2019年8月3日土曜日

崔相振論文「三浦の乱」以降、三浦から釜山浦に一元化される過程 -乱以降の三浦の状況と加徳島が果たした役割を中心に- 崔相振


「三浦の乱」以降、三浦から釜山浦に一元化される過程
乱以降の三浦の状況と加徳島が果たした役割を中心に-

崔相振

はじめに

1980年代以降の中世朝日関係史研究は、従来の「関係史」にとどまらず、「環シナ海地域」や「国境をまたがる地域」などの概念[1]から、「地域」の人・物・情報に注目し、それらを対象とした分析視点から多くの研究蓄積がある。一方、朝日関係をマクロレベルのみならず、個別的にアプローチする研究も進んでおり、中世朝日関係史研究が一層明確になりつつある[2]
こうした近年の研究史に対する認識に基づき、本稿では、「国境をまたがる地域」の中核を占めていた「三浦」に焦点をあて、まず朝鮮側が倭人による弊害を効率的に減らそうとする積極的な手段としての地域的統制を分析する。その上で、三浦乱時の倭寇の本拠地であった加徳島[3]の実態を明らかにし、の乱以降、朝鮮王朝の倭人統制政策の一貫として、三浦から釜山浦に一元化される過程を検討したい。
ところで、三浦乱以前の三浦を取巻く状況について簡単に触れておきたい。三浦(釜山浦・薺浦・塩浦)は、応永外寇(1419年)後に朝鮮王朝から入港場として指定され、それ以後、人口の増加とともに経済的な繁栄を迎え、入港場から都市へとその性格を変えていった。こうした経済力を背景に、三浦の恒居倭人による相次ぐ不祥事(漁業・行商・密貿易・人身売買など)が発生するようになった。朝鮮王朝はこのような不祥事を防ぐために、治安上・経済上の理由から三浦に軍事施設(鎮城と関根)を構築した。<表1>から分るように、朝鮮側は何回も議論を重ねて、1490年に塩浦城・釜山浦城を、1503年に薺浦城を構築した。また、朝鮮商人と倭人との境界範囲を示し、相互の密貿易を防止することや倭人による武装蜂起を防御した。さらに、恒居倭を対馬島に送還することで、倭人による弊害を防ごうとした。

<表1>15世紀における三浦の設鎮について
年代
内容
出典
1434
「乃而浦県城」の造営が提起される。
『世宗実録』16年8月己酉条。

1470
以降
三浦の人口急増問題が生じ、築城が本格的に議論される。(1474年、薺浦・釜山浦の恒居倭人による失火事件が議論のきっかけになる。

『成宗実録』5年正月癸丑条。
1483
多大浦に薺浦・釜山浦の例にならって築城してはどうかとの提言がなされる。
『成宗実録』14年5月己亥条。
1486
慶尚道薺浦城を築く「高十三尺・周四千三百十六尺三寸
『成宗実録』17年10月??条。
1487
政府の意見一致により、薺浦修築の停止が命じられる。
『成宗実録』18年10月壬辰条。
1490
塩浦城・釜山浦城が築かれる。
『成宗実録』21年5・8月??条。
1503
薺浦城が築かれる。
『燕山君日記』9月7日丁卯条。

注)村井章介『国境を越えて‐東アジア海域世界の中世‐』(校倉書房、1997年)
264~269頁を元に作成し、筆者が適宜追記した

一方、対馬宗氏による恒居倭の支配は、すでに応永外寇後から本格的に行なわれていた。対馬宗氏は、恒居倭に対する法的地位(課税権と検断権)を掌握し、朝鮮王朝から、自分管下の者60人を三浦に居住させることを認められ、その60人を通じて三浦の統治を進めていた[4]。しかし、1510年三浦の乱が発生し、朝日関係は大きく転換期を迎えるようになった。

第1章 乱以降における三浦の状況
 ここでは、「三浦の乱」以降の三浦の状況について、朝鮮側が倭人統制政策として積極的に取り組んだ地域的統制を中心に考えてみる。
(1)「三浦の乱」と三浦倭人の統制
 三浦の乱は1510(中宗5、永正7)年4月4日、恒居倭人と対馬島民からなる数千人の大集団が一斉蜂起し、薺浦・釜山浦・巨済島の軍事拠点を攻撃した事件である。この乱を理由に朝鮮側は倭人の入港場であった三浦を閉鎖した。2年後の1512年「壬申約条」[5]の成立で両国の外交関係が再開されたが、三浦のなかで薺浦のみが解放され倭館が設置された[6]。薺浦倭館は、乱以降朝日両国間に結ばれた「壬申約条」(総9か条のうち、2か条が倭館に関する内容)に基づいたものである。その内容は、「三浦の居を許す勿かれ。」、「対馬島より薺浦に至る直路の外、傍ら他路に行く者は、以て賊倭と論ずる。」というものであり、三浦の乱以前3箇所にあった浦所を薺浦のみに制限し、すでに多くの弊害をもたらした浦所の倭人居住地の存在を認めないことで、倭人統制を強化した[7]
 約条成立後、朝鮮側は積極的に浦所を整備しようとした。???同年7月に左議政柳順汀などが王様に啓した書では、熊川・薺浦に両鎮を置くのは無駄であることを指摘し、その理由を「前に是れ薺浦に居倭に有りて、故に僉使を置いて以て之を管す。今居倭なく、咫尺の地に於て、熊川・薺浦の両鎮を置くは冗に似たり。故に薺浦を革めて、熊川都尉に陞して節制使と為す。兼て薺浦に鎮して、水陸軍を統合し、軍民を撫禦すも、亦た壮に其の形勢を欲することなり。」[8]と述べている。すなわち、乱後、薺浦に恒居倭人が居住しなくなったため、両鎮をおく必要はなくなり、それを一つに統合し再整備をはかることで、朝鮮人民の安全確保及び倭人対策という二つのことを効率的に進めようとする狙いがうかがえる。
しかし、倭人の接待がすべて薺浦のみで行なわれることとなったため、駅路や各村などで様々な弊害が発生し、1513(中宗8、永正10)には釜山浦の移設問題が提案され、翌年には倭人の接待をすべて薺浦で行なうのではなく、釜山浦に分けることが論議され[9]、1521(中宗16、大永1)年からは釜山浦倭館が設置された[10]。そして、倭船の交通往来を「薺浦・釜山浦等の処を啓き、只だ交通往来の倭船二十五隻を許すのみ。而も倭人等其の約を遵ぜず、今則ち数外の船隻私かに相往来し、浦に留り販を興す。徒だ国廩を損費するのみに非ずして、亦た潜に相買売禁物の幣ありて、其れ漸く細故に非ざるなり。」[11]という政治・経済的な理由で、薺浦(12隻)・釜山浦(13隻)に分泊させた。つまり、朝鮮王朝は三浦に通交する倭船を薺浦・釜山浦に分けて停泊させることで、密貿易の問題や浦口での弊害などを防ごうとした。そして、倭人がそれを守らない場合は、接待を許さないという強硬な方針をたてた。

