2019年8月4日日曜日

石橋道彦氏翻訳 前期近代国語音韻論研究

前期近代国語音韻論研究
はじめに
  国語音韻史上、中世国語から近代国語へと移る時期に起きた最も著しい音韻変化には二種類がある。その一つは歯茎音口蓋音化であり、もう一つは‘、’非音韻化である。この二種類の変化の初期的発端が文献に現れる時期は16世紀末葉であるが、その語彙的拡散が表記上で明らかに露出し始める時期は18世紀初葉に至ってである。この小冊子は主にこれら二種類の音韻変化発生に対する内面的要因とその拡散過程及びその周辺問題を音韻論的に解釈してみたものである。
 音韻変化はいろいろ一般的要因として解明されてきたが、特定の音韻変化の発端要因とその拡散過程だけを一般的要因とみるのがいいと解明されているのはとてもまれである。特定の音韻変化が何故ある特定の形態素から最も先に実現され、構造的に同一の条件をもった形態素間に変化の時差が見える理由は何なのかについては解釈が莫大なことが多いせいでもある。これによって、この小冊子では形態素別に時差が見える音韻変化の過程にどんな内面的要因が介在されているのかについて特別な関心を傾けてみた。
 事実、国語文献だけで口蓋音化や‘、’非音韻化の拡散過程が明快に究明されはしない。このような難点をある程度解消させてくれることができる資料は倭文字で転写されたいくつかの国語資料だと思われる。この小冊子ではその中でも特に対馬島の藩士だった雨森芳洲(1668-1755)の「全一道人」(1729)を通して18世紀初葉までの二種類の音韻変化に対する拡散過程を追跡してみることができたと思う。
 この小冊子で扱われている二種類の音韻史的課題についてはすでに先学たちの多くの論議が積まれてきた。このような先行業績の助けがなかったらこの小冊子にしてもこの世に出ることはできなかったであろう。特に‘、’音について並外れた関心を持つことができる機会を整えて下さった学窓時節の李崇寧先生とこの小冊子ができる過程で論文指導を引き受けて下さった李基文先生には個人的に特に恩恵の意を表さずにはおられません。
 また、この小冊子の草稿に対する審査過程でいろいろ未盡な点を親切に指摘して下さった姜信 先生、金完鎮先生、鄭然粲先生、安秉禧先生、そして李鍾徹先生にも深甚の謝意を表しておこうと思う。この方たちの暖かい忠告はこの小冊子の内容を整えるのにとても助けられましたけれども、まだ間違いがありましたらその責任はすべて著者にあるということを申し上げておきたい。
 この小冊子の草稿はすでに1年前に完成されていたものである。それにも関わらず著者の健康問題と怠りのために一年以上も長引かせてしまったが、国語学会の配慮によって今まさにその内容をこの世に公表するようになったのである。この小冊子は若干の誤字修正を除き、ほとんど草稿のまま刊行されているものであるために、草稿完成以後新しく発表された何人かの方々の関係論著については参考にできなかったことを心苦しく思う。
 この小冊子を整える間、塔出版社の金炳喜社長と朴泰俊主幹にいろいろと煩わせお世話をおかけしました。その事実をここで明らかにし感謝の意を表したい。また、巻末の英文要旨を整えて下さった朴英培教授、そして本文校正と索引作成を助力してくれた金木漢君、金炳震君、韓敬勳君にも感謝の意をここで表したい。


.序論
1.研究の目的と対象
1.1 近代国語音韻論の主要課題
 近代国語に対する音韻論的研究でこれまで集中的に扱われた主要課題は中央方言の語彙形態素構造内部で起こったいくつかの音韻変化であった。ここでは、まず15世紀からその実例が確認されている語頭の無声子音の喉頭音化ないし有気音化、17世紀から散発的にその姿を現し始めている舌端破擦音の口蓋音化、そしてこの変化と密接な関係を持っている舌端破裂音の口蓋音化が含まれている。語彙形態素第一音節に残っていた後部母音‘、’非音韻化、両唇子音下に配分されている非円唇母音の唇音化も近代国語の音韻論から除外することはできない課題だった。ここでもう一度18世紀後半と推定される二重母音(ey>e)(ay> )の融合による単母音化、それによる前部母音の体系形成と後部母音の部類ぱ・っ・たの前部母音化、即ちウムラウトのような音韻変化が近代国語音韻論の研究の大宗をなしてきたのである。これらの音韻変化は全てが語彙形態素第一音節の位置にまでその影響力を行事したという点から共通性を見出すことができる。

1.2主要課題に対する問題点
 近代国語音韻論の主要課題はその間の文献を通じて多角的に検討されてきた。しかし、そこにはまだ精密化されなければならない部分がたくさん残っている。例えば、語頭の無声子音の喉頭音化や有気音化に対する原因究明はその間の努力にも関わらずまだ充分ではない。‘壱ぞ(鼻)’、‘哀ぞ(刀)’、‘ ぞ(肘)’などが末音の逆行同化によってそれぞれ‘坪・町・ ’になったならば‘掩ぞ(道)’、‘宜ぞ(石)’などは何故この変化から除外され、‘壱ぞ・哀ぞ・ ぞ’は有気音化の道を選んでいるのに‘搾ぞ・(撒)、  巨ぞ・(搗)’はなぜ、‘ ぞ・・ ぞ・’のような喉頭音化の道を歩んだのか解答が曖昧である。この変化が15世紀(もしくはそれ以前)から長久の歳月に渡り進行してき、現在も進行中である理由についてもはっきりした解明を得ることはできない。口蓋音化や唇音化の原因は、一端表面的音声環境と解釈ができるが喉頭音化や有気音化の原因は音声環境だけとははっきり解明されていない。そのため、これらの変化は非言語的要因、即ち社会的、心理的要因とその全てもしくは一部が説明されてもいる。‘社会生活の激変化による音声強化’(金亨奎 1955:233,1962:76)や‘激烈性を帯びた動作と印象的に現すために’(李基文 1959:38,1972:124)のような原因模索が這間の事情を指している。
 音韻変化に対する社会的、心理的原因を無条件に排除しなければいけないという意味ではない。そのような原因を全て動員するとしても、現在では喉頭音化や有気音化を経た形態素一つ一つを抜かりなく説明できないだけでなく、同じ条件下においてもそのような変化を外面化した場合にその理由を抜かりなく説明することができないというところに問題が残っているのである。

1.3目的と対象
 近代国語音韻論の課題一つ一つにはこのように大きくて小さい問題点がまだ残っている。の口蓋音化に‘、’非音韻化と唇音化についてのこれまでの議論もこの点においては例外ではない。17世紀と18世紀にかけて現れたこれらの変化の時期と原因及びその拡散過程、についての二つの口蓋音化の相互間の関係、‘、’非音韻化と唇音化の間に潜在しているものにみられる内面的有機性などについても解明されなければいけない点が残っているのである。
 これに本研究は前期近代国語文法に新しく追加されたこれらの音韻変化とそれらを取り巻いた一連の大きくて小さい問題点をもう一度実証的に整理検討し、その内面的性格をもうすこし精密に解釈してみようと思うのである。ここでは、これまで軽視されたり、ほとんど利用されなかったある転写資料とそのほかの文献が動員されているのである。
 ここで前期近代国語というものはおよそ17世紀初葉から18世紀中葉までに対する筆者の暫定的区分である。よって18世紀中葉から19世紀末葉までは後期近代国語になる。この区分は基本的に‘、’非音韻化を基準にしたものだ。国語文献に‘、’非音韻化を明らかにする実例が本格的に露出される時期は18世紀中葉以後であるためだ。


2.研究の態度と方法
2.1研究小史
 近代国語音韻論の主要課題についてのこれまでの研究には重みのある成果が多い。これらのうち、本研究と直接関係する主要な業績を簡単に整理してみると次のようになる。まず、口蓋音化については許雄(1964)、李基文(1972)、郭忠求(1984)などがあり、口蓋音化については金亨奎(1955,1962)、劉昌惇(1961,1964)、田光鉉(1971)、李明奎(1974)郭忠求(1980)などがある。‘、’非音韻化に関連のあるものでは、李崇寧(1954,1959,1971,1977)、崔鉉培(1959)、李基文(1959,1972,1972)、金完鎮(1963,1967,1971,1978)、田光鉉(1968,1971)、宋敏(1974,1985)、郭忠求(1980)などがあり、唇音化についてのものでは、金亨奎(1955)、南廣祐(1974)、金完鎮(1963)、宋敏(1985)がある。その他にもこれらの課題についての精密化の努力はいろいろな方面でこつこつと持続されている。

2.2態度と方法
 これまでの研究動向に少し目を通してみると次のような点を指摘することができる。 先ず初めに、どの課題にもそれに対する関心は主に通時的変化に偏重された場合が多い。語彙形態素の内部構造、即ち形態素の静的構造にだけ関心が傾くので形態素構造一つ一つに対する通時的変貌とその変貌を誘発した個別的音韻変化を論議の主対象とするしかなかったのである。合成法や派生法、特に屈折法のような形態素の結合に現れる形態音韻論的交替、即ち形態素が見せる力動的現象は部分的に扱われたこともあるが、そのまた前代や後代の文法と差を見せる項目を局限されるのが普通であった。このような事実は通時的変化に対する関心の所産であるしかない。結局、近代国語音韻論の研究に関する、そのある時点のある音韻現象についても厳密な意味の共時的記述には豊富な現実口語資料、それも理想的には同じ年につくられた資料が要求されるが、近代国語資料は絶対量からまず零星なものだ。このような難点を克服するためのひとつの方案として本研究はある文献の最大活用という態度を重視するつもりである。ある文献の最大活用とはある課題に関連する形態素や音韻現象をまずある文献に現れている資料だけで、より綿密に記述してみるという意味である。しかし、本研究も基本的には形態素の静的構造を通して音韻変化に接近する伝統的方法によるものである。
 二つ目、表記法の保守性のためにある音韻論的事実についての結論がぼやかされている場合もある。口蓋音化や‘、’非音韻化の問題もこの点においては例外ではない。沈黙の中に埋められている過去の発話現実に対する音韻論的解明は宿命的に視覚的文字表記という間接的資料に依存する道しかない。このような意味から文字表記に依存する音韻論を文献音韻論と呼べるであろう。
 文献音韻論は表記資料に頼るしかないために視覚的表記体系を通じて聴覚的音声現実を明らかにする節次を経るようになる。この時、表記の保守性は音韻史的視野をぼやかすようになる。音韻史として外国文字で転写された資料に大きい比重を置くようになる。所以はそこにある。これに本研究は倭文字で転写されたいくつかの国語関係資料を近代国語資料に追加しようと思う。これらの資料の中には当時の国語文章を倭文字で転写したものが入っており注目されている。そこには18世紀初葉の国語についての音声層位の情報、特に口蓋音化や‘、’非音韻化に対する現実情報が大きく反映されている。これらの資料に対する分析は国語文献が見せる表記の保守性について論じていることもあるであろう。
 三つ目、音韻変化の相互間の有機的関係、または個別的音韻変化の原因や過程に対する解釈が未盡な場合もある。の口蓋音化は通時的に密接な関係を持っており、‘、’非音韻化と唇音化またはお互いに無関係な変化ではない。これらの相互間の関係はどのような性格をもっており、その通時的節次がどんなものなのかにもう少し注目しておく必要がある。これに本研究はこれらの音韻変化の相互間の有機性、変化についての内面的原因、特定の変化が特定の時期に起きるしかなかった理由、そして変化の拡散過程などについて若干の新しい解釈を試図するであろう。全ての分析からは音声的容認可能性が優先的に重視されるであろうが必要な時には非音声的要素が動員されることもあるのである。


3.転写紙量の輪郭
3.1倭文字転写資料
 本研究ではこれまで広く利用されてきた近代国語の文献資料以外にも倭文字で転写されたいくつかの国語資料が特別に活用されるのである。国語文献については新しく付け加えられる事項がないので、ここでは倭文字による転写資料についてだけ若干検討を行うことにする。これらの資料の大部分は早くに小倉進平(1920,1940)の概略的な紹介で学界に知らされたことがあるが、ここでもう一度その内容を整理しておくことにする。

 朝鮮国語:寺島良安の「和漢三寸図会」(1712)巻13異国人物の朝鮮の最後の分門(16-18)に現れている資料だ。漢字でなされた標題語112項に該当する国語語彙を平仮名と漢字音訳で表記しておいた。平仮名は標題語の右側に並び、それに対する漢字音訳はその下側に記されている。この文献の書名は板本によって「倭漢三寸図会」となっている場合が多い。本研究ではこれを日本語学での慣用によって「倭漢三寸図会」と呼んでおく。<略号「和漢」>
 以呂波訳語:名古屋の儒学者木下実聞(1681-1752)が出した「客館 粲集」(1720)の中に(8)入っている資料である。倭語音節文字表の‘いろは’の一文字一文字に国語文字表記をつけておいたものである。<略号「客館集」>
 「全一道人」(1729):対馬島藩士雨森芳州(1668-1755)が倭人のために編纂した一種の国語学習教本である。著者自身の筆で書かれた筆写本状態で伝わる。序と凡例をもった総63葉の単巻本。国語文章を片仮名で完全に転写した後、所々に国語文字による添記を設けた。内容は明代の劇作家汪廷訥の「勧懲故事」巻一と巻二のはじめの一部を国語と倭語で翻訳したもの。
 朝鮮の国語:木村理右衛門の名で刊行されたことのある「朝鮮物語」(1750)巻五の終わりの部分(8ー16)。漢字と平仮名で並記された298項の標題語の下側に国語単語が平仮名で記入されている。<略号「朝物」>

3.2「和漢三寸図会」と「朝鮮物語」
 「和漢」と「朝物」の標題語の項目数には大きな差があるにも関わらず、共通項目には類似点が多い。「和漢」の標題語112項目中‘鶴、鳧、海、鰮、大口魚、紗綾’の5項目を除いた107項目の標題語が「朝物」にそのまま現れている。標題語用漢字も両者がほとんど同じで、「和漢」の‘船、燈’がそれぞれ‘舟、燈火’と現れている差があるだけだ。国語語彙にも共通性が多い。そのために「朝物」は「和漢」に依據したり、両者が共通資料に基盤をおいたものという見解もある。しかし、このような見解には難点がある。両者の関係がそのように単純なようではないためだ。二つの文献に共通する国語の転写表記を詳しく検討してみると、一つ一つの差は微細だが量的には三分の一以上が差を見せている。倭文字の清濁表記の差を除いても40余項目に差が現れているのだ。倭文字を音声記号で転写して整理してみると次のようになる。

  標題語 「和漢」 「朝物」
(1)a.
   b.

 まず、(1)aは「和漢」と「朝物」がお互い違う語形を提示している実例だ。‘弓、矢、男、綿’については両者が完全にお互い違う語形を提示している。そして‘士’に対する「朝物」のrita'iは解読のうまくできていない語形である。このような差は「朝物」が「和漢」をそのまま受け継いだ物でないことを現している。そうかといって両者がまったく関係を持っていないこともない。(1)bは「和漢」と「朝物」に共通する錯誤例なのだが、‘露’は‘凍(ー)’の錯誤であるようだし、‘鳩’に対する国語は解読のうまくできていない語形である。‘鳥’に対するtoriは和語と混同したものだし、‘蚊’に対する「和漢」のboru、「朝物」のporuは全て同じで、‘(蜂)’と錯誤を示しているものだ。この事実から推測してみると、「和漢」を最初の原形とは言い難い。要するに、(1)aの差からみて「朝物」が「和漢」に依據したとか、両者が共通資料に基盤をおいたという推測はどれも成立されがたい。「朝物」の標題語項目が「和漢」の三倍に近いという事実も上のような推定を容納しない。結局、この二つの資料の成立過程はとても複雑だったものと思われる。実際に、この二つの資料は時代性と地域性にも不明確な点が多く含まれている。これについては後述する。

3.3「客館 粲集」
 「客館集」は1719年、洪致中を正使とした朝鮮通信使が江戸往復の途中に名古屋に二度(往路九月十六日、帰路十月二十五日)留まったとき木下実聞と朝比奈文淵が行使一行の宿所を訪ねて筆談で問答した内容を整理刊行したものである。‘以呂波訳字’は蘭皐(木下実聞)と耕牧子(書記だった姜栢)の問答の中に入っている。‘諺文字がどんなものなのか’という蘭皐の質問に耕牧子が’文字は梵字と似ていて方言で字義を移した’と返事をした後、別に‘諺文’を書き蘭皐に与えたという。その内容は子音‘ぁ・い・ぇ・ぉ・け・さ・し’の七文字と‘亜・絢・暗・移・・・’から‘馬・煤・買・粕・・・’までの音節表、そして円唇性二重母音の音節‘引・嬰・人・趨・杓・修・鉢・般’の八文字となっている。この部分には倭文字が一切使われなかった。その後に‘以呂波訳字’が現れたのだが、その音節数はみんなで47字となっており、音節音節一つずつに倭文字と国語文字による表記が付けられている。

(2)

 原文はみんなで七行となっているのだけれども、斜線で区分されたところは行が変わったところであることを現している。この‘以呂波訳字’には未審な点も含まれている。まず、この部分まで耕牧子が直接蘭皐に書いてやったという‘諺文’に含まれているのかという点である。そうといってもこの資料が耕牧子一人の力で作られたとは信じがたい。倭人の誰かが‘イ、ロ、ハ’の音節一つ一つを耕牧子が聞き国語文字で書き写すことができるようにその場で発音してあげていたであろうというためである。これはもちろん、即席でも可能なことだ。しかし、この資料が経緯を経て補完されたものでもあり得る。福島邦道は、この作業は即興的にされたものだとは考えられないと、雨森芳州がここに介入したであろうと解釈している。たとえそうだとしても、この資料自体の信憑性を疑う必要はないであろう。雨森芳州なら当時の倭人としては国語を最もよく知っている人物であったため、彼の介入が国語資料にある欠陥を犯すだろうとは考えられないのである。

3.4「全一道人」
 「全一道人」は上の他の資料と性格が違っているというだけでなく、国語音韻史的側面から重要な転写資料の一つと看做されている。著者の雨森芳州が文教職務を管掌する藩士として対馬島に招聘されてきたのは1693年(26歳時)であった。1703年(36歳時)には朝鮮の地に渡ってきて三年間国語を学んだし、1711年(44歳時)と1719年(52歳時)には二度も朝鮮通信使の一行を案内し江戸を往復した。彼は儒学者として詩文にたけていただけでなく、特に漢語と国語を自由に駆使するぐらい語学にもたけていた。
 雨森芳州は、彼なりの言語観を持っていた。「全一道人」の序と凡例のあちこちには彼の言語観がとても反映されている。序によると、彼は国語学習用教材を学習目標と進度にそって四部に分けて編述したことがわかる。その序は次のとうりである。

 私たちの州人、おおよそ公事に従事している者、その誰が韓語に心がないであろうか。しかし、その書もなく、教えもないがただ望洋のため息をつくだけ。ここに四部の書を選び、初めに韻略諺文を読んで字訓を知り、次に酬酢雅言を読み短語を知り、次に全一道人を読みその心を育て、その次に  衣椀を読み、その用を達成させるように。切に願わくは、その教えに順序があってこそその材を成すことが近いであろうとだけいっておこう。

 雨森芳州は国語を学習するにあたって字訓を身につける段階、短語を身につける段階、心を醇化させる段階、実用段階のような順序を提示している。実際に彼は各段階にあわせて四部の教材を編述したのだが、それがそれぞれ「韻略諺文」、「酬酢雅言」、「全一道人」、「  衣椀」であったということがわかる。現在、「全一道人」を除く三部は伝わっていないという。「全一道人」は第三段階学習書であるくらい、その内容も倫理的な故事で成されている。安田章(1964)の考証によって「全一道人」の藍本は明代汪廷訥の「勧懲故事」であることが明らかにされたことがある。同書巻一孝部26条と第二弟部8条までを国語と倭語でそれぞれ翻訳した後、国語の部分全体を倭文字の片仮名で転写しておいたのが、即ち「全一道人」である。‘全一道人’とは汪廷訥の別号であったという。(安田章1964:12)
 「全一道人」は国語の部分を適当な段落に切って、まず片仮名で転写し、そこに該当する倭語をつなぎ合わせていく方式をとっている。これは朝鮮時代の諺解方式を模倣なものとして考えている。転写文の所々には国語文字による註訳式添記を設けている。その初めの部分のある段落を音声記号で転写して例示すると次のとうりである。参考に(3)bに安田章(1964)の国語の復元文を添えておく。

(3)

3.5「全一道人」の形式
 雨森芳州が国語を倭文字で表記した理由は「全一道人」の凡例第一条で次のように明らかになっている。

 この本が日本仮名で朝鮮語を記し、肯綮な所に諺文を(設けて)記述は諺文に付けて言葉に慣れない者、しゃべりづらく言葉にだけ力を入れ諺文を知らない者、その言葉を誤っている通もかわいそうだ。そのために仮名で書いたものをみて言葉を知り、諺文に付けて書いたものをみて言葉の根本を知らせようとするものだ。ただ、これは人を導く捷径で、材を作る正法ではない。真正な正法をいおうとするなれば、聡明な人を抜いて7、8歳からその国に渡って初めから諺文で言葉を学ぶようにするしかない。

 雨森芳州は国語の発話現実と文字表記の間に差があることを確認していた。そのため、彼は発話現実を現す仮名表記を通して言葉の習得と同時に国語添記を通して表記の規範がわかるように上のような転写方式を選んだのである。つまり、彼は発音をまず学び、表記を身につけるのが国語学習の順序と考えたのだ。このようにみるとき、「全一道人」の国語文字による添記は単純に倭文字転写の不備を補完するためのものではなかったことがわかる。国語学習の正法が7、8歳から現地に渡って言葉を学ばせるのだといったことにも、彼のそのような国語学習観がよく現れている。
 結局、「全一道人」の転写による国語は発話現実に、国語文字による添記は表記規範に依拠したものだとわかる。実際に転写部分は当時の発話現実にそっていて進取的だが、添記部分は表記の慣用にそっていて保守的である。音声規則をまず知り、本を読まなければいけないという雨森芳州の考えは凡例第二条に次のとうり現れている。

 韓語の中で諺文で書くのと言葉にするのとが違う場合が多い。大 その例は口述する。これによって類推できるであろう。日本語にも仮名では馬者(mumaha)と記すが、言葉ではumahaと言うし、仮名で瓜(uri)と記すが言葉ではuriと言うのだがそのような理由になるのはわかる。・・・・・(語彙実例の部分省略)・・・・・少年たちが諺文を大方知り諺文の本を読むけれど、言葉に誤りが多い。諺文の本を読むのが悪いというのではない。開合、清濁、音便を知らずむやみに読むのが悪いということだ。

