2019年8月3日土曜日

江戸時代の外国語教授法 --朝鮮語通詞養成校「韓語司」での雨森芳洲の実践を通して---

                                     1997年11月13日
    「江戸時代の外国語教授法
         --朝鮮語通詞養成校「韓語司」での雨森芳洲の実践を通して---」
                                   
目次
1,「鎖国論」から「海禁論」への歴史意識の転換
2,江戸時代の長崎通詞たち
3,雨森芳洲の外国語教育論・教授法
4,享保十二年(1727)に開設された日本最初の外国語学校「韓語司」
5,外国語教授システムの開発

(1)「鎖国」--享和元年(1801)にオランダ通詞出身の志筑忠雄が、ケンペルの『日本誌』の一節を「鎖国論」として訳出したことに由来
      ①いわゆる「鎖国令」は、一般には寛永10年(1633)から16年に    かけて出された5次にわたる長崎奉行に出された老中奉書
   ②相関連する蝦夷・朝鮮・琉球関係の整備・唐船の長崎集中・オランダ平    戸商館の長崎移転・諸藩の異国船警備
   ③海禁体制の実施--環シナ海地域の国際協調とその政策実施
(2)唐通詞 ①役割--「商売之儀并口銭銀共、万事之儀者、       町中之者共船人まきの支配」『唐通事会所日録』(1)75頁
     1,輸出入貨物の品目・数量・品等・価格等の正確な把握と管理、荷       役、船舶の修理、漂着廻航船の処置、キリシタンおよび禁制品の       摘発、密貿易(抜け荷と隠し物)の防止、喧嘩博打などの諸禁令       の徹底、滞在期間の厳守
          2,オランダ船のみならず、唐船が入港すると、荷役に先立つ業務と       して、一船ごとに風説(各地の政治動向・航路・積み荷・渡来前       歴・僚船の有無など)の聴取・翻訳。現存する風説書は、唐船風       説書(『華夷変態』)が1644年から、オランダ船風説書         (『和蘭風説書集成』)が1661年から残る。
          3,外国地理書「大明并外国之国々之書付、并所々ヨリ之土産物、或       海路迄」
          4,海外市況の動向・仕入れ値・運上の有無
   ②鎖国期長崎来航唐船(中国式ジャンク)
              1,南京・寧波などの華中値域からの底の低い小型船「口船」
              2,福州・泉州から広州・海南島に至る華南値域からの「中奥船」
              3,インドシナ半島以南からの底が深い大型船「奥船」
   ③唐内通事=内証通事-南京口・泉州口・福州口などの方言
(3)江戸時代長崎で活躍した通詞たち   の外国語
 この①中国語に加えて、②オランダ語、③シャム語、④東京語、⑤モウル(Moor)語、⑥我流陀語、⑦呂宋語、そして⑧朝鮮語(対馬藩長崎屋敷)であった。江戸時代を遡ると、⑨新羅語、⑩百済語、⑪渤海語、⑫ポルトガル語であったし、さらには北海道松前藩の⑬アイヌ語や、その他に⑭英語、⑮ロシア語があった。これらの言語に、それぞれ通詞が存在した。
[資料1]モウル(Moor)人
    「海上日本ヨリ三千八百余里、此国即南天竺ノ内、第一ノ大国也、シャ     ムノ西也、」(『華夷通商考』西川如見著、元禄八年初版本)
[資料2]異国通事(シャム語・東京語・モウル(Moor)語・我流陀語・呂     宋語)
        1,シャム通事①森田長助(正保元年~延宝七年)
           ②泉屋七三郎(寛文十二年~) 
           ③森田・泉屋両家で継承
      (『訳司統譜』による)
        2,東京通事  ①東京久蔵(明暦<1655>年中~)
           ②以後、一人制で巍氏が継承
             (『訳司統譜』による)
        3,モウル通事①重松十右衛門(任期不明)
                      ②中原伝右衛門(寛文十二年<1672>より)
           ③以後、中原家が継承
            (『唐通事会所日録』による)
       4,ルソン通事①末永六左衛門(延宝九年~天和二年)
           ②元禄元年以後、末永家の一人制
            (『続長崎鑑』による)