(2)乱以降の三浦の状況と地域的統制
三浦では乱以降も相変わらず倭人による不祥事が発生し、1525(中宗20、大永5)年には、倭人と朝鮮商人とのあいだに殺人事件が起きた。これについて、貿易上問題を起こす倭人に対して厳しく罰することを中宗王に啓した特進官安潤徳の書をみると、「釜山浦の倭館隠屏の処に在りて、関防なし。故に倭人来泊し、常に三把船に騎りて、月夕に乗じ、他境に出行して、虚実之幣を窺うなからず。臣巡察使となリ之を見るに、釜山浦倭館の北邊に、築くべき城の処ありて、其の外又た塩盆ありて、城基の広さ二馬場に過ぎず、以て易く築き、其の功必ず鉅せざるべし。若し城此に於て、関門と為して、有時に開閉して、内外を隔絶せば、則ち倭人の出入を得難く、自ら我と人と混処せず。薺浦の倭館に於て、亦た当に是の如くなるべし。此の事の便否は、本道監司・兵使・水使をして同審議の馳啓をせしむるを請う。上曰く、此の事果して当に之を議すべし。」[12]と述べられている。すなわち、安潤徳の指摘は、釜山浦の倭館は隠れたところにあり、関防がないため、倭人が自由に来ては宿泊し、いつも三把船[13]に乗って、夜他の地域に出入りする弊害が生じている、とのことである。そして、その解決策として、釜山浦倭館の北側に城を築き、関門を作り、時刻を決め、関門を開閉することで、倭人の出入りを難しくして、朝鮮の民と倭人が交錯するのを防ぐべきだと、安潤徳は提案した。
ここで、倭人たちの行動に注目すれば、「三把船→他の地域」に移動している。これは、倭人の活動エリアが三浦にとどまらず、他の地域に行動範囲を広げていることがうかがえる。三浦の乱以前、倭人は薺浦の恒居倭人を中心として交易活動を進めていたが、三浦の乱以後は、朝鮮王朝の厳しい統制政策によって長期間かけて築いてきた居留地(三浦)を失い、居留は厳しく拒絶された。こうした状況のなかで、倭人は活動範囲を強引に他の地域に移したのだと推し量ることが妥当であろう。そして、それは、「倭人の出入を得難くして、自ら我人と與に混処せず。」ということから分かるように、倭人と朝鮮の居民との密接な関係によるものであり、その連携なくては不可能であったと考えるべきであろう
こうした倭人による問題について、朝鮮側は城を築いて対応しようとした。城は「城基の広さ二馬場[14]に過ぎず」ということから、あまり規模は大きくなかったことがわかる。また、その目的も軍事的なものではなく、倭人と朝鮮の居民との密貿易を防ぐことにあった。さらに、「薺浦の倭館に於ても、亦た当にかくのごとし。」ということから、薺浦も同じ状況であったことを推測することができる。
このように、16世紀の三浦の状況は、以前とあまり変わりなく、倭人による相次ぐ不祥事が発生していた。しかし、三浦の乱以前は三浦の恒居倭人を媒介として交易を行っていたが、三浦の乱以後は恒居倭人の消滅により、倭人が恒居倭人の役割を直接担いながら朝鮮の居民との密貿易を行っていたことに違いない。したがって、薺浦・釜山浦の鎮城の性格も倭人の影響により、変化しつつあったといえよう。
 それ以降三浦は、常に倭人の侵入による被害に悩まされた。1541(中宗36、天文10)年に薺浦倭館で起きた倭人による暴動事件はその様子を語ってくれる。慶尚右道兵士方好義が薺浦倭館に滞在した倭人による暴動について、政府機関である承政院に啓した書には、「薺浦の留館の倭人、黨を作り、或は杖を持ち、或は剣を発して、夜に乗し墻を踰えて出て、閭里に向う時、直ちに伏兵の禁止を守り、敵に対かい闘鬨し、軍士三名刃傷し死に致りて、倭人を推問せば、則ち推調に服せず。駭愕と為すに至る。浦所の墻垣、農月に拘るなかれ。浦戍軍を留せしめ高堅に改築し、熊川縣の城、又た旧城に連れ堅築す。又た城を築き外の居民三百余戸、城内に移入して、倭人と與に交通を得らしめん事。」[15]と述べられている。すなわち、薺浦倭館に泊まっている倭人が」を乗り越え、朝鮮の村々に出ようとしたが、守直の伏兵にとがめられて争いとなり、この倭人により朝鮮側の軍士3名が殺された。朝鮮側は倭人を訊問したが、まったく倭人の行動を停止させるすべもなかったこの事件から推測されるのは、相変わらず倭人と朝鮮の居民との間に頻繁に密貿易が行われていたこと、しかも、その利益をめぐって殺人事件まで発生するほどに、密接な貿易関係を結んでいたことである。つまり、倭人は朝鮮側の厳しい制限があるにもかかわらず、支払いを巡るトラブルであったろうか、それとも貿易品の質や量を巡ってであったろうか、いずれにしても薺浦の境界を越えて、命がけの抗議活動せざるを得ない状況であったと分かる
 朝鮮側は、倭人による被害を防ぐ対策として、浦所に一年中浦戍軍を滞在させ、高く堅固な墻垣を改築し、城外に居住する民間3百余戸を城内に移して倭人との交通を断絶させた。そして、1544年には「蛇梁倭変」[16]が起こり、朝鮮と対馬島との関係が再び断絶されるが、「丁未約条」[17]により薺浦が閉鎖され、倭人の入港場も倭館も釜山浦の一箇所に制限されるようになった[18]薺浦は周辺に小さい島々が多く、倭人の根拠地として絶好の場所である。一方、釜山浦は朝鮮側が倭人を統制しやすい地形であり、倭乱を経験した朝鮮側としては、すでに実施した倭人統制策に地理的統制を加えることで、倭人による弊害を効率的に減らそうとする積極的な手段を用いたと思われる[19]。 ????? このように、朝鮮王朝が15世紀末から強化してきた渡航倭人に対する統制策は、蛇梁倭変以降、釜山浦倭館のみをそのまま存続させることで整備・強化し、壬辰倭乱が発生するまで続く。
 
