近として活動した人物たちであり、漢字音の処理をするための東国正韻の編纂をはじめとし、その他韻書の翻訳に一貫して従事した。
このように、郷札・吏読の不完全な表記についての反省から新しい文字を作った気運が芽生え、世宗の集賢殿設置により、その方向を見据え始め、ついに世宗の智慧と創造的力量により、訓民正音という実を結んだのである。特に、訓民正音が創製され、実用化されるようになるには、前述した正音音律学派を中心とし、世宗自らの言語政策的な信念と勇気と決断、それに絶対王権によるものであることを強調しなければならない。
3) 制字
訓民正音の制字原理は、象形原理を適用した。訓民正音解例に「正音28字は、それぞれその形を模倣し作られた」(正音二十八字 各象其形而制之)と明らかにしている点から明確である。その象形原理は、中国の声韻学の発展であり、中国声韻学の原理は東洋の根本思想である陰陽五行説に立脚し、人間の声を自然哲学的な観点から説明するものである。訓民正音はこのような中国声韻学の理論を適用し、新しい文字を創造したものであるが、訓民正音解例において、言語の生成原理を陰陽で説明し、組織原理を五行で説明したことは、音声の生成と組織を易学理論から抽出した声韻学の理論的基調の上に樹立したものであることを意味するものである。しかし、重要な事実はよしんば声韻学の理論と原理を適用したものであるとしても、驚くべき創意性を発揮し、科学的な文字組織によって具現化させた点にあるのだ。
訓民正音がもつ独創性は、次の2つの面において指摘することができる。
最初は、象形原理を適用し基本字をまず作り、加割と合字として体系化した。ここに適用された象形原理はもちろん、新しいことではない。漢字も最初は大部分、自然系の対象を象り、次第に具体概念を現わす指事の方向から、再びこれら絵画文字を結合し合字体の方法で多くの文字を作り出したものである。しかし、漢字は複雑な構造をもっているが、その展開についても理解が困難であるのに対して、訓民正音は象形原理を適用し、漢字と同じ複雑性と難解性の呪縛を脱し、子音は発音器官を、母音は三才[6]を象り、大衆性と平易性を付与し、科学的な文字体系を樹立した。
二つ目には、単綴文字としての漢字音がもつ文字の表意性を排除し、すべて言述を記述することができる音素単位の文字体系を取った。訓民正音を例外に一つの(ある)今日の音素文字が起源的に絵画文字から発達した事実と、現代に至り音素分析の記述方法が本格的に発達した点と比べてみたとき、15世紀にすでに音素分析の科学的な方法による訓民正音の制作は、文字史上高く評価されなければならず、特に、正音音律学派に属した当事者の現代的な音声学的・音韻論的識見には敬意を禁じえないものである。故に、訓民正音は、たとえ中国の声韻学理論に基盤をおいたものだとしても、結果的には象形原理を基盤に新しい文字体系を創造するにあたって成功したものである。
故に、鄭麟趾が序文で述べた昔、前者の模倣説は実際に前者を模倣したということではなく、前者に関連させることで、これに反対する漢学者を鎮め、併せて新しい文字についての権威を付与しようとする意味において表明された言葉であると言うことができる。
4) 文字の組織
訓民正音解例により、文字の組織をみると次のとおりである。
(1) 子音の組織
子音は五行に分け、発音器官を象り、まず次の基本字を作った。
五音
|
字形
|
象形
|
清濁
|
牙音
舌音
唇音
歯音
喉音
|
ㄱ
ㄴ
ㅁ
ㅅ
ㅇ
|
舌根が喉を閉じる形
下が上の顎に付く形
口の形
歯の形
喉の形
|
全清
不清不濁
不清不濁
全清
不清不濁
|
そして、この五つの基本字を根幹として再び加割の方法で、同じ調音系列の子音を次のとおり並べ、体系化した。
五音
|
字形
|
基本字
|
清濁
|
牙音
|
ㅋ
|
ㄱ
|
次清
|
(ゑ)
|
異体
|
不清不濁
|
|
舌音
|
ㄷ
|
ㄴ
|
不清不濁
|
ㅌ
|
全清
|
||
唇音
|
ㅂ
|
ㅁ
|
全清
|
ㅍ
|
次清
|
||
歯音
|