(4)オランダ語通事
--15姓23家による世襲制(片桐一男『阿蘭陀通事の研究』吉川弘文館、昭和60年、37頁)[資料3]大槻玄沢『蘭学階梯』(天明8年刊)下巻「修学」
        「彼方ニテ小児ニ教ル書ニ『アベブック』『レッテルコンスト』等ノ書     アリ、大抵此等ノ教ヘ方ナリ、長崎ノ訳家、業ヲ受クル初メ、皆先ツ     此ノ文字ノ読法・書法、並ニ綴リヨウ・読ヨウヲ合点セシメ、後ハ     『サーメンスプラーカ』トテ、平常ノ談話ヲ集タル書アリテ、コレヲ云     ヒ習ハスナリ、是、其通弁ヲ習フノ始メニシテ、訳家ノ先務トスル所     ナリ、是ヲ理会セシメタ後ハ、『ヲップステルレン』トテ、其文章ヲ     書キ習ヒ、先輩ニ問ヒ、朋友ニ索メ、或ハ阿蘭人ニモ正シ、其功ヲ積     テ合点スルトキハ、自在ニ通訳モナルナリ、右ノ階級ヲ歴テ学フハ本     式ノ教ヘヨウナレトモ、長崎ニアラスンバ成リ難キコトナリ」
          (片桐一男『阿蘭陀通事の研究』吉川弘文館、昭和60年、446頁)
[資料4]桂川甫斎(森島中良)『類聚紅毛語釈』題言
    「嘗テ聞ク。蘭人ノ初学ニ教ユルヤ。『アヘ、ブック』『レッテル・コ     ンスト』ナド云フ。訓蒙ノ書ノ始ニ載ル。『セイラブ』ヲ暗ニ誦シム。     所謂『セイラブ』ナル物ハ、彼邦ノ国字。『アベセ』ノ二十五言ヲ、     連属スル法ニシテ、取モ直サズ、仮名遣ヲ会得セシムルナリ。次ニ同     書ノ中ニ記ス。『エンケル、ウヲールド』ヲ授ク。『エンケル』ハ単、     『ウヲールド』ハ語ナリ。天文。地理を始メ。物類ノ称呼ヲ集メ。清     濁・半濁・直舌・曲舌ノ音ヲ正シ。訛言ヲ云習ハスマジキカ為ナリ。     『エンケル、ウヲールド』数百言ヲ空ニ記タル上ニテ。『サアメン。     スプラク』云書ヲ授ク、応対ノ言語ヲ集成シタル物ニテ、初学ノ舌人     ナド、第一ニ此書ヲ学ブトナリ(下略)」
     ┌─────────────────────────┐         
   │     要するにオランダ語学習は、次の順。         │         
     │     ①二十五文字の書き方・読み方の学習       │         
   │    ②単語数百語の暗記                       │         
   │    ③日常会話の学習                         │         
     │        ④作文                                   │         
   └─────────────────────────┘         

(5)江戸時代の通事の配置
  [資料5]
┌─────┬───────┬───────┬────────────┐
│    北海道│    松前藩   │アイヌ語     │                       │
├─────┼───────┼───────┼────────────┤
│    関東 │    江戸     │オランダ語   │長崎屋                 │
├─────┼───────┼───────┼────────────┤
│    中国 │    岡山藩   │朝鮮語       │朝鮮通信使             │
│         ├───────┼───────┼────────────┤
│         │    広島藩   │朝鮮語       │朝鮮通信使             │
│         ├───────┼───────┼────────────┤
│         │    山口萩藩 │朝鮮語       │朝鮮通信使・漂流民     │
├─────┼───────┼───────┼────────────┤
│    九州 │    対馬藩   │朝鮮語       │                       │
│         ├───────┼───────┼────────────┤
│         │    長崎     │上述         │                       │
│         ├───────┼───────┼────────────┤
│         │ 鹿児島島津藩│朝鮮語・中国語│ 漂流民・貿易          │
│         ├───────┼───────┼────────────┤
│         │   琉球王国  │朝鮮語・中国語│ 貿易・漂流民          │
└─────┴───────┴───────┴────────────┘
(5)対馬人と朝鮮語

      ①倭寇の時代--1350年頃からの朝鮮半島、及びその東シナ海一帯で    海賊・略奪行為が横行。
   ②朝鮮の対日交通統制の時代--1426年、朝鮮は、日本人に対して半    島南部の三浦(富山浦・齊浦・塩浦)に限定して開港、居住、通商を許    す。1460年に勃発した三浦倭乱事件まで。
   ③釜山倭館の時代--1544年~1876年まで。

