2019年8月3日土曜日

集書

*『集書』


  この本に関しては、管見の範囲内では日本にも韓国にも原本はいうまでもなく、写本も現存しておらず、わずかに小倉進平による次のような紹介があるのみである。
  「私が済州本『交隣須知』と一緒に済州から得来つた写本の語学書の中に『集  書』と題するものがある。手に任せて朝鮮語の会話を集めたものであるが、  其の筆蹟が『交隣須知』と全く同一である。」(小倉進平、「『交隣須知』  に就いて」『交隣須知』京都大学文学部国語国文学研究室編、1961年、  4-5頁)
  これによると小倉が『集書』を入手したきっかけは、彼の済州島旅行の時であったという。そしてその本に関する具体的な内容に言及して、小倉は次のような情報を残している。まず①朝鮮語の語学書であるが、その編纂目的は会話能力を養成するための会話書であったこと、②つぎに刊行されたものでなく、当時の他の語学書と同様に、写本として伝来していたこと、③しかもその『集書』の書写者は済州本『交隣須知』と同一であったと推定できるようである。この小倉の指摘の中で興味深いことは、この本が明治13年14歳で渡韓した古賀岩助によって書写されたと解明されていることである。
  すなわちこの『集書』が明治13年に朝鮮語を学習するために、古賀某によって筆写されたとの推定をわれわれに許し、さらにその当時の朝鮮語学習の一端を伝えるものであったと考えてよいようである。ただし、この本は他の本と同様に、小倉進平の子息の芳彦氏によって東京大学文学部言語学研究室に寄贈されたはずであるが、実に残念ながら同言語学研究室およびその小倉進平からの寄贈本の中でも漢籍を保存・管理している東京大学文学部漢籍センターにおいても現存していない。不思議なことにその図書管理カードさえもない。
  ところがこの『集書』は奇妙なことに、小倉進平の解説の中では『集語』の名称と混同して使用されおり、この本の正式な名称が果たして何であったのかについては、現在のところ不明として、今後の検討に委ねるしかないようである。



小倉進平「釜山に於ける日本の語学所」『歴史地理』第63巻第2号、72頁

[資料]    「中村翁から私に贈られた『復文』なる写本は言はゞ翻訳の練習帳で、毎月何回か先生から日本文を出して貰ってそれを翻訳したものである。書中に朱書のあるのは右諸先生の添削にかかるものである」
とあるものが、かって雨森芳州が最初に定めた添削システムであった。それを学習者たちは『集書』と命名していたようである。

0 件のコメント:

コメントを投稿