第2章 乱以降における加徳島の情勢と重要性

加徳島は、三浦の乱前後に倭人の根拠地として重要な意味を持つ。加徳島に関する先行研究として、中村栄孝氏は、主に1508年に発生した倭船による加徳島襲撃事件について検討している[20]。また、村井章介氏は、加徳島襲撃事件に加え、加徳島設鎮問題について言及している[21]。ここでは、先行研究に助けられながら、乱以降の加徳島の情勢や朝鮮南岸地域をめぐる朝鮮側と倭人との対立のなかで、加徳島がいかなる重要性をもっていたかを考えてみたい。
次の史料はその当時の加徳島の様子をよく語ってくれる[22]。(傍線と番号は筆者による)
御朝講、・・・(中略)・・・正言朴佺論啓前事、不允、佺曰、臣居金海、慶尚邊事臣所目覩、以臆意啓之、請與廟堂大臣議之何如、其一曰、①加徳島距熊川水路一息許、距安骨浦水路半息許、②西有巨濟島、東有釜山浦、加徳島居中、而最近内地、③島之南豆叱古青仇之、地名・乃倭人往来依泊処、④北曰羊膓串内面、乃古之設鎭処、其中峯之高大者、則古之設烟台処、在廃朝、因賊倭害烽燧軍、遂移置于安骨浦北峯、其烟台尚存、登此台、則対馬島往来倭舩可歴指而数、設鎭処亦有農作之利、設使賊倭来據此島、分道作耗、則東萊・梁山・金海・熊川、昌原・漆原・鎭海・固城・巨濟邊氓、皆不得安寝矣

これは、正言[23]朴佺が慶尚道の邊方の事情を述べた書啓の一部分である。加徳島の様子について、次の4点にまとめることができる。①加徳島は熊川から水路で一息くらい離れ、安骨浦から水路で半息くらい離れている。②加徳島の西側に巨濟島、東側に釜山浦があり、加徳島はその中間に位置し、内地と一番近い距離にある。③加徳島の南側は、倭人が往来して停泊するところであった。④加徳島の北側は、羊膓串内面に位置し、昔鎭を設置したところである。その中峯には昔烟台を設置したところがあり、廃朝のときに烽燧軍が賊倭に殺され、安骨浦の北峯に移られている。烟台に上れば、対馬島に往来する倭船を数えられるくらいよく見える。また、鎭を設置したところは農事をすることができ、もし、倭賊がこの島を占領して道をわけて侵略してくると、東萊・梁山・金海・熊川、昌原・漆原・鎭海・固城・巨濟島の邊民は安心して寝ることができない。<図1>からは、その位置関係を確認することができる。
このように、加徳島は朝鮮南岸の島々のなかで、地理的に重要な位置をしめており、昔鎭を設置して倭船を統制する軍事的な要塞としてその役割を果たしていた。また、鎭を設置したところは農事が可能であり、烟台が設置されていた中峯から対馬島に往来する倭船の動向を監視していたことがわかる。
三浦の乱が起きた当時の『朝鮮王朝実録』の記事からは、「倭奴は妻子及び擄掠の物を加徳島に置く。」[24]といって、倭奴が濟浦や他のところで掠奪し、加徳島に妻子と掠奪したものを隠しておいたことがわかる。また、慶尚道節度使の書啓には「倭奴は熊川・濟浦の倉庫の物を加徳島・絶影等の島に移置す。」[25]といって、熊川・濟浦にある倉庫の物を加徳島や絶影島などに移しておいて、倭人の朝鮮における根拠地として使われたことが記されている。さらに、慶尚・全羅道の船が力を合わせて敵を防禦したことを述べた柳耼年の書啓には、「本島より出来して、必ず先に加徳島に泊りて、留を遅くし虚実を窺覘う。虚に乗り竊かに發し、若し末だ利を獲らば、則ち復た彼此の島、久住の計と為す。」[26]といって、倭人は対馬島から出来し、まず加徳島に停泊して長く泊まりながら、朝鮮側の虚実を伺って侵略したことが読み取れる。利益を得られない場合、倭人は再び加徳島に戻って長く滞在しようとしたことがわかる。すなわち、加徳島は倭人の朝鮮における最前線に位置した侵略ルートの重要な鍵を握る島として使われ、倭人は加徳島に長く滞在し、生活を行いながら、朝鮮南岸における自分たちの勢力基盤を広げていたと思われる。