(6)対馬における朝鮮語通詞の確保難

 緊急な問題は、中世にあった「三浦」時代と異なり、朝鮮半島に日本人居留地が制限され、多くの対馬人が朝鮮人と接する機会が少なくなった結果、常時対馬藩が優秀な通詞を多数確保出来なくなっていたことである。絶対的な数の不足が認識され始めたのであった。
[資料6] 「近年ハ朝鮮商売段々と衰へ候ニ付、町六拾人之嫡子商売之為ニ朝       鮮へ罷渡り居候而朝鮮詞を申覚へ候儀、以前之様ニ無之候。故、       只今迄は以前より朝鮮詞を申覚へ居候者有之候而、信使来聘之節       之通詞御用差支無之候得共、其子之代ニ成り候而ハ朝鮮詞を申候       者少キ筈ニ而候。」(「委細御条書草案」対馬歴史民俗資料館所       蔵)
 ところが朝鮮国内においての日本人の居住が次第に制限されはじめたために、享保年間に至って、
[資料7] 「唯今にハ功者之者共皆々老人になり罷成、遠からぬ内ニ必至と御       用相支ヘ可申様ニ相見へ候」」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞       仕立帳」
とあり、有能な通詞の老齢化も進んだ。そればかりではなく引き続き、
[資料8]  「是而巳ニ而も無御座、近年時勢イよろしからす、馬乗リニ罷渡り       候町人年々滅し候得は、自分より朝鮮言葉稽古仕候もの無之。」        (『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」)
の実状に陥ったという。
  また、対馬藩の通詞は、藩校などで研鑽を積んだはずの対馬藩士ではなく、朝鮮貿易に従事する商人たちが兼ねていたために、彼らの朝鮮語は当然ながらどうしても貿易用語などを駆使する商業会話に堪能であった。したがって当時の武士に要求された朱子学・中国古典学などの学問的教養、また論争術・儀礼的マナーなどの対外交渉の素養にしても、十分な資格に欠けていたことは事実である。
 その理由の一つが、
[資料9] 「唯今手習師匠ニ附置毎日師匠方へかよハせ候付、朝鮮言葉稽古場       ニ出候而者右妨ケ候と存候事も可有之哉。朝鮮言葉稽古場之方ハ       暫時之事たるへく候間、手習ニかよひ候支ニ者罷成間敷候。夫と       もに相支候訳も候ハハ、追而者朝鮮言葉稽古之方ハ八迄ニ被仰付       事も可有之候。」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」)
とあるように、対馬藩における通詞の養成法は、もっぱら学校などの組織的な教育システムでなく、個人が「手習師匠」に出向く、いわば私塾に依存していたからでもあった。私塾とか父子相伝といった方法で、体系的な言語習得のみならず、その背後にある深い文化理解にまでいたるのは、相当な困難が予想される。当然ながらそうした個人レッスンでの限界があるだろうし、またその教育効率も悪かったはずである。文禄・慶長の役が終了し、徳川の太平な世が続く時代になり、ようやく通詞養成のための公的機関の創立が、藩内の共通認識となりかけていた。

  問題の整理
      ①有能な朝鮮語通詞の絶対数不足は衆目の一致するところであり、その養    成の急務は対馬藩全体の共通認識になりつつあったこと。
   ②朝鮮語通詞は武士の中から選抜されたのではなく、主に町人出身であっ    たために、商業会話が巧みでも、漢学に対する素養に著しく欠けており、    科挙(訳科)に及第した朝鮮側の日本語訳官との対比でも、かなり見劣    りしたこと。
   ③ハングルを解読できない通詞がいると知った芳洲と驚きと、その通詞の    中に藩内での通詞の最高ランクに位置する「大通詞」も含まれていると    いう事実を知るにつけ、通詞養成のための体系的教育の実施を芳洲が痛    感したこと。
   ④日朝間の過去の不幸な事件(「壬辰大乱」など)は両国のコミュニケー    ション不足を理由に発生したとも考えられ、朝鮮側の日本語通詞ばかり    でなく、日本側の朝鮮語通詞「之れ無き候而ハ、隣好之間、其の恐れ無    きにしも非ず候」というように、互いの言語習得によるコミュニケーシ    ョンなくして、「隣好」意識も相互に生まれないと考えたこと。