ㅈ
|
ㅅ
|
全清
|
ㅊ
|
次清
|
||
喉音
|
|
ㅇ
|
全清
|
ㅎ
|
次清
|
故に、ハングルの子音がすべて別々に象形文字として作られたことでないことを理解することができる。各調音部位によって、基本的で、代表的な字母だけを発音器官の形を模倣し、字形を創出したのである。このようにハングルが表音文字として音の産出器官を象っているという事実は、ハングルの起源解明に重要な意味をもつものである。それは、知られているどの文字においても発音器官を象った文字を見つけることができない面において、ハングルは他のどの文字とも起源上、関係がない事実を明白にしているためである。それ故、これら発音器官を象った字母8字は、これから多くの表層構造を生成することのできる深層構造を根元的に創出すしたものであると考えられる。
この加割字の中で、牙音ゑだけは、科学原理からはみ出ている、専ら一つの異体として各音種3字の体系化から調和を崩しているが、喉音の基本字ㅇと区別し、牙音の基本字に加えなかった。
そして、加割の方法に体系化した五音、それぞれ3字の15字体系からはみ出した文字については、つぎの2つの異体を作った。
音
|
字形
|
象形
|
清濁
|
半舌音
半歯音
|
ㄹ
わ
|
舌形
歯形
|
不清不濁
不清不濁
|
以上、17字は訓民正音当事者の子音の基本音素として制作したことが明らかである。その調音位置から発音器官を象った科学的な体系を樹立したことをうかがうことができる。
訓民正音は更に、この基本音素体系の文字を合用し、次の異音字を作った。
合用別
|
字形
|
並書
連書
|
あ え こ す ざ ㅎㅎ
よ ら ■ ■
|
これらの合用字の特色は、訓民正音解例にその音価や性質についての明確な説明が見られないことである。
以上のように、訓民正音において正式に規定された子音体系は基本音素17字に合用字10字を併せて、27字体系で組織された。しかし、訓民正音に正式に規定されていないが、当時の実際文献に使用された字形子音に次の合用字が使用された。
合用字
|
字形
|
各字並書
合用並書
|
ゐ ふ
ゃ ゆ ょ り る れ や ゅ
|
このような合用字は訓民正音例義に’初声を併せて使い、並べて書く。終声も同じ’(初声合用則並書 終声同)と規定した並書の一般原則によるものである。
従って、これを含めれば訓民正音の子音組織はすべて39字になる。
(2) 母音の組織
母音は天・地・人り三才を象り、まず次の基本字を整えた。
字形
|
象形
|
舌の位置
|
音響感
|
・
ㅡ
ㅣ
|
天円
地平
人立
|
縮
小縮
不縮
|
深
不深不浅
浅
|
また、この基本字を配合し再び次の初出字と再出字を作った。
初出字
|
再出字
|
||||||
字形
|
同出音
|
配合
|
開口度
|
字形
|
基音
|
同出音
|
配合
|
ㅡ
ㅣ
ㅡ
ㅣ
|
・
・
ㅡ
ㅡ
|
・ㅡ
ㅣ・
ㅡ・
・ㅣ
|
蹙
張
蹙
張
|
ㅡ
ㅣ
ㅡ
ㅣ
|
ㅣ
ㅣ
ㅣ
ㅣ
|
ㅡ
ㅣ
ㅡ
ㅣ
|
・・ㅡ
ㅣ・・
ㅡ・・
・・ㅣ
|
以上、母音11字は基本字を基にして陰陽の対立を配合し展開させたものであり、母音の基本音素として体系化したものである。
さらに、以上の基本母音11字を再度合用し、次の異音字を作った。
合用別
|
字形
|
|
同出合用
|
二字合用終声
|
ㅢ ㅢ ㅢ ㅢ
|
相随合用
|
二字合用終声
|
ㅣ ㅢ ㅢ ㅐ ㅢ ㅔ ㅢ
ㅒ ㅢ ㅖ
|
三字合用終声
|
ㅢ ㅢ ㅢ ㅢ
|
以上のように訓民正音の母音体系は基本音素11字、すなわち、一字中声を基本として、これらを合用して2字中声14字、三字中声4字、あわせて29字体系で組織した。
訓民正音に規定された文字体系は、基本音素28字を根幹とし、これらを再度合用して子音10字、母音18字を加え、すべて56字で組織した。この文字組織は、その具体的な展開において、頗る精巧であり科学的なものである。