 ‘諺文で記すこと’と‘言葉にすること’がお互い違うという事実を雨森芳州は明らかに指摘している。彼はそのような語彙の実例を‘幻軒maruri,醗詞hasaru,照背'ana'i,宿備simi’のように三十余個提示している。開合、清濁、音便とは倭語の発音または音声規則なのだが、このような発音規則を知らずにむやみに本を読んではいけないと言うのである。結局「全一道人」の転写の部分に現れている国語は徒事の発話現実を現しているとみるしかない。それくらい「全一道人」に現れる転写部分は他のどんな国語文献よりも現実性を持った資料と看做される。

3.6「全一道人」の特徴
 雨森芳州は国語をもう少し精密に転写するために既存の文字以外にも次のような補助記号を使用している。
 一つ目、圏点(。)。文構造に現れている外的休止を現すためのものだった。

(4)

 この圏点は新ブルムフィールド学派の一部の学者たちが打ち出していた音素的句を連想させる記号だ。ただこの圏点は一貫性があるように付けられたというより読みに便利なように適当に使われていて恣意性をみせている。
 二つ目、弧線( 又は )。原則的に単一音節であることを現すための記号として使用された。

(5)

 倭文字はCV(Cは子音、Vは母音)のように一つの音節を一つの単位で一つの音節文字のために、これで国語のCVCまたはCGV(Gは転移音)やCVG、CGVCやCVGCのような音節を転写しようとするならば原則的に二つの文字を動員しなければいけない。その結果、国語の一つの音節がCVCVのように二音節に変わるのだがこれを二音節として読んでは国語の発音らしくなくなる。雨森芳州はこの点を認識していたのである。まず、(5)aは‘ 生耕神’、(5)bは‘酔傾 悟’に対応する転写なのだが、国語の‘ー耕神’と‘ー’が全てmiyoで現れている。雨森芳州はこれを区別しておかなければいけないと考えたのであろう。そこで彼は似たようなmiyoでも(5)aでは二音節、(5)bでは一音節であることを現すために弧線を使用するようになったのだ。ただこの弧線がいつでも単一音節を表示するためだけの記号ではなかった。この記号は同時に、二音節間に休止をするなという意味でも使用されているためである。(3)aでみたように‘ 闇戚艦’を転写したtokoniniにはこの弧線がtokoniの三音節にわたっている。このときの弧線が音節間に休止して読むなという表示であることは明らかである。この弧線表示は圏点に比べて疎漏なとこが多いけれど、これらの二種類の記号は発話現実を重視しようという雨森芳州の態度をよく現している。
 三つ目、三点( )。倭文字だけでは現しにくい一部の国語音声を転写するために既存倭文字の右側の端に書き写した記号である。それは次のような音節に該当する文字にだけ現れている。

(6)

 まず(6)aは国語の語頭位置に現れている両唇無声音げ・そを転写するのに利用された。そうなのだけれども喉頭化音 は当時の国語表記にそって patatini 走艦(44,94), piyo       
 (95)のように表記されている。これは「全一道人」に例外的に現れている殆ど唯一の転字方式なのだが雨森芳州が喉頭化音に限りこのような転字方式を使うようになったのには彼なりの不可避な理由があったのであろうと解釈される。もし を発音どうり表記しようとするならばげ・そのために用意した三点の付けられた文字をそのまま使用するしかない。そうなるとせっかく考案した補助記号でもを区別表記することができないのに、ここでまた まで加重されるとげ・そ・ を全て区別することができなくなる。そのような重荷を減らそうという意図が を発話現実と関係なく pVで転字するように作った原因になるようだ。この原則を喉頭化音の部類 ( )・ ・ ( )の全体に適用させ、その弁別的資質に該当するまたはをそれぞれ -su,puまたはbuと移し換えてるが結果的には転字方式になったのであろう。発音を重視した雨森芳州が発話現実を知らず、綴字式転字をしたわけはないためだ。喉頭化音の資質記号であるsu,pu(bu)を使うときには原則的に該当音節文字の左端に小さい字で記しておいたという事実からも雨森芳州の意図を理解することができる。
 舌端破察音じ・ずを表記するために用意されたのが(6)bである。a,oを母音とする音節にだけこの記号が使用されたのはそれが国語の‘切・ ・煽・繕・託・ ・坦・段’のような音節にだけ必要だったのである。その他の母音でなっている音節、要するに‘爽・走’はそれぞれの既存のtu,tiで転写された。(6)cはもっとも包括的に書かれた音節なのだが、国語の‘貴・冬・閃・団・禅・断’のような口蓋性上昇二重母音または三重母音の前に現れるぇ・ぜ・じ・ずを転写するのに利用された。結局、雨森芳州は国語の破察音を表記するためにta行音節に既存するtitu二つの音節をまず動員する一方、sa行音節のsasoをそれぞれtsatsoと、ta行音節のtetseと加飾させた混成音節行を臨時に考案したわけである。これを図式化してみると次のとうりである。

(7)

 これによってtsaでは‘切・託tiでは‘走・帖tuでは‘爽・綜・蓄・苧tseでは‘煽・坦tsoでは‘ ・繕・ ・段’のような国語の単母音と音節をある程度倭文字転写で区別表記できるようになった。
 このような努力にも関わらず実際の表記はそんな簡単なはずはないのである。おおよそ国語音節‘貴・冬・閃・団・禅・断’に対する転写には新しく考案された補助文字tseが原則的に利用されていたけれどその原則がいつでも守られたのではなかった。このtseは既に‘煽・坦’に対する転写に利用されたことがあるために、それが再び国語の二重母音音節の転写に利用され、さらに複雑な様相を帯び得ないようになったためだ。その転写内容を音節別に整理してみると次のとうりだ。

(8)

 ここでまず注目する点は‘貴・冬’を‘閃・団’と共にtseで表記しているという点である。音節位置によって差はあるけれど特に‘’が‘閃・団’と一緒にtiyaでも表記されたという事実は口蓋音化を反映している。これについては後で検討されるであろう。
 要するに、国語の発話現実をもう少し正確に転写するための雨森芳州の努力は以上のような三種類の補助記号によく現れている。



.文献音韻論の方向
1.表記法と音韻変化
1.1音声記号の性格
 文字表記は発話現実に対する二次的表象だ。このような意味からある言語の発話現実が直接的、具象的言語というならば、それに対する表記は間接的、抽象的言語ということができる。‘表記は音声や形態素の地図’(Anttila:1972:40)という比喩は発話現実の全ての要素が表記に受容され得ないことを現しているけれども、実際にいくらうまいこと考案された音声記号体系といってもそれである言語の発話現実を完全無欠に再現させることはできない。
 発話とは本質的に物理的音響の複合的連続体であるために、これを不連続的記号で区切ることはできない。比喩でいうなら発話とは結び目のような存在であり、数珠のような存在ではない(宋敏 1982:2)といえる。それにも関わらず人々は全ての発話が一定数の不連続的音声単位で構成されているもののように認識している。(Schane 1973:3-4)そのような認識を土台にして人間は発話現実を表記で書き換えられる音声記号体系を考案するに至った。

1.2発話現実と表記の乖離
 一般的に発話現実と文字表記の間に厳密な一対一の対応はない。それに発話現実と表記間にはどうすることもできない乖離ができるのだがその乖離の内面的性格をもう少し細目化してみると次のとうりである。

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 表記の保守性とは結局視覚化されにくい聴覚的現実を限定された文字記号にかわる過程で不可避に現れる両者間の距離なのだが、これが共時的差異を誘発する。表記が社会的に慣習化すると発話現実に変化が起きても慣習的表記法の影響が後代にまで持続される。これが通時期的側面の差異として現れる。文体的差異は上の2側面とは次元がちがう。このときの差は話者の年齢や発話の対象または周囲状況(金完鎮 1976:73)などはもちろん、話者の教育水準や職業のような要因によるものなので表記の保守性とは直接的関連がないためである。
 結局、文献音韻論の対象になることができるのは共時的、通時的差異に関係される表記の現実性だ。発話現実と表記間にはこのような必然的関係がないだけでなく両者は不完全に連結されているために発話現実の変化と表記の変化はお互いに独立的に進行し、音声と意味間にも一対一の対応がないために発話現実の変化は意味変化とも無関係だ。なので、表記資料だけを対象とする文献音韻論ではまず表記一つ一つの性格がどんなものなのかを検討しなければいけない。

1.3音韻変化の過程
 音韻変化が表記に反映するまでには次のような過程が仮想される。形態素の内部の環境によってある音声に共時的に現れるものである異音的交替は長い間随意的変異にとどまる。このときの随意的変化が表記に抜かりなく反映される可能性はとても低い。時間の流れに沿って異音的交替は次第に音声規則に普遍化だけれどもこのときにもその発話現実が表記にそのまま反映されることを期待するのはむずかしい。初期段階の音声規則は個人別、世代別、そして個々の形態素別に異なって実現することもあるからである。それだけでなく文字自体は固定的で変化を知らないために音声規則による変異音までは表記にまったく反映され得ない場合も多い。
 しかし、この段階で偶発的に文献に現れている表記改新は通時的に重要な意味を持っている。それらは異音的交替にとどまっていた随意的変異が次第に音声規則へと普遍化していることを代弁しているためである。即ち、話者の文法知識に規則が追加されて変化が起き始めたのである。ただ、この段階の規則追加は個人語によってその現実が異なることもある。表記の混風は一時的にそこで起きるという。
 話者の文法に規則が追加されて発話に改新がされたとしても、それが表記として書き換えられるときには他人の保守的発話現実や伝統的表記法のために心理的葛藤を経るようになる。仮に‘ ’が自分の文法では‘’だけれどもそれを表記するときには習慣上伝統的表記の‘ ’と書くようになる。この時にたまたま‘’と表記することができ、ある文献内からも表記が流動性と見せるようになっている。例えば許俊は「諺解胎産集要」(1608)‘ ’(48)と‘(48)を同時に使っている。
 ある文献内に現れているこのような流動的表記はある語彙目録に対する話者の個人語的文法に二種類の発話現実が共存する者というより、社会的伝統的表記慣習に対する話者の心理的葛藤を現している。そのため、話者は自らの発話現実を表記として書き写し、伝統と現実間を無意識的にさまようようになる。平常時の文字生活が漢字で書かれてたために国語表記になれていなかっただけでなく、制度的に統一された表記法を別に持つことができなかった近代国語時代の話者たちには特にそうであったであろう。こうしてできた二種類、またはそれ以上の相異な表記関係をWang(1969)は‘心理的飛び石’と呼んだことがある。
 このような話者の心理的飛び石は表記の改新を制御するだろうが音声規則は漸進的に形態素から形態素へ、個人語から個人語へ拡散されるし、世代から世代へ継がれていく間に次第に必須的規則へと固定される。表記の改新がしょうがなく文献に現れるようになるのはこの時からといえる。この段階では話者の文法知識にまで変化が成されたので厳密な意味の音韻変化の時期はこの時を示す。
 音韻変化はこのように長い歳月にわたって漸進的に成されるけれど、そこには異音的交替の随意的実現、音声規則の追加、音声規則の形態素的拡散、個人語の文法変化、文法変化の社会的拡散及び世代交替のような過程によっている。結局全ての音韻変化は発端と拡散、そして完結段落を経るといえるのだけれど、最終的変化は個々人の世代交替を通じて実現されているといえる。そうだけれども世代交替は個々人によって時差を持つためにある時点の文法にも保守と改新が共存することしかなく、それによる表記または流動性を現すことしかない。ある時代、ある文献の表記法にもこんな共時的流動性と通時的変化過程が多様な差異で現れるために、文献音韻論からは散発的に現れる表記改新や異例的な表記を通じて一つの音韻変化の過程がより精密で、矛盾なく解明されなければいけない。

2.近代国語資料の性格
2.1翻訳文体の音韻論的性格
 近代国語資料の殆どはいわゆる諺解即ち翻訳文で書かれているのだけれども、その形式としては対訳方式を選ぶのが普通だ。この点においては中世国語資料も同じ性格を持つ。自然に国語資料は文体上翻訳文体という性格を強く帯びるしかない。翻訳文体には原文の外国語の文法的干渉が加わるものだけれども、その範囲は語彙的、統辞的干渉に局限されるだけで、音韻論的、形態的干渉にまでは至らないのが一般的だ。よって、国語資料についての音韻論的分析が翻訳文体という理由なため支障を受けることはまずないといえる。
 対訳方式はむしろ意味解読に助けになることが多い。「伍倫全備諺解」(1721)を実例としてその一端をたどってみることができる。

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 中国語原文がないなら(10)aの‘食堰亜・鎧亜’のような短めの構成成分に対する形態分析にも論理的には四種類の解釈が現れている。一つ目、‘食堰・焼・・鎧+ ()’二つ目、‘食堰+(・鎧’三つ目、‘食堰亜・鎧+()’四つ目、‘食堰亜・鎧’がそれである。結局、‘食堰亜・鎧亜・を単語境界(#)と分析するなら、この時の‘’は動詞になり形態素境界(+)と分析するならこの時の‘’は主格語尾になるがどちらが正しいのかを判断できる客観的根拠がない。しかし、中国語文献によってこの時の‘’は二つとも‘’を意味する動詞であることが簡単に明らかになっている。(10)bの‘戚員戚’もはじめのものは‘’後のものは‘員・戚’であることが中国語原文によって確認され、(10)cの‘蟹神虞’と‘蟹焼葛虞’の‘’と‘蟹焼’もそれぞれ‘出来’と‘進来’によって意味をお互い異なる別個の動詞であることは明らかである。対訳方式はこのように忌み解読や形態分析に有用するのでその結果は音韻論的分析にも安全に利用できる。

2.2表記混乱の要因
 近代国語資料が見せている表記法は中世国語のそれにくらべてその整然性が多少散らばっていた。表記の中に音韻論的要因が隠れている場合もある。
 近代国語資料の場合、表記上の流動性は主に非語頭音節に現れている。‘梱十’が‘梱 ’と、‘姥結’が‘姥繋’と表記されるのもその一部を現している。しかし、これらを全て単純な混乱や母音調和の瓦解による秩序喪失と見ることはできない。例をあげると、非語頭音節のが全て‘、’と現れているのではない。それは‘悟 軒’‘暗 ’(重)‘奄 ’  (油)‘食 ’‘奄 ’(咳)からのように舌端子音下にだけ現れていて、そこに某種の音声環境的要因が作用していることを示している
 表面的には[+鼻音性、+舌端性]または[ー鼻音性、+舌端性]資質、即ち[+舌端性]資質で成された子音下で本来のが‘、’で現されている傾向が強いけれど、この時の>、を音声変化とはいえない。非語頭音節の‘、’がまずに合流された段階で、それに対する逆行性表記ができたというのは類推的変化を除いては異なるように考えられないためである。このように判断されるのにはまた別の根拠がある。これらの形態素はある文献内でそれぞれ‘悟汗軒・暗 ・奄硯・食汁・奄兆’と共存する場合が多いだけでなく‘悟汗軒・暗旧・奄硯’のような形態で現代国語に至った。ただ、‘食汁’はその後‘陥叱’に類推され‘食叱’ともう一度代わり、‘奄兆’は非破裂性舌端子音下で起きた前部母音化によって’奄徴’と変わった。このような事実はそれらが‘悟汗軒悟 軒   >悟汗軒・暗  >暗旧・奄硯 >奄硯・食汁食 食叱・奄兆 >奄徴’のような不自然な循環的変化過程を経なかったという根拠になる。なので‘悟 軒・暗 ’などは非語頭音節から起こった‘、’非音韻化に対する’心理的飛び石’式表記でしかありえない。
 なのだけれど第一音節の‘、’はまさに[ー鼻音性]資質よりは[+鼻音性]資質、[ー舌端性]資質よりは[+舌端性]資質で成された音声環境下で長く維持された。よって、第二音節以下のが‘、’で表記された音声条件を通して第一音節の‘、’が経た非音韻化過程を追跡することができる。第二音節以下に流動的に現された>、による表記も実状は第一音節の位置の‘、’非音韻化と不可分の関係を持っていたのであろう。近代国語資料が見せている表記の流動性に対してもう少し注目しなければいけない理由がそこにある。

2.3同一文献内の部分別表記差異
 近代国語資料が負っている難点の一つは言語資料自体の性格に関するものである。大部分の文献に対して執筆者や翻訳者が具体的に確認されていないためにある資料に対する現実性や地域性に対する性格究明が曖昧なものが多い。特に大部分の資料に対する方言的背景を推尋できないのである。このため、中央で刊行された文献なら一端中央方言資料と黙認されてきた。しかし、文献一つ一つにはそれなりの性格がある。一人の手で成された文献にはその人の個人語が反映されているだろうけれども何人かの人の手をわたった文献には多様な方言的要素が反映されていることがある。実際にある文献内でも前後の資料的性格が異なる場合が珍しくない。
 例えば、口蓋音化現象を反映している文献としてその時期が「同文類解」( 1748)を先立つものとしては「御製内訓」(1736)と「女四書諺解」(1736)がある。しかし、この二つの資料は部分部分が互いに異質的な性格を持っている。まず、「御製内訓」は重刊本なのだがその本文には口蓋音化が現れていない。本文はこの時に改訳されたにもかかわらず、口蓋音化は現れていないのである(郭忠求 1980:31)。なのだけれども、巻三末尾についている「御製内訓小識」の諺解文には口蓋音化が現れている。「女四書諺解」はまた異なる性格を見せている。口蓋音化が全四巻本文に偶然でているだけなのだが、序文一つにだけそれが集中されているのである。「女四書諺解」巻一の一番頭の部分には三種類の序文、即ち’神宗御製女誡序、御製女四書序、女誡原女’が順番に諺解されているのだが、口蓋音化はその中でも二番目の序文にだけ集中的に現れている。その実状を点検してみる意味から序文別にその全例をまとめてみると次のとうりである(宋敏 1982)。右側が口蓋音化の実例で左側は潜在的なものである。

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 二つ目の序文だけが口蓋音化に敏感な反応を見せていることがわかる。同一の文献がこのように部分によって差を見せている理由は二つ目の序文の諺解者が残りの序文の諺解者と異なるという可能性しかない。この時の口蓋音化が当時の中央方言の普遍的現実なのか、個人語特有の方言的要素なのか、この文献だけでは判断しづらい。それが中央方言の普遍的現実であったことを確認するすべは少なくとも「女四書諺解」より時期上先だった文献から口蓋音化に対する実証を確保するしかない。現在としては国語文献からそのような文献的後ろだてを期待しがたい。そうだけれども倭文字転写資料の「全一道人」(1729)は「女四書諺解」の二つ目の序文にだけ集中的に現れている。口蓋音化が当時の普遍的現実であったことを後ろだてしてくれるようになっている。


3.「全一道人」の資料的現実性
3.1転写資料の要件
 これまでの国語音韻史でも国語文字で転写もしくは転字された中国語、蒙古語、清語、倭語などの資料はもちろん、漢字または倭文字で転写された国語資料に世話になったことは決して少なくない。そうだけれども、国語文字による外国語資料と外国文字による国語資料はその性格が若干異なることもある。前者には外国語に対する音声層位の情報が直接的に反映されているけれど、後者には国語に対する音声層位の情報がそれなりに反映されているためである。結局、国語音韻論とは側面を勘案する場合、前者は断片的、間接的資料にとどまる可能性が大きいが、後者は総合的、直接的資料になれるという点に差がある。前者を通してでは国語文献だけで明らかにされにくい国語の個別音声に対する分析がある程度可能なだけで形態素構造や音韻現象のような音韻論的分析は殆ど不可能だ。これに反して、後者を通してでは国語の音声資質はもちろん、形態素構造や音韻現象までもいくらかの分析は可能だ。
 外国文字で転写された国語資料といえどもそれが国語音韻論研究に援用されようならその文字が不連続的記号、即ち表音文字体系で成されたものであることがもっとも望ましい。それだけでなく、その模写は国語の文字表記を一対一式に転写したものであってはならず、現実的口語を通じた発話現実の聴覚的認知にその基盤を置いたものでなければならない。そのような意味から漢字で転写された国語資料には多くの制約によるしかない。表記体系としての漢字は表音とはほど遠く音声表現に未拾な文字であるためである。そうだけれども、漢字による転写資料が国語音韻史研究に寄与した功労はとても大きい。12世紀初頭に編纂された「鶏林類字」(1103-1104両年間)や15世紀初葉と推定される「朝鮮館訳語」が国語音韻史再構に寄与したことを想起するだけでも転写資料の価値を認識するには不足しないのである。倭文字で転写された国語資料「全一道人」に期待をかける理由はここにある。

3.2「和漢三歳図会」と「朝鮮物語」の現実性
  転写資料分析で先決しないといけない要件がそこに反映されている資料の現実性と地域性に対する推尋だ。「全一道人」については後述することにして、ここではまず「和漢三歳図会」(1712)と「朝鮮物語」(1750)について一瞥することにする。この二つの資料には不正確性が多くて一節に断定しづらいが、それなりに国語の発話現実を暗示する場合もある。そのうちの一つが国語の鼻音に随意的に現れている剰余的資質としての破裂性だ。

(12)