(7)雨森芳洲の履歴

   雨森芳州、名は東五郎誠清、字は伯陽、
  号は芳州。寛文八年(1668)五月
  十七日、近江国伊香郡高月町雨森に生            写真
  まれ、宝暦五年(1755)に対馬に
  て没す。木下順庵門下の博学多通。
[資料10]  芳洲の学問的軌跡と外国語学習歴
    ①貞享2年(18歳):江戸に出て、木下順庵門下に入る。
   ②元禄2年(22歳):対馬藩に召し抱えられる。
   ③元禄5年(24歳):対馬に移住。
   ④元禄6年(25歳):中国語稽古のために長崎に行き、白足恵厳に学ぶ。
                            翌年、帰る。
   ⑤元禄9年(29歳):再び、中国語稽古のために、長崎に赴く。上野玄              貞に学ぶ。
   ⑥元禄16年(36歳):朝鮮語稽古のため、釜山倭館に赴く。
      ⑦正徳元年(44歳):正徳の朝鮮通信使に同行し、上京す。国書復号問              題の解決に奔走し、新井白石と論争す。
   ⑧享保4年(52歳):享保の朝鮮通信使に同行し、江戸に行く。『海遊              録』の著者・申維翰と交友す。
   ⑨享保6年(54歳):朝鮮佐役を辞任。隠居す。
      ⑩享保9年(57歳):側用人に就任し、逼迫した藩財政の再建に着手
   ⑪享保13年(61歳):裁判役に任命される。このとき、『交隣提醒』               を執筆す。享保15年、釜山から帰国。
      ⑫宝暦5年(88歳):死去。
  以上が芳洲の経歴の一部であるが、我々の観点からすると、彼の外国語学習歴が中国語から始まっていることに注目して良いだろう。というのも鎖国時代の長崎にあって自由に学習できるごく僅かな外国語の一つであった中国語学習体験なくして、後年の「韓語司」での朝鮮語教授法も考え出されなかったと考えるからである。内野久策によると、芳州は
[資料 11]「宗氏家業人帳に元禄五年十月二十四日右為学文へ差越度由木下        順庵依頼長崎への御暇被遣候付、爰許為用意金子三十両人参五        両被成下……、十一月朔日明日御当地発足、元禄九年五月二十        八日雨森東五郎、吉田萬七、吉田亀之助右者願之通長崎へ被差        越唐音稽古被仰付候事などとあり」(「厳原藩の教育」『新対        馬島誌』新対馬島誌編集委員会、1964年、785頁)
とあるように、長崎に遊学し、中国語を学習している。第一回の長崎行きは、元禄五年(1692)、第二回目は元禄九年(1696)にそれぞれ対馬を出立している。今、所在情報がないために、『宗氏家業人帳』の現物で確認できないだけに、引用文ですますしかないが、次の資料では、より詳細に長崎での中国語学習の様子を窺うことが出来る。
[資料 12]「余廿三歳、初学唐話於心越師会下白足恵厳也、廿六歳適長崎授        業於上野玄貞、至五十余年、其間能会音読与唐人一般者、只看        得三人、一曰林道栄、二曰北山寿安、三曰釈月潭、今即亡矣、」
                (「音読要訣抄」『芳州先生文抄』所収)
この記事によって、彼の中国語の師匠は、第一回目が白足恵厳であり、第二回目は上野玄貞であったという。
 芳州関係の記録からは、彼の中国語学習の有様が分からないが、その当時の長崎での中国語学習法は、
          初級レベル…表現文型の積み上げ方式
          中級レベル…通詞作成の教材による会話・講読・作文など
          上級レベル…中国の古典小説による高度な内容の読解
であった。この中国語学習経験が芳州の朝鮮語教授法に採用されなかったという保証はない。むしろ芳州にとっては、唯一の未習外国語が中国語であっただけに、
その学習経験が朝鮮語を学ぶ際にも積極的に生かされたはずである。良きにつけ、悪しきにつけ長崎遊学時代に学んだ白足恵厳と上野玄貞の二人の師と、そこに蓄積されていた中国語教授法のノウハウを参考にして、朝鮮語教授法を組み立てていっただろう。
  なお芳州の著作を一覧しておきたいと思うが、既に関西大学の調査によって、
247種類の著作リストが列挙してある(関西大学「日中文化交流班」歴史班「雨森芳州文庫目録稿」『関西大学東西学術研究所紀要』第10号、1977年、45~645~69頁)。これによって芳州の全著作をほぼ網羅してあろうが、これらの著作を通して知る芳洲の教育論は、森山の言によると、「その教えるところは、『学は人たることを学ぶ所以なり』(「橘聰茶話」)と記すように、学問の真髄は人間たる道を習得することであると諭し、その教育内容について、四書・小学と五経のうちの一教を、のちに大学を毎日二、三行か四、五行ずつ必ず講釈し、『暁り易くして且倦むことなきを要す』『暗誦を上となす、不能者必ず強て督さず』という方法で、生徒の自発的態度を主にし、乱読を戒めて教育した」(森山恒雄、1973年、1014頁)という。