しかし、序文で述べた基本音素28字を除外した残りの合用字の展開は、当時の時代的与件と中国の声韻学を導入した制作当事者の思惑からみたとき、多分に意図的な性格をもっている。すなわち、漢文を使用している現実性と儒教立国の国是に照らし、せっかく制作する新しい文字によって漢字音韻を表記する反切の代替として利用し、現実の漢字音の整理にも寄与しようとする副次的意図において、当時国語音韻に実在していなかった音韻の表記文字を併せて作り出し、漢字音表記にまで拡大させたという事実である。
これについて、子音体系から具体的に考えてみることにする。
訓民正音の制作は、当時の漢字音の整理をするため東国正韻の編纂とは不可分の関係にある。特に訓民正音の子音23字体系(基本音素17字とそれぞれの並書6字を含む)は東国正韻の23字母との一致をみる。これは訓民正音の制作が漢字音の分析を前提にしたものであることをそのまま示すものである。しかし、漢字音の分析は単純に中国の音韻体系として復元させようとしたものではなく、国語音を基準に、新作文字の実用性において国語音にない漢字の表記にまで拡大したものであると言うことができる。東国正韻の23字母体系は、かような結果の所産であると考えられうる。従って、東国正韻の編纂において注目されるのは、当時の漢字音整理によって、いわゆる「因俗帰正」を原則に打ち立てたが、当時の現実漢字音を度外視したのではなく、可能な限り中国韻書の基準によって正そうとしていたのである。このような事実は、字母・七音・清濁・四声において、国語漢字音と中国漢字音の変化を指摘した東国正韻の序文で次の内容をとおして知ることができる。
(1) 牙音から渓字母が太半見母に入っている。
(2) 渓字母がときに暁母に入っている。
(3) 国語音で清濁の区別が中国音と異なることはないが、ひたすら国語漢字音にだけ特性がないが、なぜこのような理があるのであろうか。
(4) 質・勿諸韻は当然端母として終声になるが、俗用する来母はその音が緩やかで入声になることがない。
(5) 舌頭音と舌上、唇重音と唇軽音、歯頭音と正歯音の区別は国語漢字音においては、弁別することができない。
このように指摘した変化の重要な事実は、実状の漢字音が国語の音韻体系や音韻現象によって変化した当然の帰結に過ぎぬが、東国正韻を編纂した当事者はその序文で明らかにしたように、言葉の音が中国と互いに異なっている言語の本質を理解していたにもかかわらず、文字の音においては中国音と合わせなければならないという観念から変化の原因を漢字の組織に通じておらず、発音法を熟知することができなかったという愚かな儒学者に責任を転嫁し、これを正そうとしていたのである。
しかし、実際に変化した国語漢字音と中国韻書の音韻対照によって度はずれた隔たりを発見した当事者は、先に指摘された事実について次のように処理し、やむなく両者を折衷する方法を模索した。すなわち、(1)(2)(3)の項目は、仮に国語漢字音において変化が起きたはしたが、その原因が現実国語漢字音にあるという俗を捨て、正によって正そうとするものであり、(4)の項目は、終声の入声の処理において最も苦しい立場に陥ったようで、形式上洪武正韻の南方系音に依拠したㄷ入声の保存を正と見なし(このとき北方系語音には入声の区別がなかった)、いわゆる「以影捕来」の方式を取り、ㄹに影母を併記することで、発音の促急を促したが、結果的には国語漢字音に沿った。(5)は現実的に国語音で区別することができなかったので、正を捨て俗に従い、道理を正さなかったものである。このように折衷した結果が東国正韻の23字母体系に現れており、これがまた訓民正音の初声体系に適用されたのである。それ故、この23字母体系は中国の伝統的初声体系である宋代の切韻指掌図に載せられた36字母の中、前述した(5)の処理により、舌音で舌頭、舌上各4母、唇音で唇重、唇軽各4母、歯音で歯頭・正歯各5母を統合し、都合13字母を除外した結果と信じられるのである。よって、これは漢字音の整理が結果的には、むしろ、国語の現実漢字音に基準を置いたという事実を意味するのみならず、東国正韻の編纂の意図が訓民正音の創製を前提にして推進された事業であったことを物語っているのである。このような事実は、23字母採択された漢字が訓民正音において初声のみならず、終声からも共通的に使用されたという事実が支えている。
