秋史 金正喜は朝鮮王朝時代後期の考証学で著名な文人である。その生涯に関しては、すでに藤塚鄰先生の名著に委ねたいが、秋史が憲宗6年(1840)、時に55歳から憲宗14年間の9年間にわたる流配時代に言及した文はないので、ここに取り上げたい。
憲宗6年8月に勃発した庚子獄事に連座して、秋史金正喜は時派と僻派の党争に巻き込まれ、事実は不明であるが、その敗者グループの指導者(凶疎の起案者)と見なされた。
1)義禁府羅将 金吾郎に引率されてソウルを出発。全羅道大興寺を見物した後、9月27日に乗船。当日の朝は晴天であったが、正午頃からにわかに強風が吹き寄せ、秋史金正喜が乗った船は大海を漂うこととなった。しかし、幸いにも船頭の航海術が良かったのか、目標を見失わず、済州島にたどり着いた。
2)最初の夜は、禾北鎮城下の民家に宿泊。
<以下、割愛>
なお、流配地済州島から果川(京畿道)の下潠田舍に帰った後に、秋史金正喜は、
「中国から輸入した書帖に自作の漢詩 「石砮詩」と「詠百舌鳥」を書いたもので、『砮舌帖』という題は両詩の題から一字ずつ取ったものである。」(出典:『平成30年度 京都大学図書館機構貴重書公開展示「韓国古文献の世界」図録』より)で心境を知る。
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