(8)日本最初の外国語学校「韓語司」   の設立と運営

学校の位置--朝鮮通信使が対馬府中(現在の厳原)来着時の「御使者屋」「次之間」二間

朝鮮語師匠--管理・運営するスタッフは、学校管理者「惣下知」(「提調」ともいう)1名、教員2名、宿直兼清掃担当者1名(西山多右衛門)の、4名。

稽古場への登校時間と授業時間
  現在の時間割に該当する記録が一切の残されていないので、登校後の訳生たちのスケジュールを知る手がかりはないが、それでも対馬藩の制度をそのまま踏襲し、明治維新直後に釜山に開設された「草梁語学所」の規定の中に、時間割に類する規定を見ることが出来る。それによると、午前8時に「出頭」したのち、
[資料13]
   ┌────────────────────────────────┐
   │  「復読    自午前九時至第十時                                 │
   │    編文    自午前十時至第十一時                               │
   │    会館    自午前十一時至第十二時                             │
   │            但十二時後三十分之間休憩                           │
   │    新習    自午前十二時三十分至午後三時」(「草梁語学所規則   │
  │  並等級人名書」『朝鮮事務書』所収)                         │
   └────────────────────────────────┘
    「復読」は、前日の復習・会話
   「編文」は、講読・作文の時間、
   「会館」は、会話の時間、
午前はこの三コースで終わり、三十分の休憩時間の後、午後には、
   「新習」は「新しい単元の学習内容」
へと移った。このように1日のスケジュールはびっしりと組み立てられ、時間割上では、1日、5時間半も学習時間が作られたと思われる。その猛勉強が、ほぼ毎日365日続いた。
  この猛烈なスパルタ教育を担当する先生は、若き仁位文吉(当時20歳)一人であった。その下にアシスタントが一人いただけであったので、発音・文法・講読・会話・朝鮮事情などの、すべての授業を二人が担当した。毎日の講義の予習・復習、作文などの添削指導、その上にテキストなどもない時代であったので、教材づくり、しかも成績評価と、二人の忙しさは殺人的だったはずである。

(9)外国語教授システムの開発--   「韓語司」での朝鮮語教育

  芳洲は、次に朝鮮語の教授法に関して、実に綿密に計画案を練り上げている。

朝鮮語教授法

  朝鮮語教授法に関する雨森芳州の指示は、次の一つが今に残されているだけである。入門期においては、
[資料14]「三四十日程之間、朝鮮言葉一句或ハ二句、読書二三十字、或ハ四       五十字程宛、毎日教候而、生質之得方、不得方を試ミ、~~」
           (『韓学生員任用帳』)
とある。これだけの記述から芳州の考えの全貌を知り得ないが、この方法は要するにオーディオ・リンガル・メソッドを主とした練習方法であると思われる。入門期の、およそ一ヶ月の間、毎日、表現文型・構造文型を反復練習する方法(ドリル)で、少しずつ代入練習などへと拡大するやり方であろう。われわれの推定が、そう大きく正解からはずれていない証拠として、
[資料15]「凡教初学者量度才能或二三行或四五行多者不過、十行其専要暗記、       不求速成者、在教人之法、合該如此一該也」(『芳州先生文抄』       巻之二、「音読要訣抄」) 
として、中国語学習の例を挙げているが、『交隣須知』等の例文に見るとおり、本質的には朝鮮語学習も同様に取り扱うべきであると考えていたに違いない。

入門期・初級・中級の授業展開
  入門期の教授者に対しては、最初からネイティブスピーカーが担当するのではなく、まずは発音がきれいで、ハングルを読み書きできる日本人が担当し、彼から教わった後に、その後ネイティブスピーカーの参加を芳洲は求めている。
[資料16]「朝鮮音を以読書いたし候義ハ、最初より朝鮮人へ習候而宜御座        候へとも、朝鮮言葉ハ初進の内、先日本人ヘ稽古不仕候而ハ成        不申候故、諺文を存候朝鮮言葉功者の三人、是又半生替ニ朝鮮        へ被指渡、十人の者共へ指南指示仕候様ニ被仰付可然候。」         (『韓学生員任用帳』)
  もっともこの芳州の指示は、今回の対馬藩韓語司創設に先立って提出された書類に書かれたプランであっただけに、どこまでも実行されたかは疑わしい。しかし現実には釜山倭館ではなく、対馬において朝鮮語教育が実施されたので、日本人が教師となって朝鮮語を教育せざるをえなかった。
 ただし芳州の独自の語学教師論は特筆に値する。外国語教授法でのいわゆる「直説法」…学習者の母語や国際的共通語などの、学習の媒介となる言語を活用しないで、目標言語(朝鮮語)のみを利用して教える教授法…を採用すべきかどうかに、注目すべき発言をしているからである。芳州の教育方針には、ネイティブスピーカーの導入時期は慎重さを要し、とりわけ入門期(「初進の内」)において、その導入が早ければ早いほど「話す技能と聞く技能」の養成には役立つものの、四技能のうちの残りの「読む技能と書く技能」には不適切であるという信念が存在していたと思われる。それゆえに、「ハングルを正確に読み理解する」ことを目標に、芳州の授業展開が組み立てられている限りでは、初級と中級段階では、
 ┌────────────────────────────────┐
 │  1,コミュニケーションのための準備段階                     │
 │       ①文法的な正確さ                                     │
 │     ②発音の正確さ                                       │
 │     ③基本語彙の習得                                     │
 │     ④主要文型練習と反復                                 │
 │     ⑤文字の習得                                         │
 │        ⑥ドリルの導入による学習内容の定着                   │
 │                                                               │
 │  2,コミュニケーション能力の発展                           │
 │        ①豊かな表現能力                                     │
 │     ②豊富な語彙力                                       │
 │     ③朝鮮貿易や朝鮮通信使来日時、さらには外交交渉などの、│
 │      場面や状況に適した言語使用能力                     │
 │     ④専門(貿易など)用語の習得                         │
 │     ⑤地域情報の理解                                     │
 └────────────────────────────────┘