このように、東国正韻の23字母体系は、訓民正音の23字母体系と一致しているが、この23字母体系の中で国語の基本音素に当てられた17字を除外した全濁は、あ・え・す・ざ・ㅎㅎ6字は、実質的に国語の現実音でなく、漢字音の整理上副次的な要求により作られた制字である。これは、すなわち、前述した(3)においてうかがえるように、国語漢字音にない中国の濁音字を表記するために便宜上制字したものであると言うことができる。実際に、朝鮮朝初期の国語において、この濁音字の各自並書が語頭に使用された例がなく、その音価は全濁音あ=[g]・え=[d]・こ=[b]す=[z]・ざ=[ds]・ㅎㅎ=[ɧ]に該当するものと考えられており、今日の正書法になった音に使用される音とは異なるものである。それ故、漢字の全濁音表示に訓民正音で■■、■땀、歩■、慈■、邪■、洪■のように表記したのは、実際、国語音によるものでなく、中国の韻書による古音を推定し、改定漢字音を表記したもので、東国正韻の序で指摘された事実と一致しない。
また、東国正韻の序で国語漢字音では分別することのできない理由に統合され23字母体系を確立した当事者は、異例の連書の方法を記し、唇軽音、■■■■を別に規定し、唇重音と唇軽音の区別を再度蘇らせている。これは明らかに訓民正音を作った当事者が文字を作る過程で改定漢字音を前提に中国音韻の推定において必要な限り子音を表記するために発展させた結果であり、国語音を表記するための制字はない。この伝統的中国の36字母にあてはめると、次のとおりである。
唇重音 幫ㅂ 滂ㅍ 明ㅁ
唇軽音 非よ 敷■ 奉ら 微め
以上のように、漢字音の表記上副次的に制作された唇軽音は、23字母体系の中で濁音字の制作と同一のものであり、実用のための両面的技巧を目指す制字であると言える。
このような初声体系の音韻理論に立脚した当事者の実用第一の観念は、音節現象において子音と分離される終声の処理において、遺憾なく発揮された点を発見する。すなわち、’終声復用初声’とする漢字の構造分析から終声を分離し、終声と初声の同一性を認識したのである。このような事実は、驚嘆に値する独創的な見解であり、訓民正音の文字組織が科学的であるいうことを端的に物語ることだと言うことができる。初声と終声は音節現象からみたとき、いわゆるsyllable peak[7]を除外したその前後の副音(syllable
margin)に該当する子音である。故に、この同一の音素体系において把握したということは、科学的に次に論述する母音体系の確立で国語音節体系の独自的な広がりを可能にしたのである。
しかし、初声と終声との同一性を発見し、同一音素を当て、原則的に初声を終声に通用させたことを清明な音韻学派は文字の実際の運用においては’八終声可足用’の原則を設定し、初声中、’ㄱゑㄷㄴㅂㅁㅅㄹ’の8字だけを用いる実用的方法をとった。これは訓民正音本文に規定した’終声復用初声’について、実際の運用の限界を提示した細則と見ることができる。よって、終声を初声と同一音素体系として把握することと同時にその実際の運用範囲と限界は、8終声に制限した便法によって、その原則を立てたものと考えられる。この’八終声可足用’の原則はその後、意識的に守られたが、これは形態論的事実より音韻論的事実に比重を置いたものである。p171このような事実は、語形上基本形態を固定させる原則をやめ、変異形態を表記上の原則とし、実用的方法であると同時に音素文字としての理論を終声表記に運用し具体化させた卓見として大いに評価されなければならない。
しかし、形態論的な潜在意識はときどき発露されるものであるので、龍飛御天歌と月印千江之曲において一部この制限した使用の原則から外れる’ㅈㅊㅍㅌ’の終声を使用した例が見られるが、これは極めて少数の異例的な表記に過ぎない。