 現代国語の鼻音け・いは語頭位置から条件によって先破裂性を随意的に同伴することができる。このような異音的交替で高母音の前に配分されるけ・いがそれぞれ[ m],[ n]と実現されることができるのだけれども(李秉根 1980)、上の実例はそのような異音的実現の通時的根拠といえる。(12)aには高母音の前に配分される語頭音け・いの発話現実に対する倭人の聴覚的認知が明らかに反映されている。「和漢」buru(水)の語頭音bは国語‘’の語頭音が高母音の前で[ m]のように実現されたことを暗示するためだ。この時の‘’が唇音化した‘’だったとしても高母音の前という環境には差異がない。「朝物」のhuriも実現的には同じ性格を持ったものである。この時のhuは本来濁音(有声音)と認知されたのである。そうだとすればhubuと表記されなければいけないところだ。国語の‘’のが倭人に最初から[h]と認知されたのであろうとは考えられないためである。一方、‘諌咽’(七)の‘’に対する模写、「和漢」のdi、「朝物」のziは全ての前の[ n]と実現されたことを暗示している。
 「和漢」には非高母音の前に配分される国語のbに転写されたこともある。(12)bboku(墨)、ba’iha’i(梅)はそれぞれ国語の‘股・ 鉢’に対する模写なのだけれども、二つとも非高母音の前のbと転写された実例として「朝物」のmoku,maba'iとは対照的差異を見せている。李秉根(1980:註1)は‘ 鉢’のbと転写された実例を挙げて、‘亜蟹’資料ではその条件が一定ではないようだと指摘したことがある。けれども、この時の転写に現れているbは国語のに対する音声実現の直接的結果というより、倭語音声のb自体に現れている鼻音性資質の干渉によるものと解釈する。倭語の有声子音b,d,z,gは通時的に鼻音性を同伴した[ b, d, z, g]または[ b, d, z, g]だったものと推定されている(馬淵和夫 1971:126-128、井上史雄 1971:35-38、外山映次 1972:183-186,241-242、森田武 1977:260-262)。この時の鼻音性は同器官音声入過渡音と分析されるのが合理的なので、これらはそれぞれ[ b, d, z, g]と解釈することができる。それだけでなく、倭語ではm-b,n-d, -gのような同器官音の相互間の通時的変化や共時的、方言的交替が多様に観察されている(金田一京介 1938:191-192,205,208)。そうなので非高母音の前に現れる国語のが倭文字でbと転写されることもあったことは当時倭語音声b自体の鼻音性資質にその一時的原因があったといえる。
 (12)cのように非高母音の前に現れる国語のが倭文字転写からdになることがあったことも同じ理由と説明できる。「和漢」to'i(四)や「朝物」dowo'iの語頭音tdは全て国語の‘’の語頭音に対する転写なのだけれども、「和漢」第一音節文字のtoは本来濁音と認知されていた音節であろう。そうするとtodでなければいけないところだ。国語の‘’のが有声対無声の文法的対立を持っている倭人に初めから[t]と認知された可能性はないためである。要するに国語の‘’の‘’がdoと転写されることができたのは倭語d自体の鼻音性資質のためであったといえる。
 国語の条件的変異音[ m, n]がそれぞれ倭文字転写でb,dと現れる実例は「全一道人」でも確認される(安田章 1964:25-26)。ここではまた‘’(汝)や‘’(四)ののように非高母音の前のが倭文字転写でdと現れていることもあり、全体的には「和漢」や「朝物」と同一な性格を見せている。これはまた倭語dの音声資質にその直接的原因があっただろうと解釈されている。要するに高母音の前に配分されている国語のけ・いに条件的変異音[ m, d]だったためだともいう。そのために非高母音の前に現れる国語のまでも場合によっては倭語音声dと代置することができたのである。
 「和漢」や「朝物」にはこのように不完全ではあるが国語の発話現実が直接表面に反映されている。国語の条件的変異音[ m, n]は東北方言と東南方言、即ち声調の方言圏を除いた大部分の方言圏で実現されていないかと思われる(李秉根 1980:43)というので、それが事実だとすると、[ m]に関するある「和漢」や「朝物」は東南方言とは少なくとも関連がないようだ。そうかといってこの二つの資料の地域的背景が中央方言と断定するのも難しい。次のような実例がこれらの資料の複雑な性格を現しているためである。

(13)

 まず、(13)aは音韻、(13)bは語彙的側面から南部方言と関連があるような実例である。「朝物」のsegiは南部方言の口蓋音化を反映しているようだけれど、日本語の西部方言のsは摩擦性が弱くて[h]または[c]と交替されるだけでなく、hまたは環境によっては[c]または[ ]と交替されることがあるのだが、segiseがそのような倭語の音声資質の干渉によるものであったならば、国語の発話現実とは関係がないこともある。即ち、国語の[    ]が倭人に[       ]と認知されていたためにsegiと表記された可能性もある。
 「和漢」の'asi(弟)と「朝物」の'aziは中世国語の半歯音 に対応する南部方言のと関連があるようだが、人が期待する「朝物」の異なる語彙にはmo'uka(里、10)mo'uga(町、10)ka'oru(秋、10)keworu(冬、10)からのようにその痕跡が現れていない。一方、「朝物」のtohonburi(湯)のtohonは語中にhを見せており、東南方言形‘希歳’のを反映しているようなのか判断しづらい。 (13)bの語彙でみると、「朝物」のmukure(喰)が東南方言の‘ー’を反映しているようだし、satiya(売)とharuka(買)はそれぞれ勧誘形と疑問形であるようなのだが中央方言の一般的意味ではその語形がお互いに反対になっている。穀物去来に限ってそのような意味を持つようになっている場合が主に南部方言から発見されているが、‘糴米  虞球軒陥’(「訳語類解」下 48)のように17世紀末葉の中央方言でも‘ ’(売)が‘ー’(買)の代わりに使われていて、「朝物」の語形を方言的要素とだけ見ることはできない。
 「和漢」や「朝物」は以上のような何項目から東南方言の要素を見せているようだけれど、その他の場合には不完全ではあるが中央方言の現実と大体通じるものと判断される。

3.3「全一道人」の現実性
 「全一道人」(1729)に現れている国語資料は現実性と地域性からみるとき、大体当時の中央方言を反映しているものと見える。‘諺文で書くこと’と‘言葉にすること’の異なりを明らかに認識していた雨森芳州は国語の音韻体系や音節構造を勘当にするにはたくさんの制約による倭文字を利用して、国語の発話現実をそれなりに忠実に書き写そうと努力した。「全一道人」に国語の発話現実が反映されているという最初の根拠は「和漢」と「朝物」の検討で既に言及したように高母音の前のけ・いに見える条件的変異音[ m, n]が倭文字転写にそれぞれb,dで現れているという点である。

(14)

 以上がその実例の全部なのだけれども()の中に国語を補充したのは「全一道人」本文に国語添記が一度も現れていなかったことを意味する。まず、(14)aburiは国語添記を持っていないが‘耕軒’(豫)に該当する形態素なので高母音の前のという条件にずれてはいない。ただ一度しか現れていないけれどこの時のbと転写されたのは国語の条件的変異音[ m]を反映しているのである。そうなのだけれども、同じ高母音の環境であるかといっても、‘ー’(信)、‘行依’(本銭)、‘’(及)、‘ー’(及)はもちろん、‘糠充’、‘糠譲’、‘紅究’、‘’(水)、‘ー’(咬)、‘ー’(問)のはいつでもmで転写されていた。
 (14)bは高母音の前に配分される国語のdまたは nで現れていることを見せたものだ。雨森芳州は‘刊・汗’のような音節のに現れる条件的変異音[ n]を転写するためにdo以外にも倭文字でnuを現す音節に濁音記号を付け加えた特殊記号を利用している。倭文字のnuは本来濁音を持つことのできない音節なのだけれども、国語の‘刊・汗’の転写にだけこの濁音表記(右端に二点を書いたもの)をもったnuが利用されたのである。前で「全一道人」に書かれた補助記号、圏点、弧線、三点記号について検討したことがあるけれど、雨森芳州が国語を倭文字で転写するために考案したもう一つの音節がこの濁音記号を同伴したnuだった。本研究ではこれを nuと転写する。
 この nudoと同価の音節記号だったという事実は‘環精’の‘’がdo nu、‘刊趨’の‘’がやはりdo nuのように二種類の転写方式を見せているという点から簡単に確認できる。雨森芳州は国語の‘刊・汗’をdoと転写してみると条件的変異音[ n]に対する表記には不満はないけれど、それに後行する母音に対する表記が疎漏されてしまう。ここにdoのような音節を利用することができたならば願ってもない好都合であるが、当時の倭語にはすでに高母音の前に舌端破裂音が配分されることはできない制約ができていて、tu,du,ti,diのような四個の音節が構造的ひらきを成していた。結局、‘刊・汗’の母音までをもう少し確実に写すために nuのような特殊音節が考案されたものと理解される。
 「全一道人」では‘’または‘’のように高母音を音節主音とする語彙、形態素中‘’(目)を除いた残りの全てがdoまたは nuで転写されている。しかし、同じ高母音で成されていながらも‘’を頭音節とする語彙形態素だけは例外なくniで転写されていて、‘耕軒’の‘’がbiと転写されたのとはいい対照を成している。‘’(歯)、‘艦牽ー’(至)、‘艦牽ー’(請)、‘艦鷺’、‘ー’(熟)、‘ー’(起)、‘諌裾’、‘ ー’(読)、‘ー’(被)、‘ー’(継)、‘ ー’(忘)のような形態素の‘’が始終一貫niとだけ転写されているのである。(12)aでのように「和漢」と「朝物」には‘諌咽’の‘’がそれぞれdi,ziと転写されている。だけれども雨森芳州がむしろ国語の‘’に現れる[ n]を聴覚的に正確に認知できなかった理由は倭語音節ninが変異音と実現されることがほとんどない[n]だったためであるのだ。一方、漢字形態素‘(能)’の‘’は例外なく nuで転写されている。結局、「全一道人」には高母音の前に配分される国語のけ・いその中でも特にぱ・ぬの前のに現れる条件的変異音[ n]に対する発話現実が相当敏感に反映されている。このような事実は「全一道人」が文字対文字のような転字方式で成された資料でなく現実的発話による転字方式で成された資料であることを示している。
 「全一道人」には非高母音の前のdで転写された実例も現れている。(14)cの‘’に対するdo、‘’に対するdo'isがそれである。‘’は全部で16回、‘’は1回にわたって書かれたことがあるのだがその全てが例外なくdoと転写されている。特に‘’の‘’がdoで転写されたのは「和漢」や「朝物」とも共通される。国語の非高母音の前に配分されるが倭人にdと認知されることがあったのは前で既に明らかなとうり、倭語音声のd自体がもった鼻音性資質に起因したのである。ただ、‘ー’(越)の‘’だけはnoと転写されている。

3.4「全一道人」の転写と発話現実
 「全一道人」が見せてくれている個別音声の転写については安田章(1964:20-40)で比較的詳細な検討が行われたことがあるのでここではその他の側面について一瞥することにする。雨森芳州は「全一道人」の凡例第二条で‘諺文で書くこと’と‘言葉にすること’は異なるといったことがあるけれども、それは即ち、表記と発話現実間の差異を指摘したのだった。彼はそのような具体的な実例として提示している。形態素結合と関係される30余個の実例がそれなのだけれども、その性格はかなり雑多なだけではなく、類型別に整理されているのでもないけれどこれを大略分類してみると次のような音韻現象と関係されるのである。

(15)

 (15)aは形態素や単語境界を間においての前や後ろに配分されるとき、舌側音化する同化現象を指摘した実例である。雨森芳州は‘廃顕拝顕・幻軒源軒’のように漢字語だけを例示したけれど、この現象はの前後に配分されることができない国語の連結剰余性にその原因をおいていたことで、その時期は相当古くにさかのぼる可能性がある。実際に、この同化現象は(15)bに見える「小学諺解」の‘ 虞惟’のように16世紀の国語文法にも明らかに存在していた。この時の‘ 虞惟’は‘詞ぞ蟹惟’のような合成語の表面形として同じ文献に‘ 蟹惟’とも現れている。(15)bに見える‘ 勲’という「二倫行実図」の表記は舌側音化が18世紀初葉にも存在していたことを示している。これは‘壇勲’の表面形なのだけれども同じ文献に‘ 撹’と表記されたのは‘心理的飛び石’によるものだ。よって、‘ 撹’は近代国語にたびたび現れる‘叔葛・筈葛・碑格・伸艦壱’のような表記と共に発話現実をきちんと反映しているとはみられないのである。
 この舌側音化は漢字形態素の二つ以上の結合で成される漢字語にもそのまま適用される規則だけれど個別漢字の独自的固定性によって同化現象の表面形が表記に露出されることはまれである。雨森芳州はこの点に注意する必要を感じたのである。一方、(15)aの終わりの実例‘錘耕淫随耕淫’は若干特異なものだけれど、の前でも舌側音化が起きることがあったことを示している。現代国語文法ではが‘崇耕淫’のようにの前でに同化されるのが一般的だけれど、舌側音化がまず適用されて‘随耕淫’になることができるのだけれど、‘勧弘聖’が「杜詩諺解」<重刊本>に‘ 糠研’(六2)と現れていて舌側音化が競争規則として早くから存在してたことを示している。

(16)

 雨森芳州が指摘している(16)aは形態素や単語境界を間において舌端音の前に配分されるが脱落を起こした場合だ。この規則は‘+ +焼 艦・硝焼巨’のようにも共時的にも適用されるものだったが、彼が例示したことは通時的変化に属するものである。(16)bはそのような類型の変化が中世国語にさかのぼるものであることを示している。(16)aの最後の事例‘ >’は形態素内部の両唇子音の前でが脱落を経たものだ。(16)bはそのような変化が既に16世紀末葉に現れていることを示している。この変化は17世紀初葉の「諺解胎産集要」(1608)と「東国新三綱行実」(1617)などからも確認されただけでなく(田光鉉 1967:74)、「捷解新語」( 1676)にも‘笑費’(五、23)、「朴通事諺解」(1677)にも‘’(上、5)が現れているので雨森芳州は18世紀初葉当時の表記と発話現実の差を適切に認識していたと信じられている。

(17)

 雨森芳州は(17)aの‘受丞・奏遂’の発話現実がそれぞれ‘珠丞・倉遂’であったことを証言しているわけである。(17)bはそのような現象が‘美美 美・奏遂倉遂’の要に実在していたことを裏付けしてしている。漢字形態素の結合時に主に現れるこの現象は中央方言を基準とする時‘珠丞’は共時的交替、‘倉遂’は通時的変化に属する実例である。この現象については口蓋性上昇二重母音の前に配分される軟口蓋鼻音の口蓋音化と解釈することもあるが(許雄 1965:490-491)、通時的には母音や円唇性上昇二重母音またはに先行するだけでなくが脱落されることもあってこれら全てが口蓋音化だけとは解釈できない。実際に‘誤敗悟敗・狽章煤章’のような共時的交替、‘柴枢伐(石雄黄)>柴酔伐・萩随買随・鯉水乞水・柑杉敢杉’のような通時的変化が中世国語や前期近代国語文献に既に現れているのだが(劉昌惇 1964:51-52)、これらを全て口蓋音化とだけ解釈するのは難しいためである。
 この現象は漢字形態素の結合でできる不自然な音節を防ぐための形態規則と理解される。この現象と関係する例は一端形態素境界の間にV +(y,w)Vのような構造を見せている。V +CVのような構造とは異なり、この時の形態素境界は自然な発話行為の音節境界V (y,w)Vと一致していない。即ち‘奏遂・狽章’を形態素境界とみるならばそれぞれcyo +yo,hya +amになるけれど、音節境界とみるならばcyo- yo ,hya- amになってしまう。yo amにもを頭子音という音節は不自然である。は国語の自立形態素や漢字形態素で頭子音と現れることはないためだ。形態素境界と音節境界の不一致、それによって惹起する音節構造の不自然性はcyo +yo cyo+yo ,hya +amhya+amのような母音の鼻音化と克服される。よって、理論上ではが脱落されながらその補償で先行母音を鼻音化させただろうと解釈される。この鼻音化は国語文字で表記されるしかないためにの脱落のように現れるが鼻音性が次第に弱化された語彙は通時的変化として確実で、そうでない語彙は共時的交替に留まったであろうと思われる。
 一方、‘誤敗・柴枢伐・失悪’のように形態素境界の間での前に配分されるときには有声音の環境にあるがまず脱落を受けて‘誤章・柴枢伐・失章’になった後、これらがまた上のような鼻音化節次をわたったのである。‘鯉水・柑杉’のような形態素境界の前のは形態素境界を飛び越しながらも‘伽・曳’のような不自然音節構造を持つようになる代わりに、k>g>r> のような漸進的弱化をわたって脱落するに至ったのであろう。雨森芳州が例示している(17)aの‘柴丞偲丞’も随意的にこのような節次をわたった実例の一つと説明できる。ただ、‘披焦妃開’だけは特異な交替を見せているのだけれど、この時にはhu- aka akのような不自然な音節がnakのような自然な音節で再構造化されたものである。ここには母音衝突防止という要因も潜在しているだろうけれど、本文にはhiyugu'aku(73)とも現れていてhunakは必須的なものではなかったことがわかる。

(18)

 まず、(18)aは有声音の間でが脱落する現象を、(18)bが前後の無声破裂音と融合を起こして有気音化する現象をそれぞれ指摘したものだ。ただ、‘厭備・駅備’の形態素境界に現れる有気音化を倭文字転写ではきちんと写すことができなかったのだが、実例の終わりに国語表記で‘絶 坪・樺坪’などを付け加えて、これを‘’と書いてはまずいと明らかにしている点からみるとこれら音韻現象に対する雨森芳州の認識は明らかであったことがわかる。だけれども、原文の‘厩備・照坪’はそれぞれ‘駅備・照娃’に対する錯誤だ。国語のの有気音化と喉頭化音の対立を倭人が区別して使うのは難しくないのだが、実際に雨森芳州の国語表記にはそのような錯誤が相当含まれている。

(19)

 まず(19)bは‘株・・葦・’の末音の前でに、‘閤・・康・・笹・・ ・・狙・・笹・・責・・願・・の末音ぇ・じ・ず・さ・ぞの前で全てに同化されていることを示している。これによって、16世紀末葉以前に既に全ての無声子音が後行する子音の前で部類別に中和することができたことがわかる。何故なら、上のような鼻音化は唇音、舌端音及び喉頭摩擦音、軟口蓋音に区分される無声子音が部類別にそれぞれげ・ぇ・ぁ と中和された後に起きる同化現象のためである。特に舌端音ぇ・じ・ず・さと喉頭摩擦音 が全て後行するに同化されて、鼻音化することがあった理由はこれらがまずと中和されたためだといえる。
 雨森芳州がこのような同化現象からくる表記と発話現実の差を曖昧にだが認識していたことは明らかである。(19)aに引用された実例でその事実を確認することができる。‘因拙耕’の‘’が‘’と間違って表記されたりしたが、それに対する転写koguzagamiは‘因拙耕’のような発話現実を見せている。前で既に言及されたように当時の倭語音声gは鼻音性入過渡音を同伴した[ g]または[ g]であったものと考えられる。雨森芳州は国語の音節末音gnで転写している。‘ 備然  ・   ’のも転写ではmで現れている。その残りはの前でに同化されていることを示している。この時のはまずに中和されてそれがもう一度に同化されるという節次を渡ったのである。

(20)

 ここに提示された実例は「全一道人」が示している発話現実で最も意味が大きいのである。(20)aは口蓋性上昇二重母音の前に配分されるの発話現実、(20)bは語彙形態素の第一音節に現れる‘、’の発話現実を端的に示している。言い換えれば‘鰍詰’の‘’に対する転写表記diyo口蓋音化、‘ 亜走・  ・ 審葛虞’の第一音節に対する転写表記haは’、’非音韻化を暗示している。これに対しては後で詳細な検討がもう一度行われるであろう。
 以上が「全一道人」凡例第2条に例示された発話現実の殆ど全てである。これらは類別され提示されたのではないけれど、これによって「全一道人」の転写表記には当時の国語の発話現実が大きく反映されていることがわかる。雨森芳州がこの現実性を一端認定せざるを得なくさせた。


3.5「全一道人」の地域性
 「全一道人」に現れる国語資料が当時の現実性を反映しているものならば、次に問題となる点はその地域性といえる。既に前で明らかにされたように雨森芳州は1703年朝鮮の地に渡って来、国語を学んだという。彼がどこで誰にどのように国語を学んだのかはわかることができない。しかし、彼が駆使した国語の地域性は、まず彼の身分や職責でみると当時の中央方言であっただろうと推測される。彼は公人として国語を学び、国語で表記された書籍を読むことができ、国語と関係するいろいろな著述にも直接、間接に関与したと知らされている。それならば、彼が接した国語は当時の知識人たちがしゃべっていた中央方言である可能性がかなり大きいのである。
 彼は「全一道人」凡例で倭語の田舎言葉と首都の言葉に差があるという事実を何度か指摘し、田舎の人が田舎の人から首都の言葉を習いづらいように倭人が諺文を倭人から学び始めるのは良くないと繰り返していた。そのような部分を取り出してみると次のとうりである。

 全部で170文字の諺文を私たちの国の人から学び始めるのは良くない。田舎の人が首都の言葉を同じ田舎の人から言葉をちゃんと学んだという人から学ぶようだ。いくら上手だからといっても首都の人とは差があるようだ。(第2条)

 例をあげると、橋と筋、雲と蛛、花と鼻、笠と瘡などを首都の人はそれぞれ区別していうことができるが、辺土人は学んでも成せないのは山川風気が異なるためだ。ましてや異邦の言葉だ。(第3条)

 首都の人がkirumonokirimonoと使い、da'ikonda'ikoと使い、田舎の人がkayiru(蛙)をkayeruと使うようなもので言葉を上手にできないで‘亜蟹’表記もうまくできないのだ。te'uzi(丁子)と使わなければいけないのをtiyauziと使い、sanse'u(山椒)と使わなければいけないのをsansiya'uと使うようなもので言葉には差がないにしても仮名表記がその法を失ったのだ。朝鮮の諺文にもそのようなことが多い。固執してはいけないことだ。また、どのように使っても同じといえるものがある。詳しく韓人に習い、広く尋ねて初めて解るようになるのである。(第4条)

 雨森芳州はこのように田舎の言葉と首都の言葉の差、表記と発話現実の差に細心の関心を持っていた人物だ。彼が国語の発話現実を重視したとしてもそれは中央方言の表記に対する発話現実でしかない。彼は国語表記をまた重視した。「全一道人」凡例第三条には国語表記に漢字の解釈だけを添えた八個の文章が提示されているのだが、彼の表現によるならそれは‘疑似な言葉を集めて記した’ものであった。

(21)

 以上の数条の疑似な言葉を集めて記した。このような類は無数である。一つ一つ区別して使い分けれる場合、正しい諺文を知り韓語を使いこなせる人といえる。しかし、区別して使うまでは勉強に力を入れてこそできるのだけれど、区別して使うのは難しい。

 彼がこのように国語表記に関心を見せたのは倭人として国語表記を読むことができ、国語を書くこともできるようにさせるためのことなのだけれども、この時の国語は自然に中央方言になるしかなかった。実際に「全一道人」は音韻、語彙、文法にわたってこのようだという方言的要素をはっきりと見せていることはない。「全一道人」に混入されるほど方言として最も先に浮かび上がる候補があるなら、それは地理的に倭と隣接した東南方言であろう。しかし、「全一道人」には東南方言の要素であることの明らかな事例が現れていない。例をあげようなら、いわゆる、げ・さ不規則動詞の活用においても「全一道人」は中央方言のような文法を見せるだけだ。中世国語の唇軽音 、半歯音 にそれぞれ対応する東南方言のげ・さも語彙形態素内部に現れることはない。

(22)

 まず(22)a不規則動詞の活用を見せているのだが、どれも中央方言の文法に従っている。ただ‘習紳’に対する転写su'ihonが形態素境界にhが見えるが、これは東南方言の要素というより、母音衝突の環境に無意識的に加えることのできる国語ののような存在なのであろう。(22)bは東南方言の活用にが見える動詞なのだけれども、「全一道人」にはそのような痕跡がまったく現れておらず、(22)cは東南方言の場合、その内部にや が期待される語彙形態素であるのだが二つとも中央方言から起きた > 、 > のような変化に従っている。