などが盛り込まれたコースデザインとなっていたはずである。これらの教育方法を実践するためのカリキュラムは、「教様之次第」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」)と呼ばれた。
  ところで対馬藩の朝鮮語教育の特色の一つは、韓語司惣下知による教育チェックシステムである。初代惣下知は朝鮮語の達人である雨森芳洲があった。厳格な総監督である彼がいつも、目を光らせて、徹底的に「管理教育」を実施したといってよい。
[資料17]「毎日習被申候言葉多少ニよらす、早速く別帳ニ記し、一月分毎        月末ニ某方へ遣し可被申候。文字さへ見へ候ヘハ宜候間、清書        ニ隙取不及延引候様ニ可被致候」(『詞稽古之者仕立記録』)
この記事にある「某方」とは、いうまでもなく芳州である。毎月末、芳洲は「帳面の文字」を点検することによって、一月分の講義内容や学生の生活態度、各自の到達度などを調査したのであった。そればかりでなく、芳州の関心は詞師匠に対するチェックにも及んだはずである。想像にすぎないが、おそらく現在の「シラバス」に該当する書類も提出させたのではないか。その推定の根拠は、
[資料18]「       大通詞
                      通詞中
                      仁位文吉
                  右者今度六十人之子共へ朝鮮言葉被仰付、教様之次第、考様         之次第、委細雨森東五郎ニ申談置候間、彼方江罷越得と承り         指図之通可致候~~(中略)~~、
                            八月二十三日
                                            年寄中
                  平田源五四郎殿                                    」
                  (『詞稽古之者仕立記録』)
の記事にあり、シラバス(「教様之次第」)はすべて芳州に相談して決定し、すべて芳州の指示通りにするよう下命されている。初代の詞師匠は、当時二十二歳の仁位文吉であったので、彼の若さと情熱で創設当初の様々な困難を乗り切きることができたというものの、その若さゆえに老練な芳州の監視も必要であったに違いない。

