東北アジアにみる盲人文化
永井彰子・松原孝俊
1.研究の背景・目的
昨年の第1年次調査(2002年7月および10月)において、中国天津市残疾人聯合会、視覚障害者日本語訓練学校を中心に中国の盲人文化に関する調査を実施した。そのなかで天津盲人協会の会員に対して聞き取り調査を行った際、中国の盲人文化に関する重要な証言を得ることができた。第2年次調査では、前年度の調査結果に基づいてさらに追跡調査、および展開調査を行う予定であったが、残念ながらSARSの感染拡大のため、中国フィールド調査は延期を余儀なくされた。したがって本年は、第1年度の研究調査の傍証を得るために、関連する文献調査に取り組まざるを得ず、
①中国古典の中の盲人文化関連記事データベース作成
②中国盲人文化に関する研究データベース作成
の2点に、集中的に研究調査を行った。
2.研究の成果
(1)「古代中国では民間に伝わる童謡や労働歌などの詩を集めたが、その際、記憶力にすぐれた盲人を同行して記憶させた。周代にそれらを文字化し『詩経』として編纂された。また、王が政策をたてる場合、参考になるような豊富な歴史的知識を提供したのは盲人の学者であった」。以上は天津盲人協会の盲人A氏による証言の第1である。
『詩経』編纂に際し、盲人の楽師である瞽師が伝承者として大きな役割を果たしたことは、史料に基づく先学の研究によって明らかにされている。孔子の時代が瞽師伝承の最後にあたることから、孔子が『詩経』を編纂したという説まで生まれている。このような瞽師の職能については『周礼』が詳しく記録している。瞽師は礼楽文化を担う楽人として、周王期の行政組織に組み込まれていた。一方、故事伝承に通じた知識人として貴族の子弟教育に携わり、あるいは予言者として王侯の身辺近くにあり、諫言を行うこともあった。
周王朝と諸侯国の国史は盲人が口誦で伝承してきた世継ぎの歴史を主体としたものであった。また『春秋』『国語』は瞽史の徒が口誦していた各国の説話を整理したものとされている。しかし戦国期に入ると、筆墨を用いて竹簡や木簡に記録することが一般に普及してきた。竹簡や木簡上に書かれた記録や年代記がより重要視されるようになった。そのため、歴史伝承に携わった瞽師はかつてのような賢者の地位を失ってしまう。戦国期以降、君主権の伸長に伴う能力主義的官僚の登用、社会における合理的風潮の進展とともに、盲人を含む障害者は健常者より劣る者として扱われる傾向が生じるが、盲人の楽師に関しては、音感に優れているという点で能力を評価された。
(2)「文字が発達してくるにつれ、盲人たちは遅れをとるようになった。盲人たちは生きるため音楽のほかに算命(占卜)にも携わるようになった。漢代には、皇帝に対し、その側近の一人である東方朔が算命が盲人に適しているので、生業とすべきであると進言し、皇帝はそれを受け入れた。盲人たちは算命の技術を口伝心授の形で晴眼者や盲人の先輩から習得した。それ以後、算命に携わる盲人たちは東方朔を畏敬し、2千年来、その業績を記念するために神格化して家毎に祭り、感謝の念を伝えてきた」。これが天津盲人協会のA氏による証言の第2である。
この東方朔(前154年頃~前93年頃)は前漢の武帝に仕え、金馬門侍中となり、ひろく諸子百家の語に通じていた学者である。前漢時代(前202~後8)は讖緯神学、各種の方術や迷信が流行した時代である。洪丕謨・姜玉珍両氏によれば、中国算命術の起源はおよそ両漢時代に始まったことは『白虎通義』『論衡』などの著作の記載から確認できる。両氏は後漢末年に算命術の概念が確立し雛形が形成されて以後、唐朝の李虚中を経て発展し、基本的な体系が形成され、さらに徐子平(五代)の「四柱」の法を経て完成されたとしている。盲人たちが東方朔を神として祭るのはこのような歴史的背景が反映されたものであろう。また奇行が多かった東方朔は方士として活躍し、さまざまな伝説が語り伝えられた。盲人たちが自分たちの生業が皇帝から認められたことを主張するために広く知られた東方朔に仮託したと考えることもできよう。これまでの調査では、天津において算命を業とする盲人の存在を確かめることはできなかった。しかし、1919年に北京の盲人ギルドである三皇会の集会に出席したシドニー・D・ギャムブル氏がその組織について調査した記録がある。また、1926年から1927年にかけて同じく北京のギルドの実態調査を行ったJ.S.バーヂスは盲人たちが師曠とともに東方朔を神として礼拝したことを記している。ただし、この場合、東方朔は盲人の演芸家であり、洒落や諧謔の物語師とされている。
(3)天津盲人協会のA氏による第3の証言は次のようなものである。「国家主義体制の中で中国の障害者は非常に影のうすい忘れられた存在であった。盲人たちの活動に国家が関与することはなく、国家権力の及ばないところで活動するほかなかった。盲人たちは自分たちで組織を作った。それが開放前に存在した三皇会と呼ばれる組織である」。三皇会に関して知り得た成果は前回報告した通りであるが、天津二次調査では、天津盲人協会のB氏から次のような別の証言を得た。「盲人仲間が甚だしい差別を受けた場合に三皇会に訴えると会のメンバーが代わって大挙して抗議に出向く。相手方は赤い布を買い盲人たちの杖に結びつけてお詫びのしるしとしなければならなかった。盲人をいじめると三皇会が出てきて恐ろしい目にあうと言われていた」。B氏(70歳)によれば、この情報はかつての三皇会員から直接聞いたのではなく、盲人仲間から人づてに聞いた伝聞である。現在、三皇会については又聞きによる情報しか得られないという。
以上のような証言は盲人集団の性格を考える上で興味ある情報を提供してくれる。しかしながら盲人協会を管理統制する立場にある天津残疾人連合会が国家と共産党の二重組織となっており、三皇会は解放前の団体であって、共産党としては必ずしも歓迎すべき話題ではないとの意向が示された。したがってこれ以上の聞き取り調査は困難であると判断せざるを得なくなった。また、盲人に個人的に調査を行うことによって天津の盲人の間にトラブルが起きたことを配慮すると、調査を継続すべきかどうか疑問が生じてくる。さらに天津調査が決定的痛手を被ったのはSARS(重症急性呼吸器症候群)の発生である。そのため2003年春に予定していた中国調査の実施は延期せざるを得なくなり、中断したままとなった。
3.研究の将来計画・課題
(1)2004年には中国渡航の安全性を確認した上で、調査の再開を期している。今回は北京市を中心に盲人に対する聞き取り調査に重点をおいて実施する。
(2)本年は、盲人への聞き取り調査にあわせて文献史料の収集を行ってきた。「中国における学術の近代化は、おおむね外国の研究者によって、その先鞭がつけられている」と、白川静氏が述べているが、盲人文化の歴史的研究もその例にもれない。東アジアの盲人に関して、すでにイギリスのM・Milesが書誌学的解題を加えた文献リストを作成しているが、この先行調査を踏まえて、あらたに最近の研究段階を把握するために、さらに東アジア盲人文化研究データベース作成を試みたい。(未完)
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