3.6「全一道人」の語彙
 語彙においても「全一道人」はこうだという方言的性格を見せていない。ただ、‘掩球軒・(馴)’という語形が一度使われたことがあり注目を集めた。
(23)

 「全一道人」の転写と国語添記に全て‘掩球軒・’と現れているこの語彙は(23)abの実例を挙げるまでもなく‘霜球軒・’から変化したものだ。問題はこの‘掩球軒・’が中央方言の要素なのか、それ以外のある方言要素なのか不明確であるという点なのだけれど、18世紀末葉には‘霜球軒・掩球軒・’と同一な範疇に属する変化が中央方言に次のように現れている。

(24)

 この時の‘炎・徹’また‘ ・帖’の変化形なのだけれど、現代国語‘奄人・掩俊・沿帖・沿舌’の頭子音も同一な通事的過程を経験したものである。音声的環境では前部高母音や口蓋性転移音yの前に配分されているに変わるのだが‘’、‘憎・’(作)のような形態素にはそのような変化が及ぼされていなかった。結局、この変化は一部の語彙形態素の第一音節‘’にだけ現れたため語彙的、音節位置的制約を負っているのであった。よく不正回帰または過剰修正と呼ばれるこの変化は音声的容認可能性と説明されていないために音韻変化でなく類推的変化と解釈するしかない。
 この変化は口蓋音化が生産的な時にだけ相対的に現れることができると思われるのだけれど、18世紀末葉まで中央方言に口蓋音化が起きたという確証がないので、上のような変化は中央方言の自体的変化でない方言の借用と理解されている(郭忠求 1980:41)。そうだとすれば、‘’のような類推的変化は18世紀初葉に少なくとも口蓋音化を経たことのある東南方言(李明奎 1974:89)や西南方言から起こったものであり、「全一道人」に現れる‘掩球軒・’も一端、南部方言の要素のように看做できるかもしれない。
 しかし、この変化が南部方言の要素の借用によるものだと断定できる根拠はまだない。南部方言に口蓋音化が起きていたならば、同じ時期の中央方言にそれが発生しなかったとしてもいくつかの語彙形態素に限定される類推的変化までも起こり得ないという根拠はないからだ。今日、南部方言には‘霜球軒・’と‘掩球軒・’、‘’と‘’、‘走醤’と‘奄人’、‘霜誌’と‘掩誌’、‘像帖’と‘沿帖’、‘像舌’と‘沿舌’が共存するけれど、中央方言から遠ざかるように‘’形の勢力が大きくなったり、‘’形の一つに単一化される。だけでなく、‘’形は多様な異形態で現れるが‘’形はそうでない。言い換えると、中央方言に近づくほど‘’形だけ残るようになるのである。この状態がそのまま18世紀まで遡及されているのかは解らないが、本来南部方言の口蓋音化と接触を持つようになった中央方言の話者たちがそれに対する心理的過剰修正を示すようになった結果が‘’のような類推的変化であるためだ。それならば、類推的変化による中央方言‘’形がかえって南部方言に拡散されて今日のような‘走・奄’形の地理的分布が成されたと仮定することもできる。このようにみると、南部方言から‘’形が優勢な理由や、中央方言で‘’形を単一化した理由が全て自然に説明される。
要するに、18世紀初葉には中央方言でも‘掩球軒・’が使われていたのである。「全一道人」は18世紀末葉の「増修無寃録諺解」(1792)から確認される‘奄醤’(三 17)がまだ‘走醤’(115)の段階にとどまっていることを示している反面、‘霜球軒・’だけは同一な範疇に属する異なる語彙よりまず‘掩球軒・’と類推されたことを示している。‘霜球軒・’がこのように異なる語彙に先立って‘掩球軒・’と類推することができたのは‘霜球軒・’の‘’が持つ意味の不透明性と説明することができる。‘霜球軒・’は南部方言の口蓋音化と接触する以前の段階でも‘掩球軒・’と類推することができる意味上の潜在性をもっているが、その時期はやはり南部方言に口蓋音化が発生した以後であろう。結局、「全一道人」に現れる‘掩球軒・’を雨森芳州が個人的に東南方言から借用したものだと断定できる根拠はない。
 「全一道人」の国語資料にはこのようにこうだという方言的要素が現れていない。ただここには、口蓋音化が大幅に現れている。この点において「全一道人」はまず国語文献と差を見せている。しかし、この口蓋音化も当時の中央方言の現実と無関係ではなかったものと解釈される。よって、「全一道人」の国語資料は当時の中央方言に基盤を置いたものと思われる。

3.7「全一道人」の国語添記誤謬
 終わりに「全一道人」本文の国語添記に現れる誤謬を指摘しておくことにする。安田章(1964)の国語復元文には原文の国語添記誤謬がそのまま写されているためである。便宜上、誤謬の内容を子音に関係するものと母音に関係するものに区分整理し、提示する。そして、確実例の最後には当時の一般的表記を推定して付け加える。

(25)

 雨森芳州の誤謬中には転写部分が文法的に間違ったもの、転写を写させても国語添記が間違っているもの、当時の国語表記慣行による結果がむしろ違っているもの、単純な誤記などいろいろな場合が含まれているが国語と倭語の音声体系や音節構造の差から不可避に起こる誤謬も入っている。
 子音と関係のある誤謬としては平音、有気化音、喉頭化音の三者間の混同と不正確な音節末音表記がその部分を占めている。(25)a①はa②はa③はの区別に混乱を見せている。a③の最後の例は‘ 縦聖 照壱(抱)’に該当するのだけれど、この時の‘照壱’が‘照坪’と表記されている。この表記は(18)bに提示したように凡例第三条の国語表記とも一致するのだが、そこには‘照壱’の‘’を‘’と記さなければならず‘’と記してはいけないという注意まで付いている。なので、雨森芳州は‘ ’を‘照坪’と間違って認識していたこと違いない。a④は音節末音の表記に現れるいろいろな混乱である。‘宋尻葛虞’は発話現実による国語表記で、国語添記と表記規範を現そうとした雨森芳州の本来の意図とはずれている。‘割搭’を‘喝搭’と表記したのは転写とも一致していてこの語彙に対する雨森芳州の認識自体が間違っていたことを示している。a⑥は口蓋音化によって本来のまでをと間違えて表記されるようになった実例なのだけれども、このような過剰修正としての類推的表記は当時の国語文献にもよく現れるのでこれを雨森芳州の個人的誤謬とはいえない。
 母音と関係する誤謬としては‘、’・っ・での三者間、ぱ・ぬ両者間の混同が主軸を成している。(25)b①②は‘、’を‘’と、‘’を‘、’と、‘’を‘、’と間違えて表記したものだ。‘、’・っ・での三者間の混同は音節位置に関係なく舌端子音の下でだけ起きていることが注目される。b③は‘、’を音節主音とする下降二重母音と関係するものである。即ち、‘(升)、紫噺(婿)、鷺番(根)’がそれぞれ‘ ・紫 ・災 ’と表記されている。‘ ’は(21)hに引用されたように凡例第三条の国語表記とも一致するのだが、凡例には‘’(山)が(21)cに提示されたように‘ ’と表記されたこともある。この混乱は当時の国語表記に従った可能性が大きくて雨森芳州の個人的錯誤でないかもしれない。b④はの間に混同を起こしたもので、b⑤は個別的な混乱を現しているものだ。ただ、b⑤の終わりの例は‘倖聖  虞’に該当するのだが‘ 虞’の‘ ’に対する国語添記‘’は意外の表記を見せているが、事実は‘ ’の字を使うということがと’、’の間にを間違って記しておいた痕跡が見える。b⑥は単純な誤記だ。

・ぇ口蓋音化の発端
1.1口蓋音化の発端時期と条件
 音韻変化としての口蓋音化に対する論議は前部高母音や口蓋性転移音yの前に配分される舌端破裂音、即ち、部類の部類化に対する観察から始められた。これに対する最初の観察記録は広く知られているとうり柳僖(1773-1837)の「諺文志」(1824)に現れている。その内容は三つの指摘で成されている。
 一つ目、東俗に‘岐・貴・屠・冬’と‘扇・閃・鱈・団’がそれぞれ似たように発音されているという点。
 二つ目、関西人は‘天’と‘千’、‘地’と‘至’をそれぞれ異なって発音するという点。
 三つ目、鄭東愈(1744-1808)の高祖に‘知和’と‘至和’という名前の兄弟がいたというので、‘’と‘’の組み合わせがそう古くはなかったであろうという点。
一つ目と二つ目は共時的発話現実に対する観察であることに反していて、三つ目は通時的音韻変化に対する推測といえる。
 兄弟の名前に‘知和’と‘至和’があったという事実は少なくともそのような名前が付けられた時期まで漢字音‘知’が口蓋音化を帯びてなかったことを現している。その時期は大略17世紀初葉か中葉に該当するので、それまで‘知’はまず口蓋音化を帯びていなかったであろうという推定になる。ここで一つ明らかにしておかなければいけない点がある。それは「諺文志」の証言が漢字音‘知’、だから高母音の前に配分されているに局限されているという事実である。このような限定的情報が固有語の‘岐・貴・詰・朽’、即ちtyVのような音節構造の頭子音まで口蓋音化を帯びなかったという根拠で援用できるかは断言しづらい。
 李明奎(1974)の色括的な文献調査によると、中央方言からの口蓋音化は16世紀末葉から極めて希であるけれども文献にその姿を取りだしている。それによると、最初には否定副詞化語尾‘・巨’より語彙形態素内で口蓋音化がまず起きている傾向がみられるという。(李明奎 1974:85).それが事実だとすると、口蓋音化の規則の発生に形態的制約にしたがったという意味だけれどそこに対する明確な根拠はないようだ。むしろ中央方言の実例を基準とする時、口蓋音化は前部高母音より口蓋性転移音yの前でまず起きたであろうという推測も不可能ではない。口蓋音化における同化力は一般的によりyがもっと大きい(Neeld 1973)という。調音的に前部母音の高さが高ければ高いようにその母音は口蓋性が強まり、その前に配分される子音を簡単に口蓋音化させることができる(Hyman 1975:160)ためである。
 実際に中央方言の場合、高母音の前のより口蓋性転移音yの前のに口蓋音化が先に現れている。李明奎(1974)口蓋音化に対する初期的実例として「新増類合」( 1575)の‘闇霜 装’(拯)、「蒙山和尚法語略録」(1577)の‘走駁’、「練兵指南」(1575)の‘鮮惜 括 帖  虞’、‘柔遭’(習陣)、‘鮮重’(転身)、「東醤宝鑑」(1612)の‘倉  刊献 渠 ’(好黄土)などをあげているのだけれど、これらのうち「東醤宝鑑」の‘倉 ’を除外すると残りは全て方言的なものである。「東醤宝鑑」の実例を基準とするとき、‘倉 ’が口蓋音化を経たことに反して‘渠 ’は口蓋音化を経ていないという事実が注目される。だけれども、この‘ ー’の口蓋音化形の‘ ー’は16世紀末葉の「小学諺解」(1587)<陶山書院本>からも確認されている。

(26)

 このように‘ ー> ー’のような変化が16世紀末葉と17世紀初葉の中央方言の資料に連続的に現れているという事実は偶然かもしれないが、口蓋音化がよりyの前に配分されるに先に起こっていったという意味と解釈することができる。なので、否定副詞化語尾‘ー’のより語彙形態素内のが先に口蓋音化されたという非音韻論的解釈はの前のよりyの前のが先に口蓋音化を経始めたという音韻論的解釈と修正することができる。yより同化力が強いという一般音声学的根拠とみたり文献的実例からみるとき、上のような解釈全く不可能でないであろうと考えられる。

1.2口蓋音化の拡散
 既に16世紀末葉に高母音より口蓋性転移音yの前で口蓋音化が先に成されたのだとすると、「諺文志」に引用されたような17世紀中葉の兄弟名‘知和’と‘至和’については次のような二つの解釈があり得る。一つ目はの前のは17世紀中葉まで口蓋音化を帯びていなかったために‘知()和’の‘知’と‘至()和’の‘至’は発音が共に異なり、兄弟の名前として使われることができたのであろうという音韻論的解釈だ。二つ目は‘知’が漢字形態素という語彙的範疇に属するために固有語の一般音節‘’とは異なり、17世紀中葉までも口蓋音化を帯びておらず、‘至’とは発音が区別されていたのだろうという形態論的解釈だ。現在ではこの二つの解釈のうちどちらが正しいと断定することはできないが、二つの要因が共に作用した結果とみることもできる。
 口蓋音化は16世紀末葉に既にtyVのような音節構造の中で先に現れ始めていた。この時の口蓋音化は偶発的変異によるものだっただろうが、それはまた明らかな異音的交替の発端であった。なので、この時の変異は随意的性格を強く帯びていて、話者の文法知識に変化を起こす程のものではなかった。この随意的変異音規則は特定の語彙形態素に既に限定的に現れていて、その中のある形態素が‘ ー’だった。その一つ目の実例が「小学諺解」にただ一度現れたけれど、一つの例でも文献に露出されているという事実はその時期にそれが実在したことを意味する。この形態素に口蓋音化が既に成されたのはそれがty
V構造を成していて頻度数が高く、むしろ偶発的に変異が起こることのできる確率が大きかったためであろう。そうして、当時の‘ ー’は自ら範例的関係を成している‘ ー’(浄)と意味資質上類似性を多くもっており、偶発的に‘ ー’に導かれる潜在性をもっていたためでありもするであろう。 
 口蓋音化は17世紀を経るあいだこうだという語彙的拡散を見せていない。中央方言に関するあるいくつかの語彙形態素から口蓋音化が確認されるだけである。「東醤宝鑑」(1613)湯液篇の‘倉 ’、「東国新続三綱行実」(1617)の‘闇閃鎧食’、「訳語類解」(1690)の‘溢及帖陥・・枸雷・’くらいが李明奎(1974:60-66)に報告されたようだ。その他に「捷解新語」(1676)にも曖昧だけれども口蓋音化の実例が現れている。‘ 険幻全 呪戚  
 壱閃  艦’(六  11)の‘・幻全’は‘・幻飢’の口蓋音化形だ。また、‘源  遺銅’(六 11)と‘源  遺帖’(一  4,九 14)、‘鎧 攣蘒聖 覗牽獣引岐’(一 30)と‘焼糠形蟹   帖獣引扇’(九 19)に現れる‘遺銅’と‘遺帖’、‘・引岐’と‘引扇’の共存また口蓋音化を示唆している。特に頻度がとても大きい‘ ー’(好)がただ一度ではあるが‘ 析亀 ・僭 倉 猿獣崎陥  艦’(六 16)のように‘ ー’と現れているという事実は口蓋音化に対する明らかな証拠だといえる。
 ただ、口蓋音化に関するある「捷解新語」のこのような実例が中央方言の現実を直接現したものであるかどうかには若干疑問が残る。それはこの本の著者である康遇聖が慶尚道晋州出身であるだけでなく「捷解新語」には実際に東南方言の要素のように見える実例が1、2個現れているためである。その一つは‘戚軒  神紘 妃走 誌巨原 社’(九 15)の‘妃走’に対する‘酔軒    析精 陥 輯走 紫糠獣壱’(四 19)の‘輯走’のような実例である。‘妃走’に対する‘輯走’は口蓋音化を暗示しているのだが、17世紀の中央方言に口蓋音化が起きたという証拠はまだないようだ。もう一つは‘神掘 輯壱 揮 焼熊 紫寓級 費 紺稽 匂  析亀 穣辞’(八 3)にみえる‘匂 ・’の存在である。それが誤字でないならば、この時の‘’は東南方言の‘(標または表)>’即ちy脱落による口蓋性上昇二重母音の単母音化を暗示している早い時期の実例ではないかと思われるためである。このような事実は「捷解新語」の口蓋音化の実例または東南方言の要素である可能性を見せている。
 「捷解新語」の口蓋音化までを全て中央方言の現実と看做しても、17世紀末葉までは口蓋音化がまだ限定された一部の形態素に随意的に現すだけでなかったことがわかる。結局、口蓋音化は17世紀末葉に至るまで語彙的にはそれほど大きい拡散を見せてはいない。しかし、少なくとも17世紀の90年代前後には口蓋音化が話者の文法知識に変化をもって来始めたことと考えられる。これについては後で総合的に論議するようになるであろう。

2.口蓋音化の発端
2.1口蓋音化に対する諸説
 少なくとも16世紀末葉には西南方言と東北方言に全て口蓋音化が起こっていた。全羅道版「蒙山和尚法語略録」(1577)と咸鏡道版「村家救急方」(1571-1573の間)で口蓋音化が確認されたようなためである(安秉禧 1972,1978)。そうだとすると、16世紀末葉の中央方言に口蓋音化が偶発的に現れたとしても異常なことはない。それが方言による干渉という確実な根拠がない以上、‘ ー> ー’のような変化にあわれる口蓋音化は中央方言の先駆的一例といえる。
 このような口蓋音化の発端は15世紀に非口蓋音であった部類の口蓋音化、即ちccのような変化にその原因があったものと解釈される。舌端破裂音部類の口蓋音化に対する論議は許雄(1964)から始まった。それは15世紀に非口蓋音であった部類が18世紀に口蓋音化を起こしたという解釈だった。いわゆる、中世国語の[ts]だったが、その後口蓋音化を経て[ts]に至ったというのである。しかし、中世国語の部類についてはまた別の解釈もある。中世国語歯音の調音位置は上歯根と舌端(舌尖後部)の間だったものと推測されるために、その発音は次にくる母音の種類によってts,ts’,sとも実現することができていたし、t  ,  t  ,  (またはtc, tc’,c)とも実現することができたという解釈がそれだ(姜信 1983)。中世国語文献には‘佼閃倉鯵’などに対する‘佼煽繕鯵’のような混用例が現れるので、これらの混用は調音位置の移動とは無関係で、中世国語では‘’系列と‘’系列の弁別的機能が別に大きく作用されてなかったようであるという解釈だ。
 このような解釈は結局15世紀に既にまたはyの前で口蓋化音「c」と実現されることができることを示している。言い換えれば、中世国語のは共時的に音声環境による口蓋性変異音を持つことができたのである。‘佼閃’に対する‘佼煽’がふと現れる点を勘案するとき、そのような変異音の出現は随意的だったものと理解される。よって、中世国語のが音韻論的には非口蓋音だったと解釈してもそこに無理がよらない。
 このような解釈は中世国語の文法的音韻現象にも確認が可能だ。即ち、‘佼閃’に対する‘佼煽’のように形態素内部からは‘’と‘’の混乱が現れるが、‘(負)+亜走(持)+亜閃’による‘’が‘’と現れたり、‘(緩)+汗煽(忘)+戚煽’による‘’が‘’と現れていることはなかったようだ。中世国語文献に対する精密な検索ない速断するのは難しいが、活用に現れている文法的な‘’と‘’が混乱を見せていなかったという事実は、当時の話者たちが文法的には‘’と‘’を明らかに区別することができたことを示している。これは当時のが音韻論的に非口蓋音cだったためだったのであろう。
 一方、中世国語には‘亜走ー’、‘走走ー’(噪)のように‘’を末音節とする複数音節動詞語幹が存在してたのだけれどもこれらはその後‘亜走ー>ー、走走ー>ー’のような変化を経た。‘亜走ー’と‘ー’は現代国語から‘亜走壱’と‘握壱’からのようにまだまだ随意的交替を維持しているが、‘走走ー’は通時的変化を渡り‘ー’と確定された。このような変化がいつ起こったのか確認はできなかったが、その時期は少なくともが口蓋音化を完全に経た後だったのである。言い換えると、‘走走走閃’による‘’が‘’と音声的実現が同じになり‘走閃’が文法的に‘走煽’のように認識されたためにその語幹が‘ー’と再構造化されることができただろうと理解される。よって‘走走ー>ー’のような再構造化の原因は口蓋音化と密接な関係を持つしかない。と関係される以上のような共時的音韻現象や通時的変化によっても中世国語のが音韻論的には非口蓋音cだったことを明らかにすることができる。
 許雄(1964)では口蓋音化がのそれより少し先立っていたであろうと推定し、その理由についてはが口蓋音化する前にが先にに合流する可能性が多いためだといった。しかしこのような推定はが先に非口蓋性破擦音[ts]に変わった後、そこでもう一度口蓋性破擦音[ts]に変わったという意味になって音韻論的解釈とは非合理的だ。これについて、口蓋音化は口蓋音化を前提にするために口蓋音化が口蓋音化に先立って起きることは出来ないという批判が提起された(李基文 1972:66-67)。この見解は大体正当なものと受け入れられている(李明奎 1974:29,郭忠求 1980:32)

2.2口蓋音化の条件
 口蓋音化はまたはyの前に配分される非口蓋音c[ts]の随意的変異音c[ts]に発端があったであろうと推測される。それがまたはy以外の母音環境にまで拡散することができたのは歯茎と軟口蓋の間の硬口蓋域で調音される子音が別になかったために、即ち体系上のひらきのためであっただろうと解釈されている。(郭忠求 1980:33)
 筆者は口蓋音化がtyVのような音節構造にまず現れたであろうと推定したようだ。一般的に口蓋位置では破擦音が破裂音よりより自然である。(やや有標的<marked>である。)(Ladefoged 1971:41)という。そうだとすると、tyVは当初から破擦音化する潜在性をもっていた。そのような位置から口蓋音化が偶発的に現れた時期は16世紀末葉だった。なのだけれども、このような口蓋音化が口蓋音化を前提にするとなると、口蓋音化に対する根拠が16世紀末葉以前に現れなければいけない。実際にそのような発端的実例が口蓋音化を初めに見せた「小学諺解」に現れている。

(27)

