2019年8月3日土曜日

対馬

対馬の歴史的位置

『東国輿地勝覧』巻23、東莱県の山川の条に、「対馬島」という項目がある。

[資料]「対馬島、即日本国対馬州也。旧隷我鶏林、未知何時為倭人所拠、自釜山浦由朔、至島之船越浦、水路凡六百七十里、島中分為八郡、人戸皆海浦、南北三日程、東西或半日程、四面皆石山、土痩民貧、以煮塩・捕魚・販売為生、~~<中略>~~  其南又有一岐島、距船越浦四十八里、自一岐、経博多島、至赤間関、又六十八里、赤間、乃日本西崖也。」

これによると、朝鮮側の地理的認識では、釜山から対馬島まで「水路凡六百七十里」(日本式では、67里)の距離を隔てた位置にあると考えており、海を隔てた「近さ」が、日本人ばかりでなく、広く朝鮮人の常識にもなっていたことが分かる。その地理的近接さは日朝海上交通の要衛として、対馬は重要な寄港地ともなった。
  こうした海峡を隔て、指呼の間にある対馬と朝鮮半島との関係を、対馬の宗氏の事績を中心軸に書き上げたものが、18世紀の対馬藩の学者であった松浦霞沼(儀右衛門)の『朝鮮通交大紀』である。
  ここでは対馬と朝鮮との関係史を検討する場ではないので、それは別の専門家の研究に委ねたいが、日朝の言語交渉の観点からまず思い出されるのは、1419年に発生した朝鮮による対馬征伐、すなわち世宗己亥の東征(日本では、応永の外寇)である。この事件は朝鮮側の奇襲作戦であるが、その東征の理由として考えるべきは、対馬島が倭寇の根拠地であるとして、その壊滅を意図し、さらには対馬の朝鮮属領化の実現にあった。結果的にはこの国際紛争を契機に、対馬は朝鮮国との直接的な外交交渉に従事することとなっただけでなく、ここに日朝の最初の外交折衝の幕が開いたのである。対馬から朝鮮に、またその逆に朝鮮から対馬に頻繁に交換された使者は、互いの立場と主張の応酬を重ねたのである。すなわち朝鮮側からは投化倭であった藤賢ら五名を対馬に派遣して、島主宗貞盛に対し、島民とともに朝鮮に移住することを勧告した。これにつづき、対馬の使者が朝鮮に渡り、口頭で島主の意志を伝達したとある。この「口頭」で伝えたという以上、漢字を媒介とした筆談といった生温いコミュニケーションではなく、朝鮮側に日本語通詞がいたか、あるいは対馬側に朝鮮語通詞が存在したと考えるべきである。互いの言語に精通した者たちによる媒介があって始めて、この対馬の願望が朝鮮側へと伝達できたのであろう。
  しかしながら朝鮮国王の政策は、日本の国情に暗かったためと、対馬の倭寇たちが中国への遠征の途にあって、対馬島の武力防衛能力が低下したとの判断の元に、対馬への武力侵攻となった。このような結果となったのは、対馬から朝鮮に派遣された者や、朝鮮から対馬へ渡った使者兼通訳の投化倭藤賢らが、拘留されたり、あるいは死を恐れたために、勝手に互いの都合の良いように変更して外交交渉を行ったためである。この場合は通訳の誤訳による紛糾であるというわけではなく、むしろ対外交渉の最前線にたつ通訳たちの恐怖心が、後々の紛争を想定しないままに、相手の主張にいたずらに迎合することで、その場限りの誤魔化しをしたことによる。
  次に取り上げたいのは、十五世紀の半ばに対馬島主であった宗成職の朝鮮からの受職事件である。そもそも李朝時代になってから日本人に対して、倭寇を逮捕し送還したり、倭寇に関する情報を提供したりしたとき、朝鮮国王はその功労に該当する官職を授け、地位相当の賜物などを授与したりして、優遇することが恒例化していた。この受職は単に形式的な勲章の授与にとどまる物ではなく、その後の利益は計り知れないものがあった。つまり日本人が受職人となることで、朝鮮国王との君臣関係が発生することになり、対馬島主は対馬の経済的困難や食糧難といつた難局を打開する上で、朝鮮国王からの実質的援助が期待できるのである。官職授与が対馬島主にとっての関心事は、緊急な救援物資の賜与であったといって過言ではない。前例がない日本人に対する受職をめぐる外交折衝が、ソウルの宮殿(思政殿)で繰り広げられたのであった。対馬島主の全権大使であった「豆奴鋭=津江」と、国王世祖の意向を拝した敬差官金致元らの間で、活発な意見交換がなされたと予想される。そのさいに、注目されるのは朝鮮国王が対馬の使者の津江との間で、直接的な会話を交わしていることである。たとえ朝鮮政府には、向化倭人で正三品堂上の僉知中枢院事を賜った平茂統や同じ向化倭人の通詞皮尚宜が国王の傍らで通訳の任務を果たしたとしても、朝鮮語に堪能であった津江は、言語的障壁もなく国王との会話を交わし、王の受職の裁可を得ることに成功した。こうして対馬が日朝の外交交渉の窓口を担当する契機となるともに、そのテーブルの場での折衝に不可欠な朝鮮語通詞の存在が大きくクローズアップされてきたのであった。単純に挨拶や雑談を交わす程度の言語運用能力ではなく、相手国の国王との面談や交渉などをも可能とする高度な朝鮮語運用能力を持つ人物の輩出が、対馬に要求されることとなった。
  朝鮮側の、一方では武力征伐による武断主義と、他方では官職授与という平和的懐柔策によって、対馬は外交折衝の矢面に立つこととなった。地理的に見ても、
日朝をまたぐ玄界灘の中間に位置する以上、対馬の立場は両者の媒介的役割は当然視されたに違いない。飛行機に乗って、瞬時にして玄界灘を越える現代と違い、
海の荒波と戦いながら、日本からにせよ朝鮮からにせよ、その往来の途中の補給基地であり、情報の交換基地でもある対馬に寄航せずして、日韓の物流の移動や
人的交流などはあり得なかった。そして日本各地から朝鮮に通交するものにせよ、
その逆に朝鮮から京都の室町幕府や西国の大内氏、博多の豪商たちと通交するにせよ、対馬島民が海上交通の案内者であるばかりでなく、相互の情報提供者としてのマージナルな存在となり、ひいては言語コミュニケーションの媒介者として
対馬の歴史的位置は飛躍的に増大していった。
  そうした経緯を如実に示すのが、次の朝鮮国王から対馬に渡された礼曹の議定書である。これは世宗二十年(1438)における、対馬と朝鮮との修好条約の結果である。
[資料]「示及事件、被閲不巳,一々啓達、就中四事、益為修好之約、我殿下、亦用嘉之、其一、人物請還、自今停寝、其二、陸地諸処使人出帰時、若無我之文引、即不許接待、其三、諸処使人回還時、過海□米、任意量給、其四、島内各処図書、雖已成給、無吾文引、即其出帰船、須即還送、所諭切至、尤為喜謝」
(『世宗実録』二十年十月己巳の条)
  この日朝交通に於ける対馬島主宗氏文引の制度は、日本各地から朝鮮に渡航する者たちに、画一的な統制(「陸地諸処使人出帰時、若無我之文引、即不許接待」)を加えることとなった。これを対馬島主の側から見ると、日朝間のすべて権益や情報や人的交流などは、対馬島主が認可する「文引」の点検無くしてありえず、独占的に日朝交通の中継者となったといえよう。
  15世紀の日朝間の接触と通交において、対馬の権益独占政策によって日本側の秩序が確立したのに対し、朝鮮側では対日交通の門戸を制限することで対応した。いわゆる三浦の制定である。今、事実関係のみを掲出すると、李朝開国当時は自由に往来を許された商船や使船であったが、まず15世紀の始めに商船が乃而浦(齊浦)と富山浦(釜山)の二港に限定され、使船にしても慶尚道の指定浦所到泊が励行された。世宗己亥の東征(日本では、応永の外寇)後は、商船・使船のいずれも指定された港に限り、寄航が許された。1423年に至ると、その指定港に倭館が設置された。そして1426年になり、塩浦(蔚山)も開放され、ここに日本人に対する窓口として国際的港湾都市である三浦が制定された。
  この浦所(海港)倭館に関する詳しい建築構造は不明であるが、
[資料]「議政府、拠兵曹呈啓、倭客人、欲多受糧、格倭之数、多載於状、減数率来、至照名・点数之時、請致先到他船格倭、冒名以充、宜設禁防之策、於倭館、倭幕周回、設木柵、兼設外囲、作西・北二門、常時把守、計其出入倭数、以防姦倭冒名受料之弊、令監司・都節制使、同議便否以啓、従之」(『世宗実録』二十年正月壬申の条)
とあり、潜商(無許可取引)を禁止するために外囲を設けて、外部との遮断を図っていたようである。この倭館に居住した者の中には、商人たちだけでなく、「遊女」(『太宗実録』十八年三月壬子の条)までも混じっていたというが、これらは全体からすると少数にすぎず、むしろ「恒居倭人」「向化倭人」「投化倭人」「商倭」「客倭」等と呼ばれた日本人たちであった。