 
















一方、朝鮮王朝は倭人の根拠地になっている加徳島の防禦の重要性を承知していた。つぎは、特進官李蓀が倭変について啓した書であるが、これは、加徳島の防禦の重要性について詳細に述べている[27]

御朝講、・・・・・・特進官李蓀曰、臣初聞柳耼年等討擒倭奴、於心甚喜、臣曾為金海府使、加徳島距我土甚邇、非延花浴池島之比、在安骨浦・塩浦内邊、若倭奴留在加徳島、則金海人不得海採、然此則小幣、倭奴若留在是地、寇秒我境、則諸鎭不能及救矣、金海所以設鎭者、使倭奴不敢近我境也、且倭奴所以留於加徳島、以有軽我心也、若使居加徳島、則其害有甚於居三浦時、俄頃之間、剽竊居民、釜山等浦未及救討矣、・・・(下略)・・・、

 加徳島の防禦の重要性を李蓀の書啓から考えてみれば、つぎの三点にまとめることができる。第一に、倭人が加徳島に留在することで発生する弊害を防ぐことを目的としている点である。その弊害とは、具体的に、倭人の留在によって、近処の人々が金海付近で海採することができないことである。第二に、朝鮮側の境にある諸鎭を保護する目的を有する点である。なぜならば、倭人が長期にわたって加徳島に留在し朝鮮の境を侵せば、諸鎭が危機に陥る恐れがあるからである。第三に、倭人が加徳島に住むことを許せば、その弊害は倭人が三浦に住むことよりひどく、居民に害を与え、釜山浦などの救援が及ばないうちに被害を受けてしまう可能性がある、という点である。
このように、加徳島は朝鮮南岸海域の多数の島々のなかで、地理的・軍事的に重要な位置を占めていた。朝鮮王朝は倭人による加徳島の支配がもたらす大きな問題を認識し、また南岸海域を倭人から守るため、加徳島の防禦に力を入れていたと思われる。

3章 朝鮮南岸地域において加徳島が果たした役割

加徳島は、乱以降も、相変わらず倭人の朝鮮南岸地域への拠点となり、様々な弊害を起こしていた。これに対して、朝鮮側は、加徳島に設鎮することで、加徳島の防御を強化し、朝鮮南岸地域における倭人問題を解決しようとしたと考えられる。ここでは、朝鮮側の倭人対策の一環として計画された加徳島の設鎮問題を具体的に検討し、三浦から釜山浦に一元化される過程において加徳島が果たした役割を考えてみたい。
次の史料は、1535(中宗30、天文4)年、特進官[28]曹潤孫が加徳島に鎮を設置すべき理由について啓したものである[29]。(傍線と番号は筆者による)

御朝講、領事金謹思曰、加徳島設鎭事、曹潤孫頃者下土時、令往看而措置、臺諌以爲不可、故止之、加徳島、臣雖不得目睹、然聞之於人、雖在海中、距陸不遠、庚午倭賊叛乱之後、令觀察使・節度使親往看審、而因循姑息、至今不爲耳、今潤孫入侍、其形勢自上下問、而處置爲當、特進官曹潤孫曰、①加徳島、險阻至高之山也、巌石矗立、船不得泊、倭人自羊場串来泊入據矣、我国設鎭於此、則巳據倭路之要衝、兵力雖或不足、倭人無如之何矣、薺浦等處雖無鎭守可也、南方人物衆盛、其於設鎭有何難焉、・・・・・・然加徳島則有②漁藍之利、而③倭人恆留於此、興販之徒雖昏夜潛相往来、守鎭之将何得而知之、其間雖有被害者、亦何能知之、設鎭於此而多定水軍、又設烽燧、④則雖有賊変、多大浦・安骨浦、則邊報即相知之、而一夕可以達丁京城矣、且倭人依泊於羊場串、故任其所之而竊発矣、若設鎭於此、則不得来泊、而絶其汲水之路、何能来犯乎