 実例が‘時節’に該当する漢字語なのだが、その位置が非語頭音節という不満がなくないが、漢字はその一つ一つが自立形態素としての資格を持っているので、‘獣前’と‘獣箭’がこのように一つの文献に共存するという事実はが曖昧にだけれど転移音yの前で口蓋化音として実現することができたためであろう。‘’の発話現実にcy lcy lc lのような随意的変異が現れるときにこそそれが‘’と表記されることができるからである。形態素内部に現れる‘’の随意的変異は二つの規則で説明することができる。その一つはcyの前で口蓋音化する規則で、もう一つはycの後で脱落する規則である。適用される順序は前者が後者を先立つ。なのだけれども、y脱落規則の存在は18世紀中葉以後の‘(島)>’によるsyV>sVのような通時的変化から確認される。
 ‘獣前’の‘’が‘’で表記することができたのは上の二つの規則が反対順序で適用されたためであるとみることもできる。即ち、ccに対する競争規則y→ が先に適用されたcy lc lのような変異が‘’と表記することもできたという解釈である。しかし、‘’がc lに対する表記である可能性は否認するしかない。cc,y→ のような順序がy ,ccのような順序に変わるとy脱落が先に起こるので、口蓋音化規則のccは環境を失うようになり空転するしかなくなるので口蓋音化は起こり得ないのということである。これは2規則間の順序が給与関係から奪取関係に再配列を示したという意味になる。そのようになると規則が最大限に利用できる順序に配列する傾向がある(Kiparsky 1982:40)という普遍的原理にずれるようになる。強いて、そのような原理を打ち出す必要もない。国語音韻史からみると、18世紀中葉以前に舌端子音環境で成された音節cyVtyVはもちろん、nyVlyVなどからもy脱落が口蓋音化に先立って起こったという証拠はないためである。syVが通時的にy脱落を経ることは経るけれどそれは少なくとも18世紀中葉以後のことである。

2.3口蓋音化の発端時期
 要するに、‘獣箭’の‘’は口蓋音化を示唆している表記と理解される。口蓋音化はこのように口蓋音化の発端時期の16世紀末葉に既に存在していただけでなく、それ以前に遡及する可能性もある。「翻訳小学」(1518)にそのような実例が見られる。

(28)

 現存する木版本「翻訳小学」はどのもので、初刊本でない後代の複刻本だけで断言はしづらいが、‘獣前’と‘獣箭’の共存だけはこのように16世紀初葉以前にさかのぼる可能性が充分である。通時的変化としての口蓋音化も結局はそれ以前のある時期の共時的変異音から出発したのであろうからだ。ただ‘獣前’の‘’が漢字形態素という点に疑心の余地がなくはないが、漢字は話者の言語習得過程からその一字一字が独立的に記憶される語彙目録に属するために、‘獣前’と‘’に現れる混乱は随意的変異と説明するしかない。
 形態素内部で起こる随意的変異としての口蓋音化は再び15世紀にさかのぼっていく可能性もある。姜信 (1983)に提示したような‘佼閃佼煽倉鯵繕鯵’のような表記混乱がそのような可能性を裏付けてくれると見ることができる。結局口蓋音化が口蓋音化より先だっていたといえる根拠が文献でも実証されているわけである。ただcyVに現れた口蓋音化はその発端においてtyVに現れた口蓋音化よりやや偶発的であったのであろう。口蓋性転移音の前でのは音声環境から見ると硬口蓋域の子音がひらきだという体系上の理由から見るとき、同じ音声環境のより自然に口蓋音化することのできる潜在性をもっているためである。これに反して、tyVに起こった口蓋音化を音韻論的要因と解釈しようなら、口蓋位置で破裂音より破擦音がより自然だという一般音声学的普遍性しかないのだが、そのような普遍性が絶対的ではありえない。これが口蓋音化が口蓋音化に先立って実現されはじめてたのであろうと推定するもう一つの理由になる。

2.4口蓋音化の拡散
 口蓋音化は17世紀を渡る間、異なる語彙形態素と拡散されている。その証拠が文献に現れている‘’と‘’、‘’と‘’、‘’と‘’、‘’と‘’の表記混乱である。その実例として李明奎(1974:33-37)には「諺解痘瘡集要」(1608)の‘閃荘’(乳)と‘鴫 軒煽薦’の共存、「東国新続三綱行実」(1617)の‘ 奄稽  ’、「家禮諺解」(1632)の‘ 嬢耕’と‘腺嬢耕’の共存が報告されていて、李基文(1972:198)にも「老乞大諺解」(1670)の‘’(<、靴底)、「訳語類解」(1690)の‘閃随’(<煽随、秤)、‘煽仙’(<閃仙、市)、‘煽悦’(<閃悦、小)、‘’(<、線)のような表記混乱が提示されたようだ。実例がこのように限定されているけれど、口蓋音化は口蓋音化より先立って拡散されたのであろう。
 これまで検討されたような口蓋音化は次のように整理することができる。随意的変異としての口蓋音化は15世紀までさかのぼり、口蓋音化は16世紀末葉までさかのぼるので前者が後者より先立って起こったといえる。これらの口蓋音化は全て高母音より口蓋性転移音yの前でまず異音的交替を起こし始めた。口蓋音化は子音体系上のひらきをふさぐ異音的交替から始まったのだが、口蓋音化は口蓋音化との共謀から始まったのである。口蓋音化は音声環境上口蓋音化より偶発的性格をより多く帯びている。口蓋音化は17世紀末葉に至る間語彙形態素に相当拡散されたのであろうが口蓋音化は口蓋音化ほど拡散されなかったのである。しかし、これらの口蓋音化は17世紀末葉に近ずき次第に話者の文法知識に変化を起こし始めたものと考えられる。

3.18世紀初葉の口蓋音化
3.1国語文献の口蓋音化
 国語の中央方言資料に口蓋音化が明らかに現れている時期は18世紀の30年代前後である。「同文類解」には口蓋音化が大幅に現れているが、それより先立っては「女四書諺解」(1736)でもぇ・ぜ・ 口蓋音化が全て確認されている。

(29)

 この時期には語彙形態素や文法形態素、語頭音節や非語頭音節のような条件に関係なくどこでだか口蓋音化が実現されていた。(29)aは‘拒費ー>送 ー、嬢渠ー>嬢霜ー、ー>ー’を、(29)bは‘ー>ー、ー冬稽>ー団稽壱銅ー>壱帖ー、ー<ー’のような口蓋音化を示している。 口蓋音化は表面的表記として現れていないが、(29)cの‘譲巨条走乞ぇ 巨艦公 走艦’は実質的に 口蓋音化を示している。
 「女四書諺解」に現れている口蓋音化は量的な面からこの上なく微々たる程度にとどまっている。しかしここには全ての類型の口蓋音化が反映されている。次のような事例がその中の一つといえる。

(30)

 この時の‘革亜巨謁銅ー、焼冬’はそれぞれ(30)bの‘革亜走益帖ー、焼団’のまた別の表記であるが、(30)aのような表記が当時の実際発話実現であったとは見れない。それが音韻変化による実際の発話現実であったならば、現代国語にその反射形が残っていなければならない。‘焼団’はその後廃語化されたので、その行態を知ることはできないが、現代国語に残っているのは‘革亜走益帖ー’側である。これは(30)bが当時の発話現実であったことを暗示してくれている。このような点から‘革亜巨’のような存在は「全一道人」に現れていたような‘霜球軒ー>掩球軒ー’とその性格がまったく異なっている。‘霜球軒ー>掩球軒ー’は音韻変化でなく、類推的変化として南部方言から起こった軟口蓋音の口蓋音化に対する心理的過剰修正にその原因をおいている。‘掩球軒ー’はその時から発話現実と固定されていて、同じ類型の変化を経るようになった‘’(羽)、‘’(舵)、‘奄人’、‘掩俊’、‘沿帖’、‘沿舌’とともに現代国語に継承された。しかし、‘革亜巨’はそのような過程を経てはいない。‘革亜巨’は当時の表記者の心理的葛藤を現しているのみ、発話現実による異音的交替とは関係がないためである。
 このような心理的葛藤は口蓋音化から由来している。よって、‘革亜巨’のような表記は口蓋音化を意識した過剰修正という点から口蓋音化に対する‘掩球軒ー’のようだが、表記時にだけ現れる個人的、瞬間的類推であるのみ、言語社会の発話現実と固定できなかったという点から‘掩球軒ー’とは差がある。ただ‘益帖ー’に対する過剰修正表記の‘謁銅ー’には名詞‘ ’(末)による語源意識の範例的干渉もあったのであろう。
 前で既に指摘したようだけれども「女四書諺解」の口蓋音化は巻一の前部分についている三つの序文のうちの二番目の‘御製女四書序’にだけ集中的に反映している。一番目の‘神宗御製女誡序’には一つの実例が現れるだけだがそれが特別な意味を持った実例として注目されている。

(31)

 この時の‘ 走軒神採団’はそれぞれ‘ +’の表面形である。動詞活用に現れるこのような形態音韻論的交替は口蓋音化が当時の文法に共時的音韻現象として存在していたことを示している。そこで「女四書諺解」は漢字音でも口蓋音化を見せている。(南廣祐 1977)。この全ての事実は「女四書諺解」が量的にはたとえ口蓋音化を微々たるもののように見せてくれているが、それが当時の文法にとても普遍的な現象であったことを示している。

3.2「全一道人」の口蓋音化(1)
 以上のような口蓋音化が18世紀初葉の文法であったことを確認させてくれるもう一つの資料が「女四書諺解」より時期的に先の「全一道人」(1729)といえる。この資料の転写と国語添記には口蓋音化が全面的に現れているのだが、その範囲は語彙形態素の語頭と非語頭、文法形態素、漢字音に全て渡っている。国語添記に本来の‘’などがふと維持されていることはいるけれど、そこに対する倭文字転写は始終一貫口蓋音化の状態を見せている。前で既に検討したように「全一道人」には18世紀初葉の中央方言が反映されているので、そこに現れている口蓋音化または当時の中央方言の現実だったものと理解される。

(32)
(33)
(34)

  先ず(32)は否定副詞化語尾‘ー、ー’、(33)は非語頭位置に現れる‘’、(34)は語彙形態素の第一音節‘’に対する転写と国語表記を整理してみたものである。これらはすべてtiまたはdiと転写されているだけでなく、国語添記にも殆ど大部分が‘’と現れている。‘闇巨・・銅・銅戟’のような数三例に本来の‘巨・帖’が維持された場合もあるけれど、それに対する転写は‘走・帖’と差異を見せていない。本来からの‘走・帖’は言うまでもなくtiと転写されている。

(35)

 日本語音韻史によると高母音の前に配分されているt,dは母音環境によってtit i,did i,tutsu,dudzuのように口蓋音化したり破擦音化して今日に至ったのだけれど、その時期は16世紀中葉(森田武 1977:263-264)、でなければ16世紀末葉(外山映次 1972:192-193)と推定される。よって、国語本来の‘巨・銅’のような音節が雨森芳州によると‘走・帖’と認識してたし、それが倭文字t i,d iと転写されて、本来の‘走・帖’に対する転写と差異を見せていないという事実は一端口蓋音化を暗示しているものと理解される。
 国語の‘貴・冬・騎・唐’のようにその音節主音がで成された二重母音または三重母音音節はその構造上倭文字一つで転写するのが難しくあるだけだけれども、雨森芳州はこれらの音節を転写するためteを現す倭文字に三点の補助記号を与えて利用している。前で明らかにされたように本研究ではこの特殊音節表記をtseと転写しているけれど、本来の‘貴・冬・騎・唐’が「全一道人」にいつでもtseとだけ転写されているのではない。大体、語頭位置ではこれらがtseと転写されているけれど、非語頭位置ではtiya,diyaまたはtiyo,diyoと転写されているのだけれども、その輪郭については既に(8)に整理しておいたことがある。なのだが、これらの音節に対する国語添記は殆どいつでも‘閃・団・禅・断’と現れている。

(36)
(37)

 本来の‘移・冬・騎・唐’の大部分がこのように‘閃・団・禅・断’と表記されたが、(36)aの‘闇貴’、(36)bの‘  ・咋冬’のように‘貴・冬’が表記に維持された場合もある。これらは原則的に語頭位置でtseと転写されている。非語頭位置では(36)aの‘ 買   ’、(36)bの‘茜団・益団企虞・咋冬’、(37)bの‘(乞  ’にあらわれている‘閃・団・冬・断’がtseと転写されているが、(36)aの‘闇閃・闇貴・ 買閃・肥斗閃・獄辞閃・ 焼閃・言閃’、(36)bの‘ 団・炎団’に現れている‘閃・貴・団’はtiyo,diyoまたはtiya,diyaと転写されている。‘ 買   ’の‘ ’に該当する音節がtiyoと転写され、‘ 買閃’の‘’に該当する音節がtiyoと転写されたという事実は同じ‘’に対する転写がtse,tiyoのどちらとも代置することができたことを示す。その上、(37)aの‘(帝)’はzeiと転写されているが、国語添記はもっていないが同じ漢字形態素‘帝’が‘antsei’(安帝)のようにtseiとも転写されていて、その他にも‘兄弟’の‘弟’がzeiと転写されている場合もある。
 このように本来の‘貴・冬・騎・唐’が大部分‘閃・団・禅・断’と表記されているだけでなく、その転写としてtsetiyo,diyo,tiya,diyaがお互い代置できるという事実は「全一道人」のtse口蓋音化を現すための転写であったことを示している。だけでなく、‘帝’がtsei,zeiの二つに、‘弟’がzeiと転写されている。このようにtsezeがお互いに代置することができる関係にあったならば、これはいわゆる‘’のような口蓋音化をその原因としているのである。そこで‘貴・冬・騎・唐’と区別されてきた‘閃・団・禅・・断・’がすべてtseと転写されているという点もtse口蓋音化を反映しているという根拠になることができる。転写と国語添記を一緒にもっている本来の‘貴・冬・騎・唐’については(36)(37)に大方整理したので、ここでは国語添記をもっていない残りの実例の若干と本来の‘閃・団・禅’に対する転写を比較して見ることにする。

(38)

 この前の(36)(37)によると、本来の‘貴・冬・騎・唐’が原則的にtseと転写されているけれど、‘移・冬’は場合によってtiyo,diyo,tiya,diyaと転写されることもあった。特に‘’はtseiと同時にzeiとも転写された。(38)aには国語添記を持たない‘’(伝)、‘’(定、庭)の‘’がtseと転写された場合をもう一度追加しておく。(38)b,c,dによると本来からの‘閃・団・禅’が本来の‘貴・冬・騎’と違いなくtseと転写されていたことがわかる。特に(38)bの‘走閃雨・’のように本来の‘’が一度はtseと、またもう一度はdiyoと転写されていることもあり、‘’(銭)の‘’のように一度はtseと、またもう一度はzeと転写されていることもある。しかし‘ ’(跡)と‘獣前’(時節)の‘’はzeと現れている。(38)dは‘’がtseiまたはtseと転写されていることを見せているが‘ 太’の‘’( )だけはtiyoとも現れている。国語添記はないが‘ 太’がtiyotai(45),tiyotai(45,46)のようにtiyoとも現れている。このように本来の‘閃・団・禅’に対する転写が本来の‘貴・冬・唐’に対する転写と共通性を見せているという事実は‘貴・冬・騎’などのが口蓋音化したと実現されたためである。
 本来の‘岐・詰・朽’も転写ではそれぞれ本来の‘扇・鱈・・倉・相’と差を見せていない。

(39)
(40)
(41)

 これによって、漢字形態素に主に現れている本来の‘’と‘扇・鱈・’が全てtiyaと、本来の‘’と‘’が全てtiyoと本来の‘’と‘’が全てtiyuと転写されていたことがわかる。(39)aの‘長、張’は本来‘ ’、(39)bの‘将’は‘’、‘者’は‘’、‘且’は‘’で、(40)aの‘朝、鳥’は本来‘’、‘蹤、終’は‘’で、(41)aの‘晝’は本来‘’、‘竹’は‘ ’、‘中、仲、重’は‘’で、(41)bの‘主、周、朱’は本来‘’、‘粥’は‘ ’、‘駿’は‘’だった。これまでの結果をもう一度整理してみると「全一道人」の転写と国語添記は次のような内容と要約できる。

(42)

 これによって「全一道人」の転写に現れている特殊表記tseは‘貴・冬・騎・唐’の口蓋音化を反映しているものと解釈することができる。「全一道人」の国語添記が一般的に発話現実とは直接関係がない伝統的表記慣習によっていることにも関わらず、‘巨・銅・・岐・貴・冬・唐・’の大部分を雨森芳州が‘走・帖・・扇・閃・団・断・・倉・相’と表記するようになったのも口蓋音化が当時に普遍的な発話現実であったためであろう。

3.3「全一道人」の口蓋音化(2)
 「全一道人」に現れる次のような形態音韻論的交替にたいする転写は口蓋音化を暗示している。

(43)

 国語添記が(43)bには現れていないけれど‘ ’という形態素の末音が派生副詞語尾‘・戚’と結合されて‘’になる時にはtiと転写されているのだが、これは形態素境界を間においてが結合されるときにも口蓋音化が現れたことを示している実例だ。
 「全一道人」には口蓋音化を前提とする心理的過剰修正、即ち類推として、本来のと表記された場合も現れている。

(44)

 ここに現れている‘益団巨虞’の‘’は本来‘’だったし、‘詰偲’の‘’も本来‘’(詔)だったし、‘詰印・詰壱幻’の‘’は‘’、‘厭 ’の‘ ’は‘’(足)だったのである。このような過剰修正は18世紀を前後した国語文献、例えば次のように検討するようになる「訳語類解」(1690)や「伍倫全備諺解」(1721)にも現れている現象として、口蓋音化が当時にとても生産的であったことを前提としているのである。まさにそのような過剰修正の実例までを勘案するとき「全一道人」に反映している口蓋音化は当時の中央方言の発話現実と差がなかったのであろうと思われる。

3.418世紀初葉の口蓋音化
 「全一道人」に現れている口蓋音化が当時の中央方言の現実という事実を後ろだてするためには、それより時期的に先立っては文献から口蓋音化に対する証拠を探し出す必要がある。そのような文献の一つに「伍倫全備諺解」(1721)をあげることができる。ここには口蓋音化が現れていないと報告されたこともあるが(田光鉉 1978)、実際には次のような数三の実例が現れている。

(45)

 まず(45)a戚綜君走・・ 買走・’は中世国語‘戚煽巨・’(「釈譜詳節」九 6)、‘益坦巨・’(「月印釈譜」二 74)と見るとき、‘’のような口蓋音化を経たのである。(45)b身奄走’の‘・走’は否定副詞化語尾‘・巨’の口蓋音化形で、(45)cは‘ ’の末音が主格語尾‘・戚’と結合されるとき口蓋音化が起きていることを示している。これは「女四書諺解」(1736)の‘ +戚軒神→ 走軒神’のように形態素境界を間において起こる形態素音韻論的交替として注目される実例であるのだけれども、「伍倫全備諺解」はそのような共時的音韻現象が18世紀の20年代以前にも存在していたことを明らかにしている。ただ‘ +円帖’が口蓋音化を現していることには違いないが、ここには‘益帖・’(終)のような形態素による心理的類推が共に作用した可能性もなくない。(45)dは既に中世国語に‘遭距・遭憎’の二つと現れるために(劉昌惇 1961:119)、それがさすがに口蓋音化に含まれることができるかは疑心である。
 ほんのいくつかの実例に過ぎないが、「伍倫全備諺解」は口蓋音化に対する価値のある証拠を見せている。「伍倫全備諺解」は対話体で成されている文献だけれども、終結語尾を除外すると音韻論的には表記に強い保守性を帯びている。このような文献に数三例といえども口蓋音化が現れているという事実は重要な意味を持つ。「伍倫全備諺解」の口蓋音化が18世紀の20年代以前の実状というまた異なる根拠は本来のと表記される過剰修正の実例と再確認されている。

(46)

 口蓋音化の実例が数三に過ぎないことに反して、(46)bのような類推的過剰修正の実例は相当数に至る。しかし、本来の‘ ・像・亜走・・  帖・・  ・・言帖・・照帖・・・壱閃’がそれぞれ‘灸・虚・亜巨・・  銅・・  銅・・言銅・・照銅・・・壱貴’と表記されたのは実際の発話現実とは関係ない。「女四書諺解」(1736)にこのような類型の表記として‘革亜走・益帖・・焼団’に対する‘革亜巨・謁銅・・焼冬’が現していることを(30)aで指摘したことがあるが、この時のに対する表記は口蓋音化による心理的葛藤が過剰修正を誘発した結果に過ぎない。このような類推的過剰修正は表にだけ現れる現象であるだけ、実際の発話現実ではなかっただろうが、そのような表記が文献に現れることができた背景には口蓋音化が存在したためであろうと解釈するしかない。よって、「伍倫全備諺解」の(46)aにたいする(46)bのような過剰修正表記は18世紀の20年代以前に口蓋音化が明らかに存在したことを後ろだてするもう一つの根拠でないしかない。

4.口蓋音化の過程
4.117世紀末葉の口蓋音化
 現在としては18世紀初葉の文献が零星してこれ以上の実証的検討が難しいが中央方言の口蓋音化は前で既に論議したように17世紀末葉へさかのぼる。「訳語類解」(1690)はそのような実例を示している。

(47)

 これなの中の(47)aの‘需 帖陥’、bの‘詰 ’を除いた残りの実例は李明奎(1974:66)によって論議されたことがあるものである。(47)a口蓋音化、bは過剰修正によってと表記された実例である。まず(47)a溢及帖陥’の‘帖・’は‘銅・’が口蓋音化を経たものである。‘需 帖陥’は若干の不透明性を帯びている。その意味は‘宿綬営陥’なのだが、それが‘+ +’のような構成なのか、‘’のような構成なのか明らかでないためである。それが前者のような形態素結合を成したものならば、‘瓜・’の末音が形態素境界の後に現れると融合されてになり、それが口蓋音化し‘’になったものであるのだが、後者のような形態素結合を成したものならば、‘営・’の末音はであるためにそれが形態素境界の後に現れると融合されてになったのだろうから口蓋音化とは関係がない。
 一方、(47)b‘ ’の‘銅・’と‘巨刈’の‘巨・’はそれぞれ‘帖・・走・’だったもので、‘巨含・詰 ’はそれぞれ‘走含・倉 ’だったものなのでこれらは心理的類推によって本来のと表記された実例である。「訳語類解」にこのように口蓋音化とそれによる過剰修正としてのに対する表記が同時に現れるという事実は口蓋音化が17世紀末葉にも存在していたことを示している。その上、口蓋音化は口蓋音cだったcに口蓋音化した以後にでも起こりえる音韻変化なのだが、「訳語類解」は口蓋音化を示唆する‘切・煽・繕・爽’と‘扇・閃・倉・相’の相互混乱まで見せている。(李基文 1972:198)これでもって、口蓋音化は最低17世紀末葉までさかのぼることを文献上で確認することができる。よって、「全一道人」に現れる口蓋音化が当時中央方言の現実であったとしても無理な結論ではないだろう。