朝鮮語教材

 元々のプランでは、雨森芳州は最初から現地釜山での教育を開始したいと考えていたが、対馬藩が恒常的な財政赤字から脱却できないままであったので、その通詞養成は対馬でしか実施できなかった。しかしその釜山倭館での語学トレーニングを実施するために、芳州が作成したプランは、たとえ机上のプランにすぎないとしても、その対馬「韓語司」に与えた影響は計り知れないものであった。これは教材においても、同様であると思って良い。『韓学生員任用帳』に見られる朝鮮語教材に関する記事を、次に摘出してみよう。
[資料19]「 其方達之義、韓学之稽古被仰付候間、毎日坂下ヘ罷越、類合         より始メ、十八史略之読書朝鮮人ヘ稽古被至、朝鮮言葉□(ハ)        初進之内、先教訓官ヘ指南を被受、無懈相務、朝鮮言葉ハニ不        及、学問迄御用ニ相立候様ニとの御事ニ候間、可被得其意候。        委細以別紙申渡候巳上。                        」
                (『韓学生員任用帳』、泉-23頁)
[資料20]「 一、毎日東向寺ヘ通候而、小学・四書・古文・三体詩之読書、          次第を追而相務候事。
        一、稽古用として、中束紙壱束・筆十本・墨三丁宛、年中銘々          ニ成被下候事。
        一、類合一部・十八史略一部宛、銘々御調被成被成下候事。
                 (『韓学生員任用帳』、泉-23頁)
[資料21]「 御町奉行所より教訓官へ被申渡候書付の趣
               別紙之書付 
        一、生員十人之者共、朝鮮音を以、類合・十八史略習覚候様被          仰付候間、各被召連、毎日無懈怠坂下へ参候様ニ被致候事。        一、物名冊・韓語撮要・淑香伝、此三部段々ニ指南可被致候。          若輩者自身ニ覚書も不罷成者ヘハ、銘々帳面をとちさせ置、          毎日被教候所を書付、可被相渡候。尤各義兼而朝鮮人へ右          之書物得と被読習、清濁高低少の違無之様ニ指南可被致事」
                   (『韓学生員任用帳』)
の三カ所に、教材に関する記事が見いだせるが、われわれの観点から、これらの記事を分析するならば、
 ┌─────────────────────────────────┐
 │a  朝鮮漢字音のトレーニング教材--『類合』・『十八史略』       │
 │b  朝鮮語教育の段階別教材--『物名冊』・『韓語撮要』・『淑香伝』│
 │c  漢学教材--『小学』・『四書』・『古文』・『三体詩』         │
 └─────────────────────────────────┘
の三種類の教材が記載されていると考える。このうち対馬島内の臨済宗の僧侶で、日朝の外交文書を担当する役目(真文役)も持っていた倭館駐在の東向寺僧は、
その歴代の僧侶が朝鮮語の素養を有していたとは考えがたいから、これらの書籍はあくまでも中国古典学の勉学と、習字の練習であったに違いない。文字通り「寺小屋」で学ぶ孔孟の学を学んだ筈であるから、今は「朝鮮言葉」に関連する教材のみに限っておきたい。
  ここで思い出すのは、元文元年(1736)四月に、芳州が韓語司の稽古生に対して、「申渡候書付」の中で語る自らの体験談である。そこでは、
[資料 22]「  翌三十六歳之時、朝鮮江罷渡丸二年逗留、交隣須知一冊、酉        年工夫一冊、乙酉雑録五冊、常話録六冊、勧懲故事諺解三冊仕        立、其外淑香伝二冊、李白瓊伝一冊自分ニ写之、毎日坂之下へ        参り令稽古、雨天之節者守門軍官又ハ通事を呼相勤候」(『詞        稽古之者仕立記録』)
のである。芳州の血の滲むような体験(「命を五年縮候」)で習得した朝鮮語であっただけに、かれが学習に用いた教材を、このたびの韓語司でも推奨していることは、興味深い。
  さて、『交隣須知』以外の本は、その類似した書名の本さえ伝わっていない。「酉年工夫一冊、乙酉雑録五冊、常話録六冊、勧懲故事諺解三冊」などは不明な本と言わざるを得ない。この不明な本の中で、『全一道人勧懲故事』の第一、二巻は、すでに安田章が考証したように、芳州自筆写本の『全一道人』(1729年成立)の構成26条とほぼ一致する。したがって『勧懲故事諺解』は確かに現存しないが、『全一道人』に吸収されていったと考えてよい。ところがその『全一道人』の序文には、これまでに掲示した教材の名前とは違うものが、芳州の著作として並べられている。
[資料 23]「ここに四部の書をゑらひ、はしめに韻略諺文をよみて字訓をし        り、次に酬酢雅言をよみて短語をしり、次に全一道人をよみて        其心をやしなひ、次に鞨履衣椀をよみて其用を達せしむ」
この四冊の中で現存するものは、わずかに『全一道人』一冊だけであるので、残りの三冊に言及し得ない。しかしながらこの序文の中で、芳州は、四冊の教材がそれぞれ目的別に編纂されていると指摘している。つまり『韻略諺文』は漢字の朝鮮語の音読み、訓読みを学習できるように配慮してあったにちがいない。また『酬酢雅言』は短語(短文)を集め、学習効果を考えて配列したものであったはずであり、その一つ一つのモデル発音を繰り返したり、あるいは例文の中の単語を入れ替えたりする代入練習用に使用されただろう。次に『全一道人』であるが、序文に「其心をやしなひ」とあるように、儒教倫理イデオロギーを知るために編纂されたものである。『勧懲故事』(明人汪廷訥・著)の日朝対訳を利用して、その日本語訳を要求する講読のためか、もしくは文法を教えるためのものであった可能性が高い。
  さてここまでに紹介した芳州の教材論をまとめてみると、
 ┌──────────────────────────────┐   
 │    初級ランク…表現文型中心の教材(口頭練習法の採用)     │   
 │                朝鮮漢字音学習教材(3000漢字)         │   
 │                朝鮮語語彙(500語程度)                 │   
 │    中級ランク…会話・講読教材                             │   
 │    上級ランク…古典小説(文法訳読法との併用)             │   
 └──────────────────────────────┘   
と整理できるはずである。こうした芳洲の朝鮮語教育における教材とカリキュラムは、上記した中国語学習での自身の経験とまったく重なり合うものである。

課外授業

  継続的な学習の熱意などを持たない学生が、しだいに勉学に打ち込むことなく、
学習成績の低下が見だつようになることは、古今東西全く同じである。こうした教授者側の頭痛の種である、いわゆる「落ちこぼれた」学習者に対する課外トレーニングの規定をも、雨森芳洲は発案し、実行に移そうとしていたようである。
[資料24]「若輩者自身ニ覚書も不罷成者ヘハ、銘々帳面をとちさせ置、毎日       被教候所を書付可被相渡候。」(『韓学生員任用帳』頁)
  この方式は各自の帳面(ノート)を閉じさせておき、その日に学習した内容を復読・フィードバックさせながら、学習内容を定着させる補習授業形式である。どこまで実効性のあった学習支援システムであるのか分からないが、間違いなく芳州式課外授業は、「韓語司」の場において採用され、実行に移された。