曹潤孫が加徳島に設鎮することを調査し、以前措置しようとしたが、臺諌の反対で中止され、ここで曹潤孫は再び加徳島に設鎮すべき理由として、
    船泊の困難さや倭路の要衝を封じ込めることは勿論、兵力の節減や薺浦に設鎮し防禦する必要がないという利点
    漁藍の利である点[30]
    倭人と朝鮮商人による密貿易の弊害を防ぐこと
    多大浦・安骨浦の邊報や加徳島の情報をソウルにすぐ伝達できること。
などの4つをあげている。またそれに加えて、
    倭人が加徳島に来泊することを防ぎ、倭人の要衝地を点居することや汲水の路」を遮断し、倭人の侵害を防ぐこと
も理由としてあげている。
同年2月22日には、早くも加徳島の設鎮について政府の意見が定められたが、とても重大な問題であるために重臣等を現地に派遣して「城基の坐地(位置)、周圍の大小、水路の遠近、隣り鎭との聲援の利害、鼓角相聞きの與否、耕作できる田地の與否、入防する軍卒の與否」などを兵・水使・觀察使と詳しく調べた後、加徳島の設鎮の施行について、左議政金謹思等が啓した[31]。同年11月16日には、慶尚道地域の水旱の被害や西北地方の国境不安定などの理由で、加徳島の設鎮問題が延期された[32]その後、右議政金克成によって加徳島に設鎮することに対する反対意見も出ているが[33]王の意志は既に加徳島に鎮を設置することに固まっていたため、続けて現地調査や情報収集などが続けられたと思われる。
1541(中宗36、天文10)慶尚右道兵士方好義が啓した書には、設鎮に関する詳しい報告がなされている。すなわち、加徳島の羊場串に鎮を設置し、また叱浦に後援する鎮をもう一つ設置して内地の各鎮浦の軍士多数を送って入防させれば、加徳島の地理的条件から船の停泊は困難となり、倭人による侵害は永遠になくなるということである[34]これに対して、中宗王はとてもよい意見だとし三貢に議論させている[35]。また、1543(中宗38、天文12)年には、加徳島に設鎭することの妥当性と利点について、中宗王に対して大司憲林百齡などがした。その内容は、次のとおりである[36]
第一に、現地に長く住んでいた人々や兵士・水使などがみな鎮の必要性を訴えている。すなわち、加徳島に鎮を置けば、倭賊たちが船を加徳島に来泊することができず、全羅道に盗みに行く倭人も加徳島を通ることができなくなるということである。第二に、加徳島に鎮を設置すれば、倭賊の有無を確認し、朝会にきた倭人であるかどうかを点検したうえで、これらの倭人を拒んだり、受け入れたりすることが可能である。また、海採する人々も鎮内で海採すれば、害を受けることもない。第三に、倭船が加徳島に近づいたときに、その船の実態を把握し、的確に対応することができる。中宗王は、加徳島に設鎭する問題について、「民多く害を受くれば、則ち巳に議定の事にして、當に速かに之を爲すべきなり。」[37]といって、迅速に設鎮を実施することを命令した。1544年9月、中宗王の命令にしたがって、加徳島に鎮が設置されのが確認できる[38]
 このように、朝鮮王朝は朝鮮南岸地域における倭人の不祥事について、積極的に議論を重ねてその解決を試みた。特に、倭人の根拠地であった加徳島を防禦するため、加徳島に鎮を設置し、倭人の動向を見ながら、倭人の侵入を完全に封じ込めようとした。また、加徳島の設鎮問題は長く朝鮮側の頭痛の種であった朝鮮南岸地域において、倭人による侵害を防禦するという重要な意味を持ち、その果たした役割はとても大きなものであった。すなわち、加徳島は、東側に釜山浦(慶尚南道)、西側に薺浦(全羅南道)があり、地理的にとても重要な位置を占めていた。大司憲林百齡が「若し加徳島に於て設鎭すれば、則ち倭賊其の島に於て来泊するを得ず。而して全羅道に於て作耗を欲する者も亦た過去を得ず。」[39]と言及しているように、加徳島に設鎮することによって、全羅道に盗みに行く倭人等を完全に防ぐことができた。また、「今軍卒を以て出處なく、故に鎭を設すこと能はずと雖も、然ども其の内地設くる所の鎭、此に移設すれば、則ち甚だ便好と為す。」[40]と述べている。ここで言う「内地」は薺浦に相当すると推測される。朝鮮側は薺浦に置いた鎮を整理し、加徳島に移転することで、朝鮮南岸地域における新たな軍事編成を試みた。それは、薺浦が果たしていた倭人統制の機能が加徳島に移されたことを示すものと捉えることができる。さらに、1547(明宗2、天文16)年に結ばれた「丁未約条」には「風浪不順と称し、加徳島の西を以て来泊する者、以て倭賊と論ずる。」[41]という条目があり、薺浦に向かう倭人に対する朝鮮側の強い統制政策がうかがえる。すなわち、朝鮮王朝政府は薺浦を閉鎖することを念頭におきながら、それを可能にするために、加徳島に鎮を置いて朝鮮南岸地域における倭人統制策を強化した。それが成功したことは、これ以後、倭人が薺浦の再開を要求しても、朝鮮王朝政府がすべて拒絶したことから分かる
 以上、15世紀後半から16世紀中半にわたり、朝鮮南岸地域において大きくクローズアップされた倭人問題について、加徳島が果たした役割を中心に考えてみた。加徳島は、朝鮮南岸地域に存在する多くの島々のなかで、1つの小さな島であるが、16世紀朝鮮王朝政府が加徳島に鎮を設置することによって、倭人の根拠地であった加徳島を完全に掌握した。また、加徳島を拠点として薺浦に行き来した倭人の活動を防ぐことに成功し、さらに薺浦の閉鎖や軍事施設の統制などを可能にしたのである。その後、倭人の入港場は三浦から釜山浦一港に一元化され、その状況が16世紀後半までに続いた。