次は母音体系について概観することにする。
前述した子音体系は、東国正韻の23字母をそのまま適用し体系化したのであるのに比べ、母音体系は東国正韻の韻母体系を反映した痕跡はなく、独自的な体系を繰り広げた点が特徴的である。韻母は介母(j/w/jw)・核母(a/ә/i)・韻尾(k/t/p/ŋ/n/m)と分析されるもので、声調とともにその構造が複雑である。しかし、そのままの中国韻学では、子音を声母と韻母に分けてきており、韻母は切韻では193音、広韻では206音に分類され、東国正韻では91音を立て、韻素によって統合、分離に伴う変動が著しかった。これに訓民正音の当事者は、韻母の分析を土台にして音韻体系を打ち立てるにあたって、独自的な方向から音韻の分析を試み、新しい事実を発見するに至ったのである。すなわち、韻尾として分析された要素の/k/t/p/ŋ/n/mが声母と一致する事実を発見し、韻尾でこれを分離し終声として規定した。再度’終声復用初声’とし、初・終声の一致性を認め、新しい終声の制字を終えた。これは、訓民正音の母音体系をして、中国の伝統的な声韻学理論を脱皮し、独自的な国語の音韻体系を確立した一つの要因となった。言い換えれば、実に、これは訓民正音という文字体系から現代現代言語学で言われる子音と母音に二分することができていた驚嘆に値する卓見である。本質的に、音素文字として体系化を可能にした根本要因であると言うことができる。
このような卓見によって体系化された母音は、陰・陽に配列され、国語の基本音素11字を一字中声とし、次のように第1次的に確立された。
・ ㅡ ㅣ ㅡ ㅣ 陽性母音
ㅡ ㅡ ㅡ ㅡ ㅣ 陰性母音
ㅣ 中性母音
など、その配列の精巧さをうかがうことができるが、これは15世紀国語の母音連結法則によって、陰・陽両儀の母音配列を明示したものであり、現代言語学で音韻上、一つの法則となっている母音使用方法に三重の母音分類を確立したものと言うことができる。
このように、基本音素11字を体系化して再びこれらを配合し、次の合用字を作った。
① 同出合用から
2次合用 ㅢㅢㅢㅢ[oa][ioia][uә][iuiә]
② 相随合用
2次合用 ㅡㅢㅢㅐㅢㅔㅢ[ɐi][ɯi][oi][ui][әi][ioi][iai][iui][iәi]
3字合用 ㅢ[oai] ㅢ[uәi] ㅢ[ioiai] ㅢ[iuiәi]
などであるが、この合用母音で制作された18字は実際的に第1次的に作った基本音素の廿母音、または、三重母音を実用上一つの単位として合用したものであり、新しい音素を整えたのではない。
基本母音の中で、二重母音と見られㅡㅣㅡㅣの制字であると言うことができる。これは、io/ia/iu/iә、または、jo/ja/ju/jәと見ることができ、一つの音素文字one letter per
ofonemeという音素文字としての本質をうかがわせるものであり、驚嘆の対照になりうるものである。しかし、これは音節において、主音(syllable peak)に対等したもので、音素の分離より制字の節字上、実用的な面において再出文字に規定し、基本系列の母音として体系化したものでると考えられ、実質的な面では、合用母音の性格を帯びるものであると言うことができる。故に、この二重・三重母音を合用母音として実用上単位化していたと考え、訓民正音が本質的に音素文字文字だとすることを否定するものではない。しかし、このㅡㅣㅡㅣの合用は、現実国語音に大いに混乱を招く要因になったと考えることが出来、母音においても漢字音を表記するための副次的要求による制字の可能性を授ける面において、注目の対象となるものである。すなわち、基本母音・ㅡㅣㅡㅣㅡㅣの合用は、二重・三重母音として国語音に実在した主音であった音に反し、ㅡㅣㅡㅣの合用(※ 表)すなわち、ㅡㅣㅡㅣの4字は、国語音に実在しなかっただけでなく、朝鮮朝初期の文献に使用された例を見いだせないのである。よって、これは制字上、基本音素の配合という共通原則に従って子音体系において並書として全濁音と、連書として唇軽音を展開したことと同一のもので、改定漢字音の表記上、新しい別系の文字を作らなかったとしても合用を利用し、表記の反切の代わりに利用しようとする実用的方法に立脚した作為性に由来するものであると考えることができる。
