厳原韓語学所に関して
1、明治五年十月に、対馬厳原光清寺に設置。
2、明治六年八月二日廃止。
3、『朝鮮事務書』第13巻89丁……壬申八月二十五日
厳原語学所設立認可
4、朝鮮語学教授任命……第16巻25丁……明治五年九月
荒川金助
5、明治六年四月二十五日…『朝鮮事務書』第20巻44丁
[資料] 「厳原韓語学所モ先折合居候ヨシ等中ノ内二人実ニ悔悟歎願ノモノモ有之趣只今ノ処一応直諭イタシタク候ハハ大ニ相静リ可申願ノヨシ荒川ヨリ申出且両名以前ノ如ク学資賜度趣モ申出候ヘトモ未タ日数モ無之事故今暫ク都合見合相タメシ再応申越候様返答イタシ置候是モ六月渡厳ノ節得ト検調イタシ且其時分ニハ森山殿建議ノ可否モ御決定有之候ハント存候
弘津弘信
花房外務大丞殿
森山七等出仕殿 」
『朝鮮事務書』第23巻31丁
6、 朝鮮通詞養成の必要性 『朝鮮事務書』第13巻50~52丁
[資料] 「 朝鮮通詞ニ付省議
韓語通弁ノ儀ハ元厳原市人ノ中或ハ世襲ノモノ或ハ一時其道ニ執心ノ幼童輩ヲ支給シ置成年熟業ノ上夫々役名ヲ付シ韓地及大阪長崎等ニ在勤為致候テ苗字帯刀等差許シ有之候得共畢竟市籍ノモノニシテ近年ニ至りテハ別テ貿利中ヨリ給シ来候儀ニ候得ハ先般旧厳原藩士族卒等不残佐賀県ニ付シ候節モ通弁ノ儀ハ依然ノ儘ニ有之候処、今番歳條船公私貿易等宗氏ニ関シ候分廃除候ニ付テハ、通弁一同ノモノモ随テ廃録相成候事至当ノ儀ニテ以上ハ銘々力ニ食シ候外無之候得共、差当リ経営ノ方向モ無之困乏ノ余リ既ニ先般懇願ノ次第モ有之然ルニ右通弁取扱ノ儀ハ従前徳川氏ニテ長崎表蘭清等ノ貿利を以テ同所大小通詞を支給イタシ来候ニ均シク其業ニ長ケ其能ニ勝ルノ輩ハ之ヲ援テ調役格或ハ定役官杯ト夫々登用セラレ其他ノ者ハ矢張市籍ニテ俸給勤務イタシ居モ同様韓語通詞中ニモ春来本省出仕被申付候広瀬直交・浦瀬好裕等ハ群ニ抜シ。従前ノ中士下士ニ列シ、引続佐賀県士族ニ班シ居其他市籍ノモノハ其儘貿易後廳ヨリ支給イタシ居候儀ニ候得ハ今般廃禄至当ノ筋ニテ今更佐賀県ヘ附属スヘキ理ニ無之本省ヨリモ亦之ヲ補給シ置ヘキモノニ無之乍候。朝鮮交際ノ儀ハ追々御下手可相成御軌模ニモ有之、韓語熟読ノモノモ整備無之時ニ臨ミ差支相生シ可申ハ顕然然ルニ現今三十余人ノ通詞共挙テ補給イタシ候事従前ノ根合ニ准シ候コト、右数人ノ給禄合計一カ年米ニテ二百石余金ニテ凡八百円ノ些々ル儀ニ候得共、百事旧ニヨリ候譯ニハ相成義殊ニ固陋遊階ニシテ然モ不文無識一篇ノ公翰モ綴りカ子候モノ并ニ弱冠用ニ供シ兼候モノモ有之候間先小官等彼地滞在中視聴セシモノノ内別紙名前ノ分ハ相応ノ御用ニモ相立可申存候間、凡其能不能ヲ分チ出仕被仰付当分ノ内ハ、写字方或ハ小頭或ハ其番詰等ニ相用ヒ置傍ラ本省漢語学校中ニ付シ、小局ヲ設ケ学則ヲ正シ、仮リニ韓語学モ御取開キ置相成候。<いささかも>盛大ニ行シ候儀ニハ無之候得共別段ノ御入費ニモ関係無之其積年ノ固陋を一洗セシメ邦内ノ形景外交ノ体裁ヲモ熟視為致置候ハハ、後来御開手ノ節一層御用弁ニモ相立可申両全ノ儀ト存候間此段御評議ニ相備候也
申七月 朝鮮事務課 」