おわりに

以上、三浦の乱以降、朝鮮王朝の倭人統制政策の一貫として、三浦から釜山浦に一元化される過程について、三浦の地域的統制や加徳島が果たした役割などを中心に考えてみた。ここでは、本稿において指摘した論点を整理すること、および今後の課題を提起することで結びとしたい。
第一に、乱以降の三浦の状況は、乱以前とあまり変りなく、倭人による相次ぐ不詳事が起こり、朝鮮側を悩ませたという点があげられる。しかし、乱以降、三浦において恒居倭人の消滅により、朝鮮南岸地域における「倭寇的状況」が多様化され、朝鮮王朝はすでに実施した倭人統制策に地理的統制を加え、倭人による弊害を効率的に減らそうとした。
第二に、朝鮮王朝は地理的制約に加え、倭人の根拠地であった加徳島に設鎮し防禦することで、朝鮮南岸地域における倭人問題を解決しようとした。また、加徳島を拠点として薺浦に行き来していた倭人の活動を防ぐことに成功し、さらに薺浦の閉鎖や軍事施設の統制などを可能にした。この後、倭人の入港場は三浦から釜山浦一港に一元化され、三浦の機能は衰退していった。
 最後に、三浦の乱以降、倭人の入港場である三浦が釜山浦に一元化される過程を加徳島に焦点をあてて考えてみた。しかし、朝鮮南岸地域には様々な島があり、その島々との関連性を考えざるを得ない。今後は、三浦を中心として、その周辺地域、および朝鮮南岸地域の島々を視野に入れて、16世紀における三浦とその周辺地域との関係を総合的検討する必要がある。
<史料及び参考文献>
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村井章介『国境を越えて-東アジア海域世界の中世-』(校倉書房、1997年)
川添昭二『対外関係の史的展開』(文献出版、1996年)
佐伯弘次「16世紀における後期倭寇の活動と対馬宗氏」(中村質編『鎖国と国際関係』吉川弘文館、1997年、所収)
佐伯弘次「中世対馬海民の動向」(秋道智彌編『海人の世界』同文館、1998年、所収)
米谷均「16世紀日朝関係における偽使派遣の構造と実態」(『歴史学研究』697号、1997年)
橋本雄「室町・戦国期の将軍権力と外交権」(『歴史学研究』第708号、1998年)
伊藤幸司『中世日本の外交と禅宗』(吉川弘文館、2002年)
関周一『中世日朝海域史の研究』(吉川弘文館、2002年)