4.2口蓋音化の過程
 文献を通じてこれまで実証的に論議してきた口蓋音化の通時的過程をもう一度要約してみると次のとうりである。
 随意的変異としての口蓋音化は16世紀末葉からその偶発的発端が見え始めている。その発端の理由としては口蓋音化の位置から破擦音が破裂音よりもっと自然(やや有標的<marked>である。)という一般音声学的根拠をあげることができる。しかし、まさにこの時期にが共時的に異音的交替を始めたのはそれより先の時期、15世紀に非口蓋音であった、いわゆるcが口蓋化環境で既にcのような口蓋性変異音をもっていたためである。
 音声的環境では口蓋性転移音yの前に配分されるの前のより先に随意的変異を起こして口蓋化音と実現し始めた。それは口蓋音化の場合yの同化力がのそれより一般的により強力だという音声学的普遍性と説明することができる。文献上にも口蓋音化はtyVのような音節構造を成した語彙形態素‘ ’(好)から先に確認されている。その実例として「小学諺解」(1587)と「東醤宝鑑」湯液篇(1613)に連続的に‘ ’が現れている。この形態素に口蓋音化が先に現れるようになったのはその頻度が高くて、むしろ偶発的変異を起こしやすかったためではないかと思う。
 17世紀末葉に至るまで随意的変異にとどまっていた口蓋音化は次第に音声規則で固められて、tyVはもちろん‘’のような音節を含んでいる異なる形態素に拡散されていっただろうが、その確実な実例が文献に現れるのは17世紀の90年代前後からである。「訳語類解」(1690)には‘巨・(打)>’のような口蓋音化以外にも‘ 鹽)→ 銅・走・(負)→巨・・走含・(絆)→巨含・倉 (紙)→詰 ’のような心理的過剰修正によるじ・ず・ぇ・ぜ・表記が現れている。このような類推的表記はそれがたとえ発話現実とは関係がないとしても、話者の文法知識に口蓋音化が拡散されて、心理的葛藤を起こしていたことを示す現象として注目される。これでもって、17世紀末葉の文法には口蓋音化が共時的、随意的変異として明らかに存在していたことを示している。ただ表記の保守性を勘案しても、この時までの口蓋音化は話者の文法知識に全面的な変化をもってくるに適する段階に至っておらず、散発的実現にとどまっていた。口蓋音化は語彙的にも別に拡散されなく一部の形態素に現れるだけである。
 18世紀にさしかかり、口蓋音化は漸進的にいろいろな形態素に拡散される。表記の保守性のために、その実例が文献に露出される場合は極めて希であるがけれども「伍倫全備諺解」(1720)には‘戚綜君巨・・戚綜君走・・ 買巨・・ 買走・・身奄巨・・身奄走・・爆 戚・爆円帖’のような変化が現れている。これらは語彙形態素や、否定副詞化語尾‘・巨’のような形態素内部で口蓋音化が実現されただけでなく、‘  戚’のような形態音韻論的口蓋音化も共時的に存在していたことを確認さしている。一方、「伍倫全備諺解」には‘ (和尚)→灸・亜走・亜巨・・  帖・  銅・・照帖・照銅・’のような心理的類推による表記が少なくなく現れている。口蓋音化の実例よりも本来のに対する表記がもっとたくさん現れるという事実は18世紀の20年代以前に既に話者の文法知識に口蓋音化がさらに拡散されていたことを示す。
 「全一道人」(1729)の倭文字による転写とそれに対する国語添記は形態素内の口蓋音化が既に通時的変化と固められたことを示している。「全一道人」には中央方言が反映されているものと判断されるために、そこに現れる口蓋音化はやはり中央方言の現実であったものと理解される。これでもって、形態素内部の口蓋音化は18世紀20年代前後に既に通時的変化と固まって、形態素境界では共時的に形態音韻論的交替を起こす口蓋音化規則が文法に追加されるに至った。
 18世紀の30年からは通時的変化を渡った実例が語頭と非語頭、文法形態素と漢字形態素に広く拡散された。「女四書諺解」(1736)の二番目の序文でその事実が確認される。二番目の序文は(11)bに例示したとうり口蓋化環境に現れたぇ・ぜ・ 驩・ の一度を除外して全てがじ・ずと表記されており、ぇ連墨音化が全面的に拡散されたことを示している。
 結局、口蓋音化は音声的には偶発的、語彙的には漸進的(Wang 1969)な変化過程を通じてなされ、それが随意的変異、音声規則化、音韻変化のような段階的過程を渡り通時的変化として固まるまでは一世紀以上の期間が所要された。


Ⅳ‘、’非音韻化
1.‘、’非音韻化の発端
1.1.‘、’非音韻化の概念
 中世国語の母音体系に対する通時的再構過程で最も大きな関心を独占した母音は「訓民正音」解例に‘舌縮而声深’と記述されたことのある‘、’だった。この母音の一動一静はその時代の母音体系に直結されるものだったのでそれに対する音韻史的関心は当然なものだった。
 母音‘、’の非音韻化は非語頭音節環境で先に起こったのだが、その時期は15世紀までさかのぼる。16世紀にはこの母音が非語頭音節の特定な音声的環境に現れる場合を除外してその大部分がに合流された(李基文1959)。表記上では、‘、’が語彙形態素の非語頭音節で長い間維持されてきたが、その大部分はと共存しているために、そのような形態素に現れる‘、’は既に非音韻化したものと解釈することができる。その結果16世紀からは母音‘、’がほとんど第一音節でだけ維持されるに至った。この母音は本来から語彙形態素の語頭位置に現れることがない独特な配分的制約をもっていたが、そこに再び音節位置的制約が追加されだのである。
 母音‘、’非音韻化については消失という名称が主に使用されてきた。そうして、非語頭音節での非音韻化は第一段階消失、第一音節での非音韻化は第二段階消失と区分された。このような区分は‘、’非音韻化を通時的過程別に記述するのに便利な方法だが、非音韻化という本来の音韻体系の変化へある音韻がその体系内の範例的目録から完全に削除されることを意味する。よって、消失という名称と非音韻化を扱うのに未盡な感がある(宋敏 1974:1)。本研究では‘、’非音韻化という述語を音韻目録からの消滅という概念として使用する。自然にその主対象は第一音韻に残っていた‘、’になり、16世紀以後にもに合流されず残っていた一部の非語頭音節の‘、’またここに含まれる。

1.2.‘、’非音韻化の発端的実例の検討
 第一音節に主に維持されてきた‘、’は既に16世紀末葉から非音韻化し始めた。その先頭走者が‘ ’(土)なのだが、この語彙形態素は「小学諺解」(1587)に‘’と現れている(李基文 1960)。‘’はその後17世紀を渡る間「諺解痘瘡集要」(1608)、「諺解胎産集要」(1608)、「東国新続三綱行実」(1617)、「家禮諺解」(1632)、「新刊救荒撮要」(1686)、「訳語類解」(1690)でも確認されたことがある(田光鉉 1967:83、李崇寧 1977:126-128)。
 第一音節の‘、’は原則的にと変わったにも関わらず‘ >’だけは 、>のような変化を見せている。このような例外的変化はその原因が音節位置にあるのでなく、変化時期にあるものと解釈されたことがある(金完鎮 1963,1971:27)。即ち、非語頭音節の‘、’がに合流された16世紀の変化に覆われた‘、’はそれが第一音節に現れるものでも‘ >’のにと変わったが、第一音節の‘、’がに合流し始めた17世紀以後の変化に遅すぎるように追いついた‘、’はそれが非語頭音節に現れるものでも‘  ・俉・>  ・紫 紫寓・陥 陥幻’のように変わったのである。
 これに対して第一音節の‘、’が既に15世紀から消失され始めたという見解がかつて提起されたこともある(劉昌惇 1961:181-187,1964:28-29)。その実例が「釈譜詳節」(1447)に一度ずづ現れている‘ 軒・(析)>託軒・・ 硲・(分)>貝硲・’である。しかしこれらが‘、’非音韻化によるものだとするならば、それが 、>のような変化を経るようになった理由が合理的に説明されていない。15世紀の‘、’は文法的にと対立を見せた母音であったので、‘、’が変化を帯びたならばと中和されるのが自然な結果になる。実際に非語頭音節の‘、’はもちろん16世紀末葉の‘ >’でのように第一音節の‘、’もそのような中和を見せている。これは‘、’が16世紀末葉まで体系上と中和的対立関係をある程度だが維持していたという意味になる。そのために15世紀に‘、’がと中和されたなら、その理由を自然に説明することができないのである。だけでなく、後で明らかにするが、第一音節の‘、’はのように[ー鼻音性、ー舌端性]という音声資質を成した子音の後で先に非音韻化している。‘ ’が‘、’非音韻化の先頭走者になったのもそのような理由と解釈される。しかし、‘ 軒・’の、‘ 硲・’のは上の二つの資質条件を同時に満足させれない子音である。だけでなく、これら形態素にはその後長い間‘、’が維持された。よって、これらの形態素に‘、’非音韻化の発端を論議するのには無理がある。
 これとは対照的なもう一つの実例として‘亜走・’(持)と表記された場合もある(劉昌惇 1961:184,1964:28)。本来の‘亜走・’という語彙形態素が「上院寺御牒」(1464)、「四法語」(1464)、「牧牛子修心訣」(1467)に‘ 走・’と現れているのである。[ー鼻音性、ー舌端性]資質を成したの後でが‘、’と表記されたという事実は‘、’の動揺による心理的過剰修正、いわゆる類推的表記のように見せて注目されるが、そのような実例を見せてくれる文献的性格が先ず疑心であるだけでなく、それが現れる時期にも問題がある。よって、その原因は‘亜走・’(持)と‘ ・’(備)の意味的類似性による心理的混乱と思う。自然に‘亜走・’に対する‘ 走・’表記または‘’の音韻的動揺を現れる直接的根拠になりづらくなるしかない。

1.3.‘、’非音韻化の発端時期と条件
 17世紀までの文献で調査されたことのあるそれ以外の事例をもう一度整理してみると次のようである。

(48)

 先ず、(48)aは‘、’の通時的変化と関連を成しづらいものである。中世国語には‘、’との対立による形態素の共時的分化が生産的に現れる。これによって、a①の‘ ー、 ー、’にはそれぞれ‘ ー、費・’という語形が共存したもので、これとは別にa①の‘源芦・・馬冗・’の直接的分化形と見づらい。よって、これを 、>のような通時的変化と見ることはできない。先で見たとうり15世紀には 、>のような中和的変化が母音体系上起こりづらくなっていたためである。a②は15世紀に二つの語形が共存する実例なのでこれを通時的変化と解釈するものよりは‘、’との対立による音声象徴的分化と解釈する方が合理的なものである。a③の‘ ・・ 牽・’やはり‘ ・・斐牽・’に対する偶発的分化と見る。
 (48)b①に現れる口蓋性下降二重母音の音節主音‘、’も本質的にはa②のような性格を見せるとの共存形である。b②‘ ・’(覚)に対する‘ ・’は音節主音で 、>の変化を見せるものだというより、意味上に類似した‘ ・’(破)との心理的混乱ではないかと思う。
 (48)c①は 、>の変化を渡ったものであるが、後行するに同化された結果なので、これらは‘、’非音韻化とは長句説的な関連がない。c②は依存形態素だけれど、c①のような理由で 、>の変化を見せているものである。c③の‘ 古社古’は特異な変化を見せている実例である。この時の‘、’がと変わった理由を後行する唇音のためだと解釈することができるが、そこには未審な点が残っている。非語頭音節であることはあるが‘源 源蛇’も同じ道を歩んだのだが、‘ 古・源 ’の‘、’と似た音声的環境に現れている‘  ・’(通)、‘  ’、‘  ’などの‘、’は何故と変わらなかったのかわかりえないためである。よって、‘ 古社古’は(48)c①や②のように16世紀から17世紀にかけて非語頭音節から頻繁に起きた 、>の流れに押し流された偶発的変化と見える。後から論議するが、‘、’は[ー舌端性]子音下でより[+舌端性]子音下で長い間維持されたのだが、[+舌端性]子音下の‘、’が「全一道人」(1729)で大部分0と転写されたいるという点もの後で 、>の変化が不可能でなかったことを暗示している。
 (48)eの‘ > ’やはり特異な変化を見せている実例として「東国新続三綱行実」(1617)にただ一度だけ現れている(李崇寧 1977:130)。なのだけれど‘ ’が後代に‘’と固められた点を勘案するならば、‘ ’に対する‘ ’は通時的変化と言うより、単純な表記の錯誤であったり、方言的要素であるかもしれない。‘ >’は‘ 軒・(棄)>獄軒・・ (件)>忽・  忽潤’などのような道を歩んできたのだけれど、このような変化が文献に現れる時期は18世紀末葉であるためである。たとえ、‘ 軒・’に対する‘獄軒・’は正祖年間の綸音から(田光鉉 1971:51)、‘ ’に対する‘’は「訳語[Y.HIRAKI1] 類解補篇」(1775)や「倭語類解」から確認されている(宋敏 1975:19)。なのだけれども、この時の 、>を合理的に説明するのは依然として難しい。‘ ’は‘’と変わったけれど、それと似た語形を見せる‘降ぞ’(臂)はどうして‘’になったのか依然として明らかでないためである(金完鎮 1974:133)。
 終わりに(48)dが残っている。これを後で推測しておいたのはそれらが第一音節の‘、’非音韻化に対する発端的実例と思われるためである。‘ 原艦亜原艦’は「新増類合」(1976)に続き「東国新続三綱行実」(1617)で確認されたのである。「新増類合」には西南方言の要素が含まれている可能性があり、「東国新続三綱行実」にも方言的要素が現れる可能性がなくもなく、これらの文献に現れている‘ 原艦亜原艦’が若干疑心でもあるが、‘、’非音韻化の発端的実例と看做されても無謀なのである。‘ 醤・ 醤・巨・’‘ 醤・ 醤・ 軒・’のような合成語にだけ現れる‘ 醤・ 醤・’の語幹は‘ ・’または‘ ・’と分析されるのだけれど、この形態素の‘、’も17世紀中葉から非音韻化を見せ始めている。「捷解新語」の‘  嘲・鬆譚  馬醤貴獣艦’(二 11)とその事実を確認することができる。ただこの時の‘馬醤’は‘背醤’と表記されるときが多くて「老乞大諺解」(1670)、「朴通事諺解」(1677)には大部分が‘背醤’と現れている(田光鉉 1967:82-83)。一方‘  ・亜 ’は「訳語類解」(1690)で初めて確認されている。
 以上のような実例は先ず[ー鼻音性、ー舌端性]子音部類下から‘、’非音韻化が先に始められたことを暗示している。この点においては‘ >’も同じ性格を見せている。なのだけれども、16世紀末葉までは上のような条件下で 、> 、>がともに現れていた。このような事実は第一音節の‘、’がに合流され始めた時期が16世紀末葉であったことを示唆している。そうだとすると、[ー鼻音性、ー舌端性]子音部類に含まれているもう一つの子音の下でも‘、’非音韻化に対する実例が似たような時期に現れなければいけないだろうけれど、そのような実例はまだ確認されていない。ただ中世国語で‘ 備・’(抜)だった語彙形態素が16世紀末葉から‘ 戚・・ ・’と現れている事実が注目されている。

(49)

 この時の‘ 戚・・ ・ 戚・・ ・’を音韻変化とは合理的に説明できない。よって、このような逆行性表記は一種の類推でしかないのだけれど、それが両唇無声子音下で起こったという事実はこの環境下の‘、’がの後でのように早く非音韻化して[a]と実現されることができるのであろう。時期上では後になるけれど「和漢」(1712)、「全一道人」(1729)、「朝物」(1750)のような倭文字転写資料にも両唇無声子音下の第一音節‘、’が‘ 焼閃’(砕)の一例を除外して全てaと転写されている。よって、第一音節の‘、’非音韻化は[ー鼻音性、ー舌端性]子音部類下で既に始められていただろうと解釈される。このような資質で成されている軟口蓋音の下でも同じ類型の逆行性表記が17世紀中葉に現れている。

(50)

 本来、第一音節母音がだった‘娃蟹 ’が‘ 蟹費’のように‘、’と表記されることができたのもの下での‘、’が早く非音韻化して[a]と実現されたことを示している。なので、「訳語類解」の‘亜 ’は‘、’非音韻化の実例であるは明らかである。[ー鼻音性、ー舌端性]子音部類に次いで‘、’非音韻化を促進された要因は[ー鼻音性、+舌端性]子音部類だったのと思われる。

(51)

 これは17世紀末葉に‘ ・託・’を見せている実例としての後に配分される‘、’がに合流されたことを示している。[+舌端性]子音下でより[ー舌端性]子音下で‘、’非音韻化が既に実現されたであろうという理由は国語資料でも確認されるけれど、「全一道人」には舌端摩擦音、破擦音に後行する‘、’が大部分oと転写されているためである。ただ同一な[+舌端性]子音であっても破裂音に後行する‘、’の大部分はaと転写されており、舌端破裂音が舌端摩擦音や破擦音より‘、’を先ず非音韻化させたことを示している。これについては後でもう一度論議するつもりである。

1.4.‘、’非音韻化の拡散
 これまで論議してきた‘、’非音韻化の発端過程を整理してみると次のようである。
 語彙形態素の第一音節‘、’は16世紀末葉から非音韻化し始めた。その過程を見てみると[ー舌端性]子音の後で‘、’非音韻化が先ず起こり始め、[+舌端性]子音の後に配分される‘、’がその後に続く。ただ16世紀末葉までは第一音節の‘、’が‘ >’でのようにに合流されもするけれど、一方では‘ 原艦亜原艦’でのようににも合流され始めた。このように第一音節の‘、’がに合流され始めたのは16世紀末葉だったけれど、その実例が文献に現れる時期は17世紀中葉からである。‘ 醤・ 醤・馬醤・背醤・・  亜 ・ ・(寒)>託・’のようないくつかの実例がその事実を確認さしてくれている。16世紀末葉の‘ 戚・ 戚・’17世紀中葉の‘娃蟹  蟹費’のように本来のが逆行性表記により‘、’と現れ始めたという事実も‘、’がに合流していたことを裏付けてくれる。ただ17世紀末葉までは‘、’非音韻化が極めて一部の形態素から成されただけである。
 17世紀中葉から‘、’が本格的にに合流され始めたという事実は非語頭音節に現れる‘、’とも確認されている。

(52)

 このほかにも‘  ’(風)が「捷解新語」(二 1)、「朴通事諺解」(上 36)、「訳語類解」(上 1)に全て‘ 寓’と現れているし、「全一道人」にも parami(40)と転写されている。「全一道人」には hururirutaramira・碑鍵・  戚・虞・ (123)のような実例も現れている。国語添記は‘  ’だけれどもそこに現れている‘、’はaと転写されている。だけでなく「全一道人」には‘紫 ’に対する転写が全て60余回現れているのだけれど、国語添記は一度も現れていないが、転写は全て saram となっていて、‘  ・  ・紫 ’の第二音節‘、’が全て[a]と実現されていたことを示している。
 以上のような事実を総合すると少なくとも16世紀末葉までその命脈が維持されていた‘、’との中和的対立はその後から漸進的に‘、’との対立と固まっていき始めたことがわかる。そのために、17世紀中葉からは‘、’が新しい対立の片方になったと変わりはじめ、ぞ・ぁ・げのような[ー鼻音性、ー舌端性]子音、またはのような[ー鼻音性、+舌端性]子音下に配分される第一音節の‘、’がいくつかの形態素から先に非音韻化を経験するようになった。これと同時に‘、’との対立関係から抜け出たは新しくとの対立関係を固めていき始めた。17世紀中葉から両唇子音の後に配分されると唇音化し始めると同時に‘在・(刈)> ・・在堂・ 堂・・廼・(燃)> ・’のような非唇音化が現れ始めるのも(宋敏 1975:5が新しい対立関係として定着していっていたことがわかる。


2.18世紀の‘、’非音韻化
1.2.18世紀末葉の‘、’非音韻化
 第一音節の位置から‘、’非音韻化が国語文献に露出されている時期は18世紀の70年代を峠とする。「方言集釈」(1778)には既に次のような実例が現れている(宋敏 1975)。

(53)

 (53)aは大部分の子音の後で 、>の変化が起きたことを見せている。‘、’を音節主音とする口蓋性下降二重母音も同じ性格を現している。(53)bは反対にだった第一音節の母音が‘、’と表記されたのである。どれでも‘、’非音韻化が大きく拡散されたことがわかる。「漢清文鑑」(18世紀末葉)も重要な実例をもっと示している(李基文 1972 :200-201,宋敏 1975)。

(54)

 ここに至ると語彙形態素の第一音節に現れている‘、’は環境にこだわらずと変わったことがわかる。その上、本来のが何の制約もなく‘、’と表記されることができたという事実は話者の文法知識で‘、’とが同一に認識されていたことを示している。そうして「漢清文鑑」には次のような混同表記が続出されている。

(55)

 同一な形態素の第一音節の母音がこのように‘、’とのどちらとも表記されることができたのだけれど、このような表記混乱は(55)bのように二重母音でも同じであった。この時の‘、’とは文字表記上の差異に過ぎず、機能上では意味を区別できるの力を既に失っている。このような実状は18世紀末葉のいろいろな文献から確認されている。正祖年間の綸音資料は‘独・’(売)、‘舘艦・’(行)、‘ ・’(織)、‘ ・’(鹹)、‘亜弘・’(旱)、‘亜聖’(秋)、‘亜 帖・’(教)、‘亜陥給・’、‘幻級・’、‘蟹弘’、‘外・’、‘劾鯵’などを見せていて(田光鉉 1971:54)、「敬信録諺解」(1796)も‘降榎’(明)、‘馬稽’(一日)、‘詞杷艦’、‘紫稽悟’(焼)、‘言惟’(卒)、‘原  ’(終)、‘玄精’、‘貝硲食’(分)、‘蟹軒神走’(降)、‘慨 ’(顔)、‘蟹稽’(津)などをさらに出している(南廣祐 1970:96)。「五倫行実図」(1797)はここにもう一度‘郊寓’(風)、‘切虞陥’、‘姶段陥’、‘敗 ’、‘幻走陥’などを追加させている(劉昌惇 1961:190)。
 このような実例は非音韻化が少なくても18世紀末葉以前に完成されていたことを明らかにしている。