以上、論述したように、訓民正音は基本音素28字として第1次的に国語の基本音素体系に合致させるべく文字体系を成し遂げた。この音素を再び合用した国語音と併せて改定漢字音も表記するにあたって利用しようとする副次的に意図によって作られたと言うことが出来る。
5) 文字の書法と名称
訓民正音の書法は、音節単位の様式で初声・中声・終声を合わせ一音節単位構成を前提として、解例訓民正音において、次のように並列し、規定している。
① 中声の中で丸い文字と横画の文字は、初声の下に付けて書く。
② 中声の中で、縦画の文字は、初声の右側に付けて書く。
③ 終声を2つあるいは3つ併せて書く場合は、横に付けて書く。
④ 初声を2つあるいは3つ併せて書く場合は、横に並べて書く。
⑤ 同じ初声を併せて書く場合は、横に並べて書く。
⑥ 終声は、初声と中声の下に付けて書く。
⑦ 終声を2つあるいは3つ併せて書く場合は、横に並べて書く。
⑧ 漢字と訓民正音を混ぜて書く場合は、漢字の子音によって中声や終声で補完することがある。すなわち、’孔子l 魯ㅅ사람’
このように規定した訓民正音の書法は、我々が使用しているものと同一であることを知ることが出来る。ただ、漢字の混用で’補以中声終’1の規定は、主格接尾辞’가’の発達で、l母音の付記がなくなり、語間字(サイッソリ)においてㅅを似たようなㄱㄷㅂらわが使用されているが、その後、ㅅに単一化されてついて消滅してしまった。また、このような書法はその後、次第に大衆化していくに伴い、合字単位で覚えるのに恰好のものであったので、これは崔世珍の訓蒙字会(1527)凡例で示された初中声合用作字例の
가 갸 거 고 교 구 규 그 기
から始まり、後世に一般化したものである。
訓民正音の各文字の名称については、訓民正音制定当時の文献である解例には明示したものがなく、その当時どのように呼ばれていたかということは、容易に断定することことができない。しかし、訓民正音解例の初・中声の説明に現われる初声字及び中声字の下に付いた接尾辞によって、推定が可能である。推定に先立ち、まず、注目される事実は、崔世珍の訓蒙字会凡例に次の名称が明示されている点である。すなわち、
① 初声終声通用八字
ㄱ 其役 ㄴ 尼隠 ㄷ 池末 ㄹ 梨乙 ㅁ 眉音 ㅂ 非邑 ㅅ 時衣 ゑ 異凝
② 初声独用八字
ㅋ箕 ㅌ治 ㅍ皮 ㅈ之 ㅊ 歯 わ而 ㅇ伊 ㅎ屎
③ 中声濁用十一字
ㅏ阿 ㅑ也 ㅓ於 ㅕ餘 ㅗ吾 ㅛ要 ㅜ牛 ㅠ由 ㅡ應不用終声 ㅣ伊只用中声 ・思不用初声
※ 末・衣は、その訓を表記したもの
この名称はㄱㄴ……など、初声、終声の通用八字は、初声と終声の用例をそれぞれ示したもので、2字の名称になっており、ㅋㅌ……及びㅏㅑ……など同様の文字は、それぞれ初声と中声を示したもので、一字の名称に加えた事実を知ることが出来る。しかし、このような崔世珍の名称が彼の独創的な命名であるのか疑わしい。おそらく、これは訓民正音を制作当時から呼び慣わされていたものが崔世珍によって訓蒙字会に明示されたものではないかと考えられる。これは、訓民正音諺解の接尾辞の表記と一致する点を見出すことが出来るためである。初声17字がすべて’ㄱ는’’ㄷ는’と、’는’が接尾している点が注目されるのである。この’는’接尾辞は終声、すなわちパッチムがない音節の下に連接するものであり、また、母音連結法則に従い上の音節が陽性母音であるとき接尾するものである。解例に’能参両儀’と述べ、陽性・陰性両系母音に連結することができる中性母音ㅣが、訓民正音諺解ではすべて’는’が接尾している点から鑑み、崔世珍の初声使用例に明示した文字がすべてㅣ母音になっている事実と対比して一致するものである。よって、訓民正音諺解に’ㄱ는 엄쏘리’’ ㄷ는 舌の音’とするㄱㄷは、’기・디’と呼び慣わしたものであり、ついには名称化したものであると考えられる。