7、明治六年 厳原韓語学所規定
規定
1、毎日朝八字(時)入学、午後三字(時)退散、但し一六休暇タルヘシ。
1、生徒中一名順次ヲ以テ当直ヲ勤ムヘシ。
1、当直ハ朝七字入学、席ヲ清メ、慵ヲ開キ茗水爐火ノ用ヲ便スヘシ。学中退 散ノ後亦掃菰閉窓爐火ヲ治メテ而後、退去スヘシ。
1、毎日十ノ日自朝九字(時)乃至十字(時)学術ヲ験シ、勤怠ヲ正シ、以テ 生徒ノ等級進退ノ考ニ備フヘシ。
1、級ヲ分ツニ三等ヲ以テス。不熟初学ノ徒ハ等外ニ班シ、練達精業ノ者ハ抜 テ助教又ハ小助教ニ任スヘシ。
1、生徒ノ勤ムル所専心慎勉其業ヲ修ムルヲ以テ要とす。怠傲放逸ヲ忘レ、業 ヲ忽ニスル者ハ速ニ之ヲ退くへシ。
1、生徒厳ニ酒ヲ禁すへし。若シ之ヲ確守スル能ハサル者亦之ヲ退くへシ。
1、病痾又ハ事故アリテ学ニ入ル能ハサルハ即其趣ヲ筆シ以テ当直ニ告へシ。 若シ事ニ托シ、不勤ノ徒ハ学中ニ止メテ十日ノ宿直ニ当ヘシ。
1、学中日渉雑務等生徒中其任ニ耐へキ者ヲ擇シ之ヲ弁理セシメ教授之ヲ総掌 スヘシ。
1、教授及生徒ハ朝鮮漂民ノ門情并通弁其他送還等ノ事ニ至まて凡て督長ノ指 揮ニ従ヒ之ヲ務ムヘシ。
学課
自第八字至第十二字
語学 句読
自第十二字至第一字 休憩
自第一字至第三字
編文 会話
、<中略>
1、五ト十トノ日即チ一月六回ノ試験ヲ立テ優劣長短ヲ審判シ以テ月次進退ヲ表 スヘシ
1,右試験法十ノ日ハ即チ単語ノ問題ニ直答セシムルコト。三次五ノ日ハ即チ其 問題ヲ點写シ答及セシムルコト。二次併テ一月六回十五問題ヲ以テ定則トス。1、
8、入学者 『朝鮮事務書』第15巻34丁
[資料]「当所語学所ノ儀ハ先月廿五日発開候処、士族ノ子弟等入校ヲ競ヒ、今日ニテハ生徒数三十四名。其内旧前稽古通詞ノモノ五名丈等級ニ宛学資差遣シ日々励行イタシ居候。新入ノ生徒中ニハ可也ノ人柄モ有之哉ニ相見ヘ今日ノ所ニテハ、余程果敢取申候校中規定御差廻シ申候。右取建候ニ付取繕方入費向等、イマタ相纏リカ子候間、後便差送リ可申候」
9、厳原語学所の廃止 ……『朝鮮事務書』第23巻27丁
明治六年八月十日付けの弘津より花房外務大丞への上申書
[資料]「外務少輔殿御指令ニ遵ヒ、去ル二日、語学所相廃シ、即日佳永友輔御雇差免シ、同四日別紙名前ノ者十名稽古通詞トシテ、渡韓内意申達シ候」
その十名の稽古通詞の姓名は、次の通りである。
浅山顕蔵 当年24才三ヶ月
吉副喜八郎 当年28才十ヶ月
阿比留祐作 当年19才
吉村平八郎 当年22才六ヶ月
大石又三郎 当年20才十ヶ月
武田甚太郎 当年19才六ヶ月
津江直助 当年17才
武田邦太郎 当年20才十ヶ月
黒岩清美 当年20才九ヶ月
中村庄次郎 当年18才
これら十名の請願書が『朝鮮事務書』第23巻31丁に掲載されている。
この時期とほぼ同一に、渡韓の選に漏れた八名が、稽古通詞の増員を求めて、新たに外務省御出仕掛宛に嘆願書を提出している。『朝鮮事務書』第23巻33丁にあり。
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