2.2.18世紀中葉の‘、’非音韻化
 18世紀中葉の国語文献として第一音節位置‘、’非音韻化を暗示する実例をいくつかだけれども見せているのは「同文類解」(1748)だけである。李崇寧(1977:118)によるとここには‘亜 ’(剪子)、‘哀亜原雨’(寒鴉)、‘益潅’(陰)以外にも‘ 蕉’(骰子)、‘ 益郡陥’(可醜)が現れている。‘亜 ・哀亜原雨’の‘’は‘、’非音韻化を見せているものだけれど、‘亜 ’は既に「訳語類解」(1690)で確認されたことがある。‘益潅’やはり15世紀に‘  ’と共存しており、これを通時的変化とは見づらい。‘ 蕉’と‘ 益郡陥’はそれぞれ‘紫 ’と‘祭益郡陥’に対する逆行性表記である。‘祭益郡陥’に対する‘ 益郡陥’はその理由を探しづらいが、‘紫 ’の‘’が‘ 蕉’のように‘ ’と表記されることができたというのは重要な意味を持つ。このような逆行性表記は話者の語彙目録から‘、’とが混乱を起こした結果であるためだ。この時の>、 はもちろん心理的過剰修正、いわゆる類推的表記で音韻変化とは関係ないけれど、その背景には‘、’非音韻化が潜在している。
 筆者は先ず‘、’非音韻化が[ー鼻音性、ー舌端性]子音下で既に起こり始め、[ー鼻音性、+舌端性]子音下の‘、’がその後に続いたのであろうと解釈したことがある。その実例として‘ ・’(寒)が「訳語類解」(1690)で‘託・’と変化していたことを確認したことがある。なのだが「同文類解」の‘ 蕉’は後に配分される‘、’が既にとの区分を失っていたことを示している。よって‘ 蕉’の‘、’は[a]と実現された母音であることがわかる。
 「同文類解」は[ー鼻音性、+舌端性]子音中の後に現れる‘、’が[a]と実現されたことを示唆してくれるもう一つの実例を見せる。

(56)

この資料によると「同文類解」の‘ 源’は15世紀以来頻繁に使われてきた‘説源’に連結される。しかし、この時の>、 は音韻変化であることはない‘説源’が‘ 源’と代置されたのは結局意味の再解釈による類推であるしかないのだが、このような類推は‘ 源’の‘、’が音声上で[a]だったために可能であったものと解釈される。‘説源’は同化により‘節源’と実現されたものであるそのようになると‘節源’の‘’に対する意味が不透明にされ始めた。この時から‘’に対する意味が‘ ・’(細)と解釈されたものである。言い換えれば、‘説源’の表面形‘節源’を‘ 源’の表面形‘ 源’と認識したものである。よって、‘説源’が‘ 源’と認識することができた背景には当時‘ ’の‘、’が[a]と実現されたという事実が隠されていると解釈するしかない(宋敏 1985:141)。‘紫  蕉’も結局は‘説源 源’と同一な理由と説明できる。これらは18世紀中葉に‘、’非音韻化が[ー鼻音性、+舌端性]子音の後にまで拡散されていたことを暗示している。
 「同文類解」はこのほかにももう一つの注目される実例を示している。‘ 醤走’に対する‘原醤走’がそれである。

(57)

 この時の‘原醤走・古醤走’は17世紀までの‘ 醤走・ 醤走’の変化形であるのだが、後に配分される第一音節の‘、’が非音韻化を見せているという点から注目されている。これまでの検討によると、‘、’非音韻化は初めに[ー鼻音性、ー舌端性]子音、その次には[ー鼻音性、+舌端性]子音環境の順に起こった。。しかし‘ 醤走原醤走’は[+鼻音性、ー舌端性]子音の後で‘、’が非音韻化していたことを示している。ただ、この時の‘、’は口蓋性転移音yの前に配分されて二重母音を構成している。このyが‘、’非音韻化を先に促進させた可能性もなくはない(宋敏 1975)。17世紀中葉の‘ 醤馬醤’も同じ性格を見せており、「全一道人」(1729)には‘、’を音節主音とする口蓋性下降二重母音がほとんど例外なく’a’iと転写されている。この点は漢字音からも先を見せていなく、「和漢」(1712)も同じ性格を見せている。よって、単母音‘、’より二重母音の音節主音‘、’が一足先に非音韻化したことがわかるけれど、それに対する原因としては‘、’に後行する表面的音声環境yを打ち出すしかない。このように単母音‘、’とに重母音の音節主音‘、’が経た非音韻化はその要因と過程をお互い異なっているけれど、単母音での‘、’非音韻化は[鼻音性][舌端性]資質とその過程がそのとうりに解明されている。よって、非音韻化の次の過程は[+鼻音性、ー舌端性]子音かであったものと推定される。
 18世紀中葉までは下での‘、’非音韻化がどこでも確認されていない。そのような実例は18世紀末葉にいかなければ文献に現れてこない。事実は‘、’非音韻化が[+鼻音化、+舌端性]子音の厚手最後に成されたことを暗示している。

2.3.18世紀初葉の実状
 18世紀初葉の文献で‘、’非音韻化と関連される新しい実例はもうこれ以上確認されていない。この時期に該当する信じれる文献がほとんどないという点もその理由の一つになるであろう。18世紀20年代のもので「伍倫全備諺解」(1721)のような対話対資料がないのではないけれど、この文献は特に音韻論的側面から保守性を強く現している。このような資料で第一音節の‘、’非音韻化に対する情報を期待するのは難しいしかない。18世紀30年代のものでは「女四書諺解」(1736)のような代表的資料があるけれど、ここでも第一音節の‘、’非音韻化はほとんど外面に受けている。
 結局の前で見たように‘、’非音韻化がわかる実例は18世紀70年代にいたって国語文献に現れ始めている。このために‘、’非音韻化の時期を18世紀中葉と見る場合が最も一般的である(李基文 1961,1972、田光鉉 1971、郭忠求 1980)。しかし、これとは異なる根拠によってその時期を18世紀初葉と見る場合もあり(金完鎮 1963,1967、宋敏 1974)、その時期を一層引き上げて16世紀後期から17世紀初期に渡ったもので見る場合もある(李崇寧 1977)。
 国語文献だけに頼るある現在としては‘、’非音韻化に対するこの以上の実証的精密化を期待しづらい。このような壁をある程度乗り越えさせてくれる資料が「全一道人」(1729)をはじめとする倭文字転写資料である。ここには前で見たように18世紀初葉の口蓋音化に対する現実が反映されているけれど、それと同時に‘、’非音韻化に対する新しい情報が反映されている。これにこれら資料の‘、’音転写をもう少し綿密に検討してみることにする。


3.倭文字資料の‘、’音転写
3.1.「全一道人」の国語添記
 「全一道人」の国語添記が伝統的慣用によっているということは前で指摘したことがある。第一音節母音‘、’に対する表記やはりほとんど当時の国語文献と違いはない。

(58)

 以上が固有語第一音節‘、’に対する国語添記の全部である。雨森芳州はこのように全ての環境下の第一音節‘、’をほとんど正確に把握していた。この点は漢字音でも同じである。ただ(58)bの‘ 碑’と‘轄泌’、‘ 塘人’と‘亀塘人’の表記共存が注目されるし、(58)dの‘ 虞’と‘箭稽’の表記共存も注目される実例なのだけれど、‘箭稽’については(25)b①でその誤謬性を指摘したことがある。(58)c焼肌   ’の‘ ’、(58)eの‘ 戚壱’は17世紀以来の国語文献のような表記を見せているので、これを‘竺・ 戚・’の誤謬と見ることはできない。このほかにも「全一道人」には本来のを‘、’と表記した例がいくつか現れている。‘社 ’に対する‘  ’、‘’に対する‘ ’、‘叱暗’に対する‘ ’などがそれであるけれども、これらの誤謬については(25)b①、②で論議したことがある。また‘’(山)に対する‘ ’については註55で言及したことがある。以上のような表記混乱は全てが‘、’の音声資質と関係するものなのだけれど、ここについては後で論議するようにする。終わりに(58)eの‘ ’に対する‘祢・虞・’については(25)b⑤でその誤謬性を指摘しておいた。

(59)

 ‘’と‘鞠・’は当時の国語文献表記のような姿を見せている。国語添記はないけれど koworu’i<處所格>(41)koworu’i<属格>(48,55,72)koworu(49,102,112)も‘壱臣’(邑)と固まった状態を転写したのであろう。(59)cの‘亜 帖・’は18世紀初葉までの国語文献で確認されたことのない新しい実例である。‘  帖・’の第一音節‘、’が非音韻化したことを国語添記が証言されている。‘  帖’の第一音節母音は転写にも全てaと現れている。「朝物」のmarotita(14)も歪曲された語形であるが、‘  帖・’の第一音節母音‘、’が[a]だったことを示している。(59)dの‘’は‘ +’のような形態音韻論的交替を現すものと見えるが、‘、’非音韻化が先ず起こって‘ +’のような過程を見せたものだと解釈できる。ちょうど前の(58)dに提示されたことのある‘ ’(寒)は‘・倖戚・ ’を現すものだけれども、この時には‘ +’のような形態音韻論的交替が見えないだけでなく、転写にもtsaと現れているためである。このような解釈は‘ ・託・’が既に「訳語類解」(1690)で確認されている事実であるが、‘ (乗)+’の‘ ・’が「全一道人」にtaと転写されているという事実によっても裏付けられる。
 要するに、「全一道人」の国語添記は第一音節の‘、’について国語文献と同一な性格を見せている。しかし、それらに対する転写は国語添記と関係なく当時の発話現実に従っている。以下にその実状を分類して整理してみることにする。分類には固有語と漢字語、単母音と二重母音の二つの基準を適用する。各項目の配列は検索の便宜上、形態素の   順に従っており、一番先には該当形態素の意味を現す漢字を標題語として提示しておく。国語添記が一度も現れない形態素についてはその推定形を転写表記の後に括弧を使って補充することにする。

3.2.「全一道人」の‘、’音転写
 先ず固有語について検討してみることにする。

(60)
(61)

 総合的な検討は後でするけれども大体的に、固有語の第一音節‘、’は鼻音の後でoと転写されており、摩擦音と破擦音の後では主にoと見えるが、aと現れる場合もある。その他の子音下ではaと転写された場合が絶対的だ。しかし、二重母音の音節主音‘、’は環境に関係なくaと転写されているが、‘ 剛・  ・’の‘ ’に現れている‘、’だけはeと転写されている。‘ ・’の‘、’はuと転写されていたが、これは‘ ・費・’の結果が転写に反映されたものである。

(62)
(63)

 漢字音の場合単母音‘、’はほとんど全てがoと転写された反面、二重母音の音節主音‘、’は‘ ’(梓)を除外して環境に関係なくaと転写されている。なのだが、単母音‘、’は‘ ’(恨)を除外して全てが摩擦音、破擦音の後に配分されている。よって、これらの子音の後の‘、’が主にoを見せているという点は固有語と大きく差を見せていない。‘ ’(恨)の‘、’がただ一度だけであるがa と転写されているという点も[+舌端性]子音の後でより[ー舌端性]子音の後で‘、’非音韻化が先ず実現されたことを裏付けてくれる。二重母音の音節主音‘、’に対する転写はやはり固有語と性格を同じにしている。結局「全一道人」の‘、’に対する転写は固有語と漢字音に差異を見せていない。

3.3.その他の資料の‘、’音転写
 「和漢」(1712)と「朝物」(1750)も不完全だけれども‘、’の転写に関する一つの「全一道人」と性格を同じにしている。‘、’音転写で固有語と漢字音は別に異なる差異を見せていないので、ここでは単母音と二重母音で区別して上の二つの資料を整理しておくことにする。

(64)

 転写に結合が多く含まれているがそのまま第一音節の‘、’について検討できるようにさせてくれている。先ず、「和漢」と「朝物」に共通される項目はお互い異なる語彙を現している(64)aを除外して‘、’の転写に同一な姿を見せている。単母音として‘  ・  ・ ・ 蟹’の第一音節‘、’はaと現れているし、‘ ・ ’はo、‘’はuと現れている。二重母音としては‘ ’と漢字音‘ ・ ’があるのだけれども、これらの音節主音‘、’はaを見せている。‘ ’と‘ ’、そして漢字音‘ ’(梅)は「全一道人」に見られないので、これらは‘、’非音韻化の過程探索に新しく追加される実例になる。この追加例と‘ ’を除外すると「和漢」と「朝物」の‘、’に対する転写は「全一道人」と完全に一致する。ただ、「和漢」と「朝物」にaと転写されている‘ ’の‘、’は「全一道人」にoと転写されている。
 一方「朝物」にだけ現れている語彙形態素も示唆的な面をもっている。単母音としては‘  帖・’、‘ 寓’(壁)、‘ 軒・’、‘ ・’(ここでは買の意味として使われているが)、‘ ・’(為)の第一音節‘、’がaと現れており、‘  ・  ・  ・   ’の第一音節‘、’はoと現れている。二重母音としては‘ 硲・’と漢字音‘ ・ ’の音節主音‘、’がaと転写されており、‘ ’はo、‘ ・’はuと現れている。‘ ’と‘ ・’の‘、’は早くから‘秘・費・’と定められていたので、これらの音節主音がuと現れているのはむしろ当然なことなのである。‘ 寓’(壁)、‘  ’、‘  ’、‘   ’、‘ ’そして漢字音‘ ’(海)が「千日道人」に現れていない新しい追加例になる。これらを除外した第一音節母音‘、’の転写は「全一道人」と全て一致する。ただ「全一道人」には二重母音の音節主音‘、’が第一音節でoと現れていることがほとんどないなだけれど、「朝物」には‘ ’の‘、’がoと現れている。

3.4.‘、’音転写の実状
 「全一道人」をはじめとする倭文字転写資料は‘、’の発話現実を現しているので、そこに出現する語彙形態素は‘、’非音韻化の過程をそれなりに明らかにしている。その実状を環境別に分類してみると次のようである。先ず、第一音節の単母音‘、’について整理することにする。国語添記を見せる形態素はその語幹形として提示されている。国語添記を見せない形態素は推定形として提示されて別表をあげておく。「和漢」と「朝物」にだけ現れる形態素は角括弧を使って補充資料であることを表記する。

(65)

 語彙形態素の第一音節母音‘、’に対する倭文字転写の結果は国語文献に反映委された表記と発話現実間の距離がどんなものなのかを端的に知らしている。先ず喉頭摩擦音、軟口蓋音、両唇無声音の後に配分される‘、’のほとんど全部がaと現れている。同じ環境下の‘、’がoと現れる場合は数三例に終わっていることが(65)b①で確認されている。舌端破裂音の後に配分される‘、’やはりそのほとんど全てがaと転写されている。これとは対照的に舌端摩擦音、破擦音の後に配分される‘、’はその絶対多数がoと現れる傾向をはっきり見せている。ただ‘ ー’(寒、満、佩)だけは全てaを見せている。‘ ー’(寒)は「訳語類解」(1690)に‘託・’と現れていることが確認されたことがあり、「全一道人」の‘ ’に対する転写が‘、’非音韻化の結果であることがわかる。一方、鼻音の後に配分される‘、’は例外なくoと現れている。
 倭文字転写資料のこのような実状は同一形態素の‘、’に対する転写がaoの両方を往来し流動性を見せる(65)cのいくつかの実例からも再確認されている。仮に‘ ・’の場合470余回の用例の中で20余回を除外した残りの全部が‘、’と転写されている。よって‘ ・’の‘、’は実質的に非音韻化を既に終えたものである。ただ漢字音‘ ’(恨)は全て4回の用例中1回だけaと現れるだけで、残りの3回はoと現れており‘ ・’とは反比例的実状を見せている。これは‘ ’が漢字形態素として、‘ ・’とは語彙的範疇を異ならせるためであろう。一方筆者の調査によると、‘ 牽・’の用例は3回に過ぎないけれど、その派生語である‘ 稽・  ’までを併せると5回になる。この中の1回を除外して全てがaと現れいる。これに反して‘ ・’は8回の用例中1回を除外してすべてoと転写されている。このような結果は第一音節の‘、’が喉頭摩擦音と舌端破裂音の後ではaと、舌端破裂音の後ではoと転写されている全体的実状と正比例するのである。
 口蓋性下降二重母音の音節主音‘、’に対する転写は次のような実例を見せている。

(66)

 単母音‘、’が先行する子音の音声資質によってaまたはoと異なって転写された実状とは全く異なる姿を見せている。いわゆる、二重母音の音節主音‘、’は‘ ’(梓)の一例を除外して、先行子音の資質に関係なく原則的にaを見せている。‘ ’と依存形態素‘ ’がoを見せてはいるが「朝物」だけに現れる実例で信じることはできない。単母音で決してaと現れることはなかった鼻音下の‘、’も二重母音ではaを見せている。ただ‘ ・剛・・  ・’の場合には特異にもeを見せている。このような実例は‘、’非音韻化が単母音でより二重母音で先に起こったことがわかるけれど、その要因は音節主音‘、’に後行するyとしか考えられない。前で既に検討したように国語文献で早くから確認されている‘ 醤巨・・ 軒・・馬醤巨・・ 軒・・・ 醤走原醤走’も同じ理由と説明できる。


4.‘、’非音韻化の過程
4.1‘、’非音韻化の拡散過程
 既に前で‘、’非音韻化が[ー鼻音性、ー舌端性]資質で成されている子音部類、即ちぞ・ぁ・げのような子音の下で先に起こっていたことを国語文献に対する検討を通じて明らかにすることができる。その発端は16世紀末葉だったのだけれども、‘ >’がその先頭走者だった。この時の非音韻化は‘、’がとの中和的対立関係をある程度だけれど維持していた時期に起こったことを見せている。しかし、‘ 原艦(漠)>亜原艦’のような実例も16世紀末葉に現れている。これは‘、’が体系上との対立関係を抜け出てとの対立関係と固まっていき始めた時期が16世紀末葉であったことを暗示している。このような推理は‘ 戚・(抜)> 戚・’のような逆行性表記が16世紀末葉に現れているという事実によっても裏付けられる。
 語彙形態素第一音節の‘、’非音韻化が国語文献にもう少し明らかに現れ始める時期は17世紀中葉である。この時には‘、’がと合流されるのだけれども、その代表的形態素が‘ 醤(毀、破)>馬食’である。17世紀末葉には‘  (剪子)>亜 ’が「訳語類解」(1690)で確認されているし、非語頭音節でも‘陥 陥幻’や‘  (風)> 寓’が17世紀中葉に現れている。17世紀中葉にはもう一度‘娃蟹 (女)> 蟹費’のような逆行性類推表記が文献に現れ始めるのだけれど、これらは‘、’との中和的対立が安定段階にさしかかっていて‘、’非音韻化が徐々に拡散されていたことを示唆する。
 このような文献的根拠は‘、’非音韻化が[ー鼻音性、ー舌端性]子音部類下で既に起こっていたことを示している。(65)a①が示しているように倭文字転写資料もこの事実を裏付けている。ここにはに後行する‘、’がほとんど大部分aと転写されており、第一音節の‘、’非音韻化が18世紀初葉にはこのような環境下のほとんど全ての語彙形態素に拡散されていたことを見せている。
 第一音節の‘、’非音韻化はもう一度[ー鼻音性、+舌端性]資質で成している子音部類、即ちぇ・さ・じのような子音環境へ拡散されていったのであろう。その発端時期は17世紀末葉と推定されるのだけれど、それは‘ ・(寒)>託・’のような実例が「訳語類解」で初めて確認されているためである。なのだけれども、倭文字転写資料は同じ[+舌端性]子音部類中でも破裂音下で‘、’非音韻化が先ず起こったことを暗示している。ぇ・ぜ下の‘、’がほとんど大部分aと転写されている反面、さ・じ・ず下の‘、’はその大部分がoと転写されているためである。この事実は‘、’非音韻化にもう一つの音声資質である[粗擦性]の関与があったことを示している。結局、倭文字転写資料は同じ[+舌端性]子音であっても[+粗擦性]子音の後でよりは[ー粗擦性]子音の後で‘、’非音韻化が先ず起こったことを示唆していると解釈される。
 結局、通時的には‘、’非音韻化がさ・じの後でよりぇ・ぉ・の後で先ず起こったであろうけれど、国語文献にはそのような現実が全く反映されていない。18世紀初葉には‘、’非音韻化が[+舌端性]子音中[+粗擦性]子音の環境にまで拡散された。「全一道人」の転写にはさ・じ・ず下の‘、’が大部分oと現れているけれど、‘ ’(肉)、‘ ・’(烹)、‘ ・’(尋)の場合のように同一な形態素の‘、’に対する転写がa,oの二つで現れもする。この事実は‘、’が同一な形態素の第一音節から随的変異音へ実現されたことを暗示している。このような随意的変異は違いない‘、’非音韻化を意味しているのである。
 ここにはまた別の根拠もある。(25)b①②③に提示したように、雨森芳州は国語添記で部分的にだが‘、’と、‘、’とを混同している。これをもう一度整理してみると次のとうりである。

(67)

 このような混同表記は全てが[+舌端性]子音かで起こったものである。第一音節の‘、’に対する当時の慣用的表記をほとんど正確に把握していた雨森芳州がい・ぇさ・じ・ずの後に現れる‘、’を何べんかに過ぎないが、このように混同したという事実は‘、’非音韻化が[+粗擦性]子音下にまで拡散されていっていたということを現すものである。17世紀中葉の国語文献に現れ始める‘’(歳)の意味分化形‘ ’がその後慣用化するに至った事実であるが、18世紀中葉の「同文類解」(1748)で確認されている‘紫  蕉・説源 源’のような類推的表記の出現も[+粗擦性]子音下の‘、’非音韻化にその基盤を置いたものだった。ただ同じ環境下の‘、’であっても非音韻化の語彙別拡散は漸進的であったのであろう。よって、[+舌端性]子音の後に現れる非語頭音節の‘、’中にも18世紀初葉以後まで非音韻化をけいけんできない場合がなくなかったであろうが、この時ぐらいには[+舌端性]子音下の‘、’非音韻化が既に話者の文法に変化をもたらしたのであろう。よって、話者の文法知識を基準とするならば、‘、’非音韻化が18世紀初葉には[ー鼻音性、+舌端性]子音下にまで拡散されていたといえる。その後から‘、’非音韻化は[+鼻音性]子音環境下へ拡散されていったのであろう。その過程は[ー鼻音性]子音環境の時と同じであったものと推測される。いわゆる[+鼻音性]子音下での‘、’非音韻化は[+舌端性]子音である下でより[ー舌端性]子音であるの下で先ず成されたであろうと仮定される。非語頭音節であることはあるが、‘陥 陥幻’が17世紀中葉から文献に現れている事実もよりの後で‘、’非音韻化が先ず成されたことを暗示するようだ。

4.2.唇音化と‘、’非音韻化
 これまで検討してきた‘、’非音韻化の過程は‘、’と中和的対立を成していたの行態と無関係であり得ない。そのような行態中の一つが唇音化といえる。両唇子音化で起こった唇音化が母音体系の推移と関係されるという事実は早くから注目されたことがある(金完鎮 1963)。
 唇音化は母音体系上‘、’と対立の片割れを成していたが新しくと対立の片割れを成していく通時的過程を見せている。なのだけれども、唇音化は17世紀初葉から散発的に文献に露出され始めている(田光鉉 1967:85-86)。このような事実はと‘、’の中和的対立がの中和対立へと移行し始めた時期が16世紀末葉であったことを暗示している。この時期は‘、’がとの中和的対立へと移行する時期とだいたい一致する。‘ 原艦亜原艦’に現れている 、>のような変化や‘ 戚・ 戚・’に現れている>、のような逆行性表記が既に16世紀末葉に現れているためである。
 17世紀末葉に至ると、唇音化は相当の語彙的拡散を見せている。例えば、「訳語類解」(1690)には次のような実例が現れている。