[1] 村井章介氏の提起によるもので、「環シナ海地域」や「国境をまたがる地域」を構成するのは、三浦・対馬・壱岐・五島や博多など様々であり、各々独自な役割を担っていた。村井章介『アジアのなかの中世日本』(校倉書房、1988)。
[2] ミクロの研究としては、日本国王、九州探題、王城大臣、対馬・壱岐・五島・石見の中小領主、および博多商人の朝鮮通交、朝鮮南岸地域の三浦などがある。研究論文には、田中健夫『中世海外交渉史の研究』(東京大学出版会、1959年)、中村栄孝『日鮮関係史の研究』上・中・下(吉川弘文館、1965年)村井章介『中世倭人伝』(岩波書店、1993年)佐伯弘次「中世後期における大浦宗氏の朝鮮通交」(『歴史評論』第417号、1985年)、長 節子『中世日朝関係と対馬』(吉川弘文館、1987年)、村井章介『アジアのなかの中世日本』(校倉書房、1988)高橋公明「16世紀の朝鮮・対馬・東アジア海域」(『幕藩制国家と異域・異国』、校倉書房、1989年)川添昭二「九州探題今川了俊の対外交渉」(『対外関係の史的展開』文献出版、1996年)、村井章介『国境を越えて-東アジア海域世界の中世-』(校倉書房、1997年)、関周一「室町幕府の朝鮮外交」(阿部猛編『日本社会における王権と封建』東京堂出版、1997年)、橋本雄「中世日本朝鮮関係における王城大臣使の偽使問題」(『史学雑誌』106-2、1997年)、米谷均「16世紀日朝関係における偽使派遣の構造と実態」(『歴史学研究』697号、1997年)、佐伯弘次「中世対馬海民の動向」(秋道智彌編『海人の世界』同文館、1998年、所収)、長 節子『中世国境海域の倭と朝鮮』(吉川弘文館、2002年)、関周一『中世日朝海域史の研究』(吉川弘文館、2002年)、などがあげられる。
[3] 加徳島の位置は、『東国輿地勝覧』卷之三十二、慶尚道、熊川、山川条に「加徳島、在縣南海中、周七十五里、在牧場、」とある。現在は、慶尚南道 義昌郡 天加面 洛東江下口 鎮悔湾の南東側にある(『韓国漢字語辞典』卷一、壇国大学校東洋学研究所、622頁)。
[4] 村井章介『中世倭人伝』(岩波書店、1993年)、81~126頁。
[5] 中村栄孝氏は約条の内容を9つに分けて整理した。〔中村栄孝『日鮮関係史の研究』下(吉川弘文館、1965年)、128~140頁。〕〔『中宗実録』7〈1512〉年8月辛酉〈20日〉・壬戌〈21日〉条。〕以下、その内容を示す。
(1)三浦勿許居、(2)島主歳遣船五十隻、今減其半、(3)歳賜米・太二百石、今減其半、(4)勿遣特送、如有所言事、因歳遣船来告、(5)島主子及代官・受職・受図書人等、賜米・太・歳遣船・并除、(6)非島主所遣、而加徳島近処来泊船、并以賊倭論断、(7)深処倭或受職或受図書来通者、其歳月久近、功労緊歇、量減、其許通人内、受図書者、改給図書、(8)凡出来倭人、自対馬島、至薺浦直路外、傍行他路者、以賊倭論、(9)上京倭人、国王使臣外、依中朝○中国例、勿許持刀剣事、
[6]『朝鮮通交大紀』券之一、「円通寺公」をみれば、「庚午の乱有しより、始て三浦の留倭を禁し、また薺浦の館所をもこほちしか、東泉寺公(宗盛長)講和の事成りしゆへ、また再ひ薺浦に館を設しに、」とあり、薺浦に再び倭館が設置されたことがわかる。
[7] 後に対馬島主特送が来朝し、朝鮮側に三浦の旧居所に再び住み始めることを一番の願いとして要求してきたが、朝鮮側は徹底的に対馬側の要求を拒否し、その後、三浦に再び恒居倭人が居住するのを許さなかった。
[8]『中宗実録』7〈1512〉年7月乙未〈24日〉条。
柳順汀・成希顔・・・(中略)・・・鄭光弼等議、前是薺浦有居倭、故置僉使以管之、今無居倭、而於咫尺之地、置熊川・薺浦両鎮似冗、故革薺浦、陞熊川都尉、為節制使、兼鎮薺浦、統合水陸軍、撫禦軍民、亦欲壮其形勢也、
[9]『中宗実録』9〈1514〉年11月丁亥〈29日〉条。
「鄭光弼・金應箕啓曰、・・・・・・應箕曰、近者倭人、一切接待於薺浦、駅路及各官宴享、其弊不貲、詮聞釜山浦格館不至破毀、請令修補、分為接待、」
[10] 薺浦と釜山浦の両立倭館は、1544(中宗39、天文13)年「蛇梁倭変」が起きるまで存続し、その後は釜山浦のみとなった。
[11]『中宗実録』16〈1521〉年8月甲辰〈25日〉条。
「金詮・南袞等議啓曰、巳前約束之時、啓薺浦・釜山浦等処、只許交通往来倭船二十五隻、而倭人等不遵其約、今則数外船隻私相往来、留浦興販、非徒損費国廩、亦有潜相買売禁物之幣、其漸非細故也、今当令該司通諭対馬島主、以書契列録船隻之数、必以十三隻泊于釜山浦、以十二隻泊于薺浦、永為恆式、若当泊釜山浦者或来薺浦、当泊薺浦者或来釜山浦、則皆不許接待何如、博曰、令該司移文于対馬島主、且以此意本道監司・兵水使等処下諭亦可、」
[12]『中宗実録』20〈1525〉2月壬辰〈3日〉条。
「御夕講・・・・・・特進官安潤徳曰、我国人與倭人貿易、因而殺之、以此構釁、勢所必然、犯此者当置重罪也、且釜山浦倭館在隠屏処、無関防、故倭人来泊、常騎三把船、乗月夕、出行于他境、不無窺虚実之幣矣、臣為巡察使見之、釜山浦倭館北邊、有可築城之処、其外又有塩盆、而城基之広不過二馬場、可以易築、其功必不鉅矣、若城於此、而為関門、開閉有時、使内外隔絶、則倭人難得出入、自不與我人混処矣、於薺浦倭館、亦当如是、此事便否、請令本道監司・兵使・水使同審議之馳啓、上曰、此事果当議之、」
[13] 日本で作った小さな船の名前(『韓国漢字語辞典』卷一、壇国大学校東洋学研究所、71頁)。
[14] 馬場は、「里」(約400m)の代わりに使用された単位として、10里や5里にならない距離を計算するときに使う(『韓国漢字語辞典』卷四、壇国大学校東洋学研究所、914頁)。
[15]『中宗実録』36〈1541〉年6月丙子〈21日〉条。