 齊浦 富山浦  塩浦    合計戸 口 戸 口 戸  口  戸  口1436 253 29  96 3781466300 120011033036 120446 1650147430817226732336 131 411 2176
  これらの三浦居住の倭人たちがいかなる言語を駆使していたかを知る手掛かりは多くないが、つぎの記事はその一端を窺わせるものである。
  [資料]「慶尚道敬差官金謹思馳啓曰、熊川官吏令人取材木于加徳島逢倭賊、見殺事臣方推之、且親到観其形勢、島在海中與倭居浦所~~加徳島賊変必是三浦居倭所為也、若置而不問国威不振彼無所畏忌寇少益甚、令謹思招語頭倭等曰、近者熊川人取材木于加徳島因連月大風不得回来賊倭乗夜、窃発、殺害人物、掠奪衣粮、聞其人皆能為我国言語、若真賊倭即置得鮮我国言語。」(『李朝実録』中宗四年正月戊戌の條)
  この記事に見るとおりに、三浦の倭人たちは朝鮮語をきわめて流暢に操りながら、朝鮮人たちとの交易に従事していたのである。
[資料]「慶尚道敬差官金謹思状啓曰、招齋浦頭倭、以朝廷所議之事問之、答、我等常疑加徳之事、必有朝廷之問故欲於未問前尋捕窮探可疑處未果捕得朝廷以賊倭乗大船冒風入去解説朝鮮語等事、雖疑我等興販往来之我誰不解朝鮮語而乗風出没海濤、亦」(『李朝実録』中宗四年四月戊申の條)


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