2019年8月4日日曜日

朝鮮人被虜人調査

朝鮮人被虜人の調査(1600年~1643年)
年号 日本年号 記事 被虜人の数
宣祖33年 慶長5年4月、1600 小西行長、宗義智などにより講和を申し込むと共に、儒生金有聲など160名を送還 160
慶長5年4月 宗氏より被虜人男女300余口を刷還して、和平交渉を申し出る 300
慶長5年4月 大阪より被虜人男女21人を送還す。 21
慶長5年6月 前月帰還した被虜姜沆、秀吉死後の日本の国情を朝鮮王に上言
慶長5年9月 宣祖王は、宗氏に対して被虜人の刷還が、講和の最大条件であると通告
宣祖34年 慶長6年4月、1601 講和促進を図るために、河東の姜士俊を日本から送還される
慶長6年6月 宗氏より被虜人男女250余口を刷還して、和平交渉を申し出る 250
宣祖35年 慶長7年8月、1602 被虜人229人が日本人14名の手で送還されてきた 229
宣祖36年 慶長8年3月、1603 宗義智が被虜人85人を護送してきて、講和を求める 85
  慶長8年6月 宗義智が被虜人男女100余名を刷還し、講和を求める 100
慶長8年8月 被虜人男女14名がn日本から帰国 14
宣祖37年 慶長9年2月、1604 宗義智が朝鮮国王に使者を送り、講和を求める。また、日本から帰国した元被虜人であった金光らに書簡を送り、和平を促進するよう願う。この前に、朝鮮王に対して、金光が日本との講和の必要性を上申する。
慶長9年5月 対馬から逃亡した元被虜人の朴応南が、対馬の軍事状況を説明して、再度の朝鮮侵略の可能性が少ないと陳べる。
慶長9年6月 宣祖王は僧惟政と孫文彧(ソンブンイク)を対馬に派遣し、対馬島民が釜山の和館を来訪し、交易を許可する。そして日本の国情を探る。
宣祖38年 慶長10年4月、1605 僧惟政らが日本より帰国し、被虜人男女3000余口の刷還を受ける。
慶長10年5月 宗義智が朝鮮の礼曹の書に答え、釜山交易の許可に感謝し、さらに日朝両国の講和を請い、被虜人1390人を送還する。
宣祖39年 慶長11年1月、1606 宗義智が講和の促進を願い、被虜人120人と朝鮮人漂流人1名を送還する。
宣祖40年 慶長12年1月、1607 宣祖王は回答使兼刷還使の呂祐吉らを日本に派遣する。
慶長12年7月 呂祐吉らが日本から帰還し、被虜人男女1240人余りを刷還する。
宣祖41年 慶長13年6月、1608 宗義智の使者が被虜人男女6名を送還する。
光海君元年 慶長14年5月、1609 東莱府使呉允謙が対馬からの和使に対して被虜人全員の刷還を要請する。和使曰く、刷還者の数の多少により、除職論賞をするならば、被虜人全員刷還も可能であると回答する。
光海君2年 慶長15年4月、1610 被虜人鄭邦慶が日本より帰国する。彼は慶長の役の時に捕虜となり、薩摩に連行された。彼によると、朝鮮人被虜人は、薩摩島に最も多いと言う。
光海君3年 慶長16年10月、1611 宗義智派遣の倭使が釜山に来て、被虜人刷還に功績があったとして、賞職を要求した。
光海君5年 慶長18年10月、1613 倭船が釜山に来て、馬を要求。被虜人1名を送還する。
光海君9年 元和3年1月、1617 慶長の役の時、日向に連行された被虜人慎応昇、自分で船を購入し、対馬に至る。対馬滞在1年で、被虜人20余人と共に帰国する。
元和3年1月 呉允謙を刷還使として、日本に派遣する。
元和3年9月 対馬の使者が被虜人男女4名を送還する。
元和3年10月 日本に派遣された呉允謙が釜山に帰還。刷還被虜人男女321人を同行する。
仁祖2年 寛永元年5月、1624 将軍家光の襲職と被虜人刷還の命をもって、鄭岦(ていりゅう)らを刷還使として日本に派遣する。
仁祖3年 寛永2年3月、1625 鄭岦らが帰国。被虜人146名を同伴。
仁祖8年 寛永7年2月、1630 宗氏が被虜人および漂流人9人を送還する。
仁祖14年 寛永13年8月、1636 任■(糸+光)らを通信使として、日本に派遣。被虜人刷還を命ずる。
仁祖15年 寛永14年2月、1637 通信使の任■(糸+光)らが帰国。
仁祖21年 寛永20年2月、1643 通信使尹順之らが日本に派遣される。
寛永20年11月 通信使尹順之らが被虜人14名を同行して帰国。

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