中声においては、
① 陽性母音において……ㅡ는、ㅣ는…
②
陰性母音において……ㅡ는、ㅣ는…
③
中世母音において……ㅣ는
などと母音系列によって、’는’と’는’が使い分けられており、その用例がすなわち、呼称として名称化したものであり、これは崔世珍の記録と一致するものである。それ故、訓民正音それぞれの名称は、制作当時からその用例として呼称されつつ、崔世珍の訓蒙字会に記録され明示され、初声にあっては一字名であったものが終声にまで呼称された、二字名として固定化し一般化したと言うことが出来る。
6) 版本
訓民正音の版本には解例本と例義本があ。世宗25年(1443)に創製、完了し発表された訓民正音の例義を記したものを例義本と呼び、この例義の解説として世宗28年(1446)に頒布されたものを解例本と呼ぶ。
ところで、この中で、解例本は漢文本であり、例義本は漢文本と国訳本(註解本とも呼ぶ)とに分ける。現在伝わっているこれらの版本は、次のとおりである。
(1)
解例本
この解例本は1940年ごろ、慶北安東郡李氏の家で発見され、全螢弼氏の手中にあるもので世に知られた唯一本であり、現在澗松文庫に所蔵されている。この版本は、発見当時、表紙から二枚が훼손되고 なくなっており、補写されているが、この補写の序文の末尾となっている’便於日用耳’を’便於日用矣’とし、’耳’が’矣’と誤写された部分があるが、版式や字体から判断し、世宗28年の原刊本と推定される貴重本である。
(2)
例義本
まず、漢文本を見ると、
① 解例添加本
これは、前述した解例本の初めに載せられた年代的最古のものである。
② 実録本
これは、世宗実録28年9月の條の最後の記事に現われるもので、前述した解例本に添加された例義と鄭麟趾の序だけを書き写したものである。解例本の例義と比較したとき、文字の出入りがいくらか認められる。本文中の’欲使人人易習’、さらに序の中で二番目以下で’臣’が省略されている点などである。
③ 礼部韻略本
これは粛宗4年(1678)、校書館から刊行された排字礼部韻略本の初めに載せられた訓民正音である。
この版本は世宗序に’欲使人人易習’と記し、実録本と同じ誤写がある点からみて、解例添加本によったものではなく実録本によったものであり、その内容を変え、分量を削減して載せたものであると考えられる。
これ以外に、漢文で書かれた例義本として粛宗の時代に崔錫鼎が作った形世訓民正音図説の初めに掲載された訓民正音があるが、これはその内容が前述した礼部韻略本のそれと同じである。従って、これは礼部韻略本の転載本だと考えられる。
次に、国訳本としては、
① 月印釈譜
これは、世宗5年(1549)年に刊行された月印釈譜の初めに載せられたもので、本文の例義だけを注釈し、国訳したものである。版本は従来、宣祖1年(1568)に刊行された喜方寺覆刻本が知られていたが、最近刊行本と推定される版本が、通文館を経て서강大学図書館に所蔵されたものとして、世に影印広報された。
この国訳本が例義本と異なった点は、例義本にない歯頭音と正歯音の区別についての規定を追加している点である。この歯音の両者の区別は中国音を表記するための手段であるが、例義にはない点とから判断し、解例本が出た後、この国訳本から別途に追加されたことを意味しているものと考えられる。
もともと、パクスンビンの所蔵であったこの版本は、現在、高麗大学付設アジア問題研究所の六堂文庫に所蔵されている。
この版本は、最初の1、2章が毀損し補写された点が問題ではあるが、その他、内容は前述した月印釈譜本と同じ版本である。故に、現在単行本になっているが、これは月印釈譜本の国訳本だけを別に製本したものと推定される。
これ以外に国訳本の写本として日本の宮内省所蔵本と、また、日本の学者金澤庄三郎所蔵本がある。しかし、これらはすべて前述した月印釈譜本を転写したに過ぎない。
この版本はp179.l.2
74/l3
0 件のコメント:
コメントを投稿