「下慶尚右道兵士方好義啓本、薺浦留館倭人、作黨或持杖或発剣、乗夜踰墻出、向閭里時、守直伏兵禁止、対敵闘鬨、軍士三名刃傷致死、推問倭人、則推調不服、至為駭愕、浦所墻垣、勿拘農月、令留浦戍軍改築高堅、熊川縣城、又連旧城堅築、又築城外居民三百余戸、移入城内、使不得與倭人交通事・・・(下略)・・・、」
[16] 蛇梁倭変は、1544(中宗39、天文13)年4月、倭船20余隻が慶尚道の蛇梁鎮(慶尚南道統営郡蛇梁面琴坪里)東の江口に突入して万戸柳沢と接戦し、水軍1名を殺し、10人を傷つけて退去した事件である〔中村栄孝「16世紀朝鮮の対日約条更定」(『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1965年)、152頁〕。
[17] 丁未約条は、1547(明宗2、天文16)年に、対馬と朝鮮側の間に締結された。中村栄孝氏は『明宗実録』の記事から、その内容を次のようにまとめた〔中村栄孝「16世紀朝鮮の対日約条更定」(『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1965年)、176~77頁。〕
「一、歳遣船二十五隻、内大船九隻、中船八隻、小船八船、各船人数、如過其数、留浦糧、各
減其半、受図書・受職来通船、人数亦同、
一、船上什物、一切勿給、
一、称風浪不順、加徳島以西来泊者、論以倭賊、
一、五十年以前受図書・受職者、依壬申約条例、勿許接待、
一、乗夜踰墻或毀墻而出閭閻往来者、或乗三所船潜行諸島者、依慿採葛登山横行者、永勿許接其船、
一、凡約束、一従鎮将之令、違者重則三年、軽則限二年、許接待、」
[18]『朝鮮通交大紀』券之二、「西福寺公(宗晴康)」をみれば、「薺浦の海路を禁し、始て館所を釜山浦へ移せし事、天文十三年甲辰の事と見えたり・・・・・・」とあり、1544(中宗39、天文13)年に釜山浦に浦所倭館が単一化されたことがわかる。
[19] 16世紀に整備され釜山浦へ設置された単一倭館は、朝鮮後期にも続けられるが、入港場としての性格には変化がなく、浦所に滞在する倭人も恒居倭人ではなく留館倭人に過ぎなかった〔村井章介『中世倭人伝』(岩波書店、1993年)、169頁〕。
[20] 中村栄孝『日鮮関係史の研究』上(吉川弘文館、1965年)、681~91頁。
[21] 村井章介『中世倭人伝』(岩波書店、1993年)、139~45、181~94頁。
[22]『中宗実録』6〈1511〉年10月己卯〈2日〉条。
[23] 朝鮮時代、司諫院に置いた正6品の官職。初期には左正言・右正言があった。太宗元(1401)年に門下府を革羅し、郎舎を司諫院に改称したときに拾遺を直した名前である(『韓国漢字語辞典』卷三、壇国大学校東洋学研究所、16頁)。
[24]『中宗実録』5〈1510〉年4月丁末〈22日〉条。
「・・・(上略)・・・、獻納金硡曰、倭奴置妻子及擄掠之物於加徳島、今可遣将示威、・・・(中略)・・・又啓曰、前日慶尚道節度使啓曰、倭奴移置熊川・濟浦倉庫之物於加徳島・絶影等島、絶影則臣等所不知、加徳島則近於安骨浦、倭寇若隠伏此、則驅逐之可也、・・・(下略)・・・、
[25] 注20)を参照せよ。
[26]『中宗実録』5〈1510〉年7月乙卯〈1日〉条。
「柳耼年又馳啓曰、前日倭賊犯安骨浦、賊與城中人接戦、賊一人中箭溺死、斬首上送、観賊形勢、自本島出来、必先泊加徳島、遅留窺覘虚実、乗虚竊發、若末獲利、則復彼此島、為久住之計、・・・(下略)・・・、」
[27]『中宗実録』6〈1511〉年12月丁酉〈21日〉条。
[28] 朝鮮時代、経筳に参加して王の顧問に応じる官職。成宗のときにはじめて設置し、2品以上の官員に任命された。
[29]『中宗実録』30〈1535〉年2月乙巳〈14日〉条。
[30] 朝鮮南岸地域における「魚藍の利」については、すでに長節子氏によって明らかにされた。同氏は、対馬の「おふせん」と孤草島釣魚関係文書を使って、対馬島における孤草島釣魚の公事の内容やその権益が対馬に集中される過程を中心に検討した〔長節子「朝鮮領海における倭人の漁業活動」(『中世国境海域の倭と朝鮮』、吉川弘文館、2002年、26~152頁)〕。
[31]『中宗実録』30〈1535〉年2月乙癸丑〈22日〉条。
[32]『中宗実録』30〈1535〉年2月癸酉〈16日〉条。
[33]『中宗実録』33〈1538〉年8月戊申〈8日〉条。
[34]『中宗実録』36〈1541〉年7月戊子〈4日〉条。
「傳于政院曰・・・(中略)・・・其略曰、加徳島羊場串建置大鎭、于叱浦相援鎭亦設、而内地各鎭浦軍士、除出多數入防、則加徳島外面波悪石險、不得泊船、永無倭人留連作耗之患、・・・(下略)・・・、」
[35]『中宗実録』36〈1541〉年7月戊子〈4日〉条。
[36]『中宗実録』38〈1543〉年9月戊午〈17日〉条。
「受常參、御朝講、・・・・・・大司憲林百齡曰、臣爲慶尚道觀察使時、問於兵・水使及其地久居之人、則皆曰、若於加徳島設鎭、則倭賊不得来泊於其島、而欲作耗於全羅道者亦不得過去、今以軍卒無出處、故雖不能設鎭、然其内地所設之鎭、移設於此、則甚爲便好、而前者曹潤孫以此設鎭事曾巳啓聞、而不得施行、嘗自言曰、若設鎭於此、則倭奴来泊、點檢其朝倭與否、或拒或納、而海採之人亦於鎭内採取、則無被害之事、幸以知邊事者往見後爲之何如、領事尹殷輔曰、此言至當、加徳島設鎭、則倭奴不能作賊、而此島當賊路初面、倭船近於此島、則朝倭可知、若非朝倭、登時抄撃、則海採之人豈至於被害乎、曹潤孫詳知此意、而張順孫亦嘗往見之、設鎭事曾巳議啓、而遷延不決、今其設之何如、上曰、民多受害、則巳議定事、當速爲之可也、」
[37] 注30)を参照せよ。
[38]『中宗実録』39〈1544〉年9月壬戌〈26日〉条。
[39] 注30)を参照せよ。
[40] 注30)を参照せよ。
[41] 注14)を参照せよ。

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