公開試験制度
 ところで注目すべきは、芳州が、いわば公開試験制度を導入していることである。
[資料26]「     御国ニ居合候通詞共江
                        覚
                此度朝鮮言葉之試稽古町中之子共へ被仰付候付、何某儀教授ニ        御定被成、毎月一日宛考日を立置、通粗帳相認差出候様ニと被        仰付候間、考日ニハ皆共内より弐人ツツ罷出、何某同前ニ相考        ヘ、通粗帳ニ名判いたし、差出可申候。以上。
        尤通粗帳仕立様之儀は東五郎方へ罷出差図を受候様ニ可被申候」
                 (『韓学生員任用帳』)
この制度は、
  ①安永3年(1774)末より、毎月27日、使者屋にて朝鮮方の監試のも   とで実施し、
  ②この試験には、朝鮮言葉稽古御免札の者のほかに、町家の子供で朝鮮語を   稽古している者、別代官・町代官の詞功にして修行中の者なども全員が参   加。
したのであった(『類聚書抜』第九)。
  どうやらこの試験を通して、朝鮮語通詞たち相互の刺激材料ともしたと考えられるし、あわせて試験を「公開制度」にして、厳密さを保ったことは、教育史の観点から見ても特筆に値するのではあるまいか。

成績評価
 雨森芳州は評点を「賞典之数」(『詞稽古之者仕立記録』「通詞仕立帳」)と呼んだが、われわれに興味深いのは、欠席者に対する教育的処置である。
[資料27]「一,不参ハ一日ニ付試数之数ニ而十ツゝ減候事
              但忌中ニ付令不参之者不及減数候。其外分明ニ相知候病気又ハ無       拠用事ニ付令不参候者、不可及減数事ニ候へ共、左候而者他日之       弊端有之候故、枉テ及減数候。」
              (『詞稽古之者仕立記録』)
との減点法式が採用されている。つまり、これは1回欠席すれば、10点ずつ減点するが、ただし「身内に不幸があった者」に限り減点しない、と言っている。
  そしてこの試験では、いかなる理由があろうとも、試験そのものを受験しなかったならば、無条件に30点を減点する事になっていた。
[資料28]「一、考日者別而出来可仕筈ニ候処、其義無之候段如何ニ候故、          考日不参ハ試数之内ニ而三十ツゝ減候事」
                (『詞稽古之者仕立記録』)
現在の「再受験」「追試験」制度などに該当するものはなく、あくまでも一回限りの試験であった。

試験内容
  残念なことに、答案などが一切残っていないので、試験の内容や評価方法などの具体的内容は知ることが出来ない。
    ただし『公私考式』(雨森芳州文庫第22号、滋賀県高月町立観音の里歴史民俗資料館所蔵、未見)には、
[資料29]「毎日、韻譜を二十行づつ教えて百回復習させる。翌日に昨日教        えた所を三句づつ挙げ、一句の上の二字を師匠が適当に言った        時、三句とも覚えていれば通、二句覚えていれば粗、一句覚え        ていれば略、一句も覚えていなければ不通として、帳面に記し、       全課程が終わった時に、通は三十点、粗は二十点、略は十点と        して集計する」(米谷均論文より再引用)
と、芳州は記述しているという。これは中国語学習の場合を取り上げての説明であるが、同様な出題・採点法が朝鮮語にも適用されたに違いない。韓語司の初級コースの39名の稽古生に対して試験を実施するときに、最初からフリートーキングなどの会話試験が実施されたとも想定できず、また文法に偏った試験であったとも思われない。雨森芳洲が編纂した初級教材の一つである『交隣須知』が教材に採択されているので、それから出題し、さらにはその学習事項の達成度テスト(アチーブメント・テスト)であるとするならば、先のように中国語試験でも実施された、口頭による短文の正確な暗記力を問うテストであった可能性が高い。

成績評価

 現在に残る第1期生たちの「訳生賞目(試験結果・成績評価)」結果が残されており、それによると成績評価は5段階に分かれていたようである。
       ┌─────────────────┐                       
      │ 上→亜上→中→亜中→準亜中      │                       
       └─────────────────┘                       





(10)まとめにかえて

 雨森芳洲の発案で開設された韓語司は、享保12年に開設され、その外国語学校の運営・管理には、様々な実験的な試みがなされた。それは現代にも通用する外国語教授法であったが、明治維新を迎えると共に、この「韓語司」が廃校となり、
およそ240年に及ぶその命脈が絶えることとなった。それと同時に、雨森芳洲スタイルの外国語教授法も、いわばその幕を下ろし、忘却の彼方に押しやられることとなった。

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