(68)

 先ず、(68)abは両唇子音下でのような唇音化を経た実例である。ただ、aは‘紘・弘’、‘鷺・災’のように唇音化した語形とそれ以前の語形が共存する場合で、bは唇音化した語形だけを現している場合である。‘紘・鷺’はいくつかの合成語でたけ唇音化を見せるだけで、大部分の場合に本来の語形を維持していて、特に‘’(草)、‘ ’(角)は唇音化を見せていない。(68)caやbとは反対にのような逆行性表記を見せている実例である。このような逆行性表記はこの時期に唇音化が場合によって話者の語彙目録の認識に動揺を起こしていたことを見せている。(68)dはどちらが本来の語形なのか明らかではないけれど、このやはり話者の語彙目録に動揺を見せている実例の一つといえる。しかし、全般的に見ると「訳語類解」には両唇子音環境と関係される語彙目録が動揺を見せている場合より、園でない場合が一層多く現している。唇音化した語形と本来の語形、のような逆行性表記と本来の語形がそれぞれ共存することも希である。これは当時の話者たちが両唇子音下のを形態素別にある程度区別できたことを意味する。
 このような事実は17世紀末葉まで唇音化が一部の形態素だけに拡散されたことを示唆している。それはがその時まで完全な中和的対立の片割れを成せなかったためであったのであろう。このような推理はもう一度との対立から和らげた‘、’またとの中和的対立を完全に構築する処までには至ることができなかったのであろうという推理を許してくれる。17世紀末葉まで第一音節の‘、’非音韻化が特定な音声部類環境下のいくつかの形態素にだけ局限的に現れているという事実がそのような推理を裏付けてくれる。要するに、17世紀末葉までは唇音化や‘、’非音韻化が話者の文法知識に部分的な変化をもたらしただけと思われる。
 18世紀初葉に至ると、両唇子音下のがほとんど大部分の形態素から本来の姿に動揺を見せている。「伍倫全備諺解」(1721)は音韻論的側面から特に保守性を強く帯びている文献であるにも関わらず唇音化やのような逆行性表記に関係される多くの語彙目録からがひどい動揺を見せている。

(69)

 (69)ab唇音化を見せている場合で、(69)cは反対に逆行性表記を見せている場合である。語彙的には‘ ’が唇音化した語形と現れていて、「訳語類解」よりは唇音化がもう少し拡散されたことがわかる。個別的な形態素と見ても唇音化した語形や逆行性表記による語形がそれぞれ本来の語形と共存する場合が多い。特に‘巷軒’(輩)、‘採軒’(嘴)が逆行性表記である‘紘戚・崎軒’と共に使われているので、‘’(水)、‘’(火)の曲用形の‘糠軒・崎軒’や、その唇音化形‘巷軒・採軒’がそれぞれ現実的には同音異義語を成していたものと思われる。このような事実は唇音化が17世紀末葉より一層深化されたことを現している。このように両唇子音下のに動揺を見せている語彙目録が多いという事実は18世紀初葉の話者が両唇子音下のをきちんと区別できなくなったことを意味する。
 このような点を勘案すると、少なくとも18世紀初葉にはが唇音性資質による高母音の片割れとして固まっていたといえる。そのために両唇子音環境下ではがどちらとも混同できたのである。そうだとすると、‘、’とまたは低母音の片割れと固められていたと見ることができる。言い換えると、‘、’とは完全な中和的対立関係を結ぶようになったのである。「全一道人」に反映されている‘、’非音韻化はこの事実を裏付けしている。いわゆる18世紀初葉には[+鼻音性]子音部類を除外した残りの子音部類下で相当な語彙形態素の第一音節‘、’がに中和されて非音韻化するようになったのである。

4.3.‘、’非音韻化の過程
 結論的に‘、’非音韻化は次のような過程を渡ったといえる。非語頭音節に現れた‘、’がと中和されて‘、’の配分は主に語彙形態素の第一音節に局限されるに至った。‘、’がとの中和的対立関係を抜け出てとの中的対立関係を新しく結び始めて、語彙形態素の第一音節に維持されてきた‘、’は一定の条件によってと中和されることができる潜在性を持つようになった。第一音節の‘、’がと中和され始めたのは16世紀末葉だけれど、その時までの‘、’中には‘ >’でのように前代の中和的対立関係によってに合流されたこともある。いうなら、‘ ’の‘、’は音節位置という条件によってに合流される道を捨てて、時期という条件によってに合流される道を選んだのである。
 17世紀末葉までは先ず‘ >秘・ 原艦(漠)>亜原艦・ 醤 醤:毀、破)>馬醤・背醤・’のような実例が文献で確認されている。この時の 、>ぞ・ぁの下で成されたものである。これとは対照的に‘ 戚・(抜)> 戚・・娃蟹 (女)> 蟹費’のような逆行性表記が文献に現れもした。この時の>、は ・ぁの下で現れている。このような逆行性表記は‘、’非音韻化にその基盤を置いたものである。よって、17世紀末葉までの‘、’非音韻化はぞ・ぁ・ のような条件下で先ず成されたといえる。これら子音部類は[ー鼻音性、ー舌端性、ー粗擦性]資質で成されている。よって、‘、’非音韻化はこのような子音部類下で先ず起こったものと解釈される。この条件下での‘、’非音韻化は18世紀初葉以前に既に完成されていたものと思われる。倭文字転写資料にはぞ・ぁ・げ・その下で現れる‘、’のほとんど全部がaと転写されているためである。
 17世紀末葉には‘ ・(寒)>託・’のようにの下でも‘、’非音韻化を見せる実例が現れている。これによって‘、’非音韻化はもう一度舌端子音の環境で拡散されていったことがわかる。なのだが、18世紀初葉の倭文字転写資料にはぇ・ぜ・ の下に現れる第一音節‘、’のほとんど全部がaと転写されている。このような事実は‘、’非音韻化が舌端子音中でも[ー粗擦性]子音部類下で先ず起こったことがわかる。この子音部類には非語頭音節にだけ現れるも含まれている。これはの下の‘、’が早くからに合流しているためである。17世紀中葉の国語文献には‘  (風)> 寓’のような実例がよく現れている。倭文字転写資料にも‘  ’はもちろん‘紫 ・・  ’のようなの下の‘、’がaと転写されている。これによって、‘、’非音韻化はぇ・ぜ・ ・ぉのような舌端子音環境で拡散されていったことがわかる。これら子音部類は[ー鼻音性、+舌端性、ー粗擦性]資質で成されている。
 倭文字転写資料にはさ・ ・じ・ずの後に現れる‘、’の大部分がoと転写されているが、いくつかの形態素に現れる‘、’だけはaと転写されている。なのだが、‘ ’(肉)、‘ ・’(烹)‘ ・’(尋)のようないくつかの形態素の‘、’はa,oの二つで現れている。この事実は‘、’非音韻化が今度はこれら子音部類環境で拡散され始めたことがわかる。これらは[ー鼻音性、+舌端性、+粗擦性]資質で成されている。
 結果的に18世紀初葉の‘、’非音韻化は[ー鼻音性]子音環境下にまでだけ拡散されているのだけれどと待っている。よって、18世紀初葉には鼻音下環境下の‘、’だけが非音韻化を経ず、残っているようになった。なのだが、18世紀初葉までの‘、’非音韻化の過程は残っている鼻音環境下の‘、’非音韻化過程を推理できるようにさしている。‘、’非音韻化に関与した音声的要因は結局[鼻音性][舌端性][粗擦性]のような三つの資質なのだけれど、この三つの音性資質間には先ず順位が潜在している。‘、’非音韻化はまず[ー鼻音性]子音部類下で起こったけれど、同じ[ー鼻音性]子音部類中でも[ー舌端性]子音部類下でそれが先ず成された。それなので、‘、’非音韻化は[ー舌端性]子音部類下でより[+舌端性]子音部類下で後に成されたのである。なのだけれども、同じ[+舌端性]子音部類中では[ー粗擦性]子音部類下で‘、’非音韻化が先ず成された。よって、‘、’非音韻化に関与した三つの音性資質の優先順位は[鼻音性]が第一要因、[舌端性]が第二要因、「粗擦性]が第三要因であったと解釈される。
 なのだけれど、残っている[+鼻音性]子音中[ー舌端性、ー粗擦性][+舌端性、ー粗擦性]で成されている。この時のの対立を決定する弁別的資質は[舌端性]である。自然に[粗擦性]の対立においては剰余的資質に過ぎない。‘、’非音韻化の過程は第一要因が同じ場合第二要因と順序が決定された。なのだけれど、‘、’非音韻化は[ー舌端性]子音部類から[+舌端性]子音部類へと拡散された。よって、[+鼻音性]子音部類中では[ー舌端性]子音の下の‘、’に非音韻化が先ず入っていき、[+舌端性]子音の下の‘、’がその後に続いたのであろうと推測される。
 ‘、’非音韻化の拡散過程に対する以上のような論議内容を分かり易く整理してみると次のようである。

(70)

 結局、‘、’非音韻化は(70)a,b,c,d,eのような環境順で拡散される過程を踏んだであろうと解釈される。しかし、本研究では18世紀初葉に‘、’非音韻化が(70)a,b,c環境にまで拡散されたことを確認することができただけだ。なのだが、(70)a,b,cはもう一度[鼻音性]資質に共通性を見せている。これによって18世紀初葉までは[ー鼻音性]子音部類下だけで‘、’非音韻化が成されたといえる。ここで除外された[+鼻音性]子音部類下での‘、’非音韻化は18世紀初葉以後から次第に(70)d,eのような環境順に拡散されていったであろうと思われる。本研究ではこの過程までを実証的に確認することはできなかった。
 筆者は早く‘、’非音韻化の時期を18世紀初葉と推定したことがあるのだが(宋敏 1974)、本研究を通じてそれが速断であったことを自認するようになった。全ての音韻変化が画一的に起こるという前提は一つの理想的仮定に過ぎないので(李秉根 1974:123)、ある音韻変化の完結時期を正確に出すのは不可能なためである。このような点を勘案して本研究では‘、’非音韻化に対する完結時期よりその発端時期と内面的要因及び拡散過程などにより大きな関心を付け加えようと思った。自然に‘、’非音韻化の完結時期についてはこうだという確実な結論を出す自信はない。ただここでその時期にもう一度執着してみると‘、’非音韻化の拡散過程と18世紀初葉、遅くとも18世紀中葉までには完結されたであろうと推測するだけである。このような推理は(70)a,b,cのような‘、’非音韻化の実例を基準とするものである。もう少し精密な結論は(70)d,eのような環境、即ち[+鼻音性]子音部類下での‘、’非音韻化に対する解明が成されるのを待つしかないのである。
 一方、口蓋性下降二重母音の音節主音‘、’は単母音‘、’に先だって非音韻化したものと思われる。18世紀初葉の倭文字転写資料にそのような事実が反映されている。ここには二重母音の音節主音‘、’が先行子音に関係なくほとんど全部aと現れている。よって、この時の‘、’は18世紀初葉以前にその大部分が似合流されたものと思われる。単母音‘、’より二重母音の音節主音‘、’が非音韻化を先ず経た表面的要因としては後行する口蓋性転移音yを打ち出すしかなかった。しかし、現在の筆者としてはyのどんな内面的要因が先行する‘、’を先ず非音韻化されることができたのか合理的に説明することはできない。ここに対しては後日を待つことにする。


.結論
 本研究では文献音韻論の方向と前期近代国語音韻論の主要課題中口蓋音及び‘、’非音韻化の二つの課題が集中的に論議された。その内容を結論的に要約してみると次のようである。

1.文献音韻論の方向
 1.1文献音韻論研究は先ず実証的に成されなければいけない。
 1.2.音韻史研究では特定の音韻変化の発生時期とその内面的要因に対する解釈及びその拡散過程に対する論議が行われなければいけない。
 1.3.全ての文献には必然的に保守的表記によるものなので、音韻史的論議には、可能ならば転写資料を活用するのがよい。
 1.4.雨森芳州(1668-1755)が残した筆写本「全一道人」(1729)とその他のいくつかの倭文字転写資料は前期近代国語音韻論研究に利用されるほど価値がある。
 1.5.「全一道人」の転写表記には18世紀初葉の国語中央方言に対する発話現実がいろいろと反映されている。特に口蓋音化と‘、’非音韻論化に対する当時の発話現実がどの国語文献よりもよく反映されている。

2.口蓋音化
 2.1.随意的変異としての口蓋音化は16世紀末葉に発生し始めた。その原因は一般音声学的に口蓋化の位置から破裂音より破擦音がより自然な(やや有標的な)ためであるだけでなく、15世紀に非口蓋音だった、即ちcが口蓋化環境でcのような口蓋性変異音を持っていたためであった。
 2.2.口蓋音化は高母音より口蓋性転移音y の前で先に随意的変異を起こしと実現され始めた。その原因は一般音声学的に口蓋音化の場合、よりyの同化力がより大きいためであった。
 2.3.口蓋音化は‘ ー(好)> ー’で最も先に確認された。この形態素が口蓋音化を先に帯びるようになったのはその使用頻度が高くむしろ偶発的変異を起こしやすかったためであろう。
 2.4.yの前で始められた口蓋音化は次第にの前にまで拡散され、17世紀末葉には音声規則として固められ、話者の語彙目録に変化を起こし始めた。このような事実は「訳語類解」(1690)にある程度反映されている。ここには‘(打)>帖・’のような口蓋音化が現れているだけでなく、‘走・(負)>巨・’のような逆行性表記が共に現れている。このような逆行性表記は音韻変化とは解釈がされない。これは一種の心理的過剰修正として、表記時にだけ現れる類推なだけで、実際の発話現実とは関係がない。しかしこのような逆行性表記の出現は口蓋音化が当時の話者の文法に拡散され続けていたことを示唆している。
 2.5.18世紀にさしかかり、口蓋音化はさらに多くの形態素へ拡散されていった。このような事実は「伍倫全備諺解」(1721)、「全一道人」(1729)、「女四書諺解」(1736)で確認されている。特に「全一道人」の転写と国語添記には口蓋音化が全面的に反映されている。反面に、国語文献ではのような逆行性表記が口蓋音化の実例よりもっと多く発見されている。これによって、18世紀初葉には形態素内部の口蓋音化が通時的変化へと固まっていき、形態音韻論的交替としての共時的口蓋音化規則が文法に追加されていた。

3.‘、’非音韻化
 3.1.語彙形態素の第一音節母音‘、’の非音韻化は16世紀末葉に発生し始めた。
 3.2.17世紀末葉に至るまで‘、’非音韻化はぞ・ぁ・げの環境下で先ず成された。16世紀末葉の‘ >秘・ 原艦(漠)>亜原艦’、17世紀中葉の‘ 醤 醤:毀、破)>馬醤・背醤・’、17世紀末葉の‘  (剪子)>亜 ’がその実例である。環境での‘、’非音韻化の実例は文献で直接確認されてはいない。その代わりに‘ 戚・(抜)> 戚・’のような逆行性表記が16世紀末葉から現れている。このような逆行性表記は、口蓋音化で見たような心理的過剰修正として、音韻変化とは関係がない。しかし、このような逆行性表記の出現は両唇無声破裂音の環境下での‘、’非音韻化が早くから起こっていたために、話者の語彙目録認識に混乱が起きていたことを示唆している。17世紀中葉には‘娃蟹 (女)> 蟹費’のような逆行性表記も現れている。このような事実は‘、’非音韻化がぞ・ぁ・げ部類の環境で先ず起きたことを意味する。
 3.3.18世紀初葉にはこれら子音部類下での‘、’非音韻化がほとんど全ての語彙形態素の第一音節に拡散されていた。国語文献とは異なり「全一道人」にはぇ・ぜ・ の後に現れる殆ど全ての‘、’がaと転写されており、これら子音部類の環境の‘、’非音韻化は18世紀初葉以前に完結されたことがわかる。
 3.4.‘、’非音韻化は次に部類環境に拡散された。国語文献ではこの事実を確認することはできないが、「全一道人」にはぇ・ぜ・ の後に現れる殆どの‘、’がaと転写されているためである。この子音部類には非語頭音節にだけ現れるも含まれる。既に17世紀中葉から‘  (風)> 寓’が国語文献に現れているだけでなく、「全一道人」には‘  ’はもちろん‘紫 ’、‘   ’(耳矣)に現れているの下の‘、’がaと転写されているためである。
 3.5.‘、’非音韻化はもう一度さ・じの部類環境へと拡散されていった。17世紀末葉に既に‘ ・(寒)>託・’が現れる。「全一道人」にはぇ・ じ・ずの後に現れる殆ど全ての‘、’がoと転写されているが、‘ 走・’(肥)、‘ ・’(寒、満、佩)の‘、’だけはaと転写されており、‘ ・’(烹)、‘ ・’(尋)の‘、’はa,oの二つで転写されている。18世紀中葉には‘紫 (骰子)> 蕉・説源 源’のような逆行性表記も現れている。このような事実は’、‘非音韻化がさ・じの部類環境へと拡散されていったことを示している。このれによって、18世紀初葉までの’、‘非音韻化は鼻音を除外した全ての子音部類環境に拡散されていった。
 3.6.鼻音環境中ではの後で‘、’非音韻化が先ず起こったようだ。鼻音以外の場合、舌端子音より非舌端子音環境で‘、’非音韻化が先ず成されたためである。「全一道人」には鼻音の後に現れる‘、’が例外なくoと転写されているが17世紀中葉から‘陥 (只)>陥幻’、18世紀中葉には‘ 醤走(駒)>原醤走’が現れる。
 3.7.結局‘、’非音韻化の拡散過程は次のような環境順であった。
  a.[ー鼻音性、ー舌端性、ー粗擦性]子音部類・ぞ・ぁ・げ・
  b.[ー鼻音性、+舌端性、ー粗擦性]子音部類・ぇ・ぉ・
  c.[ー鼻音性、+舌端性、+粗擦性]子音部類・さ・じ・
  d.[+鼻音性、ー舌端性、ー粗擦性]子音部類・け・
  e.[+鼻音性、+舌端性、ー粗擦性]子音部類・い・
 ただ、本研究では18世紀初葉にa,b,cの環境にまで‘、’非音韻化が拡散されていることを確認した。この環境下での‘、’非音韻化は当時の話者の語彙目録の認識に変化をもたらしたけれど、国語文献の表記にはそのような銀実がほとんど反映されなかった。
 3.8.上の事実と推測して、‘、’非音韻化の第一要因は[鼻音性]、第二要因は[舌端性]、第三要因は[粗擦性]であったことがわかる。ただ、[粗擦性][+舌端性]破裂音部類にだけ関与していた。‘、’非音韻化の次の過程は鼻音環境として、の後、の後の順で拡散されたであろうし、それが完結された時期は遅くとも18世紀中葉であっただろう。
 3.9.一方、口蓋性下降二重母音の音節主音‘、’は単母音‘、’より先ず非音韻化を帯びた。「全一道人」には二重母音に現れる‘、’が環境に関係なくほとんど全てaと転写されていて、それが18世紀初葉以前に非音韻化したことを暗示している。この時の非音韻化を促進された要因は‘、’に後行する口蓋性転移音yであったことがわかるが、本研究ではその内面的理由に対して合理的解釈を下すことはできなかった。

4.終わりに
 4.1.本研究では音韻変化の発端をその確実な実例が一つでも文献に初めて出現する時期を捕らえた。個々人の発話行為にはいつも随意的変異が従うものだけれど、このような変異が偶発的に表記に露出されるに至ったという事実は、特定の語彙目録に対する話者の認識に変化が起こった結果であるためだ。
 4.2.このような先駆的変化は随意的なものなので、そのような変化が個人語から個人語へ、ある形態素からある形態素へ拡散されるのには相当時間が所要されている。個々の形態素は音韻論的、形態的、統辞的、語彙的、意味的、制約、いわゆるその形態素の統合的、範例的与件によって変化の時期が異なるためである。結局、ある音韻変化が随意的変異から音声規則へと一般化される過程を渡り、話者の語彙目録の認識に変化をもたらすまでには多くの時間が要求される。口蓋音化の場合、その先駆的変化が話者の文法変化に至るまでは少なくとも一世紀、‘、’非音韻化の場合にはそれ以上の時間が所要された。ただ、これは実際の通時的過程であったのか、表記の保守性のためにそのように見えるのかについては文献だけではこれ以上確実な判断を下すのはかなり不可能である。
 4.3.口蓋音化や‘、’非音韻化は結局音声的には偶発的、語彙的には漸進的な類型に属する音韻変化の過程と見れる。これによって、本研究ではこれらの音韻変化の完結時期にそれ程執着しなかった。文献に残っている制限された資料だけで最後の形態素一つまで音韻変化を経た時期を正確に取り出すというのは実際に不可能なためである。このような意味から本研究に提示された音韻変化の完結時期は話者の文法にそれが相当拡散されたことを意味するだけである。その代わり、本研究では音韻変化の発端時期とその内面的原因、特にその拡散過程に関心を傾けた。ただ17世紀末葉までは口蓋音化や‘、’非音韻化に対する文献的実例が余りにも少なすぎる。しかし、口蓋音化と共に現れている、‘、’非音韻化と共に現れている>、のような逆行性表記はそれぞれ上の二つの音韻変化に対する間接的根拠として利用できる。
 4.4.本研究では倭文字転写資料、その中でも特に「全一道人」に大きな比重を置いた。しかし、ここに問題点がないのではない。ある言語の文法は母語話者の言語知識である。なのだけれども、雨森芳州がいくら国語に能通だったといっても依然外国人に過ぎない。当然、国語文法に対する彼の認識には倭語文法の干渉に従ったのである。彼の手で成された転写表記に当時の国語の発話現実がある程度反映されているといえども、そこに倭語の音声的、音韻論的干渉が介入されているならば、そのような資料だけで国語音韻論を論議するには不十分でしかない。結局、音声層位の情報がいくらよく反映されている転写資料があるとしても、それに対する結論的解釈は国語資料を通じて成されなければいけない。母語話者の頭の中に内面化した文法知識は同じ母語話者の言語資料を通じてこそ解明が可能であるためだ。






 要するに、雨森芳州の誤謬には国語と倭語間に潜在している音声の範例的体系や統合的構造